気が狂うほどに愛しい人と、幼い恋をしていた。
何年ぶりにか訪れた墓は、思ったよりも美しかった。きっと、家族の誰かが――例えば彼女の双子の兄が、こまめに訪れては掃除してやっているのだろう。
この下に、彼女が寂しく眠っているわけではないのだと思うと、少し、安心した。
土は、冷たくないだろうか。
「おまえ、いつもこの時期になると沙由紀のこと思い出してさあ――」
それとも、ときおり訪れる誰かの足音が、彼女の魂を少し暖めたりしているだろうか。
きっと、そのはずだと、わけもなく思った。
「そんで、泣いたり、苦しんだりして。また忘れて――次の年になったら、また思い出して」
彼女の墓の前にしゃがみ込み、線香を立てる僕の後ろで、康行は呟くように言った。
「そんなのの繰り返しだよ。ずっと。忘れてるんならずっと忘れてりゃいいのに、律儀に命日になったら思い出しやがって。そっちのが辛いだろ」
頼りなく揺れる線香の煙が空へと向かう。僕は手を合わせ、そっと瞼を下ろした。
三年前、僕は、気が狂うくらいに愛しい人と、恋をしていた。
幼い恋だったと今なら思う。事実、僕はあのとき、恋という熱病に浮かされて、周りのことなんかまともに見えていなかった。彼女の兄であり、僕の親友でもある康行がある日突然、沈痛な面持ちで発した言葉に、僕は簡単に我をなくした。
──どういうことだよ。
──……俺が訊きたいよ。
語気荒く詰め寄った僕に康行は顔を歪めて、泣くのを必死に堪えているような顔で、血を吐くようにして叫んだ。
──俺だって、俺の心臓をやりたいよ。それで沙由紀が助かるんなら、俺の心臓なんかあいつにやったっていいよ……!
康行の絶望は、また僕の絶望でもあった。手の打ちようがない病気があることを、僕は容易には信じられずにいた。
だけど沙由紀の身体が着実に病魔に蝕まれていると知ったとき、僕は彼女と一緒に死んでもいいとさえ思った。沙由紀が死んでしまったら、僕には生きていく理由がない。沙由紀と幸せになるために自分はいるのだと、根拠もなく信じた。幸せにしたかった。幸せになりたかった。
『幸せになりたかったね』
細い指が伸びて、僕の掌に落ちる。冷たい指。痩せた頬。無理をした笑顔。
死は容赦なく沙由紀に訪れた。
『忘れないでね』
容赦なく沙由紀を痩せ衰えさせた。
死が訪れても尚愛されたことを。
僕は、忘れた。
身体なんか要らない全部あげるから助けてください。彼女をあと少しだけ生き長らえさせてください。必ず幸せにするから。必ず僕が幸せにするから。
そうでなければ忘れさせてください。
そう願うほど、命を賭けた恋をするには、僕は幼すぎた。
愛したまま永遠を貫くには僕は弱過ぎる。だから、全部空っぽにして。誰も愛さないようにして、これ以上誰も心に入ってこないように。何も刻まないように。
沙由紀を愛したことだけで、終わらせてください。
僕は、僕の望みのままに。
記銘を放棄した。
――幸福だった。
「おまえが色んなこと忘れるようになったのって、沙由紀のせいなんだろ」
双子なのに、康行と沙由紀はちっとも似ていない。性格もまるで違う。沙由紀は、大抵静かに部屋の中で過ごすことを好んで、いつも本や映画を見ているような大人しい性格だった。
「沙由紀が忘れるなって言ったから、おまえ全部忘れることにしたんだろ」
対して康行は小柄なくせに中高と柔道部で活躍していて、いつもどこかを走り回っているような活動的な性格だった。僕と違って友人も殊更に多かったように思う。彼と知り合ったきっかけは、中学でクラスが同じだったこと。――僕はもう、色んなことを思い出している。
「……もう忘れないよ」
「今だけだよ」
僕が呟くように返した言葉に、康行はすぐに噛みついてきた。
「去年だってそうだった。この時期だけ、おまえ全部思い出して、俺の親友だったころのおまえに戻る。だけどまたすぐ忘れるんだ。おまえ、この三年間ずっとそうやってきてたじゃんか」
僕は、黙り込んだまま墓石を見つめていた。気が狂うくらいに好きだった女が静かに眠る。――忘れないで。その言葉を、守るために、破るために。沙由紀以外愛さないために、僕は出会った人々を、過ごした時間を、努めて忘れてきた。
「沙由紀はそんな意味で忘れるなって言ったんじゃないよ。おまえが誰も好きにならないように、自分のこと忘れるなって言ったんじゃない」
誰も大切にならなくていい。――沙由紀を愛した過去の事実だけが残っていれば、それでいい。
「沙由紀はおまえに幸せになってもらいたかったんだろ。おまえ縛るためにあんなこと言ったんじゃない。……そんなこともわかんねーのかよ」
「判ってるよ」
康行の声は段々掠れて、まるで啜り泣くようなものになる。
「だけど俺は、沙由紀だけ好きでいたかったんだ」
もう出会わない。帰ってこない。幸せになれない。
「……沙由紀以外、誰も大切にしたくなかったんだ」
僕は、沙由紀を忘れるために、すべてを忘れたんじゃない。
沙由紀だけを愛していられるように、沙由紀以外のものを愛さないために、すべてを忘れて、落として、気付かない振りをしていた。
「沙由紀と、幸せになりたかったんだ」
沙由紀。
本当に好きだった。自分の命よりも愛していた。
「そんなこと、判ってるよ……」
長い間しゃがみ込んでいたせいで、関節辺りが少し痛む。それでも僕は立ち上がり、漸く親友を振り返った。涙の跡が頬に見える。僕が背を向けている間中、泣いていたのかもしれない。康行の涙を見つめながら、僕も少しだけ泣いた。涙を拭うつもりはない。この涙が地面に落ちて、沙由紀に届けばいい。
「忘れたくない人がいるんだ」
沙由紀。俺は、大事にしてもいいかな。おまえ以外の人間を、あの哀れな少年を。大事に思っても、いいかな。
「……そいつは、俺に忘れてもいいって言ったけど、忘れたくない。俺が忘れたくないんだ」
クロは、もう僕の元には帰ってこない。僕のことを好きだと言って、だけど忘れてくれていいと言って、去っていった。沙由紀と正反対の言葉を残して、消えていった。だからせめて、あの可哀想な存在を忘れたくはない。たったの一月、共に過ごしただけのあの犬を、記憶の中で大切にしてやりたい。
「――沙由紀は、許してくれるかな」
「おまえほんとに馬鹿じゃないの……」
いつも想っている。
「……訊くまでもないだろ」
涙の味のする笑顔を見せて、康行は告げた。それに僕も少しだけ笑い返す。やっぱり、少しだけ涙の味がした。
僕はもう、沙由紀に愛されたことを一分一秒だって忘れない。
いつも想っている。
僕は、あの可哀想なクロを、いつも愛している。