黒木蘭という名のオペラ歌手がいた。
それが本名なのか、それとも芸名みたいなものなのか僕には判らない。ただ、クロの姉という女が、そう名前を教えてくれた。
クロの歌は滅茶苦茶で、音程が取れているのかいないのかも判らなかったけれど、声だけは綺麗だった。ただ、ひどい音痴ではあるのだろう。母親の血は受け継がなかったらしい。
そう、母親の血を、何故か彼は少しも受け継がなかった。
クロは、黒木充は、彼の父親に酷似した少年だったと、彼女は言った。
春休み中、沙由紀の三回忌のために康行は帰省した。そんなに遠い場所じゃない。帰ろうと思えばいつでも帰れる距離で、どうせなら一緒に帰ろうと誘われたけれど、僕はどうしてか頷けなかった。思い出に浸るのもいい。愛した彼女の面影を懐かしんで泣くのもいい。だけど、僕は知っていた。僕が今為すべきことはそれじゃない。沙由紀を想って泣くことじゃない。
沙由紀に愛された思い出を胸に、二度と帰ってこないクロを待ち続けることだけが、僕の幸せの全てだと、知っていたからだ。
短い春休みはあっという間に終わり、無事に新学期を迎えた。久しぶりに顔を会わせた康行のことを、僕はちゃんと覚えていた。
「オペラ歌手のことって誰に訊いたらいい?」
お互い進級できていたことを喜びながら教室に向かう最中、僕が投げた質問に、康行は怪訝に眉を寄せる。
「はぁ?」
「だからオペラ歌手」
「なんで?」
「音楽好きの人間って言っても普通のポピュラーなやつじゃないもんな。難しいよな、オペラ歌手に詳しい奴とか」
康行の「なんで」に答える言葉を僕は持たなかったので、独り言みたいに呟く。
「まだ生きてんの? 昔の歌手?」
「生きてる。――多分」
「なんて名前?」
「黒木蘭」
告げても、康行は首を傾げていた。知らないんだろう。当然だ。彼も僕も、一般的な歌しか知らない。
「軽音――に訊いても意味ないよな。音研か、吹奏楽部か。その辺の詳しそうなやつにあたってみる」
康行の人脈を頼りにすることにして、僕は「頼む」と素直に頭を下げた。
なんでオペラ歌手のことなんて知りたがるんだと、康行はやっぱり怪訝な顔をしたけれど、僕はそれにも返す言葉を持たなかった。
繋がっている。
クロに、繋がっている。
僕が一枚のMDを手に出来たのは、それから三日後のことだった。「黒木蘭-東京公演-2001」とラベルの貼られたMDは、康行経由で僕の手に渡ったものだ。彼の行動の早さに感心したのはもちろんのこと、「そんなに苦労はしなかった」と康行が言ったことにも僕は驚いていた。ほんの少し、興味がある人間であれば誰しも黒木蘭の名前に聞き覚えがあるのだと言う。彼女の歌が納まった音源を手にするには多少苦労したとはいえ、今現在、その世界で日本を代表する歌手と言えば、まず彼女の名前が挙がるらしい。
夫、娘、息子の四人家族。義理の娘である岡崎裕美、彼女は多分、黒木蘭のマネージャーを勤めているのだろう。血が繋がっていないにも関わらず、親子仲は良いらしい、というのが彼女に関する表面的な噂だった。
それから後は、僕だけが知る真実。
クロは、黒木充という少年は、血が繋がっているが故に愛されなかった。――何よりも誰よりも愛されたが故に愛されなかったのだと、裕美は言った。
胎教に良さそうな曲ばかり入っているMDを片手に、アパートの階段を駆け登る。丁度、来週までに提出しなければならない課題があるから、バックグラウンドには丁度いいはずだ。ただ眠くならないことを祈る。
クロの母親の声というものをいまいち想像し難くて、掌に載せたMDを眺めながら階段を昇り切ったそのとき、僕の視界に長身の影が飛び込んできた。それは、じっと睨むように僕の部屋の扉を見つめている。長い前髪に横顔が隠れて表情は良く見えない。けれど、引き結んだ唇が、どこか寂しそうに思えた。
知らない制服を着て、よく知った顔をして佇むその人影に、僕は言葉を失った。クロ。呼びかけたくて、なのに喉に絡まる声が言葉にならない。家出したペットを見つけたときの気分はこんな感じだろうか。冷静になろうとする思考が考える。指が震えた。
言葉もなく立ち竦む僕の姿を、視線だけ流したクロの目が捕える。重なり合った視線に、僕が何か言いかけるよりも早くクロの目が驚愕に大きく見開かれた。何を驚くことがあるだろう、ここは僕の家なのに。
動けない僕を余所に、クロは、
「――すみません」
口早にそう告げて、まるで逃げるように身を屈めて僕の横を通り過ぎた。僕のことを視界に認めて、きゅっと唇を噛むところを、僕は見ていた。なのにクロは顔を俯かせてあっさりと背中を向ける。知らない人のように。――ならどうして、僕の部屋の前で、僕を待つみたいに、立っていたんだ。
「ちょっ……待てよ!」
引き止めるために振り絞った僕の声を無視して、クロは階段を駆け下りた。クロのくせに逃げ足だけは速い。呆然としている間に遠くへ行ってしまいそうなクロの頭を目掛け、僕は思いっきりMDケースを投げつける。
「イッ……」
盛大な音を立てて命中したMDは地面に転がり、クロは呻きながら頭を押え、しゃがみ込んだ。丁度角が中ったのかもしれない。座り込んだクロの足元に転がるMDは、そういえば借り物だったと頭の片隅で思い出す。
どうして逃げるんだよ、喉まで出かかった声が、だけどまだ言葉にはならない。とにかく逃がさないようにクロの前に立ち塞がると、彼は涙に滲んだ目で僕を見上げた。痛みのせいで浮かんだ涙か、それとも別の理由で泣いているのかは、判らなかった。
「ごめんなさ……お、おれっ」
何を言うべきかと迷っていると、クロは居心地悪そうに身体を竦め、地面に視線を落とした。
「おれ別にあやしいひととかじゃなくて、悪いことしようとしてたわけじゃなくて、そりゃあんなふうにずっと部屋の前にいたら確かにあやしいんですけど、だけどそういうのじゃなくてっ……」
クロは早口で一気に捲くし立てて、それから言葉に迷うように黙り込んだ。
僕の視線からはクロのつむじしか見えない。けれど震えている肩から、彼が傷付いて、泣いていることが判った。
無性に泣きたくなった。
愚直なまでに真っ直ぐで一途で何も疑わないクロは、知らないのだ。
僕がクロのことをちゃんと覚えていて、もうこんなに忘れられなくなっていることをクロは知らなくて、知らないまま、僕に会いに来たのだ。
「……何しに来たの?」
「ご、ごめんなさい……」
忘れられていると思い込んだまま、僕に会いに来たクロは、誰何されることを恐れて、傷付いて、去っていこうとした。おまえ誰、なんて言われたら、クロでなくても傷付くに決まっている。だからこその弁解が幼くて、拙くて、僕は泣けてくる。――悪いことってなんだよ。
「……おまえほんとばか……」
傷付くだろう。もしも僕が、おまえのことを本当に忘れていたら。おまえは、傷付くだけだろう。なのに、どうして、会いにきたりなんかしたんだ。
声にならない言葉は涙になって流れた。クロは馬鹿で、愚かで、哀れで、なのに
「……泣いてんなよ、ばか」
「……はい」
なのに愛しくて愛したくて。
僕は、どうやって伝えたら良いだろう。忘れたくなくて、だけど自分が信用できなくて、忘れることを恐れた日々、クロの名前だけを何度も呼んだ。何度も綴った。その切なさを、どうやって伝えたらいいだろう。
地面に滑り落ちた涙に驚いたようにクロが顔を上げる。その顔も涙に濡れていた。汚い顔だ。あの夜みたいに、出会ったあの夜みたいに泣き濡れてぐしゃぐしゃになった、汚い顔。
「おまえを忘れたくなんかないんだ」
――おれのことも忘れるの
そう尋ねられたとき、僕は、何と答えたかったんだろう。
本当は、
「忘れたくなんか、なかったんだ」
忘れたことなんてなかった。覚えている。僕は、クロを覚えている。過ごした時間もかわした言葉も、全部覚えている。クロ、おまえにも判るかな。それが、こんなにもうれしいことを。おまえなら、判ってくれるかな。
「――芳野さん?」
不安そうに覗いた目が、僅かな希望と期待を帯びて、けれどまだ信じ切れていない様子で恐々と僕を伺う。
相変わらず長い前髪が邪魔で、僕はしゃがみ込んでクロと同じ視線になると、指で前髪を払ってやった。濡れて光る目が露になる。
「……クロ、おかえり」
ずっと待っていたなんて優しいことは言ってやれないから、切なさで声を奪われそうになりながら無理矢理笑顔を作ると、クロは不器用に笑い返した。
喉をひくつかせて、懸命に嗚咽を堪えながら、「芳野さん、」と縋るように僕の名前を何度も呼ぶので、
「俺の名前ちゃんと覚えてたの?」
頭悪いくせに。からかうように言うと、クロは、今度こそ笑った。
「たからさん。芳野、寳さん」
合ってる?というように、クロはそっと僕の顔を伺った。読めなかった僕の名前を、帰ってから調べたのだろう。自信がないのか、とてつもなく控えめな言い方で、僕はまた笑ってしまう。
「そうだよ、クロ。……充?」
こんな愛しいものを、忘れられるわけがない。
「クロで、いいです。──おれは、ひとではないほうが、ずっと楽だから」
哀れなクロは、涙に塗れた顔で幸せそうに笑った。