優しい物語 金魚4
苦虫を噛み潰した顔で「ああ、もう、」とため息を落とした視線の先には、細長い箱が置かれてあった。テーブルの上に置かれた質素な白い箱の中身は、いわゆる誕生日プレゼントと言うやつで、何かを買ってしまった後に後悔するのは、まあ、よくある話だった。
「うるさい」
頭を掻き毟りながら唸った恭一を、静かに雄高が嗜めた。常に時間を持て余しているはずの暇人は、ここ二、三日恋人と喧嘩をしたと言って恭一の家に転がり込んでいる。
「今更考えたってしょうがないだろ。買っちまったもんは、……まあまだ返却は利くだろうが」
「誰が返却なんかするかよカッコ悪ィ。……昔はケーキ一個で片付いてたのに」
語尾をちいさく呟いた恭一に、雄高が同意して頷いた。さすがに高校生がケーキひとつなんかじゃ喜ばないことは、疎い恭一にも判り切っている。しかし、ならば喜ぶものは何だと訊かれたら、三日ほど時間をくれじっくり考えるからと言うしかない。そして本当に三日が経ち、やけくそになりながら慌しく購入したその箱は、もちろん由成の手に渡る予定だった。
「時間は良いのか」
「あぁ、――まだ少し、早いくらいだな」
壁にかかった時計を見て答える。雄高の車で楠田家まで行き、そのまま雄高の車で走り回ることになっていた。面白くない話だが、基本的には安全運転の雄高の運転を由成が望んだからだ。由成を送るついでに自分の車に乗り換え、そこで雄高とも由成とも別れる予定だ。
行き先は由成に任せてある。彼が好む中華店に行くも良いだろうし、それともどこか新しい行き付けの店でも見つけただろうか――そんなことを考えていると、自宅の電話がけたたましい音を上げて鳴り出した。
レトロな形をしたそれは、恭一が好んで知り合いから譲ってもらったものだが、何しろ音が悪い。鳴り出した瞬間に飛びあがりそうなくらいに喧しい音を立ててくれるのだ。
「――そろそろ買い直せよ、普通のに」
その音に慣れていない雄高は呆れている。どきどきと落ち着かない胸を押さえながら、今度ばかりは「そうだな」と素直に頷いておく。恭一とてこの音を聴くたび、買い替えようとは思っているのだ。
「もしもし」
しかし実際に鳴るのは携帯の方が多く、買い直す必要性をそこまで感じていないのも確かだった。そういえば知り合いは大抵携帯の方に掛けてくるのに、自宅の電話を鳴らすのは珍しい。一体誰だろうと、受話器を取りながら恭一は不思議に思う。
『……恭一さん』
恭一がのんびりと思考を巡らせていられたのも、相手の声を聞くまでだった。
「貴美子さん? どうした……」
いつになく切羽詰った声音で自分を呼んだ女は、聞き間違えるはずもなく貴美子のものだった。
『あの子は……あの子は恭一さんのところにいるんでしょう? いい加減に帰ってくるように伝えて――!』
「……待ってくれ貴美子さん、何の話だ、」
『しらばっくれないで! あの子が行くところなんて、あなたのところ以外ないじゃない――もう三日も帰ってこないなんて…!』
甲高い声で貴美子が叫ぶ。その言葉を理解しようと、恭一は懸命に頭の中で貴美子の言葉を繰り返した。
――三日。帰っていない?
「貴美子さん。本当に由成はここにはいねぇんだ、落ち着いて話してくれないか。……由成がどうかしたのか?」
まずは貴美子を落ち着かせなければならない。そう判断して、恭一は殊更静かな声音で尋ねた。――本当は、貴美子が告げた言葉が混乱を生んで、うまく頭が動いてくれない。電話越しに貴美子と話せていることが不思議なくらい、心臓は喧しく跳ね上がっている。
『本当に、あなたのところに由成は行っていないの――』
「ああ」
息子がたかが三日帰って来ないというだけにしては、貴美子の混乱ぶりを常軌を逸しているのかもしれない。しかし何かしらの事故に巻き込まれて帰って来れない状況に置かれている可能性も、なくはないのだ。
それを思うと、手足の感覚が急激になくなっていく気がした。
『じゃあ由成はどこに行ったっていうの!? あの子が行き先も告げずに出て行くなんて……三日も、帰って来ないなんて…何かあったとしか……』
「……由成は、書き置きもしてなかったのか?」
『何か手がかりがあればと部屋中探したけれど、何も。…一昨日の朝から、急にいなくなってしまって』
「一昨日の朝? それで、その前あいつに変わったことはなかったのか」
弱々しい声音だった貴美子は、やがて冷静さを取り戻して恭一の問いに答え出した。
一昨日の朝――恭一と会った次の日だ――から由成が忽然と姿を消してしまったこと。暫くはすぐ戻るだろうと鷹を括っていたものの、三日目となるとやはり不安で部屋中探してみたものの、行き先の手がかりは何も見付からなかったこと。行き先が恭一のところでなければ、帰れない状況に陥っているのではないかということ――。
『警察に――届けた方が……』
由成の性格からして、誰にも行き先を告げず姿を消すということ自体考えられないことだった。それが一層強く恭一の不安を煽る。
貴美子の言葉に、恭一は頷きたい気分だった。もしもあの子に何かがあれば、自分は一分一秒だって生きていられない。落ち着け、落ち着け――逸る気を抑えて、恭一は呪文のように心の中で繰り返した。
「――待ってくれ、貴美子さん。あいつの友達に何か知ってるか訊いてみるから。もう少し、待ってくれ……、」
『――そうね。由成のことなら、あなたの方が――』
由成の友人関係に当たるということを、貴美子は考えなかったのか――それとも、尋ねたくとも由成の友人を知らなかったのか。愕然とした声が、受話器の向こうから聞こえる。
「それじゃあ何か判ったら連絡する。落ち着いて待っててくれ」
言うなり恭一は受話器を置こうとした。その直前、
『私が――あの子に、あんなことを言ったから――』
ひどく悲愴な貴美子の声が、小さく聞こえた。
――何?
問い返えそうにも手は受話器を置いてしまっていた。それを後悔する気持ちを振り切って、恭一は雄高を振り返る。
敏い友人は、何が起こっているのかを既に把握しているだろう。咥えていた煙草を灰皿に押し付けると、ゆるく首を傾げた。
「俺に出来ることは?」
「あいつが行きそうな場所、全部回って来てくれ。おまえなら大体わかるだろ」
人遣いが荒いだの、面倒だのという文句を欠片も零さず、雄高はすぐさま立ち上がると外へ向かった。こういうときは酷く頼りになる男である。
しかし、雄高に頼んだことで、由成が見付かる可能性は低かった。いくら彼の行きそうな場所を自分たちが知っているとはいえ、同じ場所に三日も滞在しているとは考え難い。
玄関の外から車がエンジン音を上げるのを聞きながら、恭一は電話横の手帳を捲った。
――工藤敦。
恭一の知る中で、彼が一番に由成と親密な友人のはずだった。
『――あいつ、家に帰って来てないんですか?』
電話口に工藤が出た瞬間、急くように由成の所在を尋ねた恭一に、工藤はきょとんとそう返した。電話越しに聞いた工藤の声は、ひどく驚いているように聞こえる。
『一昨日の昼間頃うちに来たのは確かですけど、夕方ごろ帰りましたよ』
「普通だったか?」
『ごく普通に。別に変わったところなんて、なかったけどなあ』
戸惑いを隠しきれない様子で、呟くように工藤は言う。
「……あいつから何も訊いてないか?」
『別に変わったことは…。ほんとにあのまま家に帰ってるもんだと思ってたし。正月も終わらないうちに遊びに来るなんて珍しいなぁとは思ったんですけど』
歯噛みしたい気持ちを堪え、しかし自然と低くなってしまった声音で「ありがとう」と恭一は礼を言った。
「……急に電話して悪かったな」
『…ぃえ。俺こそ役に立たなくてスンマセン。恭一さんから電話かかるなんてすげーめずらしいから、びっくりしたけど……』
気の好い少年は、電話の向こうでからりと笑う。それに何とか笑い返すと、恭一は受話器を置こうとした。
『あの、恭一さん。――ちょっと良いですか、』
漏れ聞こえた遠慮がちな工藤の声に、恭一は慌てて受話器を耳に当て直す。
「なんだ、何か思い出したのか、」
『いやそうじゃなくて。…あの、俺んとこに来た前の日、あいつ母親とケンカしたって言ってたんですよ。俺がおふくろとケンカしたって大したことじゃないけど、その――あいつんとこは、なんか特別だから。それが関係あるんじゃないかなって……、』
「そうか」
工藤の言葉に胸が詰ま気がして、恭一は静かに頷くことしか出来なかった。
もしも由成と貴美子が口論したとすれば、それは恐らく自分の目の前で由成が呼び付けられた、あのときだろう。自分の元に戻って来た由成は――そういえば少し、疲れたような顔をしていただろうか。
『俺も今から由成のこと探してみます。見付かったら、すぐに恭一さんに連絡するように言うから、それから、あの、俺が言うことじゃないかもしれないけど。由成、ここんとこすげーヘコんでたから。帰ってきても、あんま怒らないでやってください。――じゃあ、』
元気出して下さいね、その言葉を最後に通話は切れた。単調な電子音を遠くで聴きながら、恭一は自嘲染みた笑みを浮かべる。
それは間違いなく自責の念から浮かんだ自嘲だった。――久し振りに顔を見て、数時間後に別れたあの晩。由成の様子がおかしいことに、自分は気付いていたのに。どうして車を止めてでも、由成を質すことが出来なかったのだろう。
――由成。
受話器を握り締めるしか出来ない手。――自分の両手は、いつからこんなに無力になってしまったのだろう。
「――余計なことを…」
工藤の耳に、苦々しく呟く由成の声が聞こえた。受話器をゆっくりと戻した工藤は、情けない表情で由成を振り返る。
「しょうがねーじゃんよ。恭一さんすげー心配してたんだぞ。…おまえな、胸を痛ませるような嘘を俺に吐かせるんじゃねーよっ」
「嘘を吐かせたことは悪いと思ってるよ。……だけど、俺が母さんとケンカしたなんてこと、あのひとに言わなくたってよかったんだ。あのひとが、気に病む」
「だっておまえ、………」
何かを言おうと開き掛けた口は、静かに、そして苦しげに歪む由成の表情を見た瞬間に噤まれてしまう。
「……おまえ、帰れよ。せめて恭一さんのとこにはさ……顔見せるだけでも……」
それでも工藤は、言い聞かせるように言った。恭一との共同生活に終止符が打たれてからというもの、日増しに由成の気が滅入っていくのを工藤は間近に見ている。それならどうして恭一の元に帰らないとじれったく思うものの、それを簡単に口に出来るはずはなかった。
「――…帰れないんだ」
由成は「帰れない」と言うのだ。「帰らない」ではなく。
自分の意思などお構いなしに決められた居場所から、彼は動くことができない。幾つかの要素によって彼は四ヵ月前から縛られたままで、そしてその束縛を積極的に解こうとはしなかった。
「帰れない」
帰りたいのに帰れない。拒まれ――縛られた。そのふたつが、彼にとってはかけがえないほど大切なものであるという、ただそれだけのことが、由成を苦しめる。
由成はせつなく呟くと、一瞬だけ固く目を閉じ、再び目蓋を開いて申し訳なさそうに笑った。
「……けど、これ以上敦に迷惑は掛けられないよな、嘘吐かせたり、着替え貸してもらったりして……ごめん」
「ばか、俺のことなんか気にしなくて良いんだよ。……ってかそういう問題じゃねえだろ」
由成を見ていると、自分までも悲しくなってくる気がして工藤は顔を歪めた。こんなに寂しそうな顔をした家出人なんて、これまで見たことがない。
「……頼むよ、由成。おまえさ、……たぶんもっと我侭になって良いんだよ。おまえがそんなんだから、俺も――恭一さんだって、困るんだよ……」
工藤の声にも、由成は返事を返さない。何かを懺悔するように、膝の上で握り締めた拳をただじっと見つめていた。
日付が変わってしまう――恭一はベランダから夜空を覗きながら、ぼんやりと思った。指にはフィルタに火種が近付き、今にも燃えそうな煙草が挟まっていたが、恭一はそれに気付かない。
終わってしまう、あの子の生まれた日が。――何の言葉もかけられないまま。何も渡せないまま。
由成と出会ってから、こんな誕生日は初めてだった。毎年毎年、彼にいちばんに「おめでとう」を言うのは自分の役目だったのに。自分でなければいけなかったのに――。
テーブルに置かれたままの白い箱を振り返る。鈍く照明を反射するそれは、恭一の不安をやけに深めた。
由成の居場所が判らない。由成の気持ちが、彼が何を考え思っているのかが判らない。それがこんなにも恭一を不安にさせる。
突然家を飛び出てしまうほどに彼が抱えていた何かは重たかったのだろうか。感情を隠すことに長けた由成が抱える寂しさを、見抜けなかった自分を恭一は深く悔いた。
同時に、家出した由成が自分の前にも現れないことが、酷く切ないと思う。自分から追い出しておいて、なんて勝手な言い分だろう。それなのに、由成が自分の元に帰って来ないことを、理不尽だと思った。
――俺だけじゃなかったのか。
あの子の手を握り締めて、力強く引き寄せた。この腕は今や無用のものでしかない。自分のことしか考えられなかった頭も、隠された感情を見抜くことが出来なかった眼も、彼の欲しい言葉を与える言葉が出来なかった唇さえも。
何も、要らない。
視界がほんの少しだけ滲む。
――寂しかったのは、おまえも同じだったのか、由成……。
見れば、時計の針は零時を過ぎていた。
「……終わっちまったなぁ……」
呟いた瞬間、タイミング良く玄関の方で物音がした。まさかと玄関へ向かおうとして、思い留まる。由成は今、合鍵を持ってはいない。だから恐らく来訪者は――
「恭一、心当たりがひとつ見付かった。……と言うか、たぶん由成はそこにいるだろう。行くか?」
恭一の頼み通り一日中由成を探し回ってくれたのだろう、幾分疲れた表情で雄高が首を鳴らしながらリビングへ向かって来る。訪れたその人が待ち望んだ由成ではなかったことには軽く失望はしたものの、雄高の言葉は恭一を暗い闇から救い出す光に等しいものだった。
「……本当か、」
息を飲みながら確認すると、雄高は「あぁ、」とどこか決まり悪く頷き返した。
「灯台下暗し。――俺は謝らなきゃいけないかもな」
「はぁ? ……何わけ判んねェこと言ってやがる、さっさと連れてけ!」
胸倉を掴みかからんばかりの勢いの恭一に、雄高はなぜかあまり気乗りでない様子で、渋々と頷いた。
「……うわ、こんなこと別にしてくれなくてもよかったのに……」
深夜、工藤の家を出た後に由成が向かったのは薄汚れたアパートの二階だった。目的の部屋の扉を開けるなり眼に飛び込んで来た光景に、由成は苦笑を零す。
「一年に一回の祝いごとや。工藤から今日訊くまで知らへんかったから、粗末なもんしか用意出来へんでごめんなあ」
小さな丸いテーブルの上にセッティングされた蝋燭がきっかり十六本立ったワンホールのケーキ。その前で由成を待っていたのは、部活の先輩にあたる矢野だった。部活の先輩と言っても由成は幽霊部員で、矢野はそれを上回る幽霊部員だったが、合宿で親交を深めて以来、何かと世話になっている先輩であることは確かだった。
「――充分です。すみません、気を遣わせて…」
「かまへんて」
由成が家を飛び出して転がり込んだ先は工藤の家ではなく、矢野のアパートだった。家族と暮らしている工藤の家に、いつ帰るかも判らない自分が滞在するのは迷惑だろうと遠慮して、宛てもなくふらふらと街を歩いていたときに、偶然矢野と会ったのだ。
――家出? とうとうやってもうたか、
由成にとっては物珍しいイントネーションで喋る先輩は、事情を話した由成に拘りもなく明るく笑った。
――ほんならウチおいで。汚い部屋やけどな、野宿よりはマシやろ。
遠慮する由成に向かって矢野は、独り暮らしやから気ィ遣う必要もあらへん、と笑って続けた。
正月なのに実家に帰らなくて良いのだろうかと首を傾げたのは一瞬で、最悪野宿を覚悟していた由成は最終的に素直に矢野の好意に甘えることにした。
――けど、ギリギリでも冬休み終わるまでやで。どんなに帰るのが嫌でも、冬休みが終わったらいっぺんは家に帰り。心配してはるひとがいてるやろ……。
やさしく、しかし有無を言わせない矢野にそう約束させられ、矢野との同居生活が始まった。過ごしてみれば矢野はひどく多忙なひとで、冬休みだというのに朝から夜までバイトに明け暮れているし、家にいれば家にいるで炊事だの洗濯だの掃除だのと部屋中を走り回っている。
働き者なのかじっとしていられない性質なのか、いまいち判断が難しい。
「――あー、ほんでな、由成くん、」
矢野は蝋燭にライターの火を点し始める。工藤の家でもささやかながら祝ってもらったため、帰宅はとうに零時を過ぎてしまっているにも関わらず、律儀に矢野は由成の誕生日を祝ってくれようとしていた。
「はい?」
食器棚を漁りながら由成は首を傾げた。矢野がケーキの準備をしている間に取りに来た食器の場所は、ここ数日で大体覚えている。高校生の独り暮らしとは思えないほどに整理されている棚から、丁度良いサイズの皿を探し宛てるのは手間がかからない。矢野は案外まめな男だ。
「お迎え、そろそろ来るかもしれへんで」
「――え?」
蝋燭に全ての火が灯った、その瞬間だった。
扉がまるで蹴破られるかのような勢いで開かれたのは。
「ほらな、」
開いた扉を確認もせず、矢野は肩を竦める。一方由成は、扉を凝視したまま、驚きに息をすることさえ忘れていた。
「――この……手間かけさせやがって……」
階段を駆け上がって来たのだろうか。開きっぱなしの扉の前――恭一が、息も荒く肩を上下させながら、由成をまっすぐに睨み付けていた。
「……恭さん……?」
由成は呆然とその名を口にした。工藤が恭一に何かを告げたのだろうか? ――冷静でない頭は、それでも考えを否と否定する。工藤が自分の居場所を恭一に告げるはずはない。由成がそれを望まない限りは。
なら――どうして?
あまりの驚愕に、由成の思考は停止していた。その間にも恭一はずかずかと部屋に入り込み、由成のすぐ傍までやって来た。
その動きを、ただ見つめることしか出来ない由成の頬に、鋭い衝撃が走る。
破裂音に似た音が部屋中に静かに響いた。
「さっさと帰るぞ」
平手で打たれた頬の痛みも忘れ、由成は自分でも不思議なくらい静かな眼で恭一を見つめた。興奮しているのか、恭一の目許が少し赤く見える。
「――どこに?」
問い掛けは、自然と唇から零れていた。
「俺は、どこに帰れば良いの、」
意識せずに零してしまった呟きに、恭一が少し低い場所から眼を見開いて、自分の顔を仰ぎ見ている。
「教えてよ、恭さん。……俺はどこに帰れば良いの」
痛みは、遅れてやって来た。打たれた頬から痛みが広がり、やがて心臓辺りが締め付けられるように強く痛んだ。――息が出来ないくらいに、胸が痛い。
「…俺は――…どこになら、帰って良いの……、」
自分を見上げる恭一の顔が、痛ましげに歪むのが、何故か曇りガラスを通しているかのように、滲んで見えた。
「――…帰って来い」
どうしてこのひとはこんなにも泣きそうな顔をしているのだろう――そんなことを考えていると、柔らかな指先が頬に触れた。痛む頬を慰めるのかと思われたそれは、濡れた感触をそっと拭い取る。
由成は、そのとき初めて、自分が涙を流していることに気が付いた。
涙を拭ってくれた優しいひとは、悲痛に顔を歪めて、それでも穏やかに囁いた。
「俺のところに――帰って来い」