【4】


「白井さん、」と悪戯な声に呼び止められて、智博はまず目を剥いた。
「……和真?」
 退社した直後、自動ドアを潜って出て来たばかりの智博を待ち伏せしていたのは、思いもがけない人影だった。――白い吐息を吐いて笑う、藤倉和真だ。
「どうしてこんなところに……」
 もう周囲は街灯に照らされて、夜の空気は肌を刺すように冷たい。マフラーに半分顔を埋めるようにして、コンクリートの置物に腰を下ろしていた和真は、智博を見つけるなり腰を上げ、駆け寄ってきた。
「ん、ちょっと渡したいものがあって」
 にやにやと楽しげに口角を上げる和真は、自分の行動が十分に智博を驚かしたことに満足しているらしい。退社した瞬間に誰かに呼び止められるだけでも驚愕するのに、その相手が和真となれば尚更だ。相変わらず彼の素性はよく判らないけれど、自分の勤務先が彼の学校の近所ではないことは知っている。
 訝しげに眉を潜めた智博の杞憂を吹き飛ばすように、和真は笑った。
「俺はね、予備校の帰り。だからあんまり待ってないよ」
 大丈夫、と笑う白い頬は、寒さのせいか血の気をなくしているようにも見える。なのに彼は、智博が冷えた体を心配するより先に、手にしていたビニール袋を掲げて見せた。
「こないだ話しただろ? 噂のイカスミマン」
「……イカスミマン?」
「ね、ほんとにあったでしょ。友達とかに聞いて探し回ったら見つかっちゃったんだよ。これは白井さんに見せなきゃと思って。ほらちゃんと見てよ」
 袋を押し付ける勢いで広げてくる和真に、疑問符ばかりだった思考が、何の話かを一瞬遅れて理解する。
「――わざわざ探したのか?」
「だって白井さん疑うんだもん。ちゃんと証明しとかないと悔しいだろ」
 それは確か、二日か三日ほど前の話に遡る。
 この季節になるとコンビニに並ぶ肉まんが恋しいと突然和真が言い出したので、二人して真夜中にコンビニに向かったことがあった。コンビニもこの時期の売れ筋には特別力を入れているのか、毎年毎年目を疑うような新商品を作っては、肉まんのケースを鮮やかに変化させている。
 ――そういえばイカスミまんってあったよねえ。俺けっこう好きだったんだけど、アレ。
 今年も例外なく打ち出された新商品の肉まんを物珍しそうに眺めているとき、和真がそう呟いたのが事の発端だった。
 ――そんな悪趣味な肉まんがあるのか?
 ――あるよ。ほんとに真っ黒。中身も外も。でもなんでか歯は黒くなんないんだよ。あんまよく覚えてないんだけど、不思議な味で。おいしかったんだよ?
 疑わしげな視線を送る智博を納得させようとしたのか、和真は力を入れて語ってくれたものの、智博はそんな辺鄙なものの存在が信じられず、適当な気分で聞き流していた。イカスミブームというものがだいぶ昔にあったのは、おぼろげに覚えてはいる。和真の話によれば、そのブームに少し遅れた時期に発売されたもので、それを口にしたとき、彼はまだ小学生だったらしい。
 ――何か別のものと見間違えたんじゃないのか?
 ――何と見間違えるっつーの。ていうか何よ白井さん、イカスミに恨みでもあんの?
 幼さ故の記憶違いではないかと溜め息交じりに答えた智博に、和真はじっとりとした視線を寄越してきた。
 どうしてこんなことに嘘を吐く必要があるのかと彼は吠えたけれど、ただ黒いだけの肉まんなど想像したくもないし、その湯気や香り、暖かさで食欲がそそられるかと言えば到底そうは思えない。そんな悪趣味な肉まんはありえない、というのが智博の主張だった。
 とはいえそんな低レベルな話でわざわざ口論になるはずもなく、あんたはそんなところにまで頭が固いのかと和真に笑われたことで、その話題の決着は一応ついていた。
 だから和真がこの悪趣味な肉まんをわざわざ探し出してくれたというのも、話を信じてもらえない悔しさからというより、面白半分冗談半分の行動なのだろう。
「まさかほんとに見つかるとは思わなかった。コンビニには置いてないみたいだけど、中華屋とかには置いてるとこがあるみたい」
 その証拠に当の本人でさえこんなことを言っている。
 挙句、本当は画像だけでも見つかればよかったと思ってた、と和真は笑う。その楽しげな表情に智博も就業後の疲労を忘れ、一緒になって笑ってしまった。
「本当は俺が食べてたヤツ、あげたかったんだけどね。一応存在証明はできたってことで。――はい」
「はいって……」
「電車の中ででも食べてよ。もうあんま温かくないけどね。こんだけ冷えてたら、ウチに持って帰ってレンジ入れたほうがましかな」
 当たり前のように手渡された袋の中には、和真の言うように外見も真っ黒な肉まんがふたつ転がっている。一応は薄い紙で包まれているというのに、その黒さは透けて見えるのだから、イカスミの力は恐ろしい――などと考えていると、「じゃあね、」と和真が手を上げ、踵を返した。
「帰るのか?」
 このまま一緒に帰宅して、ふたつ入りの肉まんをそれぞれ食うつもりだとばかり思っていた智博はつい彼を引き止めてしまう。すると和真はぴたりと足を止め、不思議そうな顔で見上げてきた。
「あ、いや……俺ひとりで二つも食べられないから。よかったら、一緒に」
 どうして引き止めるのかと言っているような表情に気まずくなって、言い訳するように誤魔化すと、和真はふいに笑い出した。
「――何言ってんの。今日、水曜日でしょ」
「あ……」
「それ、彼女と食べなよ。歯は黒くなんないから、キスしても大丈夫だよ」
 和真の言葉に呆気に取られたあと、自分はとんでもない馬鹿かもしれないと、歯噛みしたい気持ちで智博は額を押さえた。
 水曜日は、特別の用事がなければ藍子と会うようにしている、週一の周期で定期的に巡る約束の曜日だ。
 昼過ぎに待ち合わせ場所を確認するメールを遣り取りしたばかりだというのに、和真に会った途端それが頭からぽろりと抜け落ちてしまったらしい。
「寒いから……気を付けて」
 再び踵を返し、去っていこうとする背中を呼び止めた智博は、逡巡の後にそれだけの言葉をかけた。
「ははっ、何それ。訳わかんねー。……あんたもね」
 顔だけで振り返った和真はくしゃりと顔を綻ばせて笑うと、今度こそ振り返らずにその場を去っていく。
 ――判っていて。
 判っていて、なのに、こんなところまで会いに来たのか。頬が血の気をなくすくらい、寒さに耐えてまで、待っていたのか。それとも。
 判っていたからこそ、待っていたのか。
 問い掛けたい言葉なら幾らでもあるような気がするのに、他に引き止める言葉を持てない。智博は、悔しさと切なさをない交ぜにしたような気持ちで、その背中をただ見送った。


 結局、袋の中の黒い物体には手をつけないまま、待ち合わせの店に訪れた智博を、藍子は「イカスミ?」と怪訝な様子で見つめた。
「智博さんにしては珍しいもの買ったんだね。そういうの、あんまり好きじゃないのに」
「いや、これは知り合いが……面白がって買ってきてくれたんだ。食うか? 俺もまだ食べていないから、味の保証はしないけど」
 藍子はそれを手に入れた経路を深く尋ねてくることもなく、「あとでね」と頷いて、ただ笑った。
 和真が自分のために買ってきてくれたものが、藍子の口に運ばれる。不思議といえば不思議な現象だと、零せない苦みを小さな苦笑に混ぜた。
「せっかくだから帰ってからレンジであっためて食べようよ。今日はちゃんと上がっていってね?」
「ああ……」
「今はとりあえず先に、ご飯にしよ」
 予想以上に黒い物体を気に入ったらしい藍子は、浮かれた様子で早速メニューを広げている。
 どうしても、特に口に入れるものに対しては保守的になってしまう自分とは違い、藍子は案外チャレンジ精神が旺盛だ。いわゆるゲテモノ系の料理店にも友達や同僚と足を運んでは喜んで報告してくる。
 決して真似したいとは思わないが、その行動さえも明るい彼女の性格を現しているようで、微笑ましいことは確かだ。
 壊さないと、彼は言った。
 智博の生活を、自分は何ひとつ壊したりなんかはしないと。
 その言葉の通り、彼は姿を現した当初の激しさとは打って変わって、今やひどく静かに、智博の日常の隙間にするりと溶け込んでいる。和真と過ごす時間が増えた今でも、智博の生活のリズムは以前とそれほど変わっていない。ただ、今まではぼんやり一人で見ていたテレビ番組をふたりで、ひとりで摂っていた夕食をふたりで、――藍子と過ごさない時間を、ふたりで。変化は、生活の上での単位が変わっただけのようにも思えた。
「保坂さんにお土産渡してくれた?」
「ああ、喜んでたよ。今度お礼に何か奢るって」
「そんなことしなくてもいいのにね」
「遠慮なんかしないで、奢ってもらえ。ついでに俺も奢ってもらうから」
 こうして、「藤倉和真」という元は異端でしかなかった人間が、ひどく静かな心地良さで、少しずつ生活に染み込んでいく。はじめからそこにあったもののような顔をして、傍にいる。
  だが、藍子と過ごす時間が苦痛かといえば、決してそうではなかった。
「そういえば保坂がまた三人で食事でもしたいらしいから、今度の休みは空けておいてもらえるか?」
「何を食べるの?」
「……保坂は、鍋をしたいって言ってたかな」
「鍋?」
 箸を運ぶ手を止め、途端に弾けるような声で、藍子は笑い出した。
「そうだね、鍋にはちょうどいい季節だもんね」
 大学時代から一人暮らしを継続している保坂にとって、鍋は容易なようでいてそうではない料理らしい。というのも、鍋を突くならそれなりの人数で、という妙な拘りを彼自身が持っているせいだ。
「三人でごはん食べるのも久しぶりだね。どこでやるの?」
 笑ったまま話を終わらせるものかと思われていた藍子も、案外乗り気らしい。彼女もやはり、賑やかな食卓を好む性質だ。
「ぜひうちに来てくれって、保坂が」
「保坂さんの家でやるの?」
「らしいな」
 何でも、何年か前に通販番組を見て勢いで買ってしまった立派な鍋が、棚の中で埃かぶっているらしい。そのことを嘆きながらも、まあいつかは使うだろうさと前向きにぼやいていた同僚の顔を思い出すと、自然と口元が綻んでしまう。まめに見えるのに、案外仕方のない男だ。
「ああ、保坂さんのところ、立派なお鍋があるもんね。ならあたしは野菜とお肉持って行こうかなぁ……」
 楽しげな声が呟いた瞬間、ささやかな――そう、羽先がそっと、柔らかに肌を擽りなぞるような、ひどくささやかな違和感を感じた気がして、智博は一瞬息を詰める。その違和感が不快なのか、それともそうではないのか。そんなことすらも判らない、ひどくささやかな、正体不明の、何かが――
「……お兄ちゃん?」
 相槌を打たないばかりか、自分を凝視してくる男を不思議そうに眺めて、藍子は首を傾げている。
「……ん、いや」
 なんでもないと首を振りながらも、感じたばかりの違和感が、ざらざらと皮膚を撫でていくようだった。
「やっぱり疲れてる?」
「そんなこと……」
  ないと言い切るより先に、叱り付けるような藍子の鋭い視線に睨み付けられる。無言の圧力に降伏して、浮かべた苦笑は、暖かかった。
「保坂さんが言ってたこと、今日はなんとなく判るなぁ」
「……そうか?」
「やっぱお兄ちゃん少しぼんやりしてるし、疲れてるよ。……でも、楽しそうね」
 呟くように加えられた藍子の言葉は思ってもみなかったことだ。戸惑いに頷けもしない智博を、藍子はやさしく見つめて笑った。
「忙しくて疲れてても、万更じゃないって感じ。今の仕事、楽しいの?」
「……そうかもしれないな」
 戸惑いながらでも肯定してしまったのは、多少見当違いとはいえ、藍子の言うことに思い当たる節があったからだ。
 大抵は振り回されて、時折発言や行動の奔放さに疲れを感じることもあるけれど、傍に置いておくのは決して厭な感じではない。――そういう想いなら、確かに感じている。
「保坂さんは心配してたけど、あたしはそういう疲れならむしろたくさんあったほうがいいって思うの。無気力なだけの疲れと充足感のある疲れって全然意味が違うし」
 声が弾んでいるように聞こえるのは、多分智博の気のせいではないだろう。自分の経験に基づいての、実感の籠もった言葉だった。
「あたしもずっと前は、なんで疲れるのか判らないくらい、意味もなくただ疲れてたから。今は疲れてても、楽しいこともあるって判ったから、まあいいかなあって」
「楽しいこと?」
「うーんと、例えばおいしいご飯とかね。そういう小さいのでいいんだよ、きっと」
 いつの間にか一端の仕事人の顔をした彼女がこんなことを言えるのは、今現在の自分に自信があるからだろう。なのに藍子は、自分に誇りを持つ人間に特有の慢った空気も、押しつけがましい言葉もなく、ただそっと智博の現在を肯定した。
 幼い、壊れやすいとばかり思っていた彼女は、今や目を眇めてしまうくらいに眩しく輝いている。けれども智博には、それがひどく誇らしかった。巣立ったいとしい雛を見送っているような、暖かくもせつない、不思議な気分だ。
「もちろんそれだけじゃないけど。智博さんが楽しいと、あたしも嬉しいから」
「……そんなに大した話でもないよ」
 藍子がやさしく指摘したそれは、毎日毎日膨らんでいる。膨らみすぎて、自分でも、何が一番大切なのか判らない。
 そんな複雑な葛藤も知らず、藍子はただ笑っていた。
 この微笑みを見る度に、ふっと肩から力が抜ける。安堵する、安心する、安らかになる。そういう気持ちは、たぶんこんな空間のことを言うのだろう。
 だからいつも、彼女は自分の生活に必要な存在なのだと、はっきり実感する。
 そっと息衝くように、――息をするのと同じくらい。自分に必要で、かけがえのない女だ。
 なのに、その安らかな気持ちに、ぽつりと黒い染みが、小さく滴る。
 智博は、その不穏な影の正体を恐らくずっと昔から、知っていた。


 夜になると少女は泣いて、決まって胸の渇きを訴えた。
 嘆きの主な理由は極端な寂寥で、どこにも行きたくはないと切実な哀願を、智博の腕の中で強く強く、叫び続けた。
 自分を産み落とした女から罵られる夜はどれほど彼女を孤独にさせただろう、自分を庇護するはずの強い腕が遠ざかって背中しか向けない朝は、どれほど彼女を絶望させただろう。
 藍子の両親の不仲には薄々気付いていたけれど、その軋轢が一人娘にまで向かい始めたころ、彼女は向かい合わせに位置する智博の家に避難してくるようになっていた。離婚が決まり、互いに娘の親権を譲り合う両親の姿を目の当たりにした彼女には、慰めるための言葉など到底選べはしなかったけれど――。
 ――あたし、お兄ちゃんのおうちの子になりたい。泣き笑いの顔で、彼女が冗談に混ぜた切実な願いを、自分はどんなに苦しい思いで聞いていただろう。きっとそれを叶えてやる。自分が叶えてやると、決意したのは。
 ――あたし、もう、
 ――もう、生きてたって
「――…さん。白井さん?」
「うん?」
 何度目かの呼びかけに我に返った智博は、自分を呼ぶ声にゆっくりと顔だけを動かして横を見る。すると、丁度斜め後ろ辺りに佇んでいた女性社員が、心配そうな表情で智博の手元を覗き込んでいた。
「川崎さん?」
 そこにいたのは、つい先日の保坂との会話に名前が昇った、川崎恵理子だ。どうかしたのかと智博が問い掛けるよりも早く、彼女は遠慮がちな声で、そっと口を開く。
「――白井さん、あの。お湯。急須から、溢れてます」
「えっ!?」
 慌てて自分の手元に視線を戻すと、川崎の言った言葉通り、ぼんやりと押し続けていたポットからは急須の許容量以上のお湯が流れ、溢れ出たそれがシンクにまで伝っているところだった。
 あまり器用にできていない自分は、ちょっとした考え事に没頭すると、時間や場所を忘れてしまうことがあるらしい。これが保坂辺りなら、鈍臭い男だと腹を抱えて笑っているだろう。
「あの、お茶。私がやりますから」
「いや、ごめん。大丈夫だ。自分でやるよ」
「そう……ですか? すみません」
 差し出しかけた手を、川崎は怯えるように引っ込めた。その恐々とした仕草に、思うよりもぶっきらぼうな声になってしまっただろうかと、たった今の自分の言葉を反芻する。元々長身で、その上決して表情も豊かなほうではない智博は、川崎のように小柄で大人しい女に圧迫感を与えてしまうのかもしれない。同じような長身でも、保坂は持ち前の愛嬌を活かして、決して女性を脅かすことなどしないのに、自分はこんなところにまで不器用なのだ。我ながら手に負えない。
「川崎さんもお茶でいいのかな?」
 だからこそ、意識して穏やかに訊いたつもりだったのに、却って川崎は恐縮したように首を振った。
「えっ、そんな、……いいです。私、自分でやりますから!」
「いや、ついでだから」
 お茶汲みは女性社員に、という古き慣習は、この会社では何年も前に撤廃されている。だからこうして給湯室に男性社員の姿があることは決して珍しくもないし、智博自身、他人の茶汲みなど苦でも何でもない。
 だから半ば強引に川崎の茶飲みを引き寄せ、急須から茶を注いでやってから手渡すと、彼女はやはりそれを恐々と受け取って、小さく頭を下げた。
 直ぐに去っていくかと思われた彼女は、何故かその場に留まっている。何か他に用事があるなら、即刻自分がこの場を退いてやるべきだろう。そう思いながら智博が自分の茶飲みを引き寄せていると、ふいに、彼女が口を開いた。
「あの……この間、ありがとうございました」
「この間?」
 重々しい口振りに、どうやら彼女は自分に話があるらしいと漸く気付いた智博は、急須を持つ手を止める。
「白井さん……保坂さんから、話を聞いてたんですよね。営業の……」
「ああ……」
 彼女が恐々口にした単語に、そういえば、と思い出して、智博は苦笑した。
「……ちょっと、わざとらしかったな。あれは」
「いえ、そんなことないです。本当に……ありがとうございました」
 川崎から礼を言われる覚えなら、確かにあった。あれは一昨日か昨日かの出来事だっただろうか。とはいえ、別段大したことをしたわけでもない。
 上司からの言付けで、営業部へ書類を届けることになった川崎を引き止め、自分もそこに寄る用事があるからと書類を取り上げただけである。勿論それは、上司が川崎を呼んだ際に、保坂からの頼まれ事が頭を過ぎっての行動だった。
 半ば強引に書類を奪った智博のそのやり方は、余りにも判り易かったのかもしれない。
「いつまでも、こんなこと続けてられないって判ってるんですけど……今はもう少し、気持ちを整理する時間が欲しくて」
 保坂の言葉は、つまり彼女と営業部との関わりをできるだけ避けてやってほしい、という意味だろうと理解したものの、瞬時に上手い方法が見つからず、フォローどころか迷惑にしかなっていないのではないかと心配していたところだ。
「あんなので役に立ったならよかったよ。――事情はよく判らないけど、届け物くらい誰にでもできることだから、そう構える必要はないんじゃないのか?」
 川崎にしかできない仕事なら甘えてもいられないだろうが、幸い書類を届ける程度なら小学生にだってできる用事だ。今回はその程度だからこそ自分でも役に立ったのだろうと、申し訳なさそうに目を伏せる川崎を慰めるつもりでそう口にすると、彼女は驚いたように目を剥いた。
「え、あ、あの……白井さん、何も、聞いてないんですか?」
「うん? ああ、保坂はそういうのはっきり話さないヤツだから。君も自分のプライベートの話をペラペラ他人に話されたら、気分がよくないだろう」
「あ……そう、ですよね」
 納得したように頷いた川崎が見せたのは、どこか安堵しているような、それでいて困っているような、曖昧な微笑みだった。
 そもそも直属の先輩である自分を頼るよりも先に、余所にいる保坂に相談しているのだ。自分には余り聞かせたくないような話なのだろうと、智博もおぼろげには理解している。だから深く立ち入らないようにしようと思っていたのに、川崎は何かを決意したように唇を引き結ぶと、ゆっくりと口を開いた。
「白井さん、今日、お時間頂けますか?」
「今日?」
「はい」
 突然の申し出に驚いた智博を余所に、川崎は周囲を気にするように声を潜めて、頷いた。元々給湯室は、込み入った話には相応しくない。その周辺に一応の人目は見つけられなかったが、それでも彼女は声を潜めたまま、続ける。
「あの。私、白井さんに話したいことが……いえ、話しておかないといけないことが、あるんです」
「別に構わないけど……」
 今日は藍子とも会う約束をしていないし、和真とは――確実な約束など元々していないから、少しばかり帰宅が遅れても平気だろう。じゃあ就業後に、と約束を取り付けた川崎は、去り際にふいに顔を上げた。
「それから、ひとつだけ確認しておきたいんですけど、――白井さん、婚約者、いますよね?」
「保坂から聞いたのか?」
 特別藍子のことを可愛がっている保坂は、智博には美人の婚約者がいるのだと、頼んだわけでもないのに吹聴して回っている。苦笑交じりの肯定に、川崎はどこか痛みのある表情で頷いて見せた。
「そう……そうですか」
「……それが、どうかした?」
「いえ、なんでもないんです。……またあとで、お話します」
 それじゃあ、と頭を軽く下げて見せた川崎は、湯飲みを握り締めて今度こそ給湯室を去っていく。
(……話しておかないといけないこと?)
 まるで智博のために、何かを話しておきたい、とでもいうような口振りだ。そもそも彼女との接点が少ない今、それが何かを考えても、智博には心当たりなど何ひとつ思いつかない。
 大人しい後輩の突然の申し出に、智博は首を傾げるばかりだった。



  

20051124