さようなら、と言ったクロは僕の目の前で、とても悲しい決意をした。

クロ15歳。【1】

 おまえは大人だと言われることが、どうしても、誉め言葉だとは思えない。だから充はその言葉を真正面から受け取ったとき、少しだけ困った顔して、「そうですか」と小さく笑った。
「――寶さんからは、よくガキっぽいって怒られますけどね」
 喋り方も、表情の作り方も、仕草でさえも。あの人は自分のことを、容赦なく子どもっぽいと呆れて、罵ってみせる。馬鹿だガキだと言いながら、たまには平手も拳も飛んでくるけれど、いつだって甘える自分を許容してくれるので、充は彼の罵倒を厭わない。
「だからだよ」
「だからって、何がですか、康行さん」
 構内に鳴り響くアナウンスに紛れて、充は首を傾げた。彼の言葉の意味が、本当によく、判らない。
 康行――杜、康行。充の最も敬愛する人間の、唯一無二の親友は、軽い口調で、けれど言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。
「おまえくらいの歳ってさ、無理して大人びたりするもんなんだよな、ふつう。ガキっぽいって言われるのすごい嫌がんの。俺も、寶も、そうだったし」
「――……」
「それをしないってことは、やっぱりおまえは大人なんだよなあってときどき思うよ」
 俺はねと、康行は付け加えるように呟いた。そして、「寶の前で――」と、独り言の延長のように続ける。
「――努力して子どもでいようとするんなら、それはおまえが大人の証拠だよ。それは別に、悪いことじゃないけどな。でも何となく、バランスが取れてない気がする」
 反論しかけて開こうとした唇を、充は何となく、閉じてしまった。さり気ない言葉に、ひどく激しく、胸を突かれたような気がしたからだ。
 子どもでいたいと願うことを――暖かな庇護の許、丸まって眠っていたいと祈ることを、浅ましいと思われているような気が、した。
「……俺、おかしいですか?」
「うん? いや、そんなこと言ってねえって。ただしんどいんじゃないのかと思ってさあ――」
 ――彼を、ひどく公平な人間だと思うことがある。
 見守り続けた友人だけを贔屓目に見つめるだけでなく、客観的に、鋭い洞察力を持って、康行は正確に自分と彼との関係を見抜いた。
「――むりに背伸びして大人ぶるのってさ、しんどいだろ。それと同じで。もしもおまえが無理して子どものままでいようとしてるんなら、それってやっぱしんどいんじゃないのかなって思っただけ。悪い、なんか変なこといったな、俺」
「……いえ」
「ほんとにごめん。おかしいよな。俺も何変なこと思っちゃったんだか……」
 翳った充の眼差しに気付いてか、康行は気まずそうに頭を掻いた。
 努めて子どものままでいる、なんて発想は、中々生まれてくるものではない。
 大人ぶる、という行動の青さを、充は覚束ない感覚で知っている。貧相な人生経験を誇張したり、空想じみた将来を大袈裟に語ったり、或いは自身の性行為を自慢げに吹聴する、そんな友人なら学校には幾らでもいる。充は決して、それらを嫌悪しているわけではない。けれど、十五年という自分の生き長らえた月日が、「たかが」であることを自覚している充には、そんな行為は必要なかったし、せめて芳野寶という人物の前だけでは、歳相応の自分であれと願ったのも確かな真実だ。
 静かな沈黙が落ちかけたそのとき、駅のトイレに足を向けていた寶が漸く戻ってきた。
「おまえトイレ長いよ寶」
「しょうがないじゃん、混んでんだから。ていうかさあ、なんで駅のトイレってどっこも平等に汚いの。俺らの地元の駅も汚いよな」
「俺あそこのトイレ使ったことないから知らね」
 彼は少しの長旅になると、地下鉄や電車に乗る前、必ずトイレに行く習慣がついているらしい。とはいえ今回の帰省で彼らが乗車する時間は、一時間にも満たないはずだ。なのにきっちりとトイレに行っているあたり、育ちがいいのか、それとも幼いころからの習慣が素直に抜けていないのか、充には良く判らない。
 電車の中で催すよりはマシだと反論した寶は、ふいに視線を留め、そのまま充をゆっくりと見上げた。
「……何? 何の話?」
「……いえ、何も」
 顔がおかしいと真顔で言われて、充は努めて微笑んだ。少しの思案に、顔を強張らせていたのかもしれない。
「そう?」と充の返事を受け流した寶は、康行に預けていた鞄を受け取ると、何ひとつ気にしていないような顔をしてそれを肩にかけた。このそっけなさも、興味のなさの表れではなく、充の言葉をそのまま受け取り、彼が疑いなく信じようとしてくれている証だ。
「クロ、なんかあったら電話しな。携帯と、出なかったら俺んちの実家の番号、冷蔵庫に貼り付けといたから、判るね?」
「はい」
「おまえのことだからメシとかの心配はしてないけど。暇になって、人の作ったご飯が恋しくなったら、おいで。三が日中なら、おせちは余ってるはずだから」
「……はい」
「俺も雑煮くらいなら作れるし」
「――……はい」
 そっけなく、不干渉に見えて、その実過剰なくらい心配をしている寶は、まさか自分が充に甘いとは到底思っていないだろう。「いつでも、おいで」。その短い用件を告げるためだけに、寶が言葉を尽くしてくれるのは、さりげなくも無意識の行動のうちだ。
「おい寶、そろそろ行かないと」
「うん。じゃあねクロ。また電話するから大人しくしとけよ、夜とかあんま出歩いたりしないで、」
「ああもうおまえらほんとにキリがない!」
 もういいからと顔を顰めた康行が、首根っこを引っ張るように寶を連れて行く。そのとき、その彼でさえ「暇があったら遊びにこいよ」と叫んで手を振ってくれるものだから、充は本当にこの人たちが好きだ、と思う。
「行ってらっしゃい、寶さん、康行さん」
 二人の背中を見送って、充は笑っていた。
 子どもの振りをする子ども、なんて、聞いたこともない形容を、康行は口にした。意味のよく判らない、矛盾したその言葉を、じっくりと噛み締める。
 矛盾して、意味の通じない、おかしな言葉。けれどそれは、ひどく正しい形容のような気がした。

 同郷である康行と寶の約一週間に渡る帰省が決まったのは、ほんの三日ほど前の話だった。
 寶はなぜかギリギリまで決断を渋っていて、友人に強いられる形で今回、帰省を決めたのだ。
 ――だってクロ、帰んないんだろ。
 彼が帰省を渋る理由が、自分にあることを知っていた充は、どうせなら一緒に帰ろうと誘う寶に、どうぞ気にせず帰省してくださいと、微笑むことすらした。
 ――おれはお盆に、お邪魔しちゃったので。お正月くらいは家族水入らずで、それで沙由紀さんのお墓もきれいにしてあげてください。ね。
 八月に一度訪問することになった寶の実家には、やさしくて少しばかりおっとりした母親と、言葉は少ないものの鷹揚なのびやかさのある父親がいた。寶の、少しばかり特殊な記憶のなくし方を――関わった人間に関する記憶を全て記銘しないという、彼の独特な喪失を数年間見守っていた両親は、赤の他人である充の訪問も寛容に受け入れてくれた。
 人と関わることを避けるために記銘を放棄した息子を嘆き、それでも見守り続けた暖かさが、そこにはあった。
 ――人との関わりで背負った傷は、人との関わりでしか回復しないからねえ。
 だから君も、寶に、関わってやってくれ。
 ぽつりと呟いた父親の言葉は、なぜか長い時間、充の胸に棲みついた。
 そうやって、寶の両親に手厚い歓迎を受けた充は、ああ彼はこういう家に育ったのかと、ひどく感慨深くなった。
 今回の年末年始の帰省の折にも、一緒に来るかと寶は誘ってくれていた。それを断ったのは、単なる気遣いからでもない。
 ――おれ、友達と約束しちゃったんです。
 ――約束?
 ――はい。なんかクラスで忘年会やるとかいってて。せっかく誘われたから、おれそっちに行ってきますね。
 ――それならいいけど。
 寶は何となく納得のいかなそうな顔をして、けれど結局、年明けをそれぞれ違う場所で迎えることを了承してくれた。その時期、酒と夜遊びを覚え出した年頃の少年たちに、充が誘われていたことは本当だ。
 とは言え、酒にも夜遊びにもそれほど興味もなく、ついでに言えばクラスメイトのある女子の熱烈なアピールに辟易していた充が、その忘年会とやらに積極的に顔を出したいかといえば、そうでもない。
 けれど、自分を気遣ってアパートを空けられない寶を安心させるための、体のいい言い訳にはなった。
 二人を見送ったあと、充は予定通り、ある店に向かった。夕方の六時から開演を予定されているのは、とあるピアノバーを貸し切って行われる、小規模のシークレットコンサートだ。
 姉が遠慮がちに送ってきた二枚のチケットの存在を、寶は知らないまま帰省した。恐らく姉は、寶と一緒に、という意味を込めてチケットを二枚送ってきたのだろう。全国各地、日本に留まらず、海外を日がな飛び回っている黒木蘭の、日本でのこんなリサイタルは、確かに珍しい。スポンサーたちへの御礼の意味を込めているのだろうと思ったが、それは充の興味の範疇ではなかった。
 集客数は80人弱。これもピアノバーでは大規模なほうだが、黒木蘭のリサイタルにしては「もったいない」客数だ。実際に招待を受けたのは、集客数を少しばかり超えているはずで、そうすると店中が立ち見で溢れていることは間違いないだろうし、恐らく自分の姿はあの女には見つからない。――見つかるはずがないと、充は信じた。
 あのうつくしいソプラノを思い描くだけで、心は、弾む。一番に気に入りの曲を脳裏に描き、人通りの多い繁華街を抜ける最中、うるさく震えた携帯電話を鳴らしたのは、件のクラスメイトだった。
『岡崎君?』
 甘い抑揚で自分を呼ぶ少女のクラスメイトの声に、充は一瞬だけ、浮かれていた意識を引き戻された。
『あのさ、明後日のことなんだけど――』
 彼女の用件は、明後日に予定されている、忘年会と名をつけた親睦会の出欠確認らしい。少し遅いクリスマスパーティも兼ね備えたそれは、これを機に特定の女子と仲良くなりたい男子生徒と、同じ目的を持った女子生徒とが幹事となり、積極的にクラスメイトたちを纏めている。
「うん、俺は行くつもりだけど。――そう。楽しみだね」
 誰と誰が参加して、誰が参加しない。そんな情報を垂れ流して耳元を通過する、高い少女の声は嫌いではなかったけれど、あの美しいソプラノを思い描いたときほど、心は弾まない。――彼の声を聞いたときほど、心は、暖まらない。
「じゃあ……また、明日」
 雑談を長引かせたい様子の彼女に「用事があるから」と詫びて通話を切り、ポケットに携帯を戻す前に、充はその電源を落とした。
 ノーネクタイノースーツであることを確認していたので、ラフな私服姿の充でも然程目立つこともなく、中に入ることが出来る。既に観客の多くは席につき、各々歌姫の登場を心待ちにしている状態だった。
 歌手の立ち位置からの距離は近く、ホールを見回して考えあぐねた結果、充は入り口にもっとも近いテーブルの影に、佇むことにした。一番に照明の当たらない、一番に人目につきにくい場所だ。
 少しだけ視線を巡らせば、ピアノのすぐ横、関係者らしき男と話している黒木蘭と、そのマネージャーの岡崎裕美が見える。義姉の裕美は、自分よりも遥か年輩の男と会話を交わしながらも、何故か少し険しい顔をしていた。何か問題でも起こったのだろうか。気になってつい見つめていると、ふいに泳いだ姉の視線が自分を捕らえ、「あ、」という形に口を開いた。姉が何か言葉を発する前に、充はそっと、口元に、立てた指を宛てる。
 観客を装っているとはいえ、すぐその傍らにいる母親に自分が見つかるのは、やはり具合が悪い。
 充の意図を読み取って、姉もまた他人の顔をし、充の知らない男との会話に戻る。その仕草にも、充に寂しさはない。
 そして開演時間を少し過ぎたころ、突然に落とされた照明の中、唯一のライトを浴びて佇む女が、ホールを見渡して緩やかに微笑んだ。
 歌姫、などと呼ばれる歳ではとっくにない女は、けれど充にとって唯一無二の歌姫だった。
 流れ出したピアノは、歌劇「ワリー」からの最も美しいアリアだ。この歌が、とても好きだった幼い日、意味も知らずに、請い続けた。
 ――Ebben, n'andro lontana
 さようなら、
 ――遠い故郷の我が家よ……
 少女の故郷への惜別をこめたうつくしいソプラノに耳を傾け、充はそっと目を閉じた。

 

 年明けはスペインで過ごすことになる、と語りながら熱いコーヒーを啜った彼女の横顔に、それほどの疲労は見えない。むしろ活き活きと輝いてさえ見える、彼女は、仕事を生き甲斐にするタイプの女だ。
「そう……大変だね。姉さん、日本で年を越したことって、ここ暫くないんじゃないのか」
「そうね、でも向こうでゆっくり調子を整えてもらって、万全の状態で舞台に立ってもらわないと」
 実質上、母の最大のスポンサーとなっている義父はまだしも、マネージャーとして黒木蘭の一切のスケジュールを任されている裕美は、彼女と四六時中共に過ごしている状態にある。体調を崩し易く、また精神的にも脆い女を支えながら西に東へと赴く裕美の気苦労は、自分には計り知れない。
「母さんは?」
 密やかなコンサートを終え、恐らくはそのあとも事務的な仕事に追われていたであろう姉が、ホテルの喫茶店でこうものんびり自分とお茶を飲んでいていいものだろうか。気遣いと疑問に首を傾げた充に、裕美は小さく笑った。
「今ごろ眠ってるんじゃないかしら。最近はね、よく眠れるみたい。暫くはコンサートのあとなんて興奮してて眠れなかったみたいだけど……」
「姉さんは疲れてないのか。俺のことなら気にしないで、もう休んで」
 裕美は答えず、ただそっと微笑んだまま口元に白いカップを宛てた。
 ミルクと砂糖を充分に混ぜ合わせた淡い色のそれのように、彼女は甘く、優しい温度で、充を慈しむ。裕美を目の前にすると、充は否応にも思い出さなければならなかった。切り捨てて置いてきたはずの、望みを。
 家族という形式でのみ与えられる無限のそれを望んだ、自分を。
「――芳野さん」
「……え?」
「芳野さんとは、どう? ちゃんと上手くいってる?」
 裕美の言葉に深い意味がないことを知っていて、充は頷いた。
「そう……。それならよかった。他人との同居なんて最初は心配してたけど、芳野さん、ちゃんと充のお世話をして下さっているのね」
 家事の一切を任されていることはこの際伏せておくことにして、充はただ笑みを殺した。
 裕美はずっと、気に病んでいるのだろうと思うことがある。
 裕美とその父は、充を保護という名のもとに、家庭から切り離した。怨むことは見当違いで、その決断を下すまでに彼女と義父が苦悩したことは、充にもぼんやり理解できる。
 もっと早く、隔離するべきだったのか、されるべきだったのか、自らそれを望むべきだったのか。――自分にも、到底答えは出せそうにない。
「よかった。……本当に、よかった」
 ただ独り、義弟を世界に放り出さずに済んだ、そのことを安堵する呟きが、裕美の唇から痛切に漏れる。
「だから本当に大丈夫だよ、姉さん。俺のために時間を裂いてくれたのは本当に嬉しいけど。姉さんが無理をしたら、だめだよ」
 もう深夜にも近い時間帯、自分と会う時間をわざわざ作ろうとしてくれた姉の心遣いは本当に有り難いと思う。
 微笑んで、気遣いの言葉を口にした充を、裕美はどこか眩しげに目を眇めて見つめた。
「……何?」
「私ね……私たちね。あなたに話していないことがあるの」
 殺意すら抱いたことのある、酷い自分を知っている。虚ろな殺意を自らの母親に抱き、そうして結局蹲って泣くしかなかった充を、一部始終見つめていたのが、この女だ。
 裕美はその重々しい唇を持ち上げ、悲しく笑った。
「……あなたのことを忘れたときの、蘭さんの話」
 ――そして、何かを許すように、口を開いた。
 母親の記憶喪失が、ある時期のみぽっかりと穴が空いているわけではないのだと聞いてはいる。過去の記憶が交錯していたり、或いは妄想した記憶を作り出したりと、彼女の症状はかなり複雑な構造をしているらしい。
「母さん――蘭さんね、ずっと、あなたの名前を呼んでたわ」
 ただその中に、自分の孕んだ子どもの存在だけがない。
 何を覚えていようと、何を作り出していようと、何を忘れていようと。充には、その事実だけが判っていれば、充分だった。
「充はどこにいるのって、うわ言みたいに繰り返してたの」
 母親の記憶に、自分がいない。その現実だけがそこにあり、それがもう誰も苦しめないのなら、充分だと。
 あの人がもう苦しまないのなら、それだけで充分なのだ。要らないと、放り投げられて、切り捨てられて、捨て置かれても、いい。要らないものになった自分を、拾ってくれる暖かいてのひらが、あった。だからいい。だから自分は、どんなあの女の決断も、受け入れられる。
 静かな心で。
 諦めに似た、静かな、心で。
「あたしのせい、あたしのせい、って。何回も、何回も。充がいなくなったのはあたしのせいなのって、叫んで。もう、その次の日には、あなたのことは何も……何も」
 感極まって、涙の滲むその声が、静かだった心に、波を立てる。
「あの人は……俺を、きらいで、だから忘れたんじゃないのか」
 乾いた唇を湿らせるように吐き出した声は、みっともなく掠れた。
「そんなわけ、ないじゃない。蘭さん、きっと、辛かったのよ。あなたまで自分のそばからいなくなってしまったことが。……そしてそうしたのが、自分だったことが。それが辛くて、きっと……」
 凍て付くように冷たく吹いて、けれどじわりと熱い何かが胸の奥から滲み出す、この感情を、何と呼べばいいのだろう。
「ごめんなさい、……ごめんなさい、充。私たちのせいね。私たちがあなたと蘭さんを遠ざけたりしたから……そうしたほうがいいって、決め付けてしまったから、こんなことに……」
 裕美は細い肩を震わせて、嗚咽した。
 充は何も言わず、その肩を見つめる。
 ――ただ、カップを掴んだ指だけが、細く、震えた。

 なぜか歩きたい気分だった充は、裕美が呼びつけてくれたタクシーを、アパートから少し離れた場所で降りた。頭を冷やしたいと、ぼんやり思っていたのかもしれない。それから、熱を持ってひりひりと腫れた、たぶん、心臓あたりを。
 こんなふうに、冷えた夜の空気を肩で切っていると、一年前の夜を思い出す。
 ゴミの収拾場で出会い、可燃物の日に誤って出された不燃物でも持ち帰るように、寶に連れて帰られた夜のことを。
 自分は何もかもを捨て置いてきたくせに、切り捨てられた充を同情して、仕方なく拾い上げてくれた、やさしい男のことを。
 寶はたぶん気付いてはいないだろう。無関心を装ったその眼差しが、ときおりひどく痛ましげに歪んで、充を見つめていた。だからあのころ充は、ひどく安堵していた。同情を表面上隠し通すくらいには――無関心を装ってくれるくらいには、彼はやさしい人間なのだと、知れたからだ。
 けれど簡単に切り捨てられるのは、やさしい彼が思うよりもずっと、楽なことだった。
 どれほど慕っていようと、どれほど想いを募らせていようと、相手が百パーセント自分を想っていないことが知れたなら、その瞬間、この胸は穏やかな諦めを抱ける。
 諦めは、なんてやさしい感情だろう。
 もはや自分の想いは自分のものでしかなく、それに一方的に浸っていられるのは。
 なんて穏やかな、感情だろう。
 憎まれ続けるよりは、ずっといい。
 疎んじられて厭われるよりは、何もない、空っぽの状態のほうが、楽に決まっている。
 そうやって決着をつけていた静かな心に、裕美の言葉は、緩やかな波を立てた。
 夜空に白い吐息を撒き散らしながら、ふいに、切ないと思う。
 切ないと想った瞬間に、この感情を共有してくれる人間がここにいないことが、寂しくなる。
 そのとき携帯の震動が音もなく着信を告げて、充は慌ててそれをポケットから引き抜いた。
 こんな時間にわざわざ携帯を鳴らしてきたのが誰かを確かめもせず、それを耳に宛てた充は、開口一番にその名を呼んだ。
 予感がした。
「――たからさん?」
『ああ、クロ、ちゃんとメシ食った? ……っていうか』
 出会いのころのように――おまえは本当に、ばかみたいにしゃべるんだな。そうやって彼が揶揄するように笑った。その幼い声で、呼びかけてしまったのかもしれない。
『クロ? どうしたの、なんかあった?』
 だからきっと彼は、気付いてしまった。
 少し震える心に。
「いえ、……なんにも、ないです」
『クロ、今外にいる?』
「――どうして判ったんですか?」
『なんか、声に風が混ざって……。って寒いだろ馬鹿。早く帰んな。何こんな時間まで歩き回ってんだよ、あーもー馬鹿。おまえほんとに馬鹿』
「犬は外を駆け回る生き物ですから」
『馬鹿言ってんなよこの馬鹿』
 ほんの数秒間に五度も馬鹿呼ばわりされたことを声を立てて笑い、その声に、涙の色が滲んだことにも、充は気付かないふりをした。
 そうして、康行の言葉を思い出す。
 ――子どものふりをする、子ども。
 あの夜、無防備に晒した心のまま、幼い稚拙な心のまま、自分は彼と出会ってしまった。
 今更。
 ――今更。
「会いたいです」
『……何?』
「会いたいです。たからさん。あなたに、とても」
 充は、何もかもを、許した。諦めに似た心で――それが最も、自分のうちで、美しい感情だと信じながら――母親のすべてを、許した。
 夫に捨てられたことではなく、それによった狂気で自分の子どもを傷付け続けたことが、最も忘れ去りたい記憶だったのだろうと思えたからだ。
 傷付けたことが恐ろしくて、自分にまつわる記憶ならすべて消去したいと願ったなら、それでいい。
 それで、いい。
 もうそれだけで、いい。
『……だからいっしょに来いっていったのに』
「だっておれ、忘年会ありますから」
『じゃあ会いたいとかいうなよ、馬鹿。もー、俺にどうしろっていうの。帰れって?』
「いえ、そこまでしなくてもいいです。年明けたらどうせ会えるんだし」
『可愛くないねおまえ。帰って来いっていったら帰ってやったってよかったのに』
 変わりなくそっけない寶の声に、漸く充は、涙を流した。
 それはひどく密やかな、嗚咽もない小さな雫でしかなかったけれど、確かに頬を暖かく濡らし続ける。
 愛されたと、思った。
 ――俺はもう充分、愛された――
「でも、会いたいです。……会いたい、たからさん」
 遠い故郷の女に思いを馳せて、充はただそっと、笑いながら泣いていた。
 憎悪と呼ぶには虚ろに、殺意を抱いた。その自分は決して消えない、今もここに、生きている。
 けれど、愛されたことを、忘れはしない。
 忘却を望むほど強く想われたことを。
 きっと忘れはしない。

 


    

 

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クロ15歳。【1】

 


20060123