根無し草、という言葉がある。
 それならばまさに彼のことだと僕は思う。クロはよりどころを持たない。普通なら、何かを頼りにしたり支えにしていたりするものじゃないかと思うのに、クロは、一切のものに執着していないように見えた。何もクロを留めない。同じ場所に留めておくことができない。なぜかそんな気がした。どうしてだろう、と僕は再び考える。クロが欲しがるもの。鍵。それを使って開く扉。その中の部屋。だけどそれは、特定された"もの"ではないのだろう。――多分。
「ねえもう帰りなよ」
 帰れるなら、開いて出迎えてくれる場所なら、クロにとってはどこでも同じ。例えば彼の本当の家であろうと、僕の薄汚いアパートであろうと。何でも同じなのだろう。
「もういい加減ウチの人心配してんじゃないの。帰れよ。帰る場所あるんなら――出てけよ」
 クロは僕に家のことを話さなかった。だから僕は未だに彼がどこに住んでいたかも、どんな家庭で育ったのかも知らない。あまり重要ではないことだと思う。だけどもし、彼に家族というものが健在しているのなら、連絡ひとつ入れていないクロのことを心配しているんじゃないだろうか。
「……はい」
 クロは、
 ――クロはやっぱり、寂しそうに笑っていた。
 そんな顔をするんならクロ、どうしておまえは、僕がやった鍵を、
 鍵を、喜んでくれなかった。

 クロ 4

 一度だけ、たったの一度だけ、クロが言った。
 その日、あまりにも長い時間クロが窓の外から空を見上げていたので、僕が軽くからかったとき、一度だけ彼は自分の家族のことを口にした。
「クロはさあ、南国生まれ?」
「――は?」
 僕を振り返ってぽかんと口を開けたクロの顔が間抜けだったので、僕は遠慮なく笑う。
「さっきから外ばっかり見てるから。雪、そんなに珍しいのかと思って」
「……いえ、」
 僕が笑うと、クロも少しだけ笑う。いつもなら馬鹿みたいにへらへらと笑うくせに、長い前髪を揺らしながら、クロは時折ひどく静かに笑った。
「そうじゃなくて、おれが生まれた日、ものすごい雪の日だったって話を――おもいだして、」
 昨晩から降り続けた雪に、もうあたりは一面真っ白な雪景色で、外へ出るならマフラーと手袋、コートは手放せないだろう。わざわざそんな寒い思いをすることはないと、小さなコタツの中に潜り込んだまま、僕は窓のそばに佇むクロを見上げた。
「クロ冬生まれ?」
 やっぱり嘘吐きだ。
「五月生まれだって言ってたくせに」
「うわ。覚えてたんですか」
 クロは情けない顔をして、誤魔化すみたいにへらへら笑った。へらへら笑いながら、適当なことばかりを言っている。僕の予想は中っていた。この話も適当に聞き流した方がいいのかもしれない。
「……うん。みたい」
 そして僕は、もう随分前に聞いたクロのうそをきちんと覚えている自分に少しだけ驚いた。あれを聞いたのは、もう一月くらい前になる。物忘れの酷さで言えば世界一だろうと胸を張れていたのに、少しずつ脳細胞が活発化しているのだろうか。――まさか。
「それで?」
 話の続きを促すと、弾かれたように顔を上げたクロが、ええと、と続く言葉を考えるように呟いてから口を開いた。
「それで、――道が渋滞してて。父親がギリギリ間に合わなかったんです、出産に。それを、ずっとあとになっても母親に言われて、からかわれてたなあって話を、……思い出して、ました」
 話が終わりに近付くにつれ、声が小さくなった。見るとクロは俯いて、僅かにだけ唇を歪めて、笑ったようだった。
「すみません」
「……なんで?」
「あまりおもしろくない話でした」
「そうでもないよ」
 どうしてまたそこで謝るのだろうと、僕は半分くらい呆れて、半分はまた哀れになった。
「俺はね昔のことぜんぜん覚えてないの。何回も何回も親から聞いた昔話でも覚えらんないの。だから俺がクロに話せることはあんまりなくてね、」 
 暖房器具といえばコタツくらいしかないこの部屋じゃ、クロの身体は冷え切っているはずで、なのにただひたすら窓の外を見つめ続けるクロは何を考えていたんだろう。もう多分、指先すら冷たくなっているのに。クロはまだ、窓の前から動かない。
「だからいいよ。好きなこと話せば? てかクロが話さないと間が持たないだろー」
 努めて僕が適当に言うと、クロは長い間を空けて、「はい、」とはにかむように頷いた。
 あとにも先にも、これきりだった。
 クロが自分のことを語ったのは――偽りなく語ったのは、このときだけのような気がしていた。

 

 そう、予想に反してクロは鍵を喜ばなかった。僕はそのことを少しだけ不満に思う。おまえのためになんて押しつけがましい台詞は死んだって言う気にはなれないけれど、だけど、すこしくらい喜んだっていいじゃないか。おまえが帰るために作った鍵を、どうしておまえは喜ばないんだ。
「芳野さん」
 紐付きの鍵を握って、クロは嗚咽する。今度はなくすなよ、そう軽口を投げてやってから渡した鍵を握り込んで、クロはそのままぺたりと床に座り込むと、ごめんなさい、とひたすらに僕に詫びた。
 どうして謝るんだ、――泣いたりするんだと不思議になる。どうして。
 クロの長い前髪の隙間から、少しだけ、ほんの少しだけ潤んだ瞳が見えた。邪魔だと、そのとき初めて心から思った。
「よしのさん」
 僕の指先がクロの前髪を掻き上げて、濡れた睫毛をしっかりと見据えると、クロはどこか怯えたような声で呼んだ。だけどクロはそれきり何も言わず、綺麗な茶色の目玉で、僕をじっと見つめた。
「邪魔」
 クロの感情を僕から遠のけてしまう前髪が邪魔で邪魔で仕方がない。涙なんか隠さなくていいと、僕は思う。どうして泣いているのかはさっぱり判らないけれど、涙は隠すものじゃない。
 前髪を掻き上げて後ろへと撫でつけてやると、クロの目がやっと晒されて、ああ、なくなった、と僕は思った。
 左目のすぐ隣にあった、青く変色していた痣が消えている。
 まるで目を狙うみたいに残されていた痣のことを覚えていた自分に、僕は驚いた。
「泣くなよ」
 指先が自然に動いて、痣があった部分をそっと撫でた。
「よしの、さん、」
 クロが嗚咽を堪えるように一度喉を引き攣らせて、それから静かに口を開いた。
 なに、と短く問うと、クロは茶色い瞳で僕を見上げた。
「――芳野さん。過去がないってどんな感じ、ですか」
 クロがその言葉を口にした瞬間、そしてそれが耳へ届いた瞬間、キリリと心臓が痛んだ。妙な痛みだ。まるでずっとずっと深い場所に閉じ込めておいた傷が、潮風に晒されているような、そんな痛みがする。
「なんで? クロなんでそういうこと訊くの、」
「だって、」
 クロは俯いて口篭もり、何かを振り切るような勢いで再び顔を上げた。
「だって、なくなるのって恐くないんですか、何も思い出せなくなるのって恐くないんですか」
「そんな大袈裟なもんじゃないよ」
 忘れたってまた覚え直せばいいだけの話で、それが恐いの恐くないのという問題の前に、――ただ、面倒臭い。
「おれのこともわすれるの……」
 前に一度尋ねた問いと、全く同じことをクロは繰り返す。僕はあのとき、なんて答えたんだっけ。
「――多分ね」
 答えは変わらない。
 僕は忘れる。
「わすれないで」
 まるで唐突に強い声で、クロはねだった。だけど目はまだ潤んでいる。まだ、すがるみたいに泣いている。 
「芳野さん、おれのこと忘れないで。わすれないで」
「無理だよ」
 だって僕は忘れる。
 何もかもを忘れていく。
 そうやって生きてきた。
「――忘れないで」
 クロは執拗にそれだけを繰り返す。子どもみたいだ。――駄々を捏ねる子どもみたいだ、そう笑っていられればよかったのに。
 クロが繰り返す言葉に、なぜか心臓が嫌な跳ね方をした。
 ――忘れないで。
 そう言って白い手が
 伸びた、から。
「いい加減にしろよ」
 どうしてあの子の指はあんなに白かったのだろう、どうしてあんなに細かったのだろう。指先が震えて僕へと伸びた。忘れないでね。そう繰り返して言った。涙が出た。厭だ。もうこんな悲しい思いをするのは厭だ。思い出さないよ。思い出さないよ。――忘れないでね。
「おまえさっきからなんなの、忘れないで忘れないでって、しょうがないだろ。俺だって好きで忘れてるんじゃないんだから」
 違う、と、どこかで、誰かが囁いた。
 僕は好んで忘れている。
 努めて忘れている。
 そうじゃないと辛すぎる。
「おまえのことなんかすぐ忘れる。それが不満なら出てけよ」
 生きていくのは辛すぎる。
 心臓の痛みがやがて身体中に広がって、訳もなく激昂する。自分でも判らない苛立ちをクロにぶつけると、どこか呆然とした表情で、クロは僕を見つめていた。
「よしのさ、」
「出てけよ。俺のこと苛立たせるだけなら、出てけっ…」
 過去がないわけじゃない。僕にはちゃんと過去がある。
 忘れないでね。そう言った。そう言ったから――僕は忘れた。ごめんね。約束を。破ってごめんね。
「よしのさん、ごめんなさい、」
 僕の逆鱗に触れてしまったらしい、ということに気付いたクロが、焦ったような声を出して、僕の二の腕を掴んだ。ひどくやさしい力だったにも関わらず、なぜかそれがとても痛くて、僕はクロの手を思いきり振り払った。クロが傷付いた顔をした。それが見えたのに、判ったのに、僕はクロに返す言葉を思いつかない。
 ――苛々する。
 おまえのせいじゃない。そう一言でも言えればいい、それだけでいい、判っているのに。
 だけどクロは思い出させる。そんな気がした。僕が努めて忘れた、忘れてきたものたちを、思い出させる。
「……ねえもう帰りなよ」
 だから僕はその言葉を口にした。
 どこでもいいのならもう帰りなよ。
「もういい加減ウチの人心配してんじゃないの。帰れよ。帰る場所あるんなら――出てけよ」
 おまえは、おまえの場所に、
 おまえを傷付ける僕がいない場所に、帰りな。

 僕はそのままベッドに潜り込んで、クロの気配が消え去るのを背中で感じていた。
 クロに背を向けている間、僕は目を開けたまま、杜の言葉を思い出していた。
 ――もう三年も経ったんだよ。
 その言葉の意味を、ぼんやりと思い出してしまった。
 そうだ。もう三年も経った。
 三年も前に、僕は、何か忘れ物をしてきたらしい。
 ごめんね。約束を守らなくてごめんね。その約束はいたすぎるよ、俺には痛すぎるよ。想い続けるには辛かったよ。
 ごめんねと僕は繰り返し胸の中で呟いた。ごめんね。ごめんね。
 ――傷付けてごめんね。
 そんなことをつらつらと考えているうちに、いつの間にか浅い眠りに陥っていた僕が覚醒したとき、クロの気配は完全に消えていた。クロはいつも手ぶらで、何も持ってはいなくて、出て行くのなら簡単だ。それなのに僕が考え込んで、うっかり寝入ってしまうまでの――十分ほどの間、クロはずっとこの部屋にいた。その気配は確かに感じていた。
 もしかしたらクロは、僕が眠りに就くまで、何かを待っていたのかもしれない。
 僕の言葉を待っていたのかもしれない。
 そう思うと少しだけ鼻の奥が痛くなって、目を擦る。身体を起こすと、テーブルの上にメモ用紙が見えた。

 ごめんなさい芳野さん。あなたのことを好きになってしまいました。忘れてください。本当は忘れてほしくないけど、それがあなたにとって辛いことだと判ったから、おれはいられません。ごめんなさい。かぎありがとうございました。ありがとうございました。
 忘れてください。

 へたくそな文字の横に、行儀良く銀色の鍵が並んでいる。
 なんて馬鹿なやつだろう。メモ用紙を引き寄せて、破綻した文章を目で追いながら僕は笑った。忘れてください、なんてお願いを残して消えるヤツが、どこの世界にいるんだ。
 クロ。
 クロ。
 僕はその名前を何度も呼んだ。
 どうしてか涙が止まらなかった。
 僕はおまえを忘れる。
 哀れな目をした、かわいそうなおまえを、きっと忘れる。

 

 頷いて見せたとき、クロは、寂しそうに笑っていた。
 最後の最後まで、あの犬は哀れだった。

 

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ク ロ 4

 


20040225 Yusa Nazuna