【2】


 料理を口元まで運ぶ間に、彼女は幼い唇をほころばせて、楽しそうに笑った。
「――それも、保坂さんらしいよね」
「そうだな。受け取り方によっては、調子のいい男にも思えるかもしれないが。……肝心な部分は話さないで、頼みごとをしてくるんだから」
「またそんな意地悪ばっかり言って」
 緩く首を傾げ、微笑んで見せる彼女の仕草は、ひどく智博を安心させる。普段は滅多に動かない表情も、彼女の前では自然と綻んだ。それは彼女の仕草が自分の心に馴染みすぎているからだろうし、また彼女自身が持ち合わせている空気のせいでもある。
「でも、保坂さんがそういうふうに口の固い人じゃなきゃ、お兄ちゃんはあの人を信用できなかったでしょ」
 彼女が自分のことを「お兄ちゃん」と呼ぶのも、いつものことだ。ふいに気を抜かれたように、彼女はときどき、智博のことを遠い昔の呼び方で呼んでしまうらしい。
「藍子」
 やさしく、窘めるように名前を呼べば、彼女はしまった、というように唇を押さえてみせる。それから少しはにかんで、悪戯をして叱られたばかりの子供のように、眉を寄せた。
「ねえ、保坂さんが智博さんのこと心配してるっていうんなら、それは多分、間違ってないと思う。……智博さん、何かあったの?」
 心配そうに顔色を伺う藍子の声に、思い出したくない少年の顔が、脳裏に過ぎっては消える。――唯一の安らぎ。唯一の、癒し。自分にとって、彼女はそういう存在だ。
 そういう大切な時間まで、自分でも判らない感情に、煩わされたくはない。
「何もないよ。藍子まで保坂みたいに心配性にならないでくれ」
「でも……」
 藍子は口を噤みながらも、そっと眉を潜めた。
 保坂から頼まれ事をされ、また自らの体調を心配されてから既に二日を経ている。話のついでに思い出して聞かせただけのことを、今更蒸し返されては堪らなかった。
「それより、研修のほうはどうだった?」
「ああ、あのね……」
 杞憂を振り切らせるように話題を変えると、彼女は表情を一転させ、輝くような明るい瞳を見せる。
 藍子は二週間ほど前から出張でニューヨークに向かっており、昨日の今朝方、やっと帰国したばかりだ。彼女はウェディングプランのデザイナーで、ニューヨークの本社で短期間ながらも研修を受けてきたのだ。わざわざ本社にまで研修に向かわせられたのは、彼女の手腕を買われてのことだろう。
「色んな話が聞けて、面白かった。日本でも地味婚は流行ってるけど、ドライブスルーで式を挙げようなんてまだ考えもしないでしょ」
「……藍子がそれをしたいなら、それでもいいけど」
「時間に制約のない結婚式は魅力的だと思うけど、あたしはちょっと嫌かなあ」
 そういう事情で、実際彼女と顔を合わせるのはひどく久しぶりだった。
 とはいえ、元々頻繁に逢瀬を重ねるような関係でもない。藍子は顧客の都合に合わせて、夜も休みもないような仕事をしている。一週間に一度か二度、こうして食事を共にするのが、ここ数年のデートだ。
 会うのは大抵、昔保坂に教えられた、値段の割りには洒落た感のある小さなバーだった。飲食店ばかりが入っているビルの、地下一階に位置するこの店は、訪れる年齢層も高めなおかげで、落ち着いて話ができるのがいい。
 一週間のうち、たったの一度や二度のデートなら、もっと雰囲気のある店で食事をしてもいいのかもしれない。そう思ってはいるものの、藍子と自分の家との距離を考えると、やはりここが一番、都合がよかった。
「形式を望まないのなら、それでもいいのかもしれないって思ったの。婚姻届だって、こんなの紙切れ一枚だって思っちゃう人もいるわけだし。でも世の中がそういう人たちばっかりだったら、あたし食いはぐれちゃうね」
「素敵な結婚式を挙げるのは、女の子の夢だろう?」
「うーん……あたしはね」
「そう思ってる女の子が、いつの時代だって君ひとりじゃないから、藍子の仕事が必要なんだよ」
「……女の子だけ?」
「俺はドライブスルーでも別にいい」
「またそういうことばっかり……」
 藍子は拗ねたように、軽く唇を尖らせた。こういう仕草は、昔から変わっていない。変わりのない彼女の喜怒哀楽の表現を、智博は心から愛しく思う。
 城嶋藍子との付き合いは、遡れば十年以上も前の話になる。向かい合わせの家に住んでいた、自分よりも二つ年下の女の子とは、言わば幼馴染みと呼べる関係だった。それが恋に変わり、やがて愛になって、最終的に情になったのは、自然の流れでしかない。意識するよりも先に、彼女は自分にとってかけがえのない存在だったのだ。
 複雑で、少しだけ歪な家庭に育った年下の幼馴染みに向ける感情は、愛情と呼ぶよりは庇護欲だったのかもしれない。数年前、両親の離婚によって傷付き果てた少女がこの腕の中で泣いたとき、自分が守らなくて誰が守ってやるのだと、頑なに刻んだ誓いは、未だ胸に残っている。
 ――昔、婚姻という形式を呪った彼女が、今は、ひとの幸福を描くことを、糧にしている。そういう自分になれたのは、全部お兄ちゃんのおかげだと藍子が笑うことだけが、智博の誇りだった。
 仕事に遣り甲斐を見出し、自ら輝こうとする彼女の笑顔は、いっそ眩しい。
「あの、ね。さっきの話に戻るけど」
「……うん?」
「智博さん、ほんとに具合悪かったりしてて、……あ、別に元気でも。忙しかったりしたら、あたしのためにわざわざ時間作ったりしなくて、いいからね」
 スプーンを置いた皿には、まだオムライスが半分以上残っている。具合が悪いのは彼女のほうじゃないかと眉を寄せ掛けたとき、藍子が立て続けに口を開いた。
「お兄ちゃん、いつもあたしのことを優先してくれてて。ずっと自分の時間とかなかったんじゃないかなあって思うの」
 突然とも思える言葉に、智博は面食らった。
「……どうして?」
「あたしね、自分で仕事し出して判った。年を取るごとに、自分の時間って、少なくなってくの。でも智博さん、いつもあたしの心配してくれてたよね。大学に行ってたときも、毎日あたしに会いに来てくれてた。でも智博さんはあたしより、二歳も年上なんだよ。あたしよりもずっと、自分の時間、少なかったよね」
「自分のための時間、か。……藍子は、俺がどんなに忙しい人間だと思ってたの?」
 僅かな苦笑を滲ませて、智博は首を傾げる。そんなことを言われても、というのが、正直な感想だった。
 多分、藍子が思う以上に、自分は詰まらない人間だ。
 毎日決まった時間に起床して、満員電車に揺られながら出勤する。たまには保坂や上司に誘われて飲みに出ることもあるけれど、殆どは真っ直ぐ帰宅して、明日に備えて眠りに就く。週に一度か二度は、気持ちを安定させるために、癒しを求めるように、藍子と食事を摂る。
 ただ、それだけだ。
 ――それだけの、詰まらない、人間だ。
 或いはそれを「忙しい」と呼ぶのだろう。ただ目の前にあるものだけを見つめ続けて、他に向ける視線を持たない自分を、余裕がないと他人は笑うのかもしれない。
「あたしは、保坂さんみたいに毎日お兄ちゃんの傍にいないから。わからないの。……保坂さんがお兄ちゃんのこと「顔色悪い」っていってたのも、わからないくらいだから」
 その言葉に、藍子が自身の無力さを悔いているような気がして、智博は尚、苦い笑みを深めた。
 毎日が、平坦で、同じことを繰り返しているだけなのに、何を心配されることがあるだろう。藍子の言葉は、彼女の思い込みと、考えすぎだとしか思えない。
「……藍子と会うのは、楽しいよ」
 生活が、まるで定期的に組まされたスケジュールのようだと思うことがある。きっと自分の人生は予定調和が為されていて、少しの誤差もなく、これからも毎日同じ時間を生きていくのだろう。誰の意思でもない。自分自身の意思ですらないのかもしれない。
 そう、ただの、予定調和のように。
 その予定調和に、あの少年がふらりと現れてくれたせいで、少しの亀裂が入ったのだ。だから藍子と会っている時間でさえ、あの声を思い出す。あの表情を作り出す、顔のパーツを思い出す。
「藍子と一緒にいる時間は……俺の生活に、欠かせないものだと思ってる」
 ――何も考えたくなんかないのに。
 何故、藍子が自分を悔いることがあるだろう。無力だと思うことがあるだろう。
 何よりも無力なのは、この自分だというのに。
 彼女にも、そして、彼にも。
「……本当だ。嘘なんかじゃない」
 ――振り向かない背中のあの子は、少しだけ傷付いた目を、していただろうか。
 振り切るような智博の声に、藍子は何かを堪えるように、目を伏せた。




 店を出てすぐに、冷たい風が頬を殴った。十月にもなれば、夜にはひどく冷たい空気になる。薄着に見えた藍子も少しばかり寒がっているようで、秋らしい薄いカーディガンの下で身体を縮こまらせていた。
「お土産、保坂さんにもちゃんと渡しといてね」
「ああ、判ってるよ」
「喜んでくれるかなあ」
「藍子からもらえるものなら、あいつは何だって喜ぶよ」
 気の好い保坂は、大学時代から藍子のことを自分の妹同然に可愛がっている。彼に柔らかな好意を向けるのは藍子も同様で、ねだられて三人で食事をすることもよくあった。
 保坂さんから自分の知らない智博の話を聞けるのが楽しいと藍子は笑い、保坂はお前に藍子ちゃんは勿体無いと、冗談交じりに祝福をする。親しい二人が自分を介して交流を深めてくれるのは、智博にとっても喜ばしいことだ。
 このまま真っ直ぐに藍子を送り、帰路につくのがいつものパターンだ。時には部屋に上がってコーヒーを飲むこともあるけれど、明日が平日であることを考えると、すぐに帰宅するのが懸命だろう。
 路上に続く階段を上がり、藍子の背中を押しかけた瞬間、思わぬものを見つけてしまった。
 一階にある店の扉――多分、アジア系の料理店だったはずだ。カレーだろうか、強い香辛料の香りが道路にまで漂っている。空腹時ならば腹を鳴らすであろう香ばしい香りは、満腹の今、少しだけ胸焼けを起こさせた。
 階段を昇りきった智博は、その扉から出てきたと思われる二つの影を見つめる形で、その背中を見つけてしまった。その小さな、背中を。
 何事かを言葉を交わしてから、友人らしき人物に向かって手を振った彼は、踵を返し、こちらを向く。
 一瞬、凍りついたように固まった彼の気配を、智博は見逃さなかった。
 彼は、何という名前だったか。記憶を巡る前に、脳がいとも簡単にそれを弾き出す。
 ――藤倉。
 藤倉和真。
 どうしてこんなにもあっさりと、彼の名前を思い出してしまうのか。思い出すという意識もないうちに浮かんだ名前を、何度も何度も胸のうちでなぞっていたことを、思い知らされてしまう。
「智博さん?」
「ああ、……ごめん、行こうか」
 訝しげな顔で藍子が見上げてきたのと同時に、藤倉和真も顔を伏せ、足を踏み出した。彼は顔を伏せたまま、智博たちの横を通り抜けていく。
 智博の反応をどう受け止めたのか、彼がここで自分の存在をアピールするつもりはないらしい。ならばこちらもと見なかった振りをしかけて、けれど直ぐに思い止まってしまったのは、鞄の中に入れっぱなしだった学生証のことを思い出してしまったからだ。
「……ごめん藍子、今日ひとりで帰れるか?」
「え?」
「さっき、知り合いを見かけたんだ。ちょっと挨拶をしておきたいから……いい?」
「いいけど、別に……」
 あからさまにしないまでも、どこか不思議がるような藍子の視線を振り切って、智博は踵を返した。
「じゃあ、ごめん。気を付けて。……また連絡する」
 いつもなら、藍子の部屋の前で口にする言葉を早口で告げ、そのまま追うのはさっき通り過ぎていったばかりの背中だ。
 もしかしたら藍子は、不思議そうな視線を、まだこの背中に向け続けているのかもしれない。けれど今を逃せば、もう二度と、会うことは叶わない。多分、こんな偶然は、二度と訪れない――。
「……っ、藤倉!」
 背中が消えていった角を曲がると、追いかけられていることを知ってか知らずか、藤倉和真は足早に夜道を歩いていた。思わずその名を叫ぶと、びくりと肩が跳ねる。そろそろと振り向いた彼は、困惑と緊張をない交ぜにしたような表情で、視線を合わせたその瞬間、智博の視線から逃げるように、ふいに駆け出した。
「ちょっ……待ってくれ」
 逃げ出す意志を明確にした相手に、慌ててその手首を掴み取る。あっさりと捕らえられた和真は少しだけ足掻き、智博が預かり物のことを思い出すよりも先に、いきなり「ごめん!」と叫んだ。
「え……」
「俺あんたのストーカーとかしてないから!」
「……は?」
 思いもがけない言葉にぽかんと口を開けた智博に構わず、少年は捲くし立てるように続ける。
「マジでっ、あそこにいたの偶然だから! あそこのカレーが美味いって友達に連れてかれて、初めて行った店だったんだ、ごめんなさい!」
 ふいに返す言葉を失ったのは、聞いてもいないことまで喋り出すあまりに突飛な彼の言葉が思考を奪ったからかもしれないし、――掴んだ手首の、あまりの細さに、だったかもしれない。
「ご、ごめん、ね……俺のことなんか思い出したくなかったよね、……なのにこんなとこで会っちゃって、……しかも彼女」
 一緒にいたのに、と付け足した言葉は語尾に近づくにつれて掠れ、殆ど聞き取ることができなかった。
「君が俺のストーカーか。……そんなこと、思ってもみなかったよ」
 背中を丸め、身体を縮こまらせている彼とは反対に、智博の身体からは力が抜けていく。笑い出したいような気分にさえなった。
「してない!」
「判ってるよ。思ってもみなかったって、さっきから言ってる」
 どうして彼は、こんなにも気を抜かせるのが上手いのだろう。――どうして自分は、あんなにも必死になって、彼を追いかけたりしたのだろう。
「……あのとき、落とし物して行っただろう。君に渡せたらいいってずっと思ってたから、むしろ会えて助かった」
 ゆっくりと手首を離した手を、そのまま鞄に持って行き、入れっぱなしにしていた学生証を探る。変形することも歪むこともなく、あのときのままの形で彼に手渡せたことに安堵した。
「なくしたままじゃ、困るだろう」
「……あ、うん。……そうか、だから俺の名前……」
 渡された学生証を受け取り、和真は納得したように独りごちる。ありがとう、と囁くような声で礼を言ってから、ゆっくりとその端正な顔を歪ませて、彼は小さく笑った。
「……見た、よな?」
「見たって?」
「名前……とか。あと、――俺の歳とか」
「ああ……君、まだ高校生だったんだな。てっきり大学生くらいだと思ってたから、驚いたよ」
 それは彼がふいに大人びた顔をするからで、高校生と言われれば確かに納得してしまう幼さは十分に持ち合わせている。
「ほんとは歳とか、知られたくなかったんだけど……」
「どうして?」
「だってあんた、そういうの気にしそうだから。……俺が未成年で高校生だってことに責任感とか罪悪感とか感じてたんじゃないの?」
 ――そう、こんなふうに歪んだ頬で笑ってみせながらも、痛みを堪えきれない表情は、充分に、幼い。
「ごめんね、なんかそういう……そういうのは、ヤだったんだけど。あんた真面目っぽいから、余計にさ。妙なもん背負わせちゃったりするのとか。……ごめんね。きれいに終わんなくて」
 くしゃりと前髪を掻き揚げるふりをして、表情を隠そうとする仕草も。
 ――この朗らかな少年が見せる、幼い仕草のひとつひとつに胸が痛むのは、どうしてだろう。
 きれいに終わらせるなんて痛い言葉を、どうしてこの少年が口にする必要があっただろう。――誰が口にさせるのだろう。
「ほんと、ありがとう。……来週、持ち物検査あるから。すげえ助かった。彼女ほったらかしにさせちゃって、ごめんね」
 いっそ開き直って高校生らしさをアピールするかのように、からりと笑った少年の顔には、もう翳りはない。
「今から追いかけても遅くないんじゃない? 夜道の一人歩きは危ないよ、女の子の」
「もう遅いよ。今ごろアパートの階段を昇ってる」
「ああ、近くなんだ?」
 もうアパートの階段を昇っているかもしれない、というのは過ぎた脚色だが、どちらにしろ藍子の家がこの辺りであることは確かだ。
「近くだよ。だから心配はしなくてもいい。――それよりも、高校生がこんな時間まで出歩いているのは感心しないな。補導が始まる時間だろう」
「ははっ、ほらあんた、やっぱり真面目だ。……大丈夫、真っ直ぐ帰るよ。今日はメシ食いにきただけだから」
 厭味のない口調で笑われても、暖かな微笑みが浮かんでくるだけだった。
「君のせいで、彼女とコーヒーを飲み損ねたな」
「はは……ごめん、ね。」
 自分の言葉なんかで、笑いかけた顔を歪めなくてもいいのに、彼の反応はあまりに真っ直ぐで、判り易い。くるくると変わる表情を好ましく思えるのは、彼の魅力だろうとぼんやり思った。けれどどうせ見つめるなら、明るい表情のほうがいいに決まっている。それは、彼だけに限らない。痛い顔など、させたくはない。――そう、誰にだって。
「コーヒーは、嫌い?」
「……いや。別に。どっちでも、ないけど」
 不審そうに首を傾げた和真を見つめながら、智博は続けた。何の気もなく口にした言葉のはずなのに、温かくて苦い飲み物が、ひどく恋しい。
「うちにはインスタントしかないから、彼女のコーヒーには適わないけど」
「……え?」
「――うちも、近所なんだ」
 多くは語らず、智博はそのまま彼に背中を向ける。少なく、足りない言葉を、けれど正確に読み取って、和真は躊躇いがちに後を追ってきてくれた。
「……いいの?」
 尋ねてくる小さな声にも、今は微笑みしか返せない。
 予定調和は、崩された。
 それを望んだのは、誰だったのか。
 判らないまま、少年の歩幅に合わせて、智博は街灯の少ない道を、ゆっくりと歩いた。




  

20051109