沈黙を恐れるように、自分たちが会話に選んだのは、他愛のない、どうでもいいような話題ばかりだった。仕事のことを聞かれて、少し話もした。興味がないのか聞いていても判らないのか、和真は深いところまでは聞いてこようともせず、適当に頷いているようにも見える。
こんな時間までふらついて、明日学校は大丈夫なのかと逆に尋ねると、一晩くらい寝なくたって平気なのが若さの特権だとしたり顔で返された。そんな無茶な、と言いかけて、けれど確かにその通りかもしれないと、思わず笑いたくなってしまった。今日が終わった瞬間に、明日のことを考えてしまう自分には、もう真似できない無茶かもしれない。
部屋に上がらせるなり、和真は物珍しそうに視線を巡らせた。
「男の独り暮しにしては片付いてるね。まあ想像通りかな」
「何もない部屋だろう」
きれいに片付いているのが白井さんらしい、と笑われて、なんだか気恥ずかしいような気になる。
和真はあれからどこか遠慮がちに、智博のあとを少し遅れるように着いてきた。その彼に時々視線を送りながらの会話は、大して実もなく、淡々とすぎたはずだったのに、冷えこんだ部屋の空気とは反対に、体中が芯から暖まっているような気がしている。他愛のない、意味のないようにも思えた会話は、少なくとも自分にとっては空々しいものではなかったのだろう。
「俺は君よりもずっと年寄りだから多分早々に寝る。だから君も終電があるうちに帰りなさい」
「何それひっでー! 自分で呼んだんじゃん。朝までなんて言わないから、ちょっとくらい付き合ってよ」
「付き合うって、何に?」
「うーん…オハナシ? つか年寄りって。白井さん幾つだよ」
からりと笑う彼をリビングに通し、交わした言葉通りにコーヒーを入れるため、智博はキッチンに立った。
「俺? 俺は……」
「あ、待って、俺があてるから言わないで。――二十五?」
「……あー、まあ、惜しい、か」
「じゃあ二十六」
「そのやり方じゃいつかは当たるな。……二十七だよ」
戯れるような会話に自然と笑みを落としながら、智博は背を向ける。コーヒーを入れるとはいえ、宣言した通りインスタントでは、準備に一分もかからない。カップを引き出し、粉を入れたところで、智博の動きを奪うように、後ろから指がそっと伸ばされてくる。
「……すぐ出来るよ」
「わかってる」
智博の右手を包み込むように重ねられたのは、和真の掌だった。座って待っていてくれと言ったにも関わらず、暇を持て余したのか、いつの間にか傍にまでやってきていたらしい。細い指が、そのまま智博の掌を、そっと握り込む。
「わかってないのはあんただ、白井さん……」
和真は、額を智博の背中に押しつけると、溜め息のように呟いた。快活な少年が見せる、明朗な微笑みの余韻など僅かにも残していない。そこにはただ、切ないばかりの陰影と、どこか淫靡な吐息が含まれていた。
「俺をわざわざ部屋にまで連れてきといて、このまま放っておこうっていうの」
久しぶりに感じた他人の体温に戸惑うより早く、違う、と否定する声が頭の片隅から響いてくる。
「そんなつもり……俺は」
「ないって言われても、納得なんかしない」
強い意志を匂わせる力で、握った手を引き寄せ、和真は智博の身体を自分と向き合わせた。そのまま噛み付くように押しつけられた唇は、勢い余って痛みさえ生む。
「……っ」
かちりと歯の合わさる不器用な音がするのに、それでも和真は唇を解こうとはしない。
押し付けるだけだった頑なな唇はやがて薄く開き、舌先が誘うようにちらりと赤い皮膚の表面をなぞる。
冷たい、なのに暖かい舌の這う感触をリアルに感じた瞬間、ぞっと、背筋に覚えのある感覚が走った。肩を掴み、無理矢理に唇を引き剥がしたのは、恐らく拒絶ではなかった。
「……止めてくれないか」
あの日の二の舞になってはならない。その思いが、智博の声を苦くさせる。記憶にも残っていないあの夜を繰り返さないために、欲望に従じることだけには抗いたかった。
「でも気持ち悪くなんかないだろ? だってもう、抱き合ったんだ」
「それは……」
そのときの記憶は自分に残っていない。言い訳は、今この瞬間、彼に通じるとはどうしても思えない。
言葉もなく、目の前の少年を見つめるだけの智博に、すべてを見透かすような赤い唇が、ちいさく微笑んだ。
――そうだ、多分。最初から、拒絶などではなかった。
「言葉にしなきゃ、伝わらない? 俺はあんたとセックスがしたい。あんたとしたセックスが気持ちよくて、忘れらないんだ。だから今度はちゃんと、抱き合いたいよ」
直接的な言葉に、嫌悪感が湧き上がるよりも先に、覚えのある衝動が背を震わせる。目の前にある唇に噛み付いて、さっきから艶やかな吐息ばかりを聴かせるそれを、いっそ塞いでしまいたい。暴力的にも近いその衝動を、彼は記憶と呼ぶのだろうか。
「ここまで言っても駄目?」
吐息混じりの声から囁いて、二度目に唇が触れたときは、そのあまりの柔らかさに驚愕した。さっきの痛いだけの唇は、同じものとは思えないくらい、甘い感触だけを送ってくる。会いたかった、とても会いたかったと、唇が隙間を作った瞬間に、和真は囁いた。
「俺に?」
「あんた以外に誰がいるっていうんだよ」
甘いだけの感触は、智博の唇を好きに食い散らしていく。呼吸の合間に訝しげに尋ねると、あの明るい声で、おかしそうに笑われた。
――三度目の口付けは、自分から背を屈めた。自分よりも低い位置にある唇に口付けようとすれば、身を屈める他なくて、そうすると心得たように和真の腕がするりと首に絡まってくる。違和感もなく、そうすることが自然であると、智博に教えるかのように。
「望んだのは俺でも、俺を部屋に入れたのは、あんたの意志だよ、白井さん」
なのにこの腕はまだ、彼を抱けない。動かない智博の戸惑いをどう取ったのか、和真は言葉で智博を追い詰めていく。
「だいたいね、ちゃんと拒絶するつもりならもっと早くからやんなきゃ意味ないよ。俺はすぐ調子に乗るんだから」
「……君はこんなときでも、すぐその気になれるのか?」
「こんなときにその気にならなきゃ、いつなるっていうの」
「だから、そうじゃなくて――」
押し付けられる腿の内側に、どうしようもない熱が集まっていることには気付いている。彼だけが所有していた熱が今やそっと移動して、自分の身体をも火照らせていることも。
「……俺はついさっき、彼女と会っていたばかりなのに?」
ほんの数十分前、婚約者と共に過ごしていた。そんな光景を見たばかりで、何故身を投げ出そうとするのか。不実だと判りきっている、この自分に。
「白井さん、彼女に会ったばっかりで、その気になれないんだ?」
なのに和真は、智博の言葉を違う方向に理解したらしい。首を傾げて見上げた目に、探らなければ見つけきれないくらいに小さな不安の光を見つけて、言葉に詰まる。
「俺、あんたを感じさせられるようにちゃんとがんばるよ。白井さんは寝転がってるだけでいいからさ、だから――」
そのとき、その通りだと、頷いてしまえばよかったのかもしれない。そうすれば和真にこんなことまで言わせなくてもよかったはずだ。懸命に言い募る様ですら、痛ましい。
「君が、そんな顔をするから……」
ふいを突く形で、こんなふうに傷付きかけた表情を見せられる度、きりきりと、胃の辺りが痛むのだ。くるくると変わる表情のうち、痛みに翳った瞳を見せ付けられる度に、特別あの笑顔が恋しくなる。
「……俺はあまり、こういうことに慣れてないんだ。人を慰めることも、躱すことも、上手くない」
露骨なくらいに見せつけられる、ストレートな感情に、勢いよく飲み込まれて、思考が停止してしまうから。勘弁してくれと、半ば本気で、智博は呻いた。
深い人付き合いを避け、軋轢を厭い、自分の感情を押さえてしまう、淡白でただスマートな大人に、自ら望んで育ってしまった。だから和真が見せるような鮮やか過ぎる感情表現に、慣れていない。
「うん、俺が悪いんだ」
やっと動いた体が、和真を抱き締めた。絡みつく腕に大人しく抱かれた和真は笑ったようだった。
「俺が全部、悪いんだ。……あんたを誘ったのも、俺。追いかけたのも。白井さんは、何も悪くない。誰も裏切ってない」
もしかしたら和真は、泣きかけの、切ない顔をしながら笑っていたのかもしれない。けれど幸いなことに、動き出さない和真の表情を、智博が伺い見ることはなかった。
「俺のせいでいいから、もっかい抱いてよ……」
――本当は、はじめから。
引き止めて、彼の手を掴んだことから、全てが自分の意志だった。
そのことをおぼろげに知りながら、背中を掻き抱く細い腕の感触に、智博は逃げ込んだ。
「……くすぐったいって」
「え、うそ、気持ちよくない?」
耳元を柔らかく擽る含み笑いに、自然と笑い返そうになった瞬間、脇腹の敏感な皮膚を細い指先がすっとなぞる。ただ擽ったいだけだった今までの刺激とは異なるそれに、一気に神経が尖った。
「……ほらね、ちゃんと気持ちいい」
僅かな反応を読み取ったのか、柔らかい皮膚を甘噛みしながらしたり顔で笑った和真の顔もどこか憎めずに、頬に掛かる髪を掌で掬い上げるように撫でる。
寝転がっているだけいい、と最初に宣言した通り、和真を寝室に案内した瞬間、智博は突き飛ばされるようにしてベッドに転がされた。それから暫くはじゃれ合うような愛撫が続き、自分の身体の上をあちこち這いながら肌を啄ばんでいた和真の髪が指先に馴染み始めたころには、身体はとっくに火照ってしまっていた。
「……彼女はあんたのこと、なんて呼ぶの?」
ふいに顔を上げ、尋ねてきた声に「智博さん」と、会話の唐突さも気にもせずに答えてから、おかしくなる。自分から触れているのは指先と彼の髪だけなのに、その僅かな接点から、緩やかに甘いばかりの感触が身体中に流れていた。静かなそれを熱く滾らせるのは、あちこちに落とされる彼の唇と舌と歯。そんな心地いい空気には、相応しくない会話だ。
「俺もそう呼んでもいい?」
「……いいよ」
赤く染まった目元が新鮮で、思わず凝視しながら答えると、和真は少し照れたように笑って「見ないでよ」と口を尖らせて見せる。自分の身体中に唇を落としているだけなのに、彼も興奮しているのかと思うと、やはり不思議な気分になった。
「智博、さん。……智博」
そうして、絶えずキスを落としながら、宝物のように名前を呼んでみせるから。
堪らなくなった智博は、衝動が命じるままに手を伸ばし、和真の二の腕を引き掴んだ。
「えっ、うわ、ちょっと待っ……!」
掴んだ腕を引き寄せて体勢を入れ替えると、和真は今まで聞いたこともないくらいに強い戸惑いの声を上げた。
「な、なに……」
「今更、暴れないでくれ」
苦笑交じりに告げると、和真は一応首を振ってみせる。だがこの体勢には何となく納得がいかないらしい。
「暴れないけど、いやちょっと待って、マジでっ、……智博!」
軽く着崩したジーンズのフロントを、智博の指が弾くように開かせると、その熱が僅かばかりに膨らんでいるのが見て取れる。指先で確かめるようにそっと触れると、膨らみを悟られたことに気付いたのか、和真の頬にさあっと朱が走った。
「何もしないまま、待っていてもいいのか?」
「な、なんか意地悪いよ、あんた……」
智博が能動的に動いてくるとは思わなかったのか、見上げてくる視線は驚きに見開かれている。あんなに強引に誘ってみせたくせに、今や智博の下に組み敷かれた和真は、不安げに瞳を揺らしていた。
「そうかな。……なら多分、君がそうさせてるんだ」
全部俺のせいにする、と和真は少しだけ怨めしげに視線を送ってきたけれど、構わず、触れさせた指先で、下着に輪郭を浮き上がらせる性器をなぞるように上下に擦り上げる。和真は面白いくらい過敏に反応して、びくびくと脚を震わせた。
「さ、触んないでー……っ、う、ああっ」
制止と呼ぶには弱々しすぎる声を無視してそれを続けていると、じわりと下着が濡れてくる。あっという間に若い性器を滾らせた和真は、息を切らせて、濡れた視線で智博を見上げていた。
「寝転がってていいって、いった、のにっ」
「ごめんな。……俺もちゃんと、男だったらしい」
「何それ訳わかんね……ヤ、んぁっ」
狭いと解放を訴えるようなそれを下着から引き摺り出し、握り込むと、先走りが指をとろりと濡らした。男性の性器を握り、あまつさえ震えるそれを視界に入れても尚、自分が欲情しているという状況に違和感はあるものの、嫌悪感はない。先端に親指を押し当て、擦り上げると、ぐちゃりと濡れた音が鳴る。「ひ、」と呼吸にならない呼吸を押し殺した和真の喉が、反り返った。身体を挟み込むように両脚がきゅうと閉じたのは、恐らく無意識の自分を守る行動だろう。
「……脚、開いて。ちゃんと触れない」
「ぁ、や……やだって、も、……い、い加減に」
散々振り回されてきた少年を、今や自分の指先が翻弄できていることが、どこか楽しいとも、嬉しいとも思える。今更自分が、そういう気持ちを持つこと自体が不思議でならなかった。
「いい加減に、何?」
「ンッ、あ、や、やめっ……止めて、俺ばっかり、恥かしい……っ」
抱き合いたい、セックスしたいとてらいもなく告げた和真には、羞恥心という常識的な感覚がないのかもしれないとさえ思っていた。なのに、濡れた音が響くたび、耳まで真っ赤に染めて震え上がる少年が、ひどく愛おしい生き物のように見えてしまう。
愛おしい、そんな感情を、自分が抱くことがおかしくておかしくて。けれど今この瞬間だけは最も自然な感情だった。
せわしない吐息を吐き出す唇に、空いたほうの指先で触れてみる。柔らかい輪郭を擽るように唇を撫でた指先は、和真の赤い舌にぺろりと舐め取られた。
「……っ」
思わず眉を寄せてしまったのは、甘受する感覚に鋭敏になった身体が、その僅かな刺激を拾い上げてしまったからだ。丁寧に人差し指を舐めた後、赤い唇に誘われて指先が暖かい咥内へ導かれる。自分の性器を咥えられているような錯覚に陥った。
「ふっ……ン、ンッ……ぁ、あッ」
絶え間なく与え続けられる前への刺激に耐え、震えながら眉を寄せ、それでも指を夢中でしゃぶり続ける和真の表情は、苦悶にも似て、恍惚のようにも見える。
透明な唾液を伝わせながら咥内から指先を引き抜き、充分に濡れたそれを内股に這わせると、心得たようにゆっくり和真の腰が浮き上がった。それを嘲うことなどしない。その余裕も、今の智博にはなかった。
当たり前の動きで、指先が柔らかな臀部に触れ、狭い入り口に潜り込む。
「や……」
その瞬間、痛みを堪えるように和真が小さく呻いた。
「ごめん。……痛かったか?」
「ん、ん……平気。ていうか――ちゃんと覚えてるんだね」
排出器官が、このセックスにおいてはただの性感帯になる。はじめてのセックスが記憶に残っていなくとも、そのことは覚えているのかと、和真は関心したように呟いた。
そこに挿入する、という意識は、記憶と呼ぶより知識でしかない。けれど僅かな嫌悪感もなく、自分が自然とその部分に触れられたのは、意識しないまま彼とのセックスが体に染み付いていた証拠にも思えた。本当に、この狭い内側を、自分が貫いたのだろうか。
もうこれ以上ないくらいに脚を開いた和真の額には、薄らと汗が滲んでいる。羞恥と喘ぎを噛み殺している少年に負担をかけないよう、ゆっくり時間をかけて、指先を潜り込ませた。指をきゅうきゅうと締め付けてくるそこは、痛みに怯えているのか、それとも期待をしているのか、定かではない。抜き差しを繰り返しながら忍び込んだ内部は、決して傷付けてはならない狭さと柔らかさだ。
「ね、……あんまゆっくりやられると……っ」
頭がおかしくなる、と苦しい呼吸の合間に、和真が囁く。一気に貫いたほうが、精神的には楽なのかもしれない。けれど指一本ですら窮屈なここに、それを強いるのは無体な気がする。
「ンッ……ア、あああっ、やぁ、……やだっ」
ふいに指先がある箇所を掠った瞬間、和真の声が変化した。ただでさえ危うく色付いていた吐息はいっそう色を帯び、窮屈だった内部はとろりと蕩けて、指を甘く締め付ける。
「や、やだそれっ、……ともひ……!」
「……和真?」
びくびくと震える前から伝い落ちる蜜が潤滑油の役割を果たし、指の動きを楽にする。余計な力が抜け、探り易くなった中で指を増やし、先ほどの箇所を突付くように擦り上げると、和真は堪えきれないように緩くかぶりを振った。
「いっ………」
「……ああ、ここか」
「い、いやだっ、そこばっか……」
しないで、と切れ切れの吐息で言われても、逆効果でしかない。苦笑を殺した智博が指を抜き差しさせる度に、狭いそこは徐々に解れて貪欲に指を締め付ける。
本来、性行為に使うべきでない器官が、受け入れるためだけの性器に変わった瞬間だった。息を弾ませる和真はもう痛みなど微塵も感じていないように、伏せた瞼を小刻みに震わせて快感に耐えている。
「――ひ、ぁ……」
纏めて指を引き抜くと、内壁は物欲しげにねっとりと絡み付いてくる。名残惜しげにひくつく入り口を眼前に晒されると、躊躇などしていられなかった。
「和真……」
「んっ……ン、あっ」
平気かと尋ねた声に和真が頷き、覚悟を決めるように胸が大きく喘いだ瞬間に、腰を進める。瞬時に息を飲んだ和真の身体が強張り、それに伴なって抵抗感を示した内部の圧迫感に、智博は思わず眉を寄せた。その瞬間に動きを止めてしまったのも、唇を噛み締めた彼の表情に、僅かな苦痛を見つけたからだ。
「痛いか、和真。……平気?」
それでも何かに堪えるように眉間に刻まれた皺は消えず、そっとそれに口付けると、和真はむずがるように身体を捩った。
「い、いたい、けどっ……もー、やだっ、あんたなんで……」
「……何?」
「なん、なんで、そんなにやさしくすんのー……」
せめて痛みが消えるまではと思い込んでいた智博の気遣いを、和真はひくつく喉で一蹴する。
「もう、あんたの好きにしたらいいだろ! も、もっとしてくれとか、あんたそこまで俺に言わせたいのか……!」
ここにくるまであんなに欲しがらせたくせに、まだ言葉を求めたりするのか、これ以上、自分から焦がれる感情を引き出すのは勘弁してくれと、本気の泣き声が懇願する。
「……好きにしてもいいのか?」
「いいよ、もう、早くし……っ、あぁ、ん!」
言葉を言い終えるよりも早く、彼の体の中で一番に柔らかくて熱い場所を、感覚の一番敏感な部分で切り開いていく。遠慮も知らず、ずぷずぷと埋め込まれていく切っ先に彼が痛みを覚えていたのは最初だけのようで、いっそう深い場所に先端が触れる度、声が淡く色付いていく。
傷みごと抱え込み、刺激の全てを快感に変える奔放な身体で、和真は好きに智博を貪った。食い散らかされる、とはまさにこういうことを言うのかもしれない。主導権を握っているのは自分のはずなのに、相手を翻弄しているのは、きっと和真のほうだ。
「イッ……や、ああっ、……ン、ぁ」
仰け反らせた首筋の白さに思わず噛み付くと、和真は慄かせた腰を逃げるように引いていく。無意識のそれを逃がさず、掴んだ腰を強引に引き戻すと、最早痛みなど微塵も感じさせない嬌声を上げて、和真は小さく啜り泣いた。
容赦のない抽挿にびくびく跳ねる身体が蕩けて、開きっぱなしの両足がしがみ付くように智博の身体に絡まるころには、「許して、イきたい」と喘ぎの合間に和真が涙ぐんでいる
「和真、……和真、顔を見せて」
「や、やだーっ、おかしいっ」
「おかしくない。ほら、目を開けて」
涙の滲んだ表情を恥じ入るように、掌で顔を覆ったりするから、泣かないでと、宥めるように繰り返し名前を呼んだ。おずおずと上げた視線が絡み合い、荒い呼吸を挟んで見詰め合った瞬間、胸の奥から暖かな何かが信じられないくらいの勢いで溢れてくる。その何かに従って、力いっぱいに抱き締め、息も吐けないくらいのキスで唇を塞ぐ。性欲とは違う衝動だった。
「ん……ンンッ」
口付けたまま奥深くねじ込んだ性器に、和真が身体をひきつらせる。
「ね、も……無理、イくっ……ともひろっ」
絶頂を目の前にした身体は智博は咥え込んで離そうとせず、強引なほどの淫らな動きで智博を誘う。
「――っ、う」
一際高い、切羽詰った声が零れた瞬間に、きゅうきゅうと収縮した内壁の動きに眉が寄る。歯噛みして堪えようとしたものの、搾取するようなきつすぎる締め付けに呻いた智博は、思いの丈を和真の腹の中に吐き出した。自分の放ったもので、じっとりと中が濡れていき、もう隙間などないと信じていた身体がよりぴったりと密着していく錯覚に襲われる。
「っ……あ、あ……」
奥まで染み込んでいくそれに、薄く唇を開いた和真が、ふるりと身体を震わせる。ほとんど触れてもいない前から、大量の精液が腹に飛び散っていた。
「……大丈夫?」
「んーっ……ん、ぜんっぜん平気。余裕」
汗ばんだ額に前髪を張り付かせながら笑って見せる和真には、余裕ぶっているというよりも、一仕事遣り遂げたあとのような爽快感があった。彼にとっては、セックスも、体力を消費するという点ではスポーツと然程変わらないのかもしれない。
「……ねー何笑ってんの。人に突っ込んだままで」
思わず表情を緩めた智博に気付いたのか、和真は不服そうに咎める視線で顔を見上げてくる。
「ん? ……いや、別に。笑ってないよ。すまない」
惚けて、埋め込んだままだった性器をゆっくりと引き抜く。ずるりと濡れてべとつくような摩擦感が気持ち悪かったのか、和真は小さく呻いて眉を寄せた。
「シャワーは?」
「ん……あとでいい。浴びてくる? 一緒に入る? もっかいしとく?」
さっき射精したばかりですぐにそれかと、呆れ半分の気持ちで、智博は尖った鼻先を諌めるように摘み上げる。じゃれ合うような仕草に至った感情の残り半分は、恐らく微笑ましさだ。
「俺はもう寝る。明日も早いからな。君ももう寝ろ」
「うわー、冷たい、ありえない。なんかこう余韻とかないの、ねえ」
お前が言うなと苦笑したい気分を殺したのは、不平を言いながらも和真が身体を摺り寄せてきたからだ。
ベッドに寝転ぶ自分の隣に、出会ったばかりの少年が当たり前のように収まっている。それを嫌悪感も違和感もなく、むしろ穏やかな気持ちで受け入れていることに、不思議な感覚がした。
「……いい声だよね、あんた」
汗ばんだ頬で微笑みながら、やさしい声で和真が笑う。
「あんたの声は低くて、固くて、でも……やさしい」
「そんなことを言ってくれるのは、君くらいだ」
照れ交じりに肩を竦めると、頬に手を伸ばされる。細い指先が輪郭をなぞるようにそっと触れてきて、そのくすぐったさに、智博は微笑んだ。
「本当だよ。いい声。――名前、呼ばれたくなる」
「……和真」
「――ん」
満足そうに頷いて見せながらも、和真は唇を歪め、ひどく小さく笑った。その歪んだ微笑みの意味も知らないまま、智博は自ら望んでその唇に口付ける。どうしてそんなふうに、痛いような笑い方で、笑んだりするのだろう。問い掛けたかった気もしたけれど、言葉は吐息を吐き出すことすら惜しむように、小さな唇に吸い込まれていった。
啄ばむようなキスの合間に間近で瞳を覗き込めば、少年ははにかむように笑う。
なんだか可愛らしい生き物が、やっぱりそこにはいた。
吹き込む冷たい風が頬を撫でる感触に、智博は目を覚ました。この時期の夜風は痛いくらいに冷たくて、無意識に体を丸める。窓を開けたまま眠ってしまっていたのだろうか――ぼんやり考えられたのはそこまでで、ふと気付くと、ベッドにいるはずの和真の姿がなかった。ただ自分一人だけが寝転がっていたことに驚愕した智博は、慌てて飛び起きる。
「……和真?」
裸のままだった上半身に脱ぎ散らかしたシャツを羽織ながら部屋を見渡せば、ベランダに続く引き戸が僅かに開いているのが見えた。夜風にぱたぱたとひらめくカーテンを潜り、智博はベランダを覗く。
「……あ、起きた?」
冷たいアスファルトに座り込んだ和真は、どこから見つけてきたのか、空き缶を灰皿代わりにして、煙草を吹かしているところだった。その隣には封を開けたばかりのボックスが転がっている。ベランダに足を伸ばした智博に気付き、のんびりと顔を上げた和真には、眠たげな様子もなかった。
「あんた今日も会社だろ。ちゃんと寝なきゃ」
「それは君もだ。学校、ちゃんと行けよ」
それどころか智博の明日の心配すらしている。それはお互い様だと額を押さえながら、智博は和真の横に立つと、その唇からまだ火が点いたままの煙草を奪い取った。
「何? 煙、嫌いなの?」
まだかなり残っていた煙草を断りもなく空き缶に突っ込むと、和真は不服そうに眉を寄せた。けれど強く抗うことをしないのは、他人の家で勝手に喫煙していたことに気が引けるのだろう。
「いや、煙が嫌いというよりは……」
それからしゃがみ込んで煙草の箱に手を伸ばした智博は、断りも得ないままにその箱をくしゃくしゃに握り潰した。
「うわひっで! 何すんの!」
「……未成年が煙草を吸うな」
「だってまだ半分以上残ってたんだよ!? ていうかさっき開けたばっかだし! 勿体ないじゃんいきなり纏めて折らないでよ、あ、ありえない……」
目を剥き、さすがに非難の声を上げた和真を無視した智博は、部屋においてあるダストボックスを目掛け、塵に成り果てた箱を投げ捨てる。
「わざわざ自分から成長を止めるような真似をしなくてもいいだろう。男の成長期は二十歳までらしいから、精々それまで身長でも伸ばしなさい」
「170ありゃ充分だよ俺は……あんたさあ、結構スパルタなんだね」
がっくりと肩を落とした和真は、しかしそれだけに反応を留めて、それ以上抵抗する様子を見せなかった。もっとうるさく噛み付いてくるものかと思っていたが、案外大人しく智博の言葉に従っている。これを機に禁煙させてみるのもいいだろう、などと智博がぼんやり考えていると、和真は「やっぱりあんたは真面目だ」と愉快そうに笑う。最早言われ慣れた言葉に、いちいち不愉快にはならない。
「未成年の喫煙を見逃しただけでも処罰されるんだ、大人は」
「白井さん、煙草吸わねーんだ?」
「――「智博」って呼ぶのは、セックスのときだけなのか?」
さり気なく、自然にその呼び名が最初に戻っていたことに気付いて、静かに尋ねる。途端、和真は困ったように眉を寄せた。
「……いいの?」
「何が?」
「俺があんたのことそういうふうに呼んでも。……恋人でもないのに、こんなガキから呼び捨てられたら腹立たない?」
「案外、細かいところに気を遣うんだな」
思わず笑ってしまった。大雑把で年齢差など気にしない性格に思えても、彼なりの線引きというのは、一応あるらしい。智博の落とした笑みに答えるように小さく笑い、和真はそっと前髪を掻き上げた。
「セックスのときに名前呼んでると、勘違いしそうになるよね」
「勘違い?」
「あんたはそう思わなかった? セックスしてるとき、俺たち恋人同士みたいだったよ」
笑った和真は、前髪を掻き上げるふりをして、掌で、智博の視線を遮る。――自分の表情を隠そうとする仕草だ。
「そんで俺はね、ずっと勘違いしときたいんだ。だからあんたは、ずっと俺の名前、呼んでてね」
煙草を奪われ、手持ち無沙汰になった指で自分の顔を覆い隠しながら、和真はぽつぽつと、独り言のように続ける。
「……勘違いさせていいときしか、俺は呼ばないから」
「和真……」
「――ね、もう寝よ。あんたほんとに会社に遅れちゃう」
大丈夫だよと、和真の微笑み混じりの声が告げた。
「大丈夫だよ、俺はあんたの生活を、何も、壊したりなんかしない」
その分別くらいならあるのだと、幼い顔をして、彼は告げているようだった。
自分には長い時間を共にした婚約者がいて、そんなことはとっくの昔に知っているはずなのに、彼は赤裸々なほどの情欲を持って「抱かれたい」と自分に言った。それが例え本当の恋であったとしても、不健全なことは判り切っている。
どうしてこんな自分にそれほど強い感情が持てるのだろうと、当初から抱いていた疑問が、今更湧き上がり、胸を暗く沈み込ませた。不思議というよりは、いっそ不可解で、正体の判らない何かと向き合っているような気分にさえなる。
「君はおかしな人だな」
「俺? あんたに言われたくないよ。今時、高校生の喫煙を叱れる二十代なんてどんだけいると思ってんの?」
腰を上げ、部屋に入ろうと促す和真は、明るい顔で笑っている。自然とその肩に手をかけて、身体の余りの冷えように、智博は一瞬驚愕した。震えはしないものの、そうしていてもおかしくないほどに、和真の身体は冷え切っている。
「……どれくらい外にいたんだ?」
「内緒」
問い掛けに、すぐさまに答えて見せた和真の表情に戸惑いすら覚えて、じっとその顔を見つめていると、「何だよ」、とくすぐったそうな顔をして和真が肩を竦めた。
――ふいに気付く。
「あんたの隣なんかで寝てたら、泣いちゃいそうだったからね」
視線に根負けしたように、外にいた理由を教えた声は、冗談のように軽く、笑顔のままで告げられた。
――笑顔は、恐らくは一番に、思考を読み取り難い表情なのだ。
「……どうして俺なんだ。どうして俺なんかに、君は……」
「恋をするのに、理由がいるの?」
すぐに答えた和真は、微笑みの中にも挑むような眼差しを含ませていた。はっとするくらいに強い視線の力は、自分には持てない、強さだ。真っ直ぐすぎるそれに負けて、目を伏せてしまうような自分には、決して。
「敢えていうならセックスかな。最初のとき、あんまり相性よすぎてびっくりしたから」
「――……」
「ああもう、嘘だって、そんな顔しないでよ。あんたはほんっとに、人の言葉まんま受け取っちゃうんだねえ」
途端、けらけらと笑い出す和真に、一体自分はどんな顔をしていたのかと、思わず自分の頬に手を宛てて考え込んでしまう。多分ものすごく間抜けな顔か、ものすごく嫌な顔をしていたのかもしれない。
「そうだね……いつか、あんたが俺を少しでも好きになってくれたら、教えてあげる」
和真はすぐに否定してみせたけれど、半分くらいは、本当かもしれない。身体の相性なんて、そうそうあるわけがないと信じ込んでていたけれど、それを覆されてしまうくらいには、彼の身体は自分に馴染んでいた。一度交し合った熱が忘れがたいというのも、人の心に大きく関係するのかもしれない。
「……本当はね」
大切な秘密を分け合うように、悪戯に目を細めながら、和真が囁く。
「週末、あんたと会った居酒屋に行ってみようって思ってたんだ。来るかどうかわかんないけど。再来週も、次の週も、ずっと。……あんたに会えるまで、待ってようと思ってた」
だから今日会えてよかったと、やさしい瞳で笑ったりするから。
言葉に迷って、結局、僅かばかりの痛みを堪えながら、微笑みを返した。
どうして彼は、こうも容易く、胸を差す言葉を、言えるのだろう。彼の言葉のひとつひとつが、今まで感じもしなかったほど、真っ直ぐに胸を貫いてくるものだから性質が悪い。
「……それは、止めておいたほうがいい。本当にストーカーになる」
冗談交じりに眉を寄せはしたものの、不思議と穏やかな気持ちで、智博は目には見えない白旗をそっと掲げていた。
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