忘れないで、と言って死んだ女がいた。彼女の名前は沙由紀。
忘れてくださいと言って消えた犬がいた。彼の名前はクロ。
僕は生きている躯のような鈍い動きで指を携帯に滑らせる。液晶に名前を呼び出した。杜。杜康行。ほとんど唯一と言ってもいいくらいに親しい友人。
耳に宛てた携帯からコール音が響く。何度か繰り返された同じ音がふいに途切れて、聞こえてきたのはやけに驚いたような声だった。
『芳野? どうしたの、珍しいじゃんか』
僕はほんの少し泣きたくなって、そして笑う。薄情な僕に呆れず懲りず、付き合ってくれていた優しい康行。僕はおまえに、ひどい仕打ちを続けていたに違いないのに。
「康行、付き合ってくれる?」
杜が、電話の向こうで静かに息を呑んだ。
「墓参り。付き合ってよ、沙由紀の」
杜との出会いは中学一年の春だった。それからずっと僕たちは共に過ごしてきた、――あの日まで。僕たちは親友だった。
『――芳野?』
杜が、戸惑った声で僕の名を呼ぶのに、また泣けてきた。昔は、そんなふうに呼んだりはしなかった。僕の名前を、そんなふうに呼んだりするのは、全部僕のためだ。おまえとの思い出ごと消してしまった僕に、余計なことを背負わせないため。
「沙由紀の墓参り、付き合ってよ。康行」
彼女の名前は沙由紀。
杜沙由紀。
知らない女が僕の部屋を訪ねてきた。クロが消えてから、一ヶ月ほど経ったころだったと思う。何故か僕の心は空っぽで、いつクロのことを忘却するか判らない恐怖感に似た思いと、それから諦めに似た思いとで、ひどく疲労していた。余計なことを考えれば、その先からクロが消えていく。あの哀れな目も哀れな声も彼の言葉も全部、僕の部屋から消えていく。
そんな気がしていた。
「――を、知りませんか」
スーツを綺麗に着こなした凛々しい女が訪れたのは、大学から帰宅してすぐのことで、扉を開けるまでだらしなくベッドに寝そべっていた僕は彼女のはきはきとした喋り方に慌てて背筋を正す。
「連絡もなく申し訳ありません。事前に連絡をしようにも、住所と名前以外は判らないというものですから。……芳野さんと仰る方は貴方でよろしいのでしょうか」
「はあ。多分俺だと思います」
女は、丁寧な仕草で名刺を一枚くれた。何かの営業かと一瞬考える。アシスタント兼マネージャーだと書いてあった。何の仕事なのかよくわからない。住所は、ここから随分と離れた場所――つまり、他県のものだった。
「ここに、一月ほどお世話になっていたと弟から聞いたので、お礼に参ったのですが」
「……弟?」
「ええ、背の高い、少し釣り目気味の男の子です。――岡崎充を、ご存知ではありませんか?」
「……おかざき、……」
みつる。そんな名前の男は知らない。だけど知っている。クロのことなら――知っている。岡崎充という男とクロは上手く結びつかず、けれど特徴だけなら一致していた。
僕は再び名刺に視線を落とす。岡崎裕美。それが彼女の名前らしかった。
「名前は、知りません。……彼は僕に名乗らなかったので」
クロの姉だというその女を部屋に通すべきか迷って、結局玄関での立ち話を選ぶ。部屋の奥は見るに耐えないくらい散らかっていた。さすがに見ず知らずの女にそんな場を晒せるほど、僕は恥知らずではない。
「……クロ、としか」
「クロ?」
女は、少し考えるように黙り込んで目を伏せる。きりりと引き締まった唇が、何故か痛ましげな表情に見えた。
「……黒木というんです」
それからややあって、彼女は唇から押し出すように呟いた。
「彼の苗字は、本当は黒木というんです。私の父と彼の母親が再婚するまで、彼は黒木充という名前でした」
「……ああ、」
そうか、だからか。
不出来なピースがかちりと音を立てて、嵌っていく。彼が誰なのか、何者なのか。
黒木充。それがクロの名前だった。だからあんな馬鹿げた名前で、クロなんて名乗ったりしたのか。あれは偽名なんかじゃなかった。だけど、正しい名前でもない。彼は結局、僕に何も教えてくれなかった。正しいことを何ひとつ教えず、嘘ばかり残して去って行った。何が嘘で何が正しかったのか、判らなくなる。
「……十五歳だって言っていました」
「ええ、弟は来月から高校生です」
彼女の言葉に、僕は内心驚愕した。十五であれば、中学生でも不思議ではなかったかと奇妙な気持ちになる。それでも僕は、クロのことを精々高校生くらいかと思い込んでいた。
「ここに充が来たのは高校受験のためで、下宿先の下見も兼ねていたので、二、三日で向こうに帰ってくる予定だったんです。それが、何週間経っても帰って来ないし、泊まるはずだったホテルにも宿泊記録がないというから心配していたんですが、先月突然帰ってきて――行方不明だった間、芳野さんという方にお世話になっていたと」
クロが十五歳なのは本当のことだったらしい。女は徐に僕に向かって、深々と頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました。貴方にお世話になっていなければ、今ごろあの子はどうなっていたか」
「クロは……」
クロには心配をしてくれる家族がいた。なら、
「クロは、どうして帰りたがらなかったんですか」
ならどうして、「かえれない」とクロは言ったのだろう。
あんなに哀れな目をして、僕が差し出した汚い手を取ったのだろう。
「俺が初めてあいつに会ったとき、あいつは怪我をしていました。その日のうちに付けられたものじゃなかった。全部、痣になったりかさぶたになったりしていたけど」
特に、目の怪我が酷かったように思う。まるでそこだけを狙われたように残されていた青い痣。クロは一度も痛いとは言わなかった。だけど目を覆うように、まるで隠すみたいにして前髪を伸ばしていた。
「私の……あの子の母親は、」
彼女は悲しそうな顔をした。クロを哀れんでいるような声だった。
「もう、随分前から、壊れているんです」
凛々しかった眼差しが歪んで、居たたまれないように地面に落ちる。
「私や私の父は、もっと早くあの子を逃がしてあげるべきでした。守ってあげるべきでした。なのにあの子には、それすら辛かったのでしょう。――私たちはあの子を独りにするつもりなんてなかったのに」
そう言って彼女は俯いたまま、声を詰まらせた。
黒木蘭という名のオペラ歌手がいた。
それがクロの母親だった。
クロの姉だという女を通せなかったのは部屋が散らかっていたからで、僕の部屋は、ある言葉を書き殴った紙で埋め尽くされていた。
クロ。
呪文のように毎日毎日書き殴ったその名前が、隙間なく埋め尽くされている。
忘れない、
こうしているうちは、僕はおまえのことを、忘れない。