「──頭いてぇ……」
「飲みすぎだ馬鹿」
当然のように窘めた雄高に、ウルセェと短く返してから恭一は空のグラスを揺らす。無性に飲みたくなる日だってあるのだと、恭一は自分の行為を庇った。し かし由成がこの家を去ってから、アルコールを摂取する量が増えたのは確かで、アルコール中毒になるのもそう遠くはないだろうと恭一は自覚している。
ぽっかりと空いてしまった空洞のような寂しさに、アルコールの効果は覿面だった。朝も昼も夜も、ふとした瞬間に由成の名前を呼びそうになる自分に気付く と、やりきれない気持ちで酒を煽った。正体を無くすほどアルコールを口にし、リビングのソファに蹲まって激しい頭痛に堪えるように唇を噛む。寝室で頭から 布団に包まって頭痛が去るまで寝て過ごす日もあった。寂しいからそうしているのか、二日酔いのせいでそうしているのか、判断出来なくなるのが良い。
そしてたまに雄高が現れ、情けない自分の頭を踏ん付けて目を覚まさせる。由成がいなくなってからの四ヶ月は、そんな草臥れた生活の繰り返しだった。
「駄目な大人の見本みたいなヤツだな、」
呆れたような雄高の言葉に、恭一はソファに身体を沈め暫く黙り込んだ。返す言葉もないとはこのことだ。
「——仕事はちゃんとしてんだろうよ」
しかし無理矢理掠れた声でそれだけを返す。仕事をちゃんと済ませてから飲んだくれるのだから、まだ完全なアルコール中毒者ではないはずだった。このレベ ルなら、行きすぎた酒好きという判断でも間違ってはいないと恭一は思う。アル中に近い状態ではあるが、由成の不在ごときでそこまで不甲斐無くなる自分を認 めたくない。
「——もうすぐな、」
とは言え、完全に由成との縁が切れたわけでもない。これからも戸籍上での兄弟であることは変わりなく、父に呼ばれ年に数回か訪れる楠田家で、顔を合わす こともあるだろう。そのときのことを考えるだけで憂鬱になった。頭が痛い。
「楠田に、行かなきゃなんねぇんだ。毎年恒例の新年の挨拶だ」
嫌になるだろ、低く笑いながら恭一は告げる。新年に親戚一同に集まらなければならないという、古臭い習慣だ。
どんな顔をしていればいいのか、また由成はどんな顔をするのか。あのとき自分を責めもしなかったあの子は、しかし自分に対する非難は山ほど抱えていても おかしくないのだ。
「まだ一週間も先の話じゃないか」
「ああそうだ、『あと一週間しかない』先の話だ」
由成が去ってからこの四ヵ月は、あっと言う間に過ぎて行った。不気味なほど変わりなく、由成がいなくても日々は機能した。同じように、由成の生活だって 恭一なしで機能しているのだろう。——そのことにただ僅かに胸が痛むだけで。
年が明けたら——
「もうすぐ誕生日だな、何かしてやるつもりか?」
年が明ければ、直ぐに由成は誕生日を迎える。一月五日。忘れるはずもない、由成が幼い頃は、からかいながらカレンダーに赤丸さえ付けてやった。それを見 て由成は盛大に嫌がっていたけれど、そのことすらおかしかった。いとおしかった。
雄高の問いに、恭一はゆっくりと首を振る。
「それより今は、実家をどうするかの方が問題だっての」
四ヵ月、会わずに過ごした。あの子は変わってはいないだろうか。自分の記憶のまま、留まってくれているだろうか。
「——どうせならおまえも来るか? 御馳走がたっぷり食えるぜ」
顔を上げて冗談混じりにそう告げる。雄高は——嫌そうに顔を顰めてから、即座に首を横に振った。
やっぱり雄高を無理矢理引っ張ってでも連れて来るんだった。大層立派な玄関の前で、思わず立ち竦んだ恭一は軽く後悔した。
指は、チャイムを押そうとしているのに中々力が入らない。チャイムなど鳴らさずとも、屋敷の中へずかずかと無遠慮に入り込むことだって可能なはずだ。事 実、門をくぐり庭を抜け、この玄関へ辿り着くまでは堂々と歩いてやった。しかしどうしても躊躇ってしまう。この戸を越えればそれで最後、数時間は楠田の家 から抜け出せなくなる。やっぱり首輪を付けてでも、あの友人に着いてきてもらうべきだった。そうすれば少しは気が楽になったのに。
何度目かの深呼吸の後、不要な勇気を振り絞って恭一はチャイムを鳴らした。
長い廊下を慌しく走る足音が耳を打つ。足音にも「癖」があるのだと、恭一はこのとき痛感した。——ゆっくり歩こうとしているのに、いつでも急くように、 パタ、パタ、と響く、この足音を恭一は誰よりも良く知っていた。
「恭さん、おかえりなさい」
恭一の想像通り、玄関から顔を覗かせたのは義理の弟にあたる由成だった。チャイムを鳴らしてから三十秒余りでこの広い敷地から玄関に辿り着いたのだか ら、大したものだろう。僅かに息が弾んでいる。
「——ばあか」
この冷たい家の扉をくぐるとき、誰が自分を出迎えるだろう。そう思ったときに、それはどうか由成で在ってほしかった。由成は恭一にとって誰よりも家族に 近く、遠かったのに。しかし望み通り出迎えてくれた由成の姿を見た途端、なんだか無性に泣きたくなってしまった気分を、まさかと否定して恭一はひとり首を 振った。
「わざわざおまえが出迎えてくる必要ねえだろう。冨美さんはいねえのか」
恭一はありがとうの代わりに憎まれ口を叩いてやる。冨美は楠田に長く仕えている家政婦の名で、恭一も過去だいぶ世話になった。
「いる。——けど、」
「なんだ」
躊躇っていた素振りなどまるで見せず、堂々と恭一は門をくぐった。傍らに由成がいる、それだけのことで気分は簡単に好転する。そんな自分を嘲いながら不 機嫌に由成の言葉を待った。
「恭さんにいちばん最初におかえりなさいを言うのは、俺じゃないと」
「——…。おまえの言うことは、昔っからよく判んねえな」
一呼吸分たっぷり言葉を詰まらせて、ようやく恭一はそう吐き出した。
「それよりヨシ、おまえまた背が伸びたんじゃないか」
犬のように恭一の後ろを従順に着いて来る由成は、恭一の背などとうに追い越していた。恭一の身長もそれほど低いわけではなかったが、暫く見ない間に視線 の高さが幾分か違っている。
「——ちょっとだけ」
由成が言葉を濁らせたのは、由成の成長を喜ばない恭一を遠慮してのことだろう。高校生の身長があっという間に伸びるのは当然のことで、それに恭一が不機 嫌になろうとも由成の責任ではない。
遣わせる必要のない気を遣わせている自分に舌を打つと、由成が小さく「ごめん」と呟いた。
四ヵ月ぶりに見た由成は、何ひとつ変わっていなかった。少し高くなった身長以外は、何も。
それが自然であるように、優しく微笑って恭一を出迎える。——責めもせずに。そのことが、恭一の胸を少しだけ痛ませた。
厳かな雰囲気で始まった挨拶も酒が入れば段々と遠慮がなくなり、そこかしこに酔っ 払いの親父どもが転がっていた。そんな風景を少し遠くから眺めながら、恭一は日本酒が注がれた杯をそっと傾ける。
「——由成、おまえは勧められても飲むんじゃねェぞ」
「呑まないよ。恭さんじゃないんだから」
その言葉に思わずギクリとする。まさか由成の不在で呑んだくれていた自分を知られているのではないかと、ありもしないことを考えたからだ。
「それにこんなところで呑んだって、楽しくもない」
続けた由成の声が、どこか冷たく響いたような気がして恭一は杯を持つ手を止めた。
「——由成、……おまえ……」
「由成。おいで」
何かを尋ねようとした恭一を、女の声が遮った。振り返ると厳しい眼をした貴美子が、すぐそこに佇んでいる。恭一と由成のふたりを、睨み付けているかのよ うな眼だった。その眼を見た瞬間ヒヤリと冷たいものが背筋を走って、恭一は言葉を失う。ここまであからさまに敵意を剥き出した貴美子を初めて目にし、どう するべきかと戸惑った。
「——はい」
母親に対しても従順な由成は、僅かに眼を伏せてから頷くと声を潜め、恭一に囁いた。
「……恭さん、俺が戻るまで待っててくれるか、」
「あ? …あぁ、いいけど……」
「……まだ帰らないでくれ。絶対に」
しつこく念を押す由成に、判った判ったと頷き返す。それで漸く安堵したように、由成は母の元へと向かった。残された恭一は、頭を掻きながら奥の座敷へと消える二人の背中を見送った。方向的に、向かったのが貴美子の部屋であることは推察がつく。
——貴美子のあの態度は。
「よっぽど俺がアイツの傍にいるのが、面白くねえみたいだな……」
呟きは、苦く胸に蟠った。
胸が苦いのは、アルコールの苦味のせいだと誤魔化すように、杯に残った酒を煽る。
由成が自分の傍を離れたのを機に、気の好い親戚の親父連中が恭一の周りを囲み始めた。えらく久し振りじゃねえかこの放蕩息子、元気だったか、などと酒臭 い息で絡まれるのを、ウルセェ酔っ払いどっか行け、と笑ってあしらいながら、——この家で自分は独りなんだと、思った。
由成は自分の手を離れて、母の元へと戻ってしまった。自分は、この家では独りきりなのだと恭一は思った。
幾ら待っても由成が帰って来る様子はなく、時間を持て余した恭一は自ら父親の席へと出向いた。
「まだくたばる様子はねえのか」
久し振り、元気だったか、の言葉の代わりに恭一はいつものように言って退ける。父は目尻に皺を作って笑うと、己の隣に座るよう恭一を促した。
また少し歳を取った——恭一は、隣から父親である庸介の横顔を見つめた。記憶の中にある父は精悍で力強かった。恭一の母である椛が死んでから、いきなり 老け込んでしまったように思う。
「他に言う言葉があるだろう。仮にも新年なんだから——」
「明けましておめでとう、か? あんたか、あの女がくたばったら言ってやるよ」
恭一は、父のことを厭ってはいない。ただ由成のことに関しては、無責任すぎると憤慨していた時期もあった。しかし愛してもいない女の、そして自分の子で もない由成を、可愛がることなど出来なかったのかもしれないと、恭一は最近になって考える。椛を亡くしてからは、由成に気を回す余裕もなかったのだろう か、と。
それほどに母は愛されていたのかと喜ぶべきか、それにしても由成が可哀相だと嘆くべきか、恭一は決め兼ねていた。
「——苦労したか、」
「それなりにな」
新しい杯に酒を受けながら恭一は答える。代わりに庸介の杯に酒を注ごうとすると、父はそれを手で遮った。
「——あの子には。可哀相なことをしたと思っている。おまえにも」
騒ぎが冷めない喧騒の中、庸介は唐突に呟きを落とす。
「そう思うんなら、由成を可愛がってやれよ」
「良い子だ。……あの子は。本当に、良い子だ。……おまえが育てたんだな」
「そんな大層なモンじゃねえ。——人間の性格は三歳までに決まるって言うだろ、俺があいつと暮らし始めたのは、あいつが九つの年だ」
そう茶化した恭一の言葉にも、庸介はにこりともしなかった。
「おまえと会うまで、きっとあの子は生きていなかったんだろう。あの子がまだこの家にいたとき——私は極力、あの子と関わらないように生きてきた。戸籍上 は息子だと判っているのにどうしても掛ける言葉が、出てこなかった」
庸介が淡々と語る言葉に、恭一は杯に口を付けながら耳を傾けた。思えば父が由成のことを語るのは、これが初めてかもしれない。
「椛が死んで、私も少しおかしかったのかもしれないな。……ふと気付いた頃には、あの子はもう私を見てはいなかったよ。いや、見ていても、ずっと遠く を見ているような…眼が、無感情であるように私には見えた。私を見て嫌悪もしなければ、懐くこともしない。あの眼が、」
庸介は——遠くを見つめるような眼で、寂しげに笑う。
「……あの子を見ていた自分の眼だと気付いたときには、もう手遅れだった」
——子供って言うのは、
庸介の声を聞きながら、同時に昔、友が零した言葉が脳裏に甦る。
——大人を見て育つからな。
「おそらく貴美子も同じだったんだろう。彼女もあの頃は、あの子に対して興味を持っていなかった」
「だろうな」
「……あの子には、ほんとうに——可哀相なことをした」
恭一は、グイと杯を煽ってアルコールを飲み干すと、勝手に手酌で二杯目を注ぎながら、溜息のように言葉を返す。
「あいつは、昔のことなんかは気に病んじゃいねェよ。あんたのことも——それから貴美子さんのことも。あいつはちゃんと、好いてるはずだ」
「好く——か。そういう感情も、おまえが与えてやったものだろう」
庸介は口端を微かに緩めて、小さく——本当に小さく笑った。
「おまえと椛は良く似ている。椛も随分、あの子のことを気に掛けていたよ。恐らく——私や貴美子以上に」
「——お袋が?」
初耳だった。考えれば、椛が由成の存在を知っていても、何ら不思議ではない。
「由成の状況をどこかで知って、私も不甲斐無いと罵られたものだ。——情の深いところが、椛とおまえは似ているよ」
椛が由成のことを気に掛けていたと知って、不思議な気分だった。おそらく母は、純粋に由成を不憫に思ったのだろう。
「……私は、良い父親ではなかったね。おまえにも、あの子にも——」
「——そう思うんなら、親父、」
恭一は、ようやく口にする。ずっと、引っかかっていた。
「由成のこと、ちゃんと呼んでやれよ。…「あの子」なんて他人行儀な呼び方じゃなくて、ちゃんと名前、呼んでやってくれ。……あいつは、喜ぶはずだから」
庸介はそのとき驚いたような顔を僅かに見せ、「そうだな」と相好を崩して微笑した。
「そうだな。……私はあの子の、…由成の父親なんだから……」
父親の微笑みに合わせて、恭一も微かに笑って見せる。
——母さん。俺は間違っていなかっただろうか。あいつを育てたこと、あいつをこの家に戻したこと——何も、間違っちゃいないだろうか——
奇しくも母の意思を継いで由成を育てた自分自身に、審判を下しながら。
「ごめん恭さん、遅くなった」
結局由成が戻って来たのは、それから二時間ほど経った頃だった。いつもの恭一ならもう、この家を後にしている時間だ。どこか疲れたような表情で、申し訳 なさそうに頭を下げる由成に、気にしてないと笑って見せる。
貴美子さん、何だって?——自然と口を突いて出そうになった問い掛けを飲み込んで、恭一は手にしたグラスを揺らした。琥珀色の液体がトプン、と波を立て る。
「もうそろそろ帰る?」
「ああ、そうだな——そろそろ良い時間だ。今日は長居しすぎた」
グラスに残るアルコールを一気に飲み干して、畳の上に置く。手ぶらで来たから帰り支度をする必要もない。身ひとつでこの家の玄関から出て行ってしまえば 良いのだ。
「……そう」
胡座を掻いていた姿勢から立ち上がり、玄関へと向かって歩き出した恭一を追いながら由成は寂しげに頷いた。そんな顔をして見せるくせに、由成は何も言わない。言わないから恭一も留まる理由がない。
「……一緒に歩いても、良い?」
「歩くったって……すぐそこでタクシー拾うから」
「雄高さんに来て貰えば良いだろう」
慌てて振り向いた恭一の反論はあっさり無視され、由成は携帯を取り出すと雄高に電話を掛け始めた。
「オイ、待て由成……、」
「——雄高さん? 今大丈夫? ……うん。そう、……じゃあお願いします。うちの前で、恭さんと待ってるから」
由成はものの二十秒程度で雄高との通話を終えると、恭一に向かってにっこり笑った。
「雄高さん、来てくれるって。今丁度実家から帰って来てるところだから、こっちに寄ってくれるらしい」
「……そりゃあいつは、来れることは来れるだろうけどな……」
雄高は確か元旦から、楠田家とはそう遠くはない場所にある実家に戻っているはずだった。とはいえ遠回りには違いがないし、丁度よく帰りと鉢合わせるなん て、あまりにもタイミングが良すぎる。
まさか打ち合わせたんじゃねェだろうな、とこっそり疑いながらも自分を取り残して進んでしまった話に今更口も挟めず、玄関の前で二人して雄高の到着を待 つことになってしまった。
しかし文句を言うことは忘れず、しつこくぼやいていると由成が少し困ったような顔を見せる。
「勝手に決めてごめん。でも、こうでもしないと、少しだけでも話がしたかったんだ。あんたはきっと、すぐ帰ってしまうと思ったから」
「——……」
小さな声で、囁くように告げられた言葉に、恭一は一瞬息を飲んだ。何馬鹿なことをと笑い飛ばすことが、どうしても出来ない。
「車を取りに来るときは、俺が家にいるときにしてくれないか。冬休みはずっと家にいるから……」
由成は遠慮がちに続けると、チラリと横目で恭一を見た。怒っていないか、不機嫌になってはいないかと恭一の様子を伺っているのだろう。
「……馬鹿かおまえは、なんで俺がおまえの予定に合わせなきゃいけねえんだ」
こんなことを言いながらも、きっと近いうちに、自分は車を取りにこの家を訪れるのだろう。そう思いながらも、敢えて不機嫌に聞こえるよう返した言葉に、 声の響きに隠された感情を読み取った由成が安心したように笑った。
「……バイトは?」
「辞めた」
もう必要ないから——、由成は抑揚のない声で告げた。きっと自分から辞めたのではなく、貴美子に辞めさせられたのだろう。まさか部活まで辞めさせられて はいないだろうか。唐突に不安になって、恭一は勢い良く由成に顔を向けた。
「……由成、おまえ——、」
元気なのか。何も変わったことはないか。母親とは上手くやっていけているのか——本当はそう、尋ねたかった。しかし自分が何を今更この子にしてやれるだ ろう、何を言えるだろう。そう思うと、言葉が声にならない。
「どうしたの、」
「……なんでもねえ」
恭一が見る限り、この家の中で由成は幸せそうには見えない。それが、そうであってほしいと自分が願っているせいなのか、それとも真実なのか、恭一にはわ からなかった。
自分と過ごした時間よりも、この家で過ごす時間の方が由成にとって幸せだなんて、認めたくはない。——なんて自分勝手な。
「……なんでも、ないんだ」
視線を合わせて話すことに耐え切れず、恭一は眼を伏せた。由成の真っ直ぐな視線が、自分の頬辺りに落ちているのを感じる。その視線から逃れるように首を 振り、恭一は口を開いた。
「五日。空けとけよ」
「え、」
「誕生日だろう。車取りに来るついでに、お好きなモン食わせてやる。祝ってやるよ、雄高と」
そのときに友人の名を出してしまったのは、恭一の卑怯な弱さだった。決して二人きりになりたくはないと思う、それと同じ強さで——二人で過ごしたいと思 う自分から、誰よりも恭一自身が逃避したかった。
「……うん。ありがとう」
由成は——何も言わなかった。
何もかも見透かす瞳で、いつも笑って許した。
そのうち見慣れた白い車が楠田家の前に停車する。ライトの眩しさに視界を奪われたのは一瞬で、それが雄高の車だと改めて確認する必要もなかった。
「じゃあな、また五日に」
「——うん」
助手席に乗り込みながら、由成に向かって軽く手を上げる。それに向かって小さく笑みを返しながら、由成は車内の雄高にちいさく会釈をした。
「酒臭い」
「うるせぇ」
短く皮肉った雄高に短く返しながらドアを閉め、シートベルトを締める。暫く躊躇ってから、窓を開けた。助手席に腰を降ろした恭一を、由成がじっと見つめ ていることに気付いたからだ。
「——由成? どうした、」
窓から顔を覗かせた恭一を見つめる眼は、どこか懇願しているように見えた。
かち合った眼を逸らすことが、なぜか出来ない。息が詰まりそうなくらいに重たく感じる空気の中、由成は何か言いたげな表情で闇に佇んでいた。
「……恭さん、——おやすみ、」
唇が囁くように動いた。由成がそう言い終えた瞬間、僅かに車体が揺れ、ゆっくりと車が発進する。
おやすみを言い返す前に動き出した車に舌を打ちながら、恭一はどこか不思議な思いで車の揺れに身を任せた。
——おやすみ、と言った。唇が震えて動いた——。
「どうだった、久々の実家は」
「最悪だよ」
その唇はもしかしたら本当は——もっと他に、伝えたいことがあったんじゃないだろうか。
何かひどく大切なことを聞き逃した気がして、恭一はいつまでもバックミラーに写るちいさな由成を見つめ続けていた。