僕はクロに、さようならを告げた。

 クロ 15歳【2】

 その名前を呼ばれると、安心した。
 それは、唯一、傷付かない名前だ。傷付かないための名前だった。その名前でいる限り、自分は何の覆いもなく、誰かに傷付けられることもない。たったひとりにしか呼ばれることのない名前だった。充はそう呼ばれることによって、傷付かない名前を手に入れたのだと信じた。黒木充、岡崎充、そのどちらにも属さない、新しい名前。新しい自分。――その名前でいる間だけは、欲しがってもいい。
 大人の顔をして諦めた、「仕方ない」と飲み込んだ、あの想いを、抱き続けてもいいのだ。
 だから、会いたいと思う。
(――おかしいですか? おれは、嬉しいんです)
 涙を隠さなくてもいいといった、あの人になら、言える気がした。
(母さんが記憶を捨てたのが。俺で、苦しんだ結果だってことが――おれは、嬉しいんです、寶さん)
 行き場のない憎しみの発露ではなく、歪んだ愛情の果てだったことが。
 ――もうそれだけでいいと思えたことを、伝えられる気がした。
「なんか、難しい顔してる?」
 ふいに隣からかけられた声に視線を上げると、そうやって笑った女の顔にも、僅かな眉間が寄っている。それが自分の表情を真似ていることに気付いて、充は努めて頬の筋肉を和らげた。
「――そうかな」
「岡崎君、歌わないの? もうずっと木村がマイク握っててみんな飽きてきてるんだけど」
 ぼやくようでいて、どこか笑みが滲んでいるその声に、充は思わず声をあげて笑ってしまった。木村という男子生徒が一度握ったマイクを中々離してくれないのは恒例のようで、みんなの顔にも似たような諦めと「またか」と面白がるような表情が浮かんでいる。普段から愛嬌のある彼だからこそ、周囲も憎みきれないのだろう。
 ああけれど、自信を持つだけあって、声はいい。もう少し喉を鍛えれば、いいテノールが出るようになるのかもしれない。
「俺、音痴だからね」
「うそ」
「ほんとうだよ」
 少し声を張りあげなければ、彼女の声も、自分の声すらも聞き取り難い。
 さっきから自分の横から少しも離れてくれない彼女のことを、好きか嫌いかで言えば、多分好きの部類には入るのだと思う。だからこそ好意を受け取るつもりもなく、また自分には想っている人がいるのだとさりげなく何度も伝えようとしたが、強気の彼女にはどれも失敗に終わっている。
 また煮え切らない態度の充に対し、彼女も少し焦っているようで、最近は目に見えて押しが強くなってきている。充はそれに、益々困った。
 恋愛をするなら、もう少しだけ穏やかで、できるだけきれいなものがいい。
 だから寶の、沙由紀という今は亡い女性に対する想いなど、充にとっては理想そのものだ。康行の双子の妹でもあるその人と、静かで激しく、記憶さえ殉じた恋をした過去を、寶はあまり話してくれない。過去の恋を話し切るには、やはり何か憚るものがあるのだろうとは思うものの、充自身は特別、気にすることもない。嫉妬するどころか、寶と沙由紀との恋を、美しいと憧れさえ抱いていた。
 あの人のことだから、きっととても大切に、彼女を愛していたのだろう。傷付けるものが何もないように、悲しむことがないように、若い腕で、守りきっていたのだろう。そうして沙由紀もまた、それに応えてうつくしく微笑んでいたであろう光景が、見たわけでもないのに、脳裏に浮かんだ。
 若い処女が夢見るように、想っている。
 恋という感情のうつくしさを、信じている。
 うつくしい記憶のその欠片を、寶がちっとも分け与えてくれないことを、悲しいとさえ思っていた。
(――だから、こういうのはちょっと……)
 剥き出しの太股をさり気なく摺り寄せてくる彼女に、充は唇を引き締め、零れ落ちそうな溜め息を堪えた。できれば性別を抜きにした友人でいたいと思っていたのだけれど、それも少し、無理な話なのかもしれない。
「岡崎君、年明けどうするの?」
「年明けって……ふつうかなあ。雑煮作って食って、おしまい」
 みんなそんなもんでしょと笑えば、彼女は「違う」と拗ねたように睨んでくる。そんな仕草は微笑ましくて好ましいのに、どうして恋愛感情が絡んでくると、自分はだめなのだろう。
「そうじゃなくて。初詣とかは? 行かないの」
「あー……そうだね。知り合いの人と一緒に行こうかなって思ってる」
「知り合いの人って?」
「俺が世話になってる大学生の人。今は実家に帰ってるんだけど、どうせなら正月はお邪魔しようかなあ」
 口からでまかせのつもりで、半ば本気になった。
 もう大晦日を明後日に控えているこの時期、一足先に帰省した寶たちとは違って帰省ラッシュに巻き込まれることは必須だけれど、本気で寶の実家に世話になるのもいいかもしれない。
 突然お邪魔して寶を驚かせるのもいいけれど、それはやっぱりちょっと怖いので、一応今日あたり、帰ってから電話をかけてみよう。つらつら考えていると、先程よりも僅かに険を帯びた声が、鼓膜を震わせた。
「その人、女の人? 付き合ってるの? どんな人?」
「え、いや、――っていうか」
 ――さすがにそこまでは、君に関係ないだろう。
 口を突いて零れかけた言葉を、充は寸でのところで引きとめる。
「……男の人だよ」
 今の自分はささくれ立っていて、どうにもいけない。苛立ちに険を帯びた声だなんて、他人に、それも女の子に聞かせていいものじゃない。強いて浮かべた微笑みは、いびつになった。
 だからその瞬間、携帯電話が強い震動で着信を知らせたのは、充にとって幸いだった。
「ごめん、ちょっと」
 断りを置いてから席を立ち、スピーカーから大音量が流れ出る部屋を出ながら充は通話ボタンを押した。ディスプレイに表示されたのは姉の名前だ。昨日の今日でどうしたのだろう、と首を傾げながら、充はそれに耳を宛てる。
「もしもし?」
『充……っ』
「――姉さん?」
 どうしたの、と尋ねる暇もなく、姉は畳み掛けるように言った。
『ああ、あなたは大丈夫なのね。ねえ、蘭さん……蘭さんを見かけなかった!?』
「母さん? どうして?」
『ずっとホテルに姿が見えなくて――ちょっと買い物に出かけたんだろうと思ってたのに、もう二時間も帰ってこないの……!』
「――母さんが?」
 いつもは落ち着いて凛と響く姉の、異常に上擦った声は、異様なほどの動揺を表している。吐息が弾んでいるところを見ると、現在進行形で姿を消したらしい母を探し回っているのだろう。
『だから充、あなたのところに、蘭さんは――』
「姉さん、ちょっと……」
 落ち着いて、と囁いて、充は携帯を塞ぐと、幹事の友人を部屋の外に呼び出した。よく判らないが家のほうで何か用事ができたようだ、と掌で塞いだままの携帯電話を見せると、友人は快く充を送り出してくれる。
 何はともあれ、角を立てずにあの場を抜け出せたことに安堵して、充は再び携帯を持ち直す。
「ごめん、姉さん。今外だから声が聞き取り難いかもしれないけど、我慢して」
 店の自動ドアを潜り、冷たい風の吹き付ける外へ出る。雑音や風の音に紛れて、姉の声が少し遠く聞こえた。電波状況がよくないのかもしれない。
『充? あなた、今芳野さんのアパートにいるわけじゃないのね?』
「そうだけど……」
『そう……よかった。じゃあ、あなたが蘭さんと鉢合わせになることはなかったのね』
 行方不明になった母を案じるのは判るが、先ほどから姉は、やけに自分のことを心配している。
 母の二時間もの不在は、確かに異常だ。普段なら行き先を告げずに姿を消すことなど有り得ない。また彼女もそうふらふらと出歩ける身分ではないし、変なところで世間を知らない女だから、自分の知らない土地をひとりで出歩くことなど、あの人にはできない。
「俺と母さんが鉢合わせって、そんなの、奇跡が起こらないと無理だろ。少し、落ち着いて。……俺も、今から母さんのこと探すから」
 第一、母は自分の居場所すら知らないはずだ。裕美を落ち着かせようと、冗談を混ぜた言葉を、充は真摯に告げた。
『――ないの』
 けれど姉の声は和らぐどころではなく、青ざめたような硬ささえ滲ませて、充の鼓膜を打った。
『手帳が……ないの』
「手帳?」
『破られて……あなたの、……芳野さんのアパートの住所を書いておいた部分のメモが、なくなってるの……』
「――どういうこと?」
『蘭さんね……昨日、あなたの名前を、また、呼んでいたの』
 緊迫した声に、息を飲む。
『だから、もしかしたらあなたのところに……充!?』
 最後まで聞いてはいられなかった。途中で通話を切った充は、直後その場を駆け出す。
 何がきっかけだったかは知らないが、自分を思い出して不安定な状態にある母親が、探している。――自分を、探している。
 ――母さん。
 気がつけば、その名を胸の中で呼び続けていた。
 祈りにも似た、縋るような思いで。

 駆け出した充が帰り着いたのと、アパートの前に一台のタクシーが停車したのは殆ど同時だった。
「母さんは?」
 タクシーから降りてきた裕美を見るなり尋ねると、彼女は暗い表情で首を横に振る。
「心当たりは全部探したの。でも、どこにもいなくて……もう、ここしか」
「でも、今は誰もいないから……母さんもいないんじゃ、ないのかな。諦めて帰ってるんじゃ……」
「そうならいいんだけど……」
 寶は帰省中、その上自分までもが出かけていたとあれば、部屋の中はもぬけの殻だ。万に一つ母がここを訪れていたとしても、無人の部屋の前に長時間佇み続けるとは考え難い。
 視線を上げ、鉄筋の階段を昇ってすぐ二階にある扉を見上げても、やはりそこに人影はない。ほら、やっぱり、誰もいない――安堵の吐息を零しかけた充は、それを目にした瞬間、息を飲んだ。
「……ドアが、開いてる」
「……え?」
「どうして――」
 目を凝らさなければ見つけられない、僅か数センチの隙間が、そこにはあった。誰もいないはずの部屋、不自然に開かれた扉。――まさか。鼓動が跳ね上がり、考えるよりも先に、充は階段を駆け上った。自分の忙しい足音に少し遅れ、ヒールが鉄を踏みつける耳障りな音がする。
 部屋の前に辿り着くや否や、引き剥がすように開いた扉の奥には、予想に反して、――或いは予想通りの――人影がふたつ、絡まっていた。
 暴漢が入った後のような部屋の散乱具合は、もはや充の目には映らない。人が、ふたり。片方は小柄な女で、その下に組み敷かれている男が、一人。その首筋には細い指先がかかって――
「蘭さん!?」
「――寶さん!」
 それぞれ叫んだ充と裕美は、すぐさま部屋の中へ飛び込むと、寶と裕美を引き剥がした。
「い、や――返して、返してっ、あなたが隠してるんでしょう、充を返してえッ」
「蘭さん、落ち着いてください、蘭さん!」
 寶の上に跨っていた蘭は、裕美の腕に引き取られても尚、むずがるように身を捩る。充はすぐに、寶に背を向け、母親を睨みつけた。――我をなくしている母親から、寶の身体を庇うように。
「……ク、ロ?」
 細い声が、堰き込みながら、やっとのように小さく名前を呼んだ。背筋が凍りつくような気がしたのは、こんな声を、寶の口から聞いたことがなかったからだ。
「……大丈夫、ですか、寶さん」
 寶は答えられず、激しく咳き込んでいる。今まで締め付けられていた喉が解放され、急激に酸素を送られたせいだ。もしかしたら彼は、自分の問い掛けに、頷きを返しているのかもしれない。けれどまだ、そちらに視線を向けることはできなかった。場合によっては、母親の動きをこの手で止めなければならないからだ。
 注意深く見守っていると、裕美の腕に動きを遮られていた女が、顔を上げる。
 ――ゆっくりと。
「み、つ、る」
 甘いソプラノが鼓膜を撫でる。ぞわりと身体中に悪寒が走った。嫌悪でもなく、憎悪でもない。
 それは、ただひたすらな恐怖だった。
 この人は、壊してしまう。瞬時に、そう思った。
 彼女は、壊れそうな微笑みを向けたまま、手を広げる。
「お父さんも。あなたも。ほんとうに……仕方のない人。みぃんな、その人が、悪いのね。お母さん、知ってるわ」
 おいで。いらっしゃい。
 少女じみた声で、彼女が甘く囁いた。――充。みつる。お母さんのために、弾いていて。ずっとピアノを弾いていて。――自分の幼い指先にねだっていた、あのころの、甘い声で。
「お父さんと一緒ね。悪い人に、たぶらかされて。また行ってしまうの? だめよ。おかあさん、そんなこと、させない。みつる。あなただけは――」
 甘く微笑む女から僅かに視線を反らすと、その視界の隅に、目を押さえて蹲っているのは寶だ。指と指の隙間から鮮血が滴っている。フローリングには、グラスの欠片が散らばっていた。その欠片の所々に薄く染み付いた赤い液体の正体は、考えるまでもない。薄く開いた唇から、「クロ」と、弱々しい呼吸が零れる。握り締めた拳が、ぶるぶると震えた。身体中が、恐怖と憤りで、震撼する。
「――行かせないわ。あたしの充」
 殺してしまう。
 この人は、本当に、連れていってしまう。
「さようなら」
 本能的な恐怖と憤りをこめて、充はその言葉を、喉の奥から引き絞る。血を吐いてでも。どれだけ痛くても。
「みつ――」
「さようなら、母さん。あなたがこの人を傷付けるなら、俺はあなたの息子ではいられません」
「どうして……充、……いやよ」
 唇を戦慄かせた女は、震えるそれを噛み締め、両手で耳を覆った。――そんなことをしたって、だめだよ、母さん。涙の出ない両目でそれを見つめながら、充は静かに思う。
 耳だけは完全に塞げはしない。俺がそうだったように。あなたの歌声から逃れたかった、あなたの呪詛から逃れたかった俺が、完全にそれをできなかったように。聴覚だけは、完全に、断つことなんてできないのだから。
「嫌ッ、嫌よ、充! お願い、お願い、お願い! お母さんを捨てないで……ッ」
「蘭さん!」
「イヤ、イヤアアアアアッ! 充、充、充――!」
 細い喉から絶叫を迸らせながら身を捩った蘭は、フローリングに身体をうつ伏せたかと思うと、手当たり次第に物を投げつけてきた。グラス、鞄、クッション、置時計、避けたそれらの幾つかは部屋のどこかに衝突し、けたたましい音を立てる。寶の傍らを飛び出した充は、咄嗟に彼女の身体を抱き締めた。渾身の力で身体を押さえているにも関わらず、油断をしたら振り切られそうになる。
「嫌ァァッ、離して、離して、充!」
 爪先に頬を引っかかれながらも、充は呆然と立ち竦んでいる姉に向かって声を張り上げる。
「姉さん、何してるんだ!? 早く救急車を呼んで!」
「だ……だめよ、そんなことをしたら、騒ぎに……」
「……姉さん!」
 暴れている母親なら、落ち着くのは時間の問題だ。こうして押さえつけているうちに体力切れを起こして、そのうち眠ったように大人しくなってくれる。
 けれど怪我人が一人、今も起き上がれないまま、蹲っているこの状況で、何故姉がそんなことを言えるのか、充には理解できなかった。したくもなかった。彼に代えられるものなど、自分には何もない。
「だって、だって――年明けには、大切な公演があるのよ。今騒ぎを起こしたら、ぜんぶ、無駄になって……」
「いい加減にしろ!」
 腹の底から怒鳴りつけると、裕美の細い肩がびくりと震える。
「今怪我をしてるのは俺じゃないんだ、そんなことを考えている場合じゃないだろう! もしも……もしも寶さんに何かあったら、俺はあんたたちを、許さないからな……っ」
 抱き締めた母親の喉からは、最早細い嗚咽しか漏れていない。それと共に、暴れていた身体からゆっくりと力が抜けていく。それを腕で確認しながらも、充は裕美を睨み続けた。裕美は怯えたように自分を見つめ、ただ立ち竦んでいる。噛み締めた奥歯から、ギリギリと音が鳴りそうになった。
 冷え切った空気を肌に感じ、厳しい視線で姉を睨み続けながらも尚、充は、悲しかった。何故、と、己自身に問い掛けた。
 ――何故。憎いと思わなければならないのだろう?
 あんなに愛した人を、あんなにやさしかった人たちを、何故今、これほど憎まなければならないのだろう……。
 大切なものが、ひとつ、増えただけで。
「裕美さん。タクシー、まだ外にいますか?」
 そこに割り込んできたのは、当事者である寶の――驚くほど、呑気な声だった。
「え……ええ、そこに待たせてあるわ」
「じゃあ早く蘭さん病院に連れてっちゃってください。――クロ、タクシーもう一台呼んどいて」
「寶さん!?」
 身体を起こしたかと思うと、寶は頭を抑えながらも、けろっとした口調で言って退けた。口調は軽くても、やはり痛みはひどいらしく、顔を顰めている。
「いいから、無理をしないで!」
 完全に力の抜けた母親の身体を裕美に預け、慌てて駆け寄った充がその背中を支えると、指先の触れた首筋からは、とろりと血の感触がした。
「いて……」
「当たり前です!」
「耳元で怒鳴んないで。――俺はね、自分でカップを割って、運悪くそのカップの欠片の上に転んだの。黒木蘭なんて人間は、ここにはいなかった。そうですね? 裕美さん」
「――え……」
 唐突な寶の言葉に、充は勿論、裕美も目を剥いた。
「ちょっと……待ってください、寶さん」
「うるさい、そういうことなの。そういうことにしときましょう、裕美さん。――ほら、早く」
 中ば強引な寶の声に押し切られるようにして、やっと我に返ったように、裕美はそろそろと頷く。
「判りました。――タクシーは、私が呼んでおきます。ありがとう、芳野さん」
 脱力しきった蘭の身体を重たそうに支え、裕美はゆっくりと部屋を出て行った。部屋から裕美と蘭の気配が消えた直後に、階段を駆け上る慌しい足音が聞こえてくる。タクシーの運転手が降りてきたのだろう。大人二人がかりで支えたとしても、力の抜けた女性ひとりを運ぶのは苦労するに決まっている。――けれど、この場を離れたいとは、到底思えなかった。
「……どう、して」
「俺ね、面倒なことは嫌いなんだよ」
「そん……そんな理由で……」
「一番もっともな理由だと思うけど。……クロ、救急箱持ってきて。前見え難い」
 額から溢れる血を拭う寶に言われるがまま、充は慌てて救急箱を持ち出した。
 救急箱からガーゼを取り出した寶は、それを額に宛てる。取っ組み合いの最中にだろうか、恐らくは避けきれなかったグラスの切っ先が、その皮膚を抉り取るように切り裂いていた。
「少しでも場所がずれてたら、目に当たってたかもしれないし、もっと深い傷が残ってたかもしれないのに」
「ああもう、おまえうるさい。やなこと想像させるなよ」
「だけど、血が、こんなに」
「人から聞いた話だけどね、頭とかは一回切れると傷は深くなくても血がわりと出るんだって。だから平気なんじゃない?」
 おまえのほうがよく知っているだろうと視線で問い掛けられて、弱々しく頷く。一度、後頭部を手酷くやられたことがあって、CTスキャンで脳の検査も一応受けたけれど、夥しい出血量のわりに異常はなかった。頭部の怪我は、脳内出血のほうが怖いらしいとあとで聞いて、ぞっとしたものだ。
「どうせ俺が平気だって言っても、おまえは聞きゃしないんだろうけど。――イッ……」
「寶さん!?」
「あー……なんか、こっちのほうが痛いみたい」
 そう言って、寶は左手をぷらぷらさせた。襲い掛かってきた蘭の身体を受け止めて床に倒れこんだ際、手首を強く捻ったようだと言った。まさか骨折でもしているんじゃないかと思うと、また背筋が凍りつく。どうして彼が、こんなに、傷だらけに。
 左手に負担がかからないように気を配りながら寶の身体を支え、到着したタクシーに乗り込む際、充は小さな声で、尋ねた。
「寶さん、どうして……帰ってきたんですか」
 ガーゼを押さえたままの右手から、胡乱な視線で充を見上げた彼は、そんなことをいちいち聞くなと、鼻を鳴らす。
「おまえが会いたいって言ったからだろ、馬鹿」
 ――傷付けた。
 やさしい人を、傷付けた。
 充の緊張を和らげるために、敢えて彼が、自分を罵倒してみせたのが判る。けれどその短い言葉は、彼の思惑とは反対に罪悪感と言いようのない憤りを胸に生む。
「おまえだってなんか俺に話したいことあったんだろ。何? 病院まで聞いてやるから話しなよ」
「いえ……それは、今は、いいんです」
「何もったいぶってんの。俺せっかく帰ってきた意味ないじゃん」
 ほら、なんだよと笑いながら、寶は充の腹を肘で突付いた。傷口を覆った白いガーゼを見ていられずに、充は視線を落とす。
「その、……姉に、この間、聞いて」
「何を?」
「母さんが、俺のことを忘れた原因っていうか……理由っていうか」
「ふうん?」
 真っ白なはずのガーゼに血が滲んでいるのは、なぜだろう。
「母さん、俺の名前を、何回も呼んでたらしくて。何回も……何度も、俺の名前呼んで、探してたらしいんです」
 その左手首が、額に脂汗を浮かばせるほどに痛んでいるのは、なぜだろう。
「それで、俺がいないのが辛くて……寂しくて。俺のこと、全部忘れちゃったんだろうって、姉さんが言うんです。その話を聞いたら、おれ、なんだかすごく……嬉しくて」
 誰が彼の身体に、たくさんの、たくさんの、傷を。
「嬉しくて、――悲しくて。そんなに愛してくれてるならどうして他に方法がなかったんだろうって。俺はそれが悲しくて、だけど、愛されたことが、ほんとうに、嬉しくて。バカみたいなんですけど、だけど、本当に、」
 ――きっと、自分だ。
 全部、自分が悪かった。
 この人の身体に傷をつけたのは、他ならぬ自分だった。
 無理矢理に押し出した声がひずんでも、寶は何も言わなかった。
「俺は、それを……大切に、したかったんです」
「……そう」
 ただ静かな相槌を、ちいさな微笑みと共に、与えただけだった。
 涙が溢れた。
「――ごめんなさい、寶さん。ごめんなさい。ごめんなさ……」
「なんで謝るの」
 あなたを傷付けてごめんなさい。
 あなたを傷付けたあの人を、こんなに大好きで、ごめんなさい。
 言葉にはできず、ただ充は声を詰まらせた。寶はもう問いを投げてはこない。痛みの生む左手が、無理をして、膝の上に乗る。大丈夫だよ。そういう仕草で、そっと膝の上を叩かれた。大丈夫。大丈夫。そうして、何度も、宥めるように。嗚咽でしか返せない問い掛けの答えを、誰も、彼ですら、知っていたはずはなかったのに。

 

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 クロ15歳。【2】


20060209