[1]


 その朝、ゆっくりと瞼を上げた瞬間、困惑してしまったのは、右腕に慣れない重さを感じてしまったからだ。
 細かいことを言えば、その右腕に乗っていたものが誰かの頭で、穏やかな寝息を立てて眠るその少年が自分の知る人間ではなかったこと、或いはベッドの固さやスプリングが慣れないものだったこと、それから自分と少年とが、何故か真っ裸でそこに転がっていたことなどが、智博の思考を混乱の坩堝に叩き落した。
 起床はいつも通り、六時半であるはずだ。――何故か腕の中に収まっている少年をとりあえず起こさないように不自由な首を動かしてみても、時計は見えない。けれど自分が目を覚ましたということは、多分その辺りの時間だろう。几帳面な性格が過ぎて、休日でもこの時間に目を覚ましてしまう。それだけなら、何の変化もない、変わり映えのない、日々の朝だった。
 身体を預け切った体勢で眠っている少年は、眠っているせいか、年のころがよく判らない。十代後半のようにも見えるし、二十代の前半にも見える。そんなことを幾ら考えても、仕様のないことだと諦めて、智博は軽い溜め息を吐いた。どちらにしても、寝顔から人の年齢を判断するのは難しい。
 細かく震える瞼や、その度揺れる睫毛の動き、すうすうと規則正しく繰り返される寝息の音すら間近に聞こえ、見て取れる。この距離で人を見つめることすら久しぶりのような気がして、智博は何だか不思議な気持ちで、その寝顔を凝視した。
 目を瞑っている状態ですら、その顔立ちが整ったものであることが知れる。子供っぽい面影を十分に残しながらも、どこからどう見ても男にしか見えない精悍ささえ備えている顔立ちだった。若々しい頬にはかなり派手に色を抜いた、茶色い横髪がかかっている。そろそろと触れたそれは、驚くほど柔らかい。頬にかかっていた毛先をそうっと払ってやると、少年の小さな唇が薄く開いて、寝言なのか何なのか、言葉にならない言葉を呟いた。
 指の感触が擽ったかったのか、僅かに寄ってしまった眉間の微笑ましさに、つい微笑みが漏れる。目を開いたら、どんな表情を作るのだろう。寝顔ばかり見つめていても、彼のことは、何も知らない。――そうだ、何も。知らない。
 自分は正体の知れない人間、しかも同性であるこの男と、どうやら一夜を共にしたらしい。間違っても、こんなにのんびりと和んでいる場合ではない。
「……どうなってるんだ」
 思わず感じた眩暈を振り切るよう、智博は低く呟いた。
 目覚めた瞬間から続く、重たくも鈍い頭痛は、恐らく二日酔いのせいだけではない。
 何がどうなって、こうなっているのか。全く記憶にない。上司に付き合わされて、どこかの居酒屋の暖簾を潜ったところまでは記憶にあるのだけれど――
(――会社!)
 ふいに気付いたその瞬間、智博は慌てて身を起こした。そのついでに、右腕に乗っかっていた頭がころりと落ちて、シーツに転がる。その衝撃のせいか、眠りと目覚めをさまよう、小さな呻き声が聞こえた気もしたけれど、構ってはいられなかった。
 部屋を見渡し、壁際に自分のスーツがハンガーで釣らされているのを見つけて、ほっと安堵する。皺になってはいない。最悪、このスーツを着て出社しても問題はなさそうだ。その前に下着をと考えをめぐらせた瞬間、恐らくは一番に根本的な問題に突き当たった。
 ――ここは、どこだ?
 明らかに自分の部屋ではない、けれど恐らく一般的なアパートの内装とは程遠い、広すぎる空間に違和感があるほどに大きなベッドが一つ。たぶんこれはラブホテルと呼ぶ建物の一室だ。
(――とにかく一旦外に出て……)
 駅の方向を探るしかない。
「……何慌ててんの?」
 高速で思考を回転させていると、突然、のんびりとした声が背中に投げられてきた。
「今日、土曜だよ。休みだって言ってなかった?」
「は? ――え、ああ……」
 のんびりとした声につられるように、ゆっくりと思考を巡らせる。そうだ、確かに昨日は金曜日だった。休日を前にしたその曜日でなければ、例え上司に誘われようと、飲みに行くはずがない。無理矢理飲まされた挙句、翌日まで二日酔いを引き摺ることがわかりきっているからだ。
「ははっ、あんたテンパりすぎ」
 のんびりと笑い声を聞かせたのは、さっきまでしとやかな寝息を聞かせていた少年だった。すっかり目を覚ましたらしい彼は、やはり自分と同じように全裸で、彼と自分との間に昨夜どんな行為があったかは疑うまでもない。しかし、眠たげに瞬きを繰り返したあと、きちんと開いた瞳で真っ直ぐに見つめてくるその顔に、見覚えはあまりない。
 半分シーツに包まれたあどけない肢体に、思わず目を反らせてしまいそうになる。鎖骨や首筋に、明らかな情交の跡が残っていたからだ。
 だから、何だ。相手は同じ男じゃないか。何を今更、と思い返して視線を固定していると、少年が欠伸を噛み殺しながら首を傾げる。
「今何時? 六時半? ……あんた早起きだねー。もうちょっとゆっくり寝てようよ。つーか終わってから二時間しか経ってないじゃん」
「……二時間?」
「でしょ? チェックインしたのが0時ちょいすぎくらいで、そっから四時くらいまでハメっぱなし」
 軽く寝癖をつけた髪を掌で掻きながら、少年は眠たげな声で笑う。まだ幼さの抜けきらないその唇が発した言葉に、智博は戸惑いの余り二の句を次げなかった。何があったかを頭で理解はしつつあっても、実際言葉として目の前に叩きつけられれば、それなりの衝撃がある。
 年端のいかない、いやもしかしたら年端はしっかりいっているかもしれない、だが幼く見えるこの少年相手にどうやら自分は間違いなく性行為を行ってしまったらしい。その事実を一切覚えていない自分にも、同性相手に欲情したらしい自分にも、しっかりとショックを受けた。
 ショックを受けたまま硬直している智博を眺めて、彼はゆっくりと首を傾げる。
「……覚えてない?」
「――すまない」
「いや謝んなくてもいいけどね」
 不本意とは言え、情交に至った経過すら記憶にないというのは、とんでもない失礼になるのではないか。一瞬逡巡したあと、それでも誤魔化すこともできずに告げた智博に、彼は拘りも見せず首を振った。
「しょうがないよ、あんたぐでぐでだったから。いるよねー飲むと記憶飛んじゃうヤツ」
 気を悪くした様子もなく、あっけらかんと笑った彼は、掌を智博の目の前に突き出すと、ふいに三本の指を立てて見せた。
「……何?」
「何って。料金。あ、ホテルのじゃなくてね。俺の値段っつーの」
「……値段?」
「あんたさっきから俺の言うこと鸚鵡返ししてばっかだね」
 愉快そうに少年が笑った。笑いを誘ってしまうほど、自分は間抜けな顔をしていたのかもしれない。容赦なく笑って見せた少年の笑顔は若々しく、無邪気とさえ呼べるだろう。だがその瑞々しい唇が吐き出す言葉は、智博をひどく打ちのめすものだった。
 どうやら自分は、自ら望んでこの少年相手に、金銭で肉体関係を迫ったらしい。事前に手渡す金額の相談があったかどうかは判らない。しかし当たり前のように彼が金銭を求めるのであれば、そういう交渉が確かにあったのだろう。
 自分がそれほど性的に飢えていないことも、頑固なまでのモラリストであることも、素面のときなら断言できた。だが酩酊して正体のなくなった自分にまで、自信は持てない。
「……三万円で、いいのか?」
 打ちひしがれた声で尋ねた智博に、少年は僅かに目を丸め、ゆっくりと顔を近付けて来る。至近距離で見つめてくる瞳は、カーテンから僅かに漏れる光に反射して、茶色に透けた。気を抜いたら吸い込まれそうなほど、軽やかな色をしている。
 つい見惚れていると、少年は智博の目を真っ直ぐに見つめながら、小首を傾げた。
「……ねえあんた、そんなに騙されやすかったらこんな鬼ばっかりの世間、渡っていけないよ?」
 真顔で吐き出されたその言葉を理解し切るまでには、多少、時間が要った。
「――嘘なのか?」
 たっぷり十秒ほどの間を置いたあと、強張る声で尋ねた智博に、少年は笑いながら頷いて見せる。
「うん、嘘。ごめんね。ちゃんと合意。あー、でもあのまま騙して三万もらっとくのもアリだったかもね。惜しいことしたかな」
 何が面白かったのか、少年は腹を抱える勢いで笑い転げている。余りにも朗らかな笑い声に怒る気にもなれず、智博は、ただ溜め息だけに反応を留めた。
 きっとこの無邪気な少年にとっては他愛のない嘘で、他愛のない、言葉遊びなのだろう。子供の悪戯レベルなら、怒るだけ無駄だ。
「昨日、居酒屋で飲んでたのは覚えてる?」
「ああ、そこまでは何とか……」
「多分上司だろうね。なんかえらそーなおっさんと一緒で、俺はあんたの真後ろの席でダチと飲んでたの。あんたとそのおっさんが店出てすぐ、あんたが床に定期落としてったのに気付いちゃってさ。いつもは男の落とし物なんか放っとくんだけど、丸々三ヶ月残ってたから届けないと可哀想かなーって」
 確かに財布と同じ場所に入れている定期なら、財布を引き出す際に落ちていても不思議ではないだろう。それを落としたことにも気付かなかったのなら、彼の言うように自分は相当にぐだぐだだったのかもしれない。
「それであんたを追っかけたら、丁度あんたはおっさんをタクシーに乗せて見送ってるところだったんだよ。だから俺はあんたにギリギリ定期を渡せたわけです」
 自分と彼との出会いを語ってくれたらしいが、智博がぼんやり覚えているのは、上司を肩に担いでタクシーを捕まえようとしていたことくらいだ。それすら霞みがかっていて、本当に昨夜の記憶なのかどうか定かではない。
「それで、どうしてこんなことに……」
「あんたねえ、そんな世界中の不幸が落ちてきたみたいな声出さないでよ。――そんで、あんたが定期のお礼したいっつーから、近場で奢ってもらうことにしたんだよ。……今思えば、もうあんときにぐだぐだだったんだね。話し方はまだしっかりしてたから、正気なのかと思ってた」
 すっかり肩を落とした智博の様子に、少年は苦笑交じりに告げた。
「ごめんね。誘ったのは俺」
「……そうなのか?」
「うん。あんたは覚えてないだろうけど、飲みながら二人で色んな話したんだよ。それで、あんたのことちょっといいなって思ったのも、多分俺。今度また会いたいって、もうちょっと一緒にいたいっていったら、あんたが「俺も」って言ったんだ」
 少年は笑顔のまま、少しだけ傷付いた顔をして、目を伏せた。
「それは……」
「覚えてないんだろ。酒の勢いの怖さっていうのも判ってるし、俺もあんま本気にはしてなかったけど」
 ついさっきまで、楽しげにからからと笑っていた彼に、こんな表情をさせていることが申し訳なくて、その原因が確かに自分であることに、胸が痛む。
「でもさー……あんたも悪いんだよ。あんたが「いいよ」って言わなきゃ、こんなとこまで来たりしなかった」
 口振りとは反対に、少年はなるべく痛みを隠すように、ふざけて唇を尖らせた。詫びるべきであるような気もするし、下手な謝罪などすればこの少年がどうしようもなく傷付いてしまう気もして、結局、何の言葉も選べない。
 口下手な性格が災いした。
 もしも自分が口の上手い男なら、上手い言葉のひとつでも直ぐに選んで、きれいに水に流すような軽い言葉を口に乗せただろう。
「あんた、馬鹿だねー。こういうときは笑って冗談に誤魔化して流しときゃいいんだ」
 心中を見透かしたのか、少年はくしゃりと眉を寄せ、独り言のように小さな声で囁いた。
「……じゃないと付け込んじゃうよ」
「それは、困る」
「ははっ、即答かよ!」
 尖らせた唇を緩ませて、少年が愉快そうにからりと笑った。その顔に偽りのない笑顔が戻ったことに安堵しながらも、智博は表情を崩さずに続ける。
「俺は元々ゲイじゃないし――」
 そんなの俺もだよ、と少年は不平そうな顔をして口を挟んだが、智博は敢えてそれを退けた。
「――それに婚約者もいるから」
「あー、それじゃあこんなことバレたら大変だね。婚約破棄になっちゃう?」
 そりゃあ困るな大事だ、と呑気に頷きながら、少年は身体を起こして床に散らかした衣類を掻き集めはじめた。やっと服を着るつもりになってくれたらしい。
「婚約破棄になるかならないかはともかく、俺は、君とは付き合えないよ。……その、酒の勢いがあったとはいえ初対面の君に手を出してしまったことは、申し訳ないと思うけど」
「――ほんとに馬鹿だねえ、白井さん。そんなことまで教えちゃって」
 ふいを突くように呼ばれた自分の名前に驚いて顔を上げる。衣服を身に着けていた少年は、最後に残したジーンズを引き寄せて、ポケットを探った。
「どうして、名前……」
 やがてそこから引き出されたものに目を疑う。――名刺だ。
「婚約者にバラすよ。……って俺が脅迫したらどうしようとか、考えないの?」
 白井智博。そこにあるのは自分の名前で、更には会社名、電話番号、所属部署、携帯番号までもが記されている。微笑みすら見せながら少年が手にしたそれを見た瞬間、ぞっと背中が冷えた気がした。
「脅迫……」
 その瞬間、脳裏に浮かんだ猫にいたぶられる鼠のイメージは、あながち間違っていない気がする。けれども智博の予想に反して、少年は小さく笑うと、指先に摘んだそれを、きれいに裂いた。
「それなら話は早いんだけどね。しないから大丈夫。そんな顔しないでよ」
 名刺は、あっという間に少年の手によって細かく切り裂かれてしまう。最終的に丸めたそれを、近くにあったダストボックスに投げてしまうと、彼はベッドから降りてジーンズを履いた。
「割り勘でいい?」
「え? ……あ?」
 財布を開きながら告げた言葉が、ホテル代を指していることを理解して、智博はゆっくりと首を振った。どうにもこの話題の転換のテンポについていけない。
「そんなのは……」
「いらないとか言わないでよ。それじゃあフェアじゃない。……最後でも、一回だけでも、対等でいさせてよ」
 今まで人のペースなどお構いなしのように喋り立ててくれたくせに、最後だけ、神妙な顔で呟いたりするから性質が悪い。自分に非があるのは明らかなのに、そんな顔をしてそんなことを言われれば、頑固に断ることもできなかった。
 やがて彼が財布から取り出した数枚の紙幣を枕元に置き、「じゃあね」と手を振って部屋を出て行くまで、結局智博は何の言葉もかけてやることができなかった。
 ――どんなに、冷たい人間だと思われただろう。どんなに酷い男だと、思われただろう。
 彼がもしも女性だったなら、こんなに綺麗に引いてはくれなかっただろう。張り手のひとつでも食らっていたかもしれないし、そもそも言葉もなく見送っている場合ではない。――いや、そもそもこういった事態に、性別は関係あるのだろうか。やはり自分は、彼に何か、言葉をかけてやるべきではなかったのだろうか。
 閉まっていったドアを見つめると、苦い思いが胸から競り上がってくる。自己嫌悪という名前の感情を無理矢理振り切り、自分もホテルから出る支度をしようと立ち上がった瞬間、足の裏が何かを踏みつけた。
「……学生証、か?」
 ぺらりとした薄い感触のそれは、当然自分のものではないし、元からここにあったとは考え難い。ということは、彼の落とし物なのだろう。
 拾い上げたそれは、やはり彼の身分を証明するカードだった。学生証を所持しているということは、彼は大学生か専門学生なのかもしれない。気付かないうちに落としていったなら気の毒だ。どうにかして届けてやらなければ彼も困るだろうし、住所が書かれているなら、郵送でもしてやるべきだろう。
 どちらにしろ、面倒ごとをまたひとつ背負い込んでしまったのかもしれない。軽い溜め息を吐きながら、智博は拾い上げたそれに視線を遣った。藤倉和真という名前が記されている。初めて知ったその名前にどことなく感慨深くなった。そう言えば、一度も、名前を呼ばなかった。――余りにも驚くことが多すぎて、彼の名前を知ろうとも思わなかった。
 苦いような思いを噛み締めながら、流した視線の先、名前の横に貼り付けられている顔写真と、学校名を、まじまじと見比べてしまう。写真は、確かに彼のものだ。さっきまで自分のすぐ隣で無邪気に笑っていた、あの男のものだった。
「――高校生?」
 そこに記されているのは、大学名ではなく、高校名だった。ぼんやりと聞き覚えのある高校の、三年生。生年月日から計算しても、何度写真を確認しても、彼は彼で、高校生は高校生だ。
 とんでもないことになった。若いだろうとは思っていたが、まさか高校生だとは思わなかった。そんな年齢の少年に酒を飲ませることも、通常の自分なら考えられない行動だ。しかも、その上肉体関係を迫るなんて。
 ――最後でも、一回だけでも、対等でいさせてよ。
 小さな背中と、呟いた言葉が、なぜか切なくリフレインする。
 凄まじい自己嫌悪の渦に沈み込みながら、智博は痛みを訴える額を押さえた。



 その週の週末は、とにかく悩み抜いて終わった。久しぶりに鬱屈な日曜日を迎え、月曜日になっても憂鬱な気分から抜け切れず、精神的によろけながらも出社した智博の鞄の中には、未だにあの学生証が収まったままだ。
「……おい智博、お前どっか体調でも悪いのか?」
「え?」
「朝から気になってたんだけどな、顔色がすげえことになってる。さっきからずっと、口の形がへの字だし、俺が呼んでも返事もしやがらねえし」
 ふいに顔を顰めた同僚の表情に、思わず掌で口元を覆ってしまう。ぼんやりとしている自覚はあったが、今の今まで、目の前で定食を突付いている同僚から呼びかけられていたことにも気付けなかった。
「……すまない」
 それほど気が抜かれていたのだろうかと苦笑して、素直に頭を下げる。
「謝ることじゃないけどさ。それ、いらないんならもらうぞ」
 返事を返す前に、智博の膳からは漬物皿が消えていた。目の前の同僚が皿ごと奪っていってしまったのだ。
「……保坂」
「んだよお前いっつも残してんだろいいじゃねえか」
 散々呼び続けていたらしい彼の用事が漬物かと思うと情けないような気分になったが、これもいつものことだ。
 そう、全て、いつものことだ。――いつものように誘われて、自分はこの保坂という同僚と共に社員食堂に向かったのだろう。全てが憶測に等しいのは、昼休みに突入したと同時に一気に気が抜けて、定食を頼んで席についた記憶がすっかりないからだ。
「真面目な話、ちょっとぼんやりしすぎてないか」
「……そうかな」
「そうだよ」
「まだ仕事のミスはないから平気だろう」
「そういう話をしてんじゃねーっつの」
 保坂は大学の同期ということもあって、昼食や飲みに誘われることが度々ある。比較的、親しい友人と呼んでもいいはずだった。
「また課長に無理矢理飲まされたのか? お前んとこの課長、酒好きの上に飲ませたがりだからなあ。胃薬ならあるぞ」
「いや、二日酔いじゃないから。それに課長に誘われたのは、一昨日の話だし」
 不器用な自分とは違って、保坂は細かいところにまで気を配る男だ。見えすぎる視界を持つ保坂は、ややお節介が度を過ぎることもあるが、基本的には善人である。そんな保坂だからこそ、人付き合いの下手な自分とも付き合いが続いているのだろう。
「それでな、お前んとこに、川崎恵理子って子がいるだろう」
「川崎さん?」
 漬物皿を空にしながら保坂が口にしたのは、二年前に入社してきた後輩の名前だ。入社直後は自分が面倒を見てやる立場にいたが、今ではそう干渉することもない。どちらかといえば大人しい女性の上、一度教えた仕事はきっちりとこなしてくれるからだ。
「ああ、川崎さんがどうかしたか?」
「いや、彼女最近、ちょっと色々あったみたいでな。万が一仕事中に気を抜いてミスでもするようなことがあったら、お前がフォローしてやってくれ」
 保坂がこういう話をするとき、対象となる女性に下心があるわけでも、ましてや恋心を抱いているわけでもない。彼はただの親切心だけで動いているのだ。
「……また何か相談をされたのか?」
「相談つうか、気晴らしに付き合っただけだよ。実は川崎さん、一ヶ月くらい前に辞表を出そうとしててさ」
「辞表を?」
 寝耳に水だ。川崎が退社するという話は噂にもなっていない。目を見開いた智博に、保坂は苦笑を噛み殺して唇に指を当てた。
 面倒見がよく、世話好きのする保坂は、所属を超えての相談をよく受けている。保坂自身が人事課に机を置いており、ある程度は社員の事情を知っていることも、もちろん理由に数えられるのだろう。
 そして相談を受けた場合、保坂は、実際に親身になって世話を焼くのだ。相談相手と同じ部署にいる知り合いにそっとフォローを頼んだり、或いは直接自分が手を差し出したりもする。相手が女性であれ男性であれ、保坂は同じ対処をするはずだ。
「まあ、そのときはちょっと先走ってる感があったから、俺が止めておいたんだ。もう少しじっくり考えたほうがいいだろうと思って」
「それで? 彼女は会社、辞める気なのか」
「うーん……色々あってな。とりあえず今は、あのとき辞表を出さなくてよかった、っていう方向にはなってる」
「そうか……よかった。お前も知ってると思うけど、今彼女に抜けられると、うちは辛いところがあるからな」
 ただでさえキツキツの人数で仕事を回している今、有能な後輩に抜けられては堪らない。心底安心したように呟いた智博とは反対に、保坂は憂鬱な溜め息を落とした。
「だが問題が片付いたかっていうと、そうでもなくてな。特に彼女が営業部に出向くことがあれば、気を付けてやってくれ」
「営業? どうして」
「すまん。俺が話せるのは、ここまでだ」
 保坂は言うなり、深々と頭を下げた。
 他人のプライベートに関わることを、口外できるのはこれで限界、という意味なのだろう。
「……判った。できるかぎり、俺も注意して彼女を見ておくよ」
 ――他人のために頭を下げれる男が、どれほどいるだろう。
 最大限の好意で頷いた智博に、保坂の顔が明るくなる。
 ただでさえ世話になっている保坂に頭を下げられれば、智博には頷く他に術もないのだ。
「俺がどれだけ川崎さんの役に立つかは、判らないけどな」
「本当に助かるよ。なんだかんだ言って、お前が一番信頼できるからな。川崎さんと同じとこにお前がいてくれて、本当に助かった!」
 全く調子がいい、と思いながらも、自然と笑ってしまった。
 彼の気さくな口調や、それでいて柔らかい声音などは、あの少年と似通っているところがある。自分と丁度、対極を為すかのようだ。正反対だからこそ、この友人を好ましく思うのかもしれない。――だからこそ、あの少年のことが、今でも気がかりなのかもしれない。
「それからお前の話だけど、やっぱ顔色悪いぞ。胃薬飲んどくか? 頭痛薬もあるけど」
「俺の話はもういいよ……」
 心配してくれるのは有り難いが、まさか見知らずの少年と寝てしまったのを気に病んでいるなどと、ぺらぺらと話せるわけがない。だが何かに思い悩んでいることは筒抜けのようで、保坂は眉間に皺を寄せた。
「なんか行き詰まってることがあるんなら、とっととケリ着けちまえよ。俺にできることなら、手ぇ貸してやったっていいんだから」
「どうかなあ……」
 助けてもらえるものなら助けてほしい。
 まだ持ち主の元に返せていない学生証の行方を、例えばこの友人に託すことができるなら。この胸の蟠り、違和感と呼ぶには切ないものを、全て、奪い去ってもらえるなら。
「……やっぱり、こればっかりは頼れないかな」
 保坂は、ひどく不審そうな顔をした。



  

20051108