犬を拾いました。彼の名前はクロ。
栗色の髪と同じ色の瞳をしている。
クロは、相変わらずへらへら笑う。あまりにも馬鹿みたいな顔で笑うので、僕はよく彼の頭を叩いた。殴られても笑っている。あんまり彼が懲りないので、付き合って僕も笑う。
――おれ、歳を取るごとに、父親に似てくるんだそうです。
――目が一番似てるって言って、あのひと、泣いてたから。
太陽に透ければ、いっそう茶色に見えて、吸い込まれそうになる。その目を、僕は嫌いじゃない。それを潰そうなんて思う人間がいること自体、俄かには信じられなかった。
――おれと母さんを捨ててどっか行っちゃった父さんに似てるって、母さんいつも泣いてたから。だからいいんです。
母親の名前が書かれたMDを見て、クロは嬉しそうに笑っていた。母親は、この声で、この歌声で、自分だけのために唄ってくれていたのだと誇らしげに笑った。
――母さんがおれを嫌うのは幸せだったころの記憶を捨て切れないから。おれもそうでした。母さんが俺をきらって、父さんの代わりに俺をきらって、それをずっと続けていれば、いつかまたおれのために歌ってくれるかもしれないって思って、
クロは学校が終わった後、大抵僕のアパートに寄るようになった。そして、やっぱり笑いながら自分のことを聞かせてくれた。彼が家族から離れ、母親から隔離した理由を聞いても、僕はもうクロのことを哀れだとは思わない。誰にも思わせたりはしない。
――でも終わったんだって気付いたから。母さんと、父さんと、おれの幸せは、もうとっくの昔に終わったから。おれも母さんも、別の幸せを探さないといけないんです
僕が愛している。一番に、クロのことを愛している。だからクロはもう哀れな犬なんかじゃない。そんなこと、誰にも思わせたりはしない。
僕はクロの前髪を切った。鋏を動かしている最中もクロが不安そうな顔をしているので、僕は何度も「好きだよ」と宥めた。
「……変な感じ」
「俺が好きだって言ってるんだからいいだろ」
久方ぶりにクリアになった視界に、クロは暫らく違和感を感じていたらしい。
「うん、でも、寳さんの顔はよく見える」
はにかむように笑って、そんなことを言うので、僕は「ああそうよかったね」と聞き流す振りをして、恥ずかしさとか照れ臭さに似た感情に耐えた。前髪という障害がなくなって、クロの目は真っ直ぐに僕を見る。僕も真っ直ぐに、クロの目を見る。それがこれほどまでに戸惑うことだとは思っていなかった。
「鬼太郎とか言われたりしなかったの?」
「しませんよ、今時。……でも時々は言われたかなあ」
「ほら見ろ。もっと早く切ればよかったのに」
ううん、と曖昧な返事を返して、クロは笑みを小さくしながら口を閉ざした。クロはいつも笑っているか、楽しそうに喋っているか、唄っているかのどれかで、けれど時折、ひどく静かな顔で何かを考えている。
「……何考えてんの」
そんな横顔は寂しそうに見えるから、僕は口付けを教えた。
「また馬鹿なこと考えてるんだろ」
露わになったばかりの目を、努めて真正面から見据えて、まだ馴染まない唇に触れる。
「会いたい?」
「……いいえ」
クロは笑って、背中に腕を伸ばした。彼は好んで僕に抱き付いてくるからキスよりも抱擁の方が上手い。
「――ちゃんと、さようならをしたから」
しがみ付く腕は、口付けの間、ずっと同じ位置にあった。クロは、幸せだった記憶に別れを告げて、僕の側にいる。だから僕は、クロを幸せにする義務があった。
「……あのさ、クロ」
「はい?」
クロに訊かなければならないことが幾つかある。下宿先のアパートからここに移ってくることに障害があるのかどうか。ここから学校に通うのは、少し辛い距離になるかもしれない。それに耐えれるかどうか。全てはクロ次第だ。
口付けて訊こう。
「寳さん?」
馬鹿みたいに愛しい声でクロが呼ぶ。あまりの愛しさに眩暈がした。
彼はもう鍵を落としても泣いたりはしない。僕が必ず出迎えることを知っている。
僕は。
もしもまた、愛しいひとをなくしても、何ひとつ忘れたりしない。
愛されたことを、愛したことを、忘れたりしない。
人でいたくないと笑う。
彼の名前はクロ。
栗色の髪と同じ色の、気が狂いそうなくらい綺麗な瞳をしている。