僕たちはいろんなものから逃げている。
だからたいせつなものを何度も通りすぎて落としていく。気付いたらいろんなものの名前を忘れているからその度適当に名付ける。
何から逃げているのだろう。彼と僕と。
僕たちはいろんなものから逃げている。
だからたいせつなものを何度も通りすぎて落としていく。気付いたらいろんなものの名前を忘れているからその度適当に名付ける。
何から逃げているのだろう。彼と僕と。
クロは僕の知らない歌をたくさん知っている。滅茶苦茶な音程で下手糞な歌を唄う。ただ声だけは案外いいのかもしれないと、僕は思った。
「それ何て歌?」
クロは今や家政婦みたいに、健気に僕に尽くしてくれている。それは当然のことで、クロが厚かましくも平気の顔をして無銭飲食と無銭宿泊をやって退けるような人間だったら、僕はとうの昔に彼を追い出していた。
「これも知らないですか」
洗濯物を干す手を止めて、クロはゆっくり首を傾げた。知らないよと短く答えたら、クロはどこか寂しそうに肩を落としていた。
「母親が唄うひとだったんです、だからおれ小さいときからけっこう色んな歌知ってて、でも友達はみんな知らなくて。そうかあ、大学生でも知らないのかあ……」
思うにその歌は年代なんて関係ない。クロが良く口にしている歌は、童謡とか、どこかのオペラ歌手が舞台の上で歌っているような、そんな響きがした。
「大学生とか関係ないだろー」
「でも大学生って色々知ってそうだから。頭良さそうで」
クロが言うダイガクセイという言葉の響きは、どこか奇妙に歪んでいて、妙にリアリティがなくて、おかしくなった。
「馬鹿でもなれるよ」
俺がなれてるくらいなんだから。そう冗談めかして告げると、クロは楽しそうに笑った。
クロは良く笑う。悲しそうな顔をするのと同じくらい、寂しそうな顔をするのと同じくらい良く笑っている。彼の感情はくるくる回る。
「そういえば歳幾つ」
「おれですか?」
おまえ以外に誰がいるんだよと内心で返して、僕は頷いた。
クロはへらりと笑った。
「じゅうごです」
笑ったその頬を、平手打ちしたくなる。
どこの世界にそんだけ成長した十五歳がいるんだ。顔を顰めた僕の心を読むように、クロは続けて言った。
「うそじゃないですよう。おれ五月生まれだから、もうじゅうごです、にんげんでいえば。だっておれ犬だから」
と、あんまり馬鹿っぽい喋り方で言うもんだから、――ああこいつやっぱり馬鹿だ見たまんまだったとしみじみ思ったことだけは良く覚えている。
「犬ってなに」
「だってあなた、おれのこと犬扱いしてるでしょ」
その言葉は正しくて、でも素直には頷けなくて、僕は黙り込む。クロは笑った。
「でもおれを人間扱いしてたら、ここにいさせてもらえてないから。それはそれでいいんです。犬でも猫でも鼠でもなんでも」
ドックフードは食べれませんけどねと付け足して、クロは再び洗濯物を干し始めた。クロは犬だけど犬じゃない。犬は洗濯物を干したりしない。
だけど僕が、心の半分で彼を人扱いしていないことで、彼の存在を許せていることをクロは知っていたのだろう。
そういう自分がどこか少し可笑しい気がしていたのだけれど、本人がそれでいいと言っているのだから構わないか、と僕は問題を適当に片付けた。
「いい天気。お散歩日和。でかけないんですか。ああでもアレかな、日射病が」
「ならないだろ冬は」
「判りませんよ、今日はこんなに陽射しが強いから。帽子忘れずに」
小学生じゃないんだからと溜息を吐きたくなって、僕はコタツの毛布に潜り込んだ。
「勿体無いなあ。あったかいのに、外。気持ち良いのに、太陽光線が」
クロは良く唄っているけれど、それ以上に良く喋る。
独り言なのか話しかけられているのか区別が難しいくらい、よく喋る。僕には理解し難い言葉で語しかけてくる。喋りながらあんまりへらへら笑っているから、クロのことばはほとんどが嘘っぽく聞こえてしまう。だから言っていることの半分は信じないことにしていた。
僕から返事が返らないことを悟ると、クロは黙々と洗濯物を干し続けた。それを終えて部屋に戻ってくると、遠慮がちにコタツに潜り込んで、長い前髪を指先で弄った。
僕は。
クロは、本当は喋っているときよりも黙っているときのほうが途轍もなく大事なことを語っているような気がしていた。
例えばこんなときに、静かな空気の中で僕もクロも口を閉ざしている、そういう瞬間に。
何かを伝えたがっている気がしていた。
「――目が」
「目?」
「はい。視力が。どんどん悪くなっちゃうなあって、これじゃあ」
クロは前髪を掻き上げながら困った顔をしていた。視界も悪くて当然だ。いつもは髪の毛の僅かな隙間からしか見えない瞳が現れて、ぼくはじっとその眼を見つめてしまう。夜でも茶色に見えたその眼は、昼間ならもっと透き通って見える。
クロの長い前髪はとても邪魔で表情が見えないのが不愉快で。
「なら切れよ」
そう言うと、クロはなんだかひどく切なそうな顔で笑っていた。
「……そうですね」
そうやって頷いて見せながら酷く切なく笑うから、何か理由があるのかもしれない、そう思ったけれど、だんだん考えるのが面倒臭くなって、そんなの知らないと思った。
だってどうせ僕は忘れる。クロという名前をそのうち忘れる。
そういえばクロの怪我は、もう治っただろうか。
切れた唇、腫れた眼の下、擦り剥いた額、赤い頬。それから痣と。
僕は、
たいせつなことなんてひとつも選べないくせに、詰まらないことだけ、多分ずっと覚えている。
大学から帰ってきた僕を見るなり、クロが「芳野さん」と名前を呼んで出迎えたものだから、僕はひどく驚いてしまった。名乗る機会を失ったまま、そういえばクロにまだ名前を教えていなかった、なんてことも忘れかけていた。なのにどうしてクロは僕の名前を知っているんだろうと当然の謎を思い出す。
それからすぐに、机の上に置きっぱなしにしておいた書きかけのレポートのことを思い出した。
「経済学部ってどういうことするんですか」
「どうって。色々」
「色々って?」
「だから色々」
アパートに表札なんてつけていないから、これに書いていた名前を見て僕の名前を覚えたわけだ。クロにしては中々賢い。
「クロお腹空いた。もう飯食える?」
「……あの、」
別段名前を知られたところで何ひとつ問題はなく、むしろ今まで彼が僕の名前を知らなかったのが不思議なくらいだ。
「なに?」
クロは遠慮がちに、伺う視線を向けた。
「あの、芳野さん、名前、何て読むんですか」
クロが指差した先を見て、笑ってしまう。
クロはレポートに書いた僕の名前――下の名前の方の漢字を指差して、首を傾げていた。
「ああ、読めなかった?」
「はい」
クロはどこか恥かしそうに俯いて、頷いた。別に恥じることじゃない。
それほど珍しい名前じゃないけれど、(彼の言葉を信じれば)十五歳のクロには、少し読み難い漢字かもしれないと思う。
「何て読むんだろうな」
「……芳野さん」
クロは哀れに眉を下げて、困った顔を見せた。それが可愛くて面白くて、僕は敢えてアンサーを与えなかった。
「苗字だけ読めれば充分だよ」
「でもおれ、名前知りたい」
「今更何言ってんの。今まで俺の名前知らなくてもやってこれたじゃん。いいよ別に、困ることないし。どうせ忘れるんだから」
最初はちょっとした意地悪のつもりで、でもクロがあんまり必死に答えを知りたがるものだから、僕はいよいよおかしくなって、答えを先延ばしにする。
「おれそんなに物忘れ激しくない。名前、忘れたりなんかしない」
「クロはそうかもしれないけど俺は違うの。俺はどうせ忘れるんだから」
僕は異常に、記憶するという行為をしない。記憶をすることはするのだけれど、いつの間にか色んなことを忘れていて、だけどそれを惜しいとも哀しいとも思わず、漠然と不便だと思う。
人の名前や顔をいちいち覚え直さなければならないのは不便だ。
かろうじて名前と顔を覚えている友人のひとりが、病気じゃないのかと心配そうに言っていた。
そうやって、いつか忘れてしまうことなのに、わざわざ思い出を増やす理由はなく、いつか忘れてしまう君に僕の名前を教える理由もない。
「忘れるって……」
「全部だよ。全部忘れるの。いつもそう。いつもそうやって全部忘れてくから、多分今度も同じだよ」
だから、読めただけの名前で充分だと言った僕に、クロは長い前髪の隙間から眼を寂しそうに揺らがせた。
「……なんで?」
ぽつりと、呟くような問い掛けを零した。
「なんでって?」
「どうして忘れるんですか」
率直すぎる問い掛けに、僕が答えられる言葉はひとつしかなくて。
「さあね」
この言葉しか、僕は回答を持たない。
どうして忘れるのかなんて、理由を知らない。
当たり前だが納得がいかなかったのか、不服そうな顔をしてクロは僕をじっと凝視めた。
ひどく覚えが悪いのだろうと思う。一旦覚えたことも、油断をすると直ぐに忘れてしまう、だから毎日毎日忘れないように覚え直さなければならない生活に、僕はもう慣れてしまっている。
そんなことをクロに説明したって仕方がなくて、黙り込んだ僕にクロがちいさな声で、
「……じゃあ俺のこともいつか忘れるの」
と訊いた。
「多分ね」
クロはいっそう悲しそうな顔をした。