優しい物語 金魚4


「――由成、噛むな……」
 ひそやかな囁きで痛みを訴えると、上に伸し掛かった身体が身動ぎして「ごめん、」と悪びれずに呟いた。
「……なんか美味しそうで」
「……死ねクソガキ」
 噛まれた首筋がじんじんと痛む。もしかしたら歯型でも着いてしまったかもしれない。裸体を人前に曝け出すのは、何年振りだっただろうと顔を顰めながら思う。長い間一緒に暮らしていたこの少年にさえ、ここ数年は裸など見せたことはなかった。
 それは由成にしても同じことで、何年か振りに見る由成の全身は記憶にあるそれとは異なっている。あの頃は――こうやって裸で、ひとつのベッドで抱き合うことになるなんて、思いもしなかった。ひどく不思議な思いで、恭一は由成の裸体に視線を遣った。
「――基本的には変わってないけど……やっぱり少し痩せたね。あんたはもう少し食べて、運動した方がいい」
 恭一の脇腹を指先で辿りながら由成が囁く。気恥ずかしさで穴を掘って埋まりたい気分になりながら、指先が触れる箇所から流れる甘い刺激に恭一は耐えた。
「……好き嫌いしないで」
「そしたらもっと美味そうに見えるって? ……おまえ、人の身体のことなんか、よく覚えてるな」
 息を詰めながら呆れ半分に吐き出した言葉に、由成はどこか決まりが悪そうな顔で、
「……思い出してたから。…ごめん、……」
 眼を逸らして声を潜めた。
 どうして謝る必要があるのかと首を傾げかけて、言外に含まれた理由に気付いた恭一はかっと顔を赤らめる。その言葉が示す意味に眩暈がした。
「いちいちンなことを自己申告するんじゃねぇ、どこまで馬鹿正直なんだおまえは!」
「だからごめんって。……恭さんでするのが一番良かったから」
「言うな、頼むから言うな、もう喋らないでくれ……」
「うん、」
 至極真面目な顔で頷いた由成は、気が遠くなりそうな羞恥に顔を赤くしている恭一を宥めるように、その素肌に掌を滑らせる。冷たい、なのに暖かい。くすぐったいだけの刺激が、由成の掌から生み出されるものだと思うと、否応なく喉が鳴った。
「………ッ、…」
 噛み締めた唇から声が漏れる。それは奥深くから湧いて出る激情に似て、堪えようとして到底堪え切れるものではない。
「――痛い?」
「……なわけ、ねえだろ……」
 撫でられる掌の動きだけで痛みなんか感じるはずもない。いっそじれったいくらいの刺激なのに由成は心配そうな顔で訊いてくる。全く馬鹿みたいな性交だ。
 開いた脚の間に男を迎えている恰好は違和感よりも羞恥の方が強い。まだ正気が残っている証拠だ。ひとつひとつ、厭味なくらいに丁寧に自分に触れてくる由成に比べれば、自分の飢餓感の方が強い気さえする。
「――…由成、……由成…」
 求めるように名前を繰り返すと、由成は察して掌を下肢へと滑らせた。そっと中心を握り込まれて思わず咽喉が仰け反る。大きな指に包み込んだそれに刺激を与える間にも、由成は絶えず恭一の顔にキスを降らせ続けた。
 一分一秒も惜しいというように。――一秒でも身体のどこかが溶け合っていなければ嫌だとでも言うように。
 とっくの昔にスイッチが入っていた身体は、焦がれた手によって簡単に昇りつめた。
「……やっぱり違う」
 その手で自分を煽り立てている由成が感慨深く呟くのを、汗ばんだ肌に張り付く前髪を振り払いながら胡乱に眺める。呼吸は整える術すら忘れてしまったように、荒く弾んでいた。
「――な、にが」
「想像してたのと全然違うなって。……やっぱり本物の方が、」
「うるせェ黙れ死ねっ……ッ…」
 熱っぽい眼で恭一を見つめながら由成が囁いた言葉を、無理矢理に遮る。急速に昂ぶる情欲に追いつくのが精一杯で、由成の視線がどこに向けられているのかも気付かなかった。――見られていた。表情も、徐々に形を変えていく様も全て。そう思った瞬間、体内に燻っていた欲望が弾け飛ぶ。
「――…ぁ、……」
 きれいな掌を、自分の吐き出したもので汚してしまった。その衝撃に、一瞬の高まった快感も忘れて呆然とする。――汚してしまった。
「――……ご、め……」
 恭一は両腕で抱え込むように顔を隠しながら、途切れ途切れに言葉を吐き出す。荒い呼吸の間に吐き出す言葉は、ただ苦しかった。
「……なんで謝るんだ」
 しかし由成はやさしく微笑うと、掌を濡らした白い液体を赤い舌先で舐め取った。それを見た瞬間に身体を熱くさせた感情は、羞恥からの興奮なのか、ただの嫌悪感なのか、最初からまともではない頭では判断できない。
「おまえっ……、」
「謝ることなんかない。……俺はたぶん、幾ら謝っても足りないくらいのことを、あんたにするから」
 由成の指は、一番深い場所へと辿り着く。これから行なわれることを仄めかすように、その指が入口を数度引っ掻いた。
「――由成、」
 無意識に身体を強張らせて、縋るように顔を仰ぎ見た。しかし由成は恭一の怯えを許さない。
 暗闇の中で慣れた眼が捕えた由成は、ひどく真剣な眼をして――男の顔付きをしていた。
 その顔を見た瞬間、ふいに泣きたい気分に狩られて、恭一は眼から零れ落ちそうな何かを耐えようと目蓋を落とす。
(――おまえは、知らないだろう、)
 恭一は意識して強張った身体の力を解くと、代わりに由成の背中を掻き抱いた。爪を立ててしまうことを恐れていた行為を自分に許す。甦ったこの胸の痛みが、すこしでも伝われば良いと思う。
 恭一の奥深くに芽生えている大きな罪悪感は、きっと誰にも伝わることはない。
 随分と長い時間を掛けて解された場所に、それでも育った熱が宛がわれると考えるよりも先に身体が動いてしまう。
「恭さん……唇を……」
 痛ましそうな声で告げられるまで、恭一は自分が強く唇を噛み締めていたことに気付かなかった。そういえば口の中がやけに血生臭い。
 由成の指がやさしく唇を撫でた。
「……すぐ、終わらせるから」
 囁きは、まさに最終通告だった。無慈悲に貫かれた身体に走った激痛が、声にならない悲鳴を迸らせる。
 痛みは凄まじく想像を遥かに越えていたのに、恭一は待てとも嫌だとも言わなかった。痛みがそのまま永遠に続いて欲しいとすら思う。
 しかし痛みはそのうち、甘い疼きを伴って思考を支配し始めた。
「……ッ、ァ、……ンあッ……」
 揺れる動きに合わせて声は溢れた。そのうち声を止めようとする努力を放棄した自分を嫌悪する余裕すらない。
 ――目の前の男と、記憶の中に残る小さな子供は、本当に同じ人間なのだろうか。
 恭一はぼんやりと思う。身体中に駆け巡るものは確かに押さえ切れないほど熱い衝動なのに、頭の一部だけはひどく冷静に自分を見つめていた。
 求めるのと同じ強さで、拒絶したかった。肌を触れ合わせることは禁忌だと思っていた。
 あるいはもしも、子供の頃の由成を知らずに、今現在の由成と出会っていれば、この罪悪感はなかったかもしれない。
 ――俺だけの。小さな、小さな……。
 あのときのまま、きれいなこころだけで、この子を愛していたかった。まるで神様を想うように、きれいなものを、ただ慈しむように。
 しあわせなのに、涙が溢れた。それは快楽のために流される涙ではなく、懺悔と悲しみの涙だと知っている。
 ――どうして子供のままで、いてくれなかった……。
 激しい動きに追い立てられて、やがて恭一は二度目の射精を迎えた。少し遅れて由成が自分の体内で弾けるのを深い場所で感じる。
 薄く眼を開くと、きつく眼を閉じたまま射精の余韻に肩を上下させる由成が見えた。――愛しいと思う。感情の名前は同じなのに、十年前小さな由成に感じた愛しさとは、まったく種類が異なった。愛しさの中にも肉欲が、由成には――そして自分にも、確実に存在する。
「――恭さん。俺は、」
 恭一の手を、由成が握り締める。
「俺は、あんたが思ってるほど……きれいじゃない」
 力強く握り締められた手は、恭一の考えを見透かしていた。
 ――俺は、矛盾している。
「あんたが好きだからキスしたいと思う。抱きたいと思う。…それを、あんたは知ってるはずだ」
「――あぁ」
「……それならどうして泣くんだ……」
 由成の声が、まるで泣きじゃくる子供のあやし方を知らない、困り果てた過去の自分の声に聞こえる。なら今自分は、あのときの由成のように、子供の泣き方をしているのか。そう思うと、やけにおかしくなった。
「俺は、おかしいか」
「あんたがおかしいのなら、俺も一緒だ。親代わりのあんたを抱きたいと思うなんて、おかしいに決まってる」
「……そうだな、」
 笑おうとして、失敗した。腕を動かして表情を隠そうとしたものの、失敗して歪んだ笑顔は見られてしまったに違いない。
「……いつからあんたのことを好きだったのか、もう判らないんだ。小さなときに…恭さんはよく、俺に絵本を読み聞かせてくれただろう。まだ、俺が喋ることが出来なかったころ……」
 恭一を気遣うようにゆっくりと動いて、由成の身体は離れていく。広くはないベッドに男二人が寝転ぶと、避けようもなく身体が密着する。互いに肌が汗ばんで湿っているのに、その感触が気持ち悪いとは思わなかった。
「……デタラメ言ってることの方が、多かったけどな」
「そうだ。……あんたの話したストーリーが本物だって信じてて、俺友達に笑われたんだよ。……狼を素手で倒せる赤ずきんなんかありえない」
 憮然として由成が呟くのに、今度はちゃんと笑えた。恭一は過去、童話の物語を勝手に改ざんして、面白おかしく由成に聞かせていたのだ。
「……そんな話も、したか」
「したよ。……亀と乙姫にダブルキックされて倒される浦島太郎とか」
 恭一は声を立てて笑った。身体は重く、ひどく気怠かったのに、懐かしい思い出に腹の底から笑えることに少しだけ安心する。
「あの頃のことは、あまり覚えてないんだけど……、俺の隣に恭さんがいてくれて、そういう風に色んな話を聞かせてくれたことだけは良く覚えてる。――上手く言えないけど」
 言葉を選ぶような間の後、由成ははにかむように小さな笑みを浮かべた。
「……あのころ、恭さんのことを、神様みたいに思ってた」
 その言葉に、呼吸が一瞬だけ止まった。恭一は思わず由成の顔を凝視する。驚愕を隠し切れなかった。――神様、と言った。
「俺の世界には、恭さんしかいなくて――恭さんが話しかけてくれて、色んなことを教えてくれて、親代わりとか先生代わりとかそういうのの前に、神様みたいだと思ってたんだ。……神様だった」
 由成はそう言って、自嘲気味に笑う。およそ彼には似つかわしくない表情だ。
「神様を抱きたいと思うのは、おかしいだろう。……でも、あんたは神様じゃないし、俺は男だから、好きだと思う人にそういう感情を抱くのは、たぶん間違ってない」
 しかし力強く言い切る言葉には、微塵の迷いも感じられなかった。由成は恭一の眼を真っ直ぐに見つめると、重ねるように続ける。
「俺を独りにしなかったあんたを好きだと思ったことは、間違ってないと思う」
 だから自分を好きだと思う気持ちを、どうか否定しないで欲しいと。言外に訴えられている気がして、恭一はらしくもなく狼狽した。
 恭一の動揺を見抜いているのか、由成は恭一の手を強く握り締めると、静かな声で言い聞かせるように囁く。
「……だから、あんたが今泣いたわけを、いつか教えてくれ。そのときは、きっと俺があんたを助けてあげるから」
 ちいさな世界の中で。
 手を離すのが怖くて、努めて寄り添うように生きてきた。そう仕向けたのは、間違いなく自分だった。
 だから尚更、由成が成長するのを認めらなかった。いつかきっと置き去りにされると、そう信じていたから。
 広がっていく世界を恐れたのは、神を失うことを恐れたのは――どっちだったのだろう。
「俺は、あんたの手を離さない。だから恭さんも離さないで」
 人間は神様ではない。自分が生きる世界に神は要らないと、先に踏み切ることが出来たのは由成だったのだ。ただそれだけの違いだった。
「……俺と一緒に生きることだけを、考えて」
 ただ、それだけのことだった。
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