優しい物語 金魚4



 力いっぱいに頬を殴り付けた掌は、いつまでも疼くような痛みを残していた。
 しかし、表情もなく、まるで能面のように無表情のまま、涙を溢れさせる彼を見たときに感じた痛みの方が、あるいは上だったかもしれない。
 ――こんな風に泣く子供に、育てるつもりなんてなかったのに。
 間違いなくこの涙は、自分のために流されていた。
 部活の先輩だという矢野の部屋を出てから、雄高の車で家に帰り着いた頃には午前一時を回っていた。雄高は由成と恭一のふたりを降ろすと、気を利かせたのか私用か、すぐに車を転がしてどこかへ去って行く。当然、その方が恭一には都合がよかった。
「母さんを、殴ったんだ」
 久し振りに敷居を跨いだというのに、由成は少しも寛ぐ様子は見せなかった。まるで借りてきた猫のように――いや、いっそ怯えているかのように全身を固くさせて、かつて彼の定位置だったソファに腰を降ろしている。
「無意識だったけど……手加減はしたつもりだった。つもりだっただけ、かもしれないけど……」
 固く握り締めた拳を見つめながら、由成はぽつぽつと語り出す。ゆっくりと紡がれる言葉はどこか痛々しく、恭一は眼を伏せると強張ったままの由成の手を取った。
「さっき恭さんが俺を殴ったのよりも――たぶん、強い力で……あのひとを」
「……そうか」
 握り込まれた拳は、宥めるようにその上から掌をやさしく重ねても、強張りを解こうとはしない。
「……貴美子さんは、おまえに何て言ったんだ」
 恭一が問うと、言葉を選んでいるかのような沈黙の後、由成はそっと口を開く。
「……二度と、恭さんに会うなって――。俺、母さんに、……もう一度、恭さんと暮らしたいって。恭さんが許してくれるなら、恭さんのところに戻りたいって、いった、だから」
 ソファに腰を降ろした由成に傅くように、床に座り込んだ姿勢で由成の顔を下から覗き込んだ。昔はよく、この角度から顔を覗き込んで、由成を慰めていたことを思い出す。泣かない子だった由成が少しずつ感情を見せるようになり、怪我をして泣いていたとき、悲しいときにきちんと涙を流していたとき――。
「……俺は、捨てられたなんて思ったことは、一度もないんだ」
 寂しいと、泣いていたとき。
 あやす方法も判らないまま懸命に慰めた。
「俺は、恭さんに捨てられたなんて、思ってない……」
 由成はもう、あからさまに涙を晒して泣きはしない。まるで自分に言い聞かせるように、由成は繰り返し呟く。その呟きは掠れた声で、力なく恭一の耳に届いた。
「だって恭さんは、俺を育ててくれたひとだから。……なんの義理もないのに、俺をここまで育ててくれたひとなんだから、捨てるとか……捨てないとか、そういう問題じゃないと、思うんだ……」
 弱々しい声音で由成は続ける。もういいと言葉を遮るのに、由成はゆっくりと首を振って尚も言葉を続けた。
「母さんは――恭さんが俺を捨てたって言った。面倒になって、俺に愛想を尽かして、楠田に俺を戻したんだって……だからもう、俺がどんなに望んでも……戻れないって……、俺がどんなに、恭さんと一緒に暮らしたがっても……」
 握り締める拳に込められた力が、一瞬ぐっと強まった。それでも恭一は、凍り付いた指先の力を解こうとやさしく由成の手を撫でる。
「――…あんたは、受け入れてくれないんだと……」
 声はいっそう弱さを増して、それはか細い叫びのように悲痛に響いた。
「……そんなこと、ほんとうは、俺だって判ってるんだ」
 否定したかったのに、なぜか声が出て来なかった。ゆっくりと首を左右に振る。由成があと一度だって自分の傍にいたいと直接望めば、きっと拒絶など出来なかった。縋りつきたかったのは、自分の方なのだ。
「恭さんと離れた日から、そんなことは、判ってる……恭さんに俺なんか必要じゃないことくらい、判ってた。だけど俺は、恭さんの傍がよかったんだ……」
 小さく叫ぶようにそう言ったきり、由成は言葉をなくした。張り詰めていたものが一気に切れてしまったのだろう。あとには、静かな嗚咽だけが残る。
 少しずつ解した指先を、力強く握り締める。ぴくりと僅かに反応を返したきり、由成の指は動かなかった。
「――おまえは、馬鹿だ……」
 そして一番に愚かなのは。
 他の誰でもなく、自分だった。
 一緒にいたいと、最初から由成は言ってくれていたのに、猜疑心に狩られて、その声に耳を傾けなかったのは自分だった。
「また俺と暮らし始めるってことは、貴美子さんと離れるってことなんだ。あのひとは、俺を好いちゃいねえだろう。俺とおまえが一緒に暮らすことには、きっと良い顔はしない、……それでも良いのか、せっかく今はあの人がお前を」
「恭さんがいい」
 恭一の言葉に不思議そうに首を傾げた由成の声は、さっきよりも少しだけ力強く恭一の耳を打つ。
「俺が傍にいたいのは、いなきゃいけないって思うのは母さんじゃない。恭さんの傍が良いんだ。恭さんじゃないとだめなんだ、」
 自分の手に重ねられた恭一の手を、由成は躊躇いながらも壊れ物を扱うような手付きで握り締める。由成が初めて自分の意思で触れた指先から、ほのかな熱が伝わった。
「……あんたの邪魔なんかしない。ぜったいに。要らなくなったら、いなくなる。だから俺をそばに置いてくれないか」
 由成の顔を見つめると、酷く真摯な眼が前髪の隙間から覗いた。まっすぐで、澄んだ眼。幼さを残さないその眼に見つめられれば、呼吸が止まってしまうとすら思った。
 これは、兄弟の域を越えた思慕だと判っている。もし恭一が頷いてしまえば、二度と、兄弟に戻れないということも。
 それでもこの幸福感に代えられるものが、今この瞬間の恭一には見付けられない。
 絡ませた手を握り返す、微かな指の力だけで、こんなにも幸福になれるのなら。また同じように由成が幸いになれるのだと言うのなら。――答えは、ひとつしかなかった。
「――おまえが、それでいいんなら」
 自分に禁じていた幸せを、押し殺していた願い事を、このまま望んでしまいたい。
「……おまえがそうしたいんなら、それで――いい」
 声を潜めて告げた言葉に、由成は驚いたように目を瞠る。
「――恭さん?」
 良いのか、と確認するように、由成の眼の奥がゆらりと揺れる。期待することを恐れているような、それでも期待せずにはいられない、子供のような瞳が。
 自分の望みと彼の望みが一致しているのなら。自分の望みを殺すことが、由成を傷つけることにしかならないのなら――。
 恭一は思わず苦い笑みを殺した。自分のために、いちいち理由と逃げ道を作っている。由成が本当に望んでいる言葉は、こんな曖昧なものではないはずなのに。
 覚悟を決めて、恭一は深く息を吸い込んだ。
「一度しか言わねェから、ちゃんと聞けよ。――……おまえが好きだ」
 出来るだけはっきりと聞こえるようにと口にした言葉は、やはり少し震えてしまう。まるで初めての告白をした少女のようだと思うと、恭一は由成の顔を見ることが出来なかった。
「本当は……離したくなんか、なかったんだ……」
 由成の視線を避けようと、恭一は顔を俯かせた。頭上で由成が驚いている気配を感じて、居た堪れない気分になる。
「――恭さん、」
 自分を呼ぶ声に返事を返すことはしなかった。きっと今の自分は、ひどく情けない顔をしているだろう。こんな顔を見せるのは嫌だった。なのに由成が、さっきよりも強く指を握り返してくれたことに、それだけで胸がいっぱいになる。そろそろと感じ始めた安堵と嬉しさとで、泣きそうになった。
 ――帰って来た。俺の由成が、やっと帰って来た。
「……恭さん、もう一度……もう一度だけ、言ってくれ」
「言わねえよ」
 懇願するように言った由成を一蹴すると、情けなく由成は「お願いだから、」と囁いた。
「お願いだから、恭さん――…あんたが、好きなんだ……」
 だからもう一度だけ言ってくれ――。切実な響きを帯びた声がそう告げる。恭一はそれには応えてやらず、口接けをそっと、由成の唇に落とした。はじめての口づけだった。
「………恭さん」
 驚いたように自分を呼ぶ、声の響きが違う。呼ばれたときに胸を占める感情が違う。
 痛みは微塵もなかった。
 呼ぶ声に返事を返す代わりに、恭一は繰り返し由成の唇に自分の唇を押し付けた。昔、一度だけ交わした痛いキスを思い出す。本当に痛いだけのキスだったのに、あれはどこか甘かった。
 何に対しての謝罪なのかを理解できないのか、由成は怪訝そうな眼で恭一を見下ろす。
 子供のころから見てきた由成を、神聖化していたのかもしれないと恭一は思う。確かに由成は自分にとっての聖域だった。信仰のように想っていた。
「俺はおまえを離してやれねえ。――ごめんな、……」
「――離さないでくれ、」
 嬉しそうな、切なそうな顔で由成は微笑む。そろそろと伸ばされた腕は、しかし力強く恭一の身体を抱き締めた。
 抱き締められる腕の強さを、その感触を、震えるほどに待ち望んでいた自分を、恭一は知る。
「俺は、あんたを離さない、」
 抱き締められ、由成の体温を間近に感じるだけで、胸が震える。近くにあって一番遠くにあったものだけに、その歓びは大きかった。
 歓びと同じ強さの罪悪感を胸に抱きながら、
 ――もう、どうなっても良い。
 自棄とは違う気持ちで、恭一は目を閉じた。



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