「見飽きない?」
「ぜんぜん」
クロは笑って首を振った。
その指先には僕が与えてやった鍵が握られている。
何も面白いものはないだろうと、半ば呆れて溜息を吐いた。
クロは暇があれば鍵を見ている。暇がなくても鍵を見ている。クロが持っている鍵はたったひとつ。本来帰るべき家の鍵は持っていないのだろうかと思う。持ってないんだろう。もしもそんなもの持っていたら、クロはあんなに鍵を欲しがったりしない。
「見てて何が面白いの、そんなの」
「面白いですよ、色々」
色々って何、と首を傾げた僕に、クロは鍵を揺らして答えた。
「この鍵を使ったら、芳野さんの部屋の扉が開くこととか。そしたら芳野さんがいるんだろうなってこととか。いなくても、おれが中で待ってあげられるってこととか、色々」
考えていると楽しいですよと、クロは嬉しそうに言った。
こんな小さな部屋の鍵を、そんなに熱心に眺めてどうするんだと馬鹿にして笑ってやりかったけれど、鍵を眺めている横顔があまりにも不憫だったので止めておいた。そんな顔をするくらいならさっさと帰れば良いのにと思う。
クロは十五歳。だけど本当はもっと幼いのかもしれない。
アンバランスだと、なぜか僕は突然に思った。
「それはちょっとおかしいよ」
物忘れの激しい僕が、それでも何とか名前と顔を覚えている数少ない友人の杜(下の名前は覚えていない)が少し顔を顰めていた。そうかなあ、と僕はわざと、とぼけた振りをする。
「だって超不審人物じゃね?」
「うん」
「年齢と名前しか知らないんだろ、っていうかクロって」
「うん」
杜の言わんとするところは僕にも薄々判っていて、だけど、もうどうでもいいや、という自棄とは少し違う気持ちになっていることを、彼は多分判らない。
「ありえないよなあ。やっぱ偽名じゃないの」
「判ってんならなんで追い出さねえの」
「だって十五って言うんだよ。十五だよ十五。追い出せるわけねーだろ」
僕が十五だったとき、多分クロよりも、もっともっと馬鹿だった。もっともっと子供だった。クロはあれで案外しっかりしているところがあって、ふとしたときにひどく大人に似た顔をするものだから、多分彼は、僕が想像するよりも、ずっと大人に近いのだろうと思う。
「しかも馬鹿だし。俺が追い出したら生きていけないんじゃないのあいつ」
「だからって、」
だからって面倒見る必要なんかないことくらい、僕が一番良く知っている。知ってはいたのだけれど。
「だってさ」
僕は、杜の目を見ずに、呟くように言った。
「だって帰ったらクロが待ってんだよ。おかえりって言うんだよ」
それがどうしたと言わんばかりの目をして、杜は僕を見ているに違いがなかった。
だって。
だってクロが。
おかえりって言うんだ。
あいつはいつもふらふらしていて、行く宛てなんかないくせに、それでも散歩だと笑ってあちこちを歩き回っていて、何かを探すみたいに何かを見付けるみたいに出て行くけれど、必ず僕より先に帰ってきて。
おかえりって言うんだ。
まるでそれが自分の仕事みたいに、僕におかえりと言う、ただそれだけのために。
クロは鍵を、大切にしている。
哀しいくらい誠実に、大切にしている。
おまえには判らないよ、あいつを知らないおまえには、あいつの哀れさなんか判らないんだよというと、杜は拗ねてどこかへ行ってしまった。
「……何やってんの」
鉄製の階段をのんびり上がり、帰宅した僕の目に飛び込んできたのは、扉の前で蹲っていたクロの姿だった。
どうして中に上がらないんだろう、鍵の意味がない、そう考えたところでふと思いついた。
クロの微かな嗚咽がそれを決定的にした。
「なくしたの? 鍵」
「す、すみませ……っ」
ほら見たことか。クロは案の定鍵をなくした。鍵をなくして、扉の前でうずくまって僕の帰りを待っていた。
「どこでなくしたの?」
「わからな……」
その姿がまるで待たされることに慣れている子供のようで、無性に哀れになる。クロは結局たったの数日しか鍵を持たなかった。だって馬鹿だから仕方ない、だけどまた新しく鍵を作るのも面倒で、さてどうしようと考えているとクロがわんわん泣き出した。泣き出してごめんなさいごめんなさいと謝るので、いっそ怒るのも馬鹿らしくなる。そもそも怒ってなんていなかった。
「泣くなよ。怒ってないよ」
「で、でも、おれせっかくもらったのに、芳野さんからもらった鍵だったのに……」
クロは切れ切れに嗚咽した。
だっておまえは馬鹿なんだから仕方ないよ。
新しい鍵を作ったって、馬鹿なクロはきっとすぐそれをなくしてしまうに決まっている。だったら、鍵を与えなければ良いだけの話だと僕は気付く。名案だと思った。何度も何度も繰り返し鍵をなくされては堪らないし、幾ら馬鹿でも最初からないものをなくしたりはできないだろう。
「ごめんなさ……」
「いいよもう。怒ってないよ。早く上がれよ、寒いだろ」
でかいクロをやっとのことで立ち上がらせると、僕は苦労して彼を部屋の中に押し込んだ。このままじゃ僕は苛めっ子扱いされてしまう。泣くのは結構だが、近所の目も考えて欲しかった。
部屋に上がらせても尚、クロは泣き止まない。
「そんなに泣かなくていいだろ」
「だって、大切なのに、鍵がないと帰れない……ここに、帰れない、から」
そんなにデカく育ったって中身がガキのままならどうしようもない。
「芳野さんのとこに、帰れな……」
泣き方だけは一丁前に幼児みたいなクロを慰めるために、僕は栗色の頭を掻き混ぜた。
「怒ってないって言ってるだろ。判った、判った、もー俺が負けました」
クロがあんまり哀れに泣くので、僕は思わず笑ってしまう。
ああ、面倒臭い。――だけど仕方ない。
新しい鍵を作ったら、嫌がったって無理矢理にだって、ヒモを通して首からぶら下げさせよう。
「もうすぐだよな」
ノートと教科書を鞄に詰め込みながら、ある日、杜が独り言みたいに呟いた。答えを期待していないような響きが感じられたから、僕はあえて、何も返さなかった。
「早いよな、もう三年経つんだから」
そうか、と思う。
この友人との付き合いは、多分三年以上になるのだろう。そうぼんやりと思った。もう申し訳ないという感情すら浮かんでこない。絶望的に脳細胞が欠けている僕の記憶装置は、杜とどこで知り合ったのか、彼とどんな友情を築いてきたのか、そんなことも教えてはくれない。
「芳野、」
くぐもった声で杜が呼んだから、僕は隣の彼へ視線を向ける。冬の陽射しは案外痛くて、目に沁みた。
だから見えなかった。
「――もう三年も経ったんだよ」
言い聞かせるように言った彼がどんな顔をしていたのか、僕には見えなかった。
クロに鍵を作ってやることばかり、考えていた。