犬を拾いました。彼の名前はクロ。
栗色の髪と同じ色の瞳をしている。
僕は「それ」を、コンパ帰りのゴミ溜めの中で見つけた。
そのとき僕は酔いが回って頭痛がひどく、そのうえ吐き気もしていたから、とりあえず家に着いたらトイレに駆け込もう、とにかく吐こう、そんなことばかりを考えていた気がする。
ふらふらと歩いていくうち、街灯の少ない通り道に微かな啜り泣き声が響いて、僕はひどく驚いた。まさか幽霊なんじゃないのかなんてありえない想像までしてしまう。
燃えるゴミは月木、不燃物は火曜日にと書かれたポスターの下に、うずくまって泣いている人影がぼんやり見えた。
とてつもなく不気味だった。
頭痛に耐えながら人影に近付いた僕に、それは視線を上向かせた。小さく顔を上げたそれは、幽霊なんかじゃなく、間違いなく人間で、目を凝らすと栗色の毛と前髪から覗いた瞳が見える。
ひどく綺麗だと思った。
「何やってんの?」
不思議そうに揺らめいた眼に涙が浮かんで、いっそう綺麗に見える。だけど良く見ると涙や鼻水やらで顔はくしゃくしゃになっていた。汚い。綺麗に見えたのはただの錯覚かもしれない。
彼が中々答えないので、僕は「何やってんの、」二度尋ねた。
「か、かえれ、ないんです」
家出少年だろうかと首を傾げた僕の耳に、哀しそうな嗚咽が響いた。果たして家出少年がこんなに悲しい声で泣いたりするだろうかと僕は更に首を傾げる。いやそれより頭が痛い。とにかくトイレに行って吐かないと。一刻も早く吐かないと。
「名前は?」
見上げてくる目を真っ直ぐに見下げてやって、僕はずいぶんと尊大な態度で訊いた。
それは少しだけ怯えた眼をして、迷うように黙り込んだあと、小さな声で、
「クロ」
と名乗った。
ぶん殴ってやろうかと思った。
そんな茶色い頭で、そんな茶色い瞳で「クロ」だなんてどの口が言うんだ。
だけどクロがあんまり哀れっぽく泣いているものだからついウチ来る?そんな風に声をかけてしまったのが失敗だったかもしれない。
不思議そうに僕を見上げてきたクロ。
そのときにはもう泣き止んでいた。
クロは従順に僕の後ろを着いて来た。
ひとを疑うことをしないのか馬鹿なのかは判らないけれど(この後、それが後者であったことを知る)、クロは恐々とした動きで、アパートの扉を潜った。並んで歩いたときに気付いたことだが、クロは背が高い。見上げなければ視線を合わせられないことが甚く面白くなかった。
部屋に辿り着いてから真っ先にトイレに駆け込んだ僕を、クロは金魚の糞のようにトイレのまん前まで追い掛けてきた。
「大丈夫ですか、」
おろおろした声でそんなことを言いながら、クロは何度かドアを叩いた。
煩い。
強い力でドアを叩き返すと、クロは漸く黙った。
そんなに心配しなくても死んでないよ、そう思いながら嘔吐した。好きでもないコンパなんかに行くものじゃない、数少ない友達をたまには大事にしてみるのも良いかなんて考えるんじゃなかった。
それから十分後、幾分すっきりした気分でトイレから出てきた僕は、ドアの前でうずくまっているクロを見付けた。こいつはうずくまるのが好きなのかもしれない。
少しだけよろけてドアを背にした僕を、クロは慌てて立ち上がって支えた。
「だいじょうぶ、なんですか」
クロの声は少しだけ上擦っていて、長い前髪から覗いた眼が本気で僕を心配してくれていたことを教えた。
だから僕は、笑ってやった。
「うん大丈夫。死んでない」
クロは安心したように遠慮がちに笑って、僕を支えたままベッドへ移動した。半分運ばれた僕は大人しくベッドに寝転がって、まだ続く頭痛に誘われるまま目を閉じかける。
「ああごめん、ここ布団一式しかないんだ」
僕は起き上がって慌てて告げた。おかげでグラリと視界が揺れた。
連れて帰ったは良いけれど、客なんて全く訪れないこの部屋に当然ながら客用布団なんてものは置いていない。夏ならバスタオル一枚腹にかけてやれば済む話だけど、この寒さじゃそうもいかないだろう。
だけどクロは勢い良く首を横に振った。
「い、いいです、おれ適当にこの辺で寝ときます」
クロが本当に犬なら気にしなかった。人間は面倒臭い。だってクロは暖かい毛皮なんてものは持っていない。すね毛くらいならあるだろうけどそんなんじゃとても温もらない。多分。
「俺ゲロ臭いけどいい?」
クロはきょとんとした顔をして、僕を見返した。
「ゲロ臭くても我慢できるんならおいで」
「いやゲロって」
「いやならいいけど」
いやそうじゃなくて、とクロは口篭もりながら何かを言っていたけれど、僕はきれいにそれを無視した。
「ていうかほんと眠いんだけど」
「……ぁ、すみません」
クロは戸惑った手付きで布団を捲り上げると、もう一度すみません、と声をかけて、隣のスペースに滑り込んでくる。寒い空気が入り込んできたのは一瞬で、すぐに人肌と言う独特の温度で僕の体は満たされた。
翌朝、見知らぬ少年の身体を隣に見つけて、僕が驚いたのは一瞬だけだった。鈍痛を響かせる頭が、昨日の記憶をゆっくりと甦らせる。
帰り道にたまたま拾った。
この犬の名前は確かクロ。
まだ覚えていた。
だからつまりあのときの僕はたぶん正気ではなくて。
「やっぱりおれ、出て行かなくちゃいけませんか」
二日酔いを引き摺りながら頭を押さえた僕に、僕よりも早く目を覚ましていたクロは、彼特有の哀れっぽさを滲ませた声で、弱々しく尋ねてきた。
こいつはこういうところが愚かなんだろう。普通はこんなふうに哀れさを滲ませて話したりなんかしない、人間として必要最低限のプライドがあれば。
「……家出?」
「厳密に言えば、違うんですけど」
クロは肩を落とすと、それでも言葉を濁らせた。ああそうか、言葉を知らないのか。答えたくないというよりは、彼の顔は、自分の状況をぴったりと表してくれる言葉を真剣に探しているように見えた。
「あの、でもおれ行くところなくて」
そうなんだろうな、と思う。じゃなきゃ「出ていかなくちゃいけないか」なんてこと訊きはしないだろう。
「おれ本当に行くところなくて。ど、どうしようって……」
「なんで行くところないの? 友達は」
「い、ません……」
この辺には、と、クロは付け足すように呟いた。
「親は。探してるんじゃないのか」
「……さあ」
本当に判らないと言ったように、彼は真顔で首を傾げるものだから、僕は呆れを通り越して、心から心から哀れになった。
「捜索願いとか出てんじゃないの。勘弁してよそういうのは。面倒臭いの嫌いなんだよ俺」
溜息混じりに告げると、クロは哀しそうに唇を歪めて、ごめんなさいと小さく言った。
「押し入れ。上の棚。白い箱」
「はい?」
「いいから持って来て」
僕が命じるとクロは慌てたように立ち上がり、言われた通り押し入れの上の方にしまっておいた箱を持って来た。
「顔だけ?」
包帯とガーゼなんて上出来なものはないだろう。それでも多分瘍創膏くらいはあるはずだ。
尋ねた僕に、クロは呆けた顔でもう一度「はい?」と首を傾げた。少し苛付いた。
「顔の口と頬と額のとこだけかって訊いてんの。怪我」
クロは、哀しそうに嬉しそうに顔を歪めて、そっと右腕を差し出した。
袖を捲ってやると、変色した痣だらけの肌が見えた。
ところどころに血が滲んでいるそれに僕は多分気が付いていて、
だけどこの傷が全部治るころには、僕はそれを全て忘れているのだろう。
クロは何にも所属しない。クロには何もない。本当に何も持っていないものだから、哀れになる。哀れみだとか同情だとか、そういう感情は普通歓迎しないだろうに、クロはそれすらほしがった。
クロはもらえるなら何でもほしがっている。貪欲とはまた少し違うように思う。クロはいつも手ぶらでその癖腹は良く空かせている。
「自由なんです」
羨ましいでしょ。そう言って、寂しそうに笑った。
多分クロも。いろんなものから全速力で逃げている。
何から逃げているのかよく判らないから手探りで鍵を探している。
鍵を探している。
だからかクロは、ひどく部屋の鍵を欲しがった。あんまりねだるものだから、仕方なく鍵を増やした。クロは馬鹿だからきっとすぐにそれをなくしてしまうだろう。ヒモを通して首からぶら下げてやろうかと言ったら、恐ろしく情けない顔をしていたので勘弁してやった。
クロの口癖は、"ありがとう"と"ごめんなさい"。
過剰なくらいのそれが、やっぱり哀れだった。