さようなら、遠い故郷の我が家よ

 クロ15歳。【3】

 寶の頭部に残された傷口は、額の上の傷のみだった。最初に蘭が割ったグラスの欠片によってつけられたもので、出血の割りには縫うほど深く抉られてはおらず、頭部への治療は止血のガーゼと包帯を巻かれただけに留まった。けれど寶自身も心配していた左手首は骨に小さなヒビが入っており、全治一ヶ月の重傷だ。
「本当に、申し訳ない」
 今目の前で頭を下げている男は、戸籍上、自分の父にあたる。照れもあって、まだこの男のことを心から父親と呼ぶことはできないけれど、母を私生活でも仕事でも支えてくれる、頼もしい人だった。
 母親が眠りに就いたあと、治療を終えていた寶と充はこの男に呼び出された。訪れた病室は上の階に位置しており、スペース自体も一般の病室より随分と広い。来客用か、二人がけのソファが対面する形で二脚置いてあり、その片方に充と寶は腰を降ろしていた。世界的な有名人だけあって、病室もVIP扱いらしい。
「通院費と治療費はもちろんこちらで全額負担させていただきますし、もしも慰謝料をご希望されるのであれば、お答えさせていただくつもりです」
「いやあの、そういう生々しい話はちょっと……」
 ただでさえ逞しい身体つきであり、また貫禄のある岡崎にしっかりと頭を下げられ、寶は気圧され気味らしい。
「ク……充君の、おうちの話ですから。俺は特に何も」
「駄目です」
 うろたえ気味の寶の声を遮り、充は真っ直ぐ岡崎の目を見詰めた。
「しっかり話をしてください。――岡崎の父さん、母さんが壊した家具が幾つかあるんです。それをあとで請求しても?」
「ああ、もちろんだ」
「それから、今後母さんが寶さんのアパートを訪れる可能性があるなら、住所を変えておきたいんです」
「そうだな、そのほうがいい。――引っ越しの資金も、負担させてもらおう」
 重々しい頷きで、岡崎は要求に応えてくれた。彼もこの事態を重く見ている証拠だろう。詫びの言葉だけで片付けられる話ではない。身内のみの騒ぎならともかく、今回は赤の他人を巻き込んだのだ。
「……ありがとうございます」
「え、ちょ……あのさあ俺引っ越すつもりとかないんだけど」
「念のためです。――というかあなたのためです。すみませんが、心の準備お願いします」
「うそだろ……」
 きっぱり答えた充に、寶は呆然と呟いた。
 ただ姉だけが、どこか疲れた眼差しで――不思議そうに、自分を見つめている。
 まるで、他人の顔をして、充がここにいることを、訝しんでいるように。
「念のために、念書を取らせてもらってもいいですか?」
「な……おい、そこまですることないだろ、家族相手に!」
「あなたのためなんです!」
 驚愕したように声を上げた寶を、充は厳しく一喝した。決して、岡崎を疑っているわけではない。安全のために、自分と蘭と隔離してくれたのもこの男だ。一度約束したことは違えないと信じている。
「……判ってください、寶さん」
 でも、とたじろぐ寶を余所に、岡崎もまた深く頷いた。
「いいんです、芳野さん。それがもっともの話だ。――君の言う通り、そうしよう、充君」
「お願いします」
 この遣り取りを見ても尚、姉はやはり、遠い目をして、不思議そうな顔をしている。
 その眼差しが、あなたは誰、と言っている気がした。視線を避けるふりをして、皮肉な気持ちで思う。――他人の顔をしなければ、こんなところにいられるはずがない。
 痛んで痛んで痛みきった心臓が、耐え切れるはずがない。
「充……?」
 ふいに、裕美が唇を薄く開いた。
 この数時間で、心も身体もすっかり疲れきってしまったのだろう、口を開くのも重たげで、いつもの凛とした顔付きは、今や面影もない。
「……どうしたの、姉さん」
 ただ不思議そうに、見ていた。知らない生き物を見つけたかのように、ひどく不審な眼差しで。その唇から零れる言葉の続きを、聞きたくもなかった。
 なのに充は、覚えた筋肉の動きでいつものように微笑んでしまう。
 その瞬間、姉の目に、どこか縋りつくような光が帯びたのを、確かに充は見た。
「ごめんなさいね、充。――許して、あげて」
 ――違う。
 きりきりと、胸の――奥底が、軋むように鳴った。それは多分、何かのずれから生じる、不快な摩擦音だ。
「ねえ、でも、蘭さんがあなたのことを想っていたのは……わかっているんでしょう? どうしてそんな……他人みたいな顔を、して」
 誰も。こんな言葉が欲しかったわけじゃない。一度も、欲しがったわけじゃない。過去、何度も何度も紡がれた言葉であっても、それを自分から望んだことは、一度も。
「本当ならあなたはもっと、充分に愛されていいのよ。もっとちゃんと、蘭さんの傍にいて……蘭さんが傍にいて、ふつうに愛情を注がれているべきだったのに、どうしてこんなことに……」
 ――ふつうって、何だろう。
 充はぼんやりと考える。普通の愛情。普通の幸福。それはいったい、どんな形をしていたのだろう。
「でも、仕方なかったのね。全部。仕方がなかったの。だから、充、……蘭さんのこと……許してあげて」
 彼女の記憶から自分が淘汰されたのは、憎まれていたからだと信じていた。
 だけどあの人が、俺の名前をずっと呼んでいたことが判って。今やっと判って、愛されていたことを知れて。
 嬉しかった。
 俺はそれが、とても、嬉しかったんだ。
 ――本当に、それだけで、よかったんだ。
「俺は許さない」
 その言葉を吐き捨てるとき、微笑むことすらできた。
 どうしてきれいなものを、壊すのだろう。
 誰も彼も。
 きれいな思いを、きれいなままで、いさせてくれなかったのだろう。
 ――忘れたなら、忘れたままで。
 いてくれなかったのだろう。
「で、でも……充。蘭さんは、あなたのお母さんなのよ。今日だって、あなたが心配で、」
「判ってる。だけど今回、寶さんを巻き込んだことを、俺は許せない」
「そんな……そんなふうに、いわないで」
 裕美は悲しげな眼差しで、じっと自分を見つめている。
 ひどく悲しくなった。
 もう遠い世界の住人になってしまったようで。
 ――そうだ。あんなにやさしかった人たちが、遠くなってしまう。
「今回は……今回は、蘭さんが、悪かったわけじゃないの。蘭さんの手の届くところに、手帳を置きっぱなしにしていた私が悪いのよ。だからお願い、充。蘭さんを、……責めないで」
「責めてるわけじゃない。ただ今後、寶さんを傷付けるようなことがあったら、俺はあの人を一生許さないって……そう、言ってるんだ」
「充……」
 ――あのやさしかった子はどこ、と。
 悲しく見つめる裕美の目が語っているような気がした。自分は変わってしまったと、そう思われているのだろう。母親に対する思慕の心さえ、どこかに置いてきてしまったと。慕って許してきたのは、もう遠い日々のことだと。
 ――構わなかった。
 仕方のないことでも、何でも、それだけは、許してはならない。自分ではなく、彼を。唯一無二の彼を傷付けたことだけは、許してはならないことだった。
「しょうがなかったの……本当に、しょうがなかったのよ……」
 誰の手を振り解いても、誰の涙を目の前に晒されても。
 決して傷付けてはいけないものを、傷付けられた。
 きれいなものを、壊された。
 だから自分は、それを切り捨てなければならないのだ。
 大丈夫。おれはきちんと、憎めるから。
 ――大丈夫。
「……なら、どうして」
 奥歯を噛み締めたその瞬間、ひどく静かな声が、鼓膜を震わせた。色のないそれは、すぐ真横から聞こえてくる。寶の声だった。
「どうして彼が……彼だけが泣かなきゃいけなかったんですか」
「充……?」
 姉の声に、周囲の視線がいっせいに自分に集まっていたことを知る。ひどく恥かしくなって、充は俯いて、その視線を避けた。その言葉通り、知らない間に零れていた涙が、頬を僅かに濡らしていたからだ。
「仕方のないことだって、あなたたちと彼は、それで納得できるんでしょう。それが一番だっていうんなら俺も納得します。俺、他人だし。怪我だって軽症だし」
 寶は包帯で覆われた左手をひらりと空に浮かせる。嘘だ、と思った。それはきっと、とても痛いはずだ。硬質な欠片で切りつけられた傷口は、自ら望んだものじゃない。痛い。きっと、とても、痛い。そう思うと、瞼の横の、今はもう見えない痣がじりじり痛んだ。なのに寶は、痛いはずの掌を、ぎゅっと強く握りこむ。
 誰も。傷付きたいなんて。
 握り締めた寶の拳が震えているのが、ぼやけた視界の隅に移る。
「じゃあ、今、どうして彼が泣いてるんですか。全部が仕方のないことなら、本当に納得できたんなら、今、俺じゃなくて、蘭さんでもなくて、あなたたちでもなくて!」
 ――瞬間、正体の判らない何かが、胸の奥から溢れ出すような気が、した。
「誰も悪くないなら、仕方のないことなら、どうしてこいつが、……充だけが泣いてなきゃいけないんだ! こいつだけが、諦めて、捨てて、泣いて!」
 喉から押し絞るように強く、怒気に掠れた寶の声に押し出されるように、それはやがて止め処ない涙になった。
「誰が好きで、自分の母親を切り捨てるような真似をしたいと思うんですか。誰が、自分から傷付いてもいいなんて、思うんですか。それを全部、彼に選ばせたのは、あなたたちだ。仕方がないって、諦めてきた、あなたたちが! どうしてあなたが、こいつに「許してやれ」なんて、そんなひどいことを言えるんだ!」
「止めてください、寶さん……」
 噛み締めた唇から、ちいさく零れた。ありがとう。ごめんなさい。あなたにこんなひどいことを言わせてごめんなさい。おれのために、ひどいことばを選ばせて、ごめんなさい。
 引き止めるために、腕を掴んだ。それは弱々しい力でしかなかったけれど、寶はきゅっと唇を引き締めて、言葉を留めた。けれど最後に、悲しそうな声で、誰にともなく問い掛ける。
「……誰が、こいつを「可哀想」に、しているんですか」
「じゃあ……じゃあ、どうすればよかったの……」
 涙に濡れた姉の声を聞いたときには、もう涙は止まらなくなっていた。
「私は……どうすれば、よかったの……」
 大好きだった。本当に、大好きだった。
 だけどもう、一番に守りたいものが、こんなにも違ってしまった。
 俺は、わかったんだ。
 大切なものができたら。
 大切だったものを、きちんと、置いてこなきゃいけないんだ。
 ――俺は、わかったんだ。
 すべては、仕方のないことなのだから。
 充はその言葉を、ゆっくりと、ひりつく喉から押し出した。
「……さようなら」

 

 病院から帰宅した直後の部屋は、欠片は散らばったままだしテーブルは転がったまま、蘭が投げつけて壊した家具はそのままのひどい状態だった。片付ける人間が誰もいなかったのだから当たり前だ。
 欠片を踏まないように部屋を歩いていると、そのひとつを寶の指先が拾う。
「おれがやります。座っててください」
「いいよ、細かいのはあとで纏めて掃除機かけちゃおう」
「だって寶さん、手……」
「利き手じゃないんだから平気だよ、つうかおまえね心配しすぎ。骨にヒビなんかふつうに生きてりゃよくあることだろ!?」
「いや、ふつうに生きてる分にはあんまりないとおもいます」
「現に怪我してるじゃないか、俺が!」
「だからそれは、今日がふつうじゃなかったからで……イテッ」
 怪我をさせた原因は俺だからと、また憂いを帯びていると、容赦のない拳骨が脳天を直撃した。
「おまえもう、しつこい! さっきから終わったことグチャグチャ掻き混ぜてそんなに楽しいのかよ!」
「しつこいって、だって、たからさん……」
「あっちこっちでお葬式みたいな顔しやがって、おまえもおまえだ、馬鹿! 痛いのはおまえじゃなくて俺だよ、おまえばっか痛い顔して泣くな!」
「……はあ」
 やっぱり痛いんじゃないかと言いかけて、結局止めた。また寶を怒らせてしまいそうな気がしたからだ。
「俺はこんなもん全然痛くないよ、おまえが痛そうな顔してるから痛くなるんだろ!? そういうとこに気ぃ遣えよ、馬鹿!」
「……すみません」
 さっきと矛盾していることを言っている自覚がないらしい寶は、溜まり切っていたフラストレーションをぶつけるように捲くし立ててくる。こちらも寶の八つ当たりには慣れっこなので、そんなことではいちいち傷付きもしない。
「あとおまえ、なんであんなこと言ったんだ!」
「……は?」
「俺は他人ですみたいな顔して、なんでわざわざ距離置くようなこと言ったんだよ、そんで自分が辛い顔してりゃ世話ねーだろ!」
「……はあ」
 どうしてこの人は、病院から帰ってきたばかりだというのに、こんなに元気なんだろう。そう思うと、自然と笑みが零れ落ちてくる気がする。
「っていうかおまえ笑ってんなよ」
「あ、はい。ごめんなさい」
 実際に浮かべた笑みに、寶はまた憤慨した。その反応すら予想通りで、いつも通りで。
「――寶さんが無事でよかったって、思って」
「はあ!?」
「本当に。よかったって、おもったんです。ごめんなさい」
 とりあえずは欠片の落ちていない、無事なベッドの上に避難させ、恐々と抱き締めた身体は、嫌がらなかった。
「怖かったんです。――寶さんの目が、どうにかなってたら、どうしようって」
 もしもグラスの欠片が僅かにでも眼球を傷付けていれば、視力の低下は免れなかった。――過去、自分がそうであったように。だからこその安堵を、寶はただじっと受け入れ、そしてふいに小さな声で呟いた。
「――俺、裕美さんに、八つ当たりしたな。ごめん」
「……おれに謝らないでください」
「うん。でも、ごめんな」
 もうその声には、先ほどまでの険しさはない。言い聞かせるように穏やかな声で言いながら、寶は不器用に左腕を持ち上げる。
「本当はおまえが一番しんどかったんだろうけど。なんか、裕美さんが……ああ、違うな、あの人が悪くないのも、俺、ちゃんと判ってるんだ。だけどあの人はおまえのことを心配しすぎて、蘭さんを心配しすぎて、少しおかしい方向に行ってるって思ったから」
 持ち上げられた左腕は、やがて宥めるように、背筋に添って充の背中を撫でる。
「なんだろう……俺も、あのとき、どうしたかったんだろう。よくわかんないんだけど。おまえが泣いてるのは理不尽な気がしたんだ」
「……はい」
「裕美さんは、おまえのことを可哀想だって思ってる。それで、自分が何もできないことを責めたりもしてる。おまえはもっと、ふつうに愛されてよかったんだって思うのは、裕美さんの勝手だけど。それをおまえに押し付けるのは、……たぶん間違ってる」
「――……はい」
「だっておまえさ、嬉しかったんだろ? お母さんが、おまえのこと嫌ってたんじゃないっていうの。おまえのこと嫌いで忘れたんじゃなくて、おまえがいないのが寂しくて全部忘れようとしたんだって、――そういうの、全部」
 寶は、自分の考えを整理するかのように、ぽつりぽつりと言葉を零した。その声を聞きながら、ふいに首筋に鼻先を埋めると、ほのかに消毒液の匂いがした。
 じわりと滲んだ視界を誤魔化すように小さく頷くと、寶は咎めもせず、「じゃあそれでいいんじゃない?」と吐息で笑った。
「おまえがそれで満足なら、おまえはふつうに愛されたりなんかしなくてもいいんだ。ふつうの基準なんか誰も判りゃしないんだから。それから、仕方がないって、周りが先にが諦めるのも。それをおまえに言い聞かせるのも。……許せって、いうのも」
 ――少しずつ、あの人は、違ってる気がする。
 最後に寶は、遠慮がちな声でそう付け加えた。彼も完全に客観的な視点を持っているわけではない。充側に大きく偏った視点を持っていることを、しっかり自覚した上での本音だ。だからこそ遠慮がちに付け加えられたそれがおかしくて、充はやはり、少しだけ笑う。声にはなってくれなかった。
「それでおまえ、ほんとによかったの」
「……何が、ですか?」
「さようならって。あれ。よかったの」
「ああ、あれは……いいんです」
 彼ならきっと気に病むだろうとは思っていた。その核心をそっと突かれて、充はただ苦笑するしかない。家族との――母親との完全な決裂を、彼ならきっと気にするだろう。
「俺のせい?」
「いえ……おれのためです。もしも今日、俺が母さんのところに戻ったとしても、同じことの繰り返しだったと思うから。たぶん、これでよかったんです」
 大切なものが、幾つかあるとして、どちらかがどちらかを傷付けるのなら、このてのひらには、二つを同時に抱けない。ただ、それだけのことだった。――ただ、それだけの、決断だった。
「とはいっても、生活費はまだ岡崎の父さんに出してもらっているので、あまり偉そうなことはいえないんですけど」
 早く大人になりたいと思っていた。早く大人になりたいと、曖昧な願いばかり、抱いていた。どこか、遠いところへ行こう。傷付けられない、誰も傷付けない、どこか遠いところへ行こう。そして逃亡した結果が、これだ。
 逃れるだけでは不完全だということを知らないために、傷付かなくてもいい人を傷付けた。自分はたぶん、もっと早くに、決断するべきだったのだろう。
「なんかさあ、康行がおまえのこと大人っぽいとかしっかりしてるとか言ってるの、今まで意味わかんなかったけど。今日やっと判った気がする」
 身体と身体の間に隙間を作った寶は、じっと顔を見上げてくる。真っ直ぐな視線を受け止めると、視界に入ってくる額に巻かれた包帯がやはり痛々しくて、思わず目を伏せてしまいそうになる。
「おまえは俺の前じゃクロなんだよな」
 何を当たり前のことをと答えそうになるのを堪えて、充は「はあ」と頷いた。
「岡崎充? とクロは、なんか別人な感じ。おまえさ、勝手に境界線作ってない? クロのときはこうで、充のときはこう、みたいな。クロのときは……そうだなあ、なんか色々おかしいけど。充のときもおかしいよな」
「……はあ、まあ。そうかもしれないですけど。っていうかそれどっちもおかしいんじゃ」
「仕方ないだろ、おまえ俺の前じゃクロなんだから。充のときの話なんかわかんないよ、今日やっと初めて見たくらいだ」
 違いがあるとするならば、出会いが出会いだったせいだ。ゴミの収拾場で拾われた自分が格好をつけるのも今更だという話である。それは自身が望んで強いた境界線ではなかったけれど、よく判らないうちに自然そうなったといって、信じてもらえるだろうか。
「だから「子どものふりしてる子ども」ね、康行の言ってることの意味、やっと判ったよ。あいつもなんか抽象的な言い方するから余計わかんないんだよ」
 少なくとも、姉や母や義父の前では、あれほど無遠慮に涙など流せはしない。
 寶も寶で思うことがあったのか、一人納得して頷いている。
「あ、あの、たからさん……?」
「なんかそれムカつくからおまえ今日からクロ止めな」
「は? いや、あの、それどういう……」
「だからおまえ今日からクロ廃業。充になりな、俺の前でも。なんかそういう境界線とかやられるとすごいムカつくから」
「そう言われましても……」
 充は充で、意識してそれを遣って退けていたわけではない。ただ単純に寶の前だと気が緩んで、心が丸裸の状態になる。だから素直に拙い言葉でも伝えようとするのに、それをいきなり止めろと言われても、無茶な話だ。
「何、なんか不満?」
「不満とかじゃなくて……難しいなあって」
 覆いのない真っ直ぐな感情さえ拒まれるのだとしたら、それは少し、悲しい話だ。肩を落とした充を見て、「ああもう、うざい!」と寶は頭を掻き毟った。
「こう言えば判る? ――もう誰も、おまえを傷付けたりなんかしないよ」
 包帯が解けはしないかと心配した充を余所に、睨みつけるほどの強さで、彼は真っ直ぐに自分を見据えた。
「誰もおまえを傷付けない。できるはずがないんだ。俺がここに、いるんだから。……だからおまえは「クロ」なんて名前に拘らなくていい」
 そうして反らすことを許されず、真っ直ぐに放たれた言葉が、ふいをついて自分の深い部分を抉った気がして。
「わざわざ欲しがるために、悲しむために、自分に「クロ」なんて名前を付けなくてもいい。岡崎充も、クロも、俺が丸ごと全部もらってやる。それでなんか不満なのかって言ってるんだよ」
「――いいえ」
 どうして。
 どうして彼はこうも、簡単に。
 この両目から、涙を生み出すのだろう。
「……もらってください」
 ――どうしてこんなに、涙が溢れるのだろう。
 彼の前では当たり前に、涙が溢れてくれるのだろう。いっそ不自然なくらい、自然に。
「俺を全部、もらってください、寶さん」
「よし」
 満足げに頷いた寶が、まだ涙を流す充の前髪を引っ張って、唇を寄せる。触れるだけのキスは、涙の味がした。けれど、このキスと抱擁だけが、生きる糧になるのだろう。切り落とした自分を救うのだろう。あなたさえいれば、なんて言葉の美しさを信じているわけではないけれど、今はそれに、縋るしかない。

 

 漸く部屋の片付けを終え、壊された家具をリストアップしている最中に、寶は包帯が巻かれたまま風呂を浴びるという無茶をやらかした。「髪に血がこびりついて気持ちが悪い」というのが彼の主張だった。当然、医師からは入浴を控えるように言い渡されている。ただでさえ額を怪我しているのにと眩暈を起こしながら入浴は充が手伝うことになり、左手と額を庇いながらの洗髪が終わったころ、充は色んな意味で疲れ果てていた。怪我人の自覚がない怪我人ほど扱い難いものはない。
「あーうん、だからね、ク……充の家のほうがちょっと大変なことになってて。……いやそりゃ確かに俺がいたってあんまり役に立たないんだけど。誰もいないより俺がいたほうがいいだろ」
 髪を乾かしてやっている最中にかかってきた電話の相手は、どうやら康行らしい。前髪から滴る雫に眉を寄せながら、寶は小声で「もーこいつウザい」と背後の充に、こっそり囁いた。まるきり拗ねた子どものような表情に噴き出して、充は彼の濡れた髪を拭っていた手を止める。寶の左手首の包帯は暫く取れない予定なので、こうして世話をする機会が度々出てきそうだ。
「俺から言い訳しますか?」
「いいよ、どうせあいつおまえには怒んないんだから。――……あ、ごめん、聞いてた聞いてた。ほんとに。……いや、今から帰ってこいっておまえわりとひどいこと言うよね? むり」
 どうやら寶は康行に無断で戻ってきていたらしい。それに対する抗議の電話なのだろうとぼんやり思いながら、充は黙々と寶の髪を乾かし続けた。それから似たような遣り取りを幾つかかわしたあと、ふいに携帯を掌で塞いだ寶が溜め息混じりに尋ねてくる。
「あのさあ、康行が帰って来いって。初詣に行く約束してたんだけど、なんかどうしても行きたいらしくてね」
「いつ帰るんですか?」
 寶の怪我を見たときの康行の剣幕を想像すれば、申し訳なさで胃が痛くなるような気がしたが、それでもなお寶が帰るというのなら、止める権利が自分にはない。いってらっしゃい、と見送りの言葉を押し出そうとすると、被さるように「だからね、」と寶が首を傾げる。
「おまえも一緒に帰ってこいって、康行が」
「……俺も、ですか」
「そう。三人でいきゃーいいじゃんって。男三人で初詣とか暑苦しいことこの上ないと思うんだけど」
「……はあ」
「厄払いも兼ねて、いっとこうか」
「……俺が行ってもいいんなら、行きますけど」
 頷いて答えると、寶は早速康行に向かって「じゃあ明日帰る」と告げ、通話を切ってしまった。
「あーもー、めんどくさい。今日戻ってきたばっかなのになんで速攻実家帰んなきゃいけないんだよ。なんであいつも初詣にそこまで拘るんだか……」
「康行さん、寂しいんじゃないんですか? 勝手に帰られちゃったのが」
「はは、それはあるかもね」
 からりと笑った寶は、それでも面倒臭い、面倒臭いと二度目の帰省をごねている。手間と時間を考えれば多少は嫌がるのも当然で、だからこそ充は不思議になった。
「……なんで今日帰ってきたんですか?」
「だからおまえが会いたいって言ったからだろー、二回も言わせるなよ」
「そうじゃなくて。……だっていつもは、それくらいじゃ帰ってくる人じゃないでしょ、寶さん」
 彼がどれほど面倒臭がりなのかは、充もよく知っている。出会ったころに比べれば自主性も伺えるほど活発になったとはいえ、彼は基本的に動きたがらない怠け者だ。休みとなれば一日中引き篭もっている彼が、こうも短い期間に長距離を移動することなど通常考えられない。
「いつも通りじゃなさそうだから帰ってきたんだろ、……っていうかさ」
「はい?」
「おまえ最近よく女の子から電話かかってきてたよね?」
 タオルを動かしていた手を止めさせて、寶が身体ごと向き直る。緩く首を傾げた彼の目は、どこか問い質すようにきつく澄んでいた。
「……女の子、ですか」
 それなら思い当たる節はある。けれどそれと寶の発言がどう繋がってくるのか見当もつかず、「それが?」と充は首を傾げた。
「だからそういうわりとしつこく電話かけてくるような女の子だったら、特に弱ってるときはおまえなんか簡単にぐらっといっちゃうんじゃないのかなとか、なんか飲みにいくとかって話もしてたし……」
 一息に言い切った寶の言葉は、語尾は段々と小さくなり、終いにはよく聞き取れなくなる。
「……やっぱなし。今のなし。忘れて」
 挙句、耳朶を赤くしてそんなことを言うものだから、笑ってしまった。
 心配なら心配と、告げてくれたって構わないのに。
 そうしたら自分は、あなただけが好きだと、真面目な声で言えるのに。
「……あの、寶さん、俺来月誕生日なんです」
 本当は真正面から抱き締めたかったけれど、きっと彼は顔を見られるのが恥かしいだろう。だから背中から腕を回すと、何だか縋りつくような格好になった。
「知ってるよ」
 恥ずかしがり屋のこの人に、今はなお、好きだなんて言えはしない。代わりになる言葉を懸命に探したけれど、どうにも上手く思いついてくれないので、仕方なく唇は雑談を吐いた。
「だからお祝いしてください。康行さんと」
「お祝いって、子どもじゃないんだから、ク――」
 笑いかけた彼が、呼びかけた名前を一度止めて、唇を引き締める。
「――みつる」
 ややあって解かれた唇から零れた名前に、少しだけ、泣きたくなった。
 もう誰も、自分のことを、あの名前で呼ばない。そのことが寂しいような、悲しいような、けれど自分のすべてが漸く統一されたような清々しさを感じもした。
 ――俺は、
 ――俺は、それほど、不幸じゃありませんでした。
 大好きな人が、たくさんいた。愛された記憶もあった。それは確かに大きな痛みを生みはしたけれど、俺は、幸福でした。幸福でした。
 手探りで抱き締めながら、誰にともなく、胸のうちで呼びかける。義姉にかもしれず、母にだったかもしれない。或いは望んで名付けた、もうひとりの自分にだったのかもしれない。
 ――だけど少しだけ、ほんの少しだけ、可哀想でした。可哀想な自分を知ることで、存分に悲しむことができました。可哀想な自分を自覚しているときだけ、存分に欲しがることができた、泣くことができた、諦めず、想い続けることができた……
 自分が呼ばれ慣れるのと、彼が呼び慣れるのと、どちらが先だろう。そう考えると、涙の味のする唇でも、微笑むことができる。
 もう故郷をいとおしむ歌は、この胸に流れない。
 充はこの日、15歳のクロに、さようならを告げた。

 

 

 

 クロ15歳。【3】


20060212