「遅いくらいだ。本当ならもっと早くに言い出したって、おかしいことじゃなかった」
雄高の零した言葉に、あぁ、と恭一は頷いた。判っている。そんなことは判っている。確かにこの生活は、あの女の一言にいつ終らせられてもおかしくなかっ た。六年もの間続けられたことは奇跡に等しい。——それでも。
あの女が由成のことを、要らない荷物だと思い続けばいいと願った。あの女にとって由成は必要ないのだと、思い続けていたかった。それがどんなに由成に とって酷なことであろうと。自分のために、そう思っていたかった。
「アイツは基本的にマザコンだからなぁ……」
それはおまえもだ、と返した雄高に低く笑う。
「俺の母親は文句なしに良い女だった。——だが貴美子さんは違うだろうよ。由成が今まで、貴美子さんに何をしてもらったって言うんだ。何も、だ。当たり前のことすらしてもらえてねえ。なのに由成は、母親ってだけであの人を慕い続ける」
こんな馬鹿な話があるかと、恭一はグラスを煽る。ほのかに甘さを残すはずのアルコールでさえ、今は只苦かった。
「……こんな馬鹿な話があるか。母親ってだけで、俺はあの女に負ける」
それでも由成は、迷うだろう。何も言わない自分と懇願する貴美子の間で、迷って迷って決断を迫られる。くだらない、恭一はもういちど、口の中で小さく吐き捨てた。くだらない、本当にくだらない、それでも。
——行け。俺は大丈夫だから。
あんなにもおまえがほしがったてのひらが、今、目の前に差し出されようとしているのだから。
一方的に切られた携帯を握り締めて、由成は呆然と立ち竦んでいた。まだ、何を言われたのかよく判らない。
今朝までは普通だった。笑って自分を送り出した彼が、何故そんなことを言い出したのか。
冷静になれ。自分にそう言い聞かせて、由成は考える。出ていけ、もう帰って来んな。そんな言葉は恭一の口から何度も聞いている。それらは自分の成長に対 しての厭味だが、全て本気ではないことは明らかに判っていた。
しかし今のは——
「………何があったんだ…」
恭一に、何かあったことは確かだ。しかし自分にそれを確かめる術はない。…今は。
山奥の合宿所に迎えのバスがやってくるのは、明後日の早朝と午後だ。テニス部は午後の便で帰る予定になっていたが、テニス部よりも少し早めに合宿を開始 したバスケ部が乗る予定の早朝のバスに、由成は便乗するつもりでいた。
どちらにしても動けない。明後日の朝までは——。
携帯の、ある人物の名前を押し掛けて指先が躊躇う。——駄目だ。雄高さんは、恭さんと一緒にいるかもしれない。
由成にとって優しい大人の雄高は、恭一に何かあれば必ず連絡を入れてくれるだろう。しかしそれがないのは、連絡が出来ない状況にいるということだ。
ならば自分は、来るかも判らない雄高からの連絡を待つしかなかった。由成は唇を噛んで携帯を握り締めた力を込める。
——恭さん、とその名を呟く。本当は、今すぐ会いたい。
しかし立ち竦むより術のない由成は、外に出たきり帰って来ない彼を心配した工藤が探しに来るまで、その場にずっと佇んでいた。
自覚なしに、随分と顔色が悪かったらしい。工藤は自分を見た瞬間に口を噤んで、只一言「帰るぞ、」と言っただけだった。
何も聞かないでいてくれる工藤の存在は。やはり有り難かった。——今は誰の言葉も、冷静に聞いていられはしないのだ。
冗談だよと笑ってくれる、あの人の言葉以外。
合宿二日目を迎えた朝、朝食時に出たゴミを、半透明の袋に押し込む由成の表情は憂鬱だった。どことなくその手付きが乱雑なものであっても致し方ない。
連絡が来るのを待ち切れず、早朝に雄高にメールを出したが、その返事は「合宿楽しんで来い」という不明瞭なものだった。恭さんどうしたの、というメールに対しての返事がこれなのだから、雄高の考えは全く良く判らない。
ただ、メールでは説明し難いことなのかもしれない、とは漠然と思う。どう返事を返そうか迷っていると、立て続けに雄高からメールが帰って来た。
「車を出して欲しいときは言え」と。
これは、由成が家に帰りたいといえば、合宿所まで迎えに来てくれると言う意味だろう。しかし由成は悩んでいた。会いたい。今直ぐに恭一に会いたい。それ は、いつでも第一に自分の胸を占めている思いだった。しかし昨日の恭一の言葉がその思いを躊躇させる。
彼は、もう戻って来るな、と言ったのだ。それは、合宿から帰ると同時に楠田家に戻れという意味なのか。それとも、荷物を取りに帰ることくらいは許してく れるだろうか。
戻って来るなという言葉が恭一の口から出たものである限り、その声から冗談の匂いが嗅ぎ取れない限り、由成にそれを無視することは出来ない。彼は自分に とって、絶対だ。
——どうすればいい?
ぐるぐるとその言葉が頭を回った。どうせ明日には合宿所を出なければいけない。そうなれば恭一と顔を合わせて話すことになる。だけど自分は——そして恭 一は、明日まで待てるだろうか。
時間がこの問題を解決してくれるとは思えなかった。むしろ、時間が経てば経つほど、悪い方向へと自体が転がっていくようにも思う。
——恭さんに、聞かなきゃ。
由成は決意して、ポケットに仕舞い込んだ携帯を取り出した。迎えに来てください。それだけの短いメールを返す。
直ぐに、合宿所の所在地を確認するためか、雄高からの着信を知らせるメロディが鳴った。
「帰るって、オイ…、」
今からか、と驚く工藤の反応は当然のものだった。ゴミ捨てから帰って来たかと思えば、物凄い勢いで荷造りを始めた由成を、工藤は呆然と見つめる。
「雄高さんが、迎えに来てくれるんだ」
「雄高さんって——あぁ、あの恭一さんの友達の?」
うん、と短く由成は返す。雄高の車が到着するまで、あと20分余り。まだ時間はあったが、部長にも断りを得なければならない。事情を深く説明するわけに はいかないから、適当な理由を並べなければいけないだろうと思うと、罪悪感に胸が痛む。
「中途半端にしか参加出来なくて、ごめん。今度埋め合わせはするから」
「バカ。んなこと気にしてんなよ。…俺のほうこそ、悪かったな。大変な時期に付き合わせて——」
それこそ気にするなと由成は軽く笑う。昨晩、工藤がいたからこそ、自分は冷静に一晩を待つことができた。
「——恭さんが、帰って来るなって俺に言ったんだ」
しかしせめて工藤には、事情を説明しておかなければならないだろう。由成は手を休めず、言葉を続けた。
「どうしてそんなことを言い出したのか俺には判らない。判らないから——確かめなきゃ。早く、ちゃんと顔を見て、話さなきゃいけない気がするんだ」
口に出して言えば、その気持ちはますます強まった。早く——一刻も早く、と。
「——恭一さんに、何かあったのか?」
判らないと続けて首を振った。本当に、何も。何ひとつ判らない。
黙り込んでしまう由成を暫くじっと凝視めていた工藤が、固い声で口を開く。
「判った。…由成、ソレ持って大通りまで出とけ。判りやすい道まで出てれば、少しでも早く、えーと…雄高さん? に拾ってもらえるだろ」
「でも、部長に挨拶してから行かなきゃ」
「俺が言っとくから。早く行けよ。ちょっとでも早く帰った方が良いんだろ?」
急かすように言う工藤の言葉に、由成は曖昧に頷く。だけど、と躊躇うように続けようとした由成を遮って、工藤は笑った。
「だっておまえ嘘吐くの下手じゃん。だから俺が言っといてやるよ」
工藤に背中を押され、バッグを片手に全速力で駆け出した由成は、恐らく自己ベストタイムで車通りの多い通りまで出た。息を切らせ、一息ついていると背中 にクラクションが投げ掛けられる。振り返ると見慣れた白い車が、道の脇に車を停車しようとしていた。
直ぐに車に駆け寄り、滑り込むように助手席に座り込んだ由成を見るなり雄高は静かに笑った。
「ここまで走ってきたのか。速かったな」
「——ゆ…たか、…さんこ、そ……」
荒い息継ぎの合間に、由成はそれだけを返す。朝っぱらから全速力で駆けた由成に、雄高は缶コーヒーを投げて寄越した。由成は有り難く受け取った缶を開ける。咽喉に流し込んだコーヒーはひたすらに苦かったが、それでも幾分か呼吸が落ち 着いた。
「雄高さん、——恭さんは……」
「二日酔い」
二日酔いと聞くなり眉を寄せた由成に、雄高は苦笑を返しただけで何も言わなかった。それは、恭一がアルコールを大量に摂取することを好まない由成の当然の反応ではあるが、そういうことを聞きたいわけではないと言外に訴えてもいる。
「——おまえと——恭一にも当て嵌まることだとは思うが、」
雄高はハンドルを切る片手間にポケットから煙草を引き抜き、フィルタを噛んだ。窓を開けることを忘れずに慣れた動作で火を点けると、無造作にライターを後ろの座席に投げ込む。
「自分のことだけを考えられないってのは、ある意味不幸なことだ」
無意識にライターを見送ってから、由成は雄高の横顔に視線を戻す。雄高の口から伸びる煙草の煙が少し目に染みた。煙の匂いは否が応にも、あの人を思い出 させる。
「——わからないよ」
恭一は昔、由成に良く言った。自分のことを考えろと。他人を思いやるよりも先に、自分のことを大切にしても良いのだと自分に言ったのだ。
——だけど俺は一番に恭さんのことを考えるよ。俺の好きなひとたちのことを考えるよ。そういう自分が、一番良いんだ。そういう自分の方が好きなんだ。
そう答えた由成に、恭一は少し困ったような顔で笑っていた。
おまえが自分を第一に大切にすることが、俺を思いやることに繋がるんだ、おまえの好きなひとたちを思うことに繋がるんだ……。
雄高の車は、彼の言うように最短距離で(由成は見たこともないような道だった)、由成の——恭一の家へと到着した。
「——ありがとう、雄高さん。朝早くから我侭言って、ごめん」
「別に大した手間じゃない。恭一が俺に掛けてきた迷惑と比べればな」
雄高の言葉に軽く笑ってから、由成は玄関へと向き直った。家は、シンと静まり帰っている。まるで誰も存在しないかのような光景は、決して珍しいものでは なかったが、今は自分に対しての強い拒絶を表しているようにも思えて、由成は唇を噛んだ。
鍵を使って玄関を開ける。いつも通りの、慣れた動作にすら一々緊張してしまう自分を嘲ってから、恭さん、と由成は声を投げた。
「——恭さん。寝てるの」
リビングに辿り着くと、床に転がっている恭一の姿が見える。部屋には濃いアルコールと煙草の匂いが充満していた。見れば灰皿には吸殻が山のように重なっ ていたし、床は缶やら瓶やらが転がっていて、気を払って歩かなければならない有様だ。
「——なんで帰って来た」
寝ているのかと思われた恭一は、由成の声に微かに身じろぎした。共に投げられかけた言葉に由成は酷い胸の痛みを覚えて、息が詰まった。
「……明日だろ。帰って来んのは。今日なんて話は聞いてねえぞ……」
「——…雄高さんが迎えに来てくれて……恭さんと話がしたかったから」
しかし続いた言葉に、由成は一応安堵する。恭一のそれは、予定外の今日帰宅したことを責める言葉で、合宿からこの家に直行したことを責めているわけでは ないようだ。
「何も話すことなんかねえだろ。昨日行った通りだ。荷物纏めて直ぐに出てけ。一度に持ってくのが大変なら、分けて取りに来ても構わねえ」
夏休み中で良かったな、掠れた声で恭一が言う。
「——恭さん。どうして、そんなこと……」
身を起こしてこちらを見ようともしてくれない恭一の姿に、由成は悲しくなる。
「……俺、恭さんの気に障るようなこと、したの」
恭一から返る言葉はない。悲しくて、由成は振り向かずに横たわったままの恭一の背中を凝視めていた。声が震えた。
「……ちゃんと言ってくれ。どうしていきなりあんなこと言ったんだ」
恭一はいつでも自分の言葉を、真摯に聞いてくれた。そして答えてくれた、唯一の人だった。会話というコミュニケーションの手段を教えてくれたのは、他の 誰でもないこの人だった。——なのにその人が今、自分の言葉を聞いてくれない。
「……恭さん、お願いだから言ってくれ。俺に悪いところがあったんなら、ちゃんと直すから。だから……出て行けなんて、言わないで」
変わらずにここにいて良いと、言ってくれ。祈るように背中を見つめる。動いて。振り向いて。——答えて。
「前から考えてたことだ。……おまえはそろそろ楠田に帰るんだ」
しかし祈りも願いも虚しく、漸く返された恭一からの言葉は、由成の渇望したものではなかった。
「子守りも、もう、充分だ」
——恭さん、と掠れた声が一度だけ、恭一の鼓膜を震わせる。
それなのに、もう恭一は何も応えてくれなかった。
最早由成が語る言葉など、持てはしない。絶対唯一の彼に、拒絶を見せられては、何ひとつ。彼の意志に添わない言葉など、持てるはずが。
一度、名前を呼んだ後、由成はもう口を開かなかった。自室へと足を向け、必要なものだけを、昔修学旅行用に恭一が買ってくれた鞄に詰めた。
どうあっても、大きな荷物は運び出せない。学生生活に最低限必要で、運び出せるものは、教科書、ノート、衣類——そう考えると、荷物は案外少なく済ん だ。仕方ない。今、自力で纏められるのはこれくらいだ。
合宿所から持ち返ったスポーツバッグと、最低限の荷物を詰め込んだ鞄のふたつを持って、由成は部屋を出る。
荷物を纏めている最中に起き上がったらしい恭一が、煙草を吹かしながら部屋から出て来た由成を見つめていた。
その視線を真っ直ぐに受け止めて、由成は頭を下げる。礼など幾ら言っても足りない。言葉だけでは足りない。それくらいに感謝の気持ちは、常にあった。
それなのに、今こんなに悲しいのは、漠然と「捨てられる」と思ってしまったからだ。
また、ひとりに、なると。
——恭さん、
あんたも俺を、捨てるのか——。
言いようのない悲しみが胸にひたひたと染みた。しかし、それを告げることは出来ない。——恭一は、本当に自分に優しかった。必要も義務もないのに、見返 りもなく自分に優しくしてくれた。一緒にいてくれた。由成の世界から孤独を奪っていってくれた。
そんな彼に、何故「自分を捨てるのか」なんて言えるだろう。そんな恨み言は、見当違いでしかない。ずっとこの生活が続くだなんて、どうして思っていられたのだろう。
「……今まで俺をひとりにしないでくれて、ありがとう、恭さん」
恭一の顔がゆっくりと俯いて、そのまま彼は床に視線を落とした。完全に意志の疎通が断たれてしまったそのとき、目を合わせてくれない彼の肩が微かに震え た気がしたけれど、ぼやける視界では、もう何が真実で何が嘘なのか、判断できない。彼の本意を知ることなど、この悲しみに惑いきった心でできるはずがな い。
そのまま返事を待たずに、由成は玄関へ向かった。途中、ポケットから合鍵を取り出して靴箱の上に置く。もう、二度と、必要ない。
さようならとは言えなかった。その言葉はあまりにも悲しすぎるし、これからも自分と彼の兄弟関係は続いていく。だからこれは、真実の「さようなら」では ないはずだと、由成は信じた。——縋るように、信じていたかった。
なのに、彼がひどく遠い人になってしまったことは、確かだった。
玄関から出ると、由成を見送ると共に去ったとばかり思っていた雄高が、まだその場にいた。まるで由成が直ぐに家から出て来るのを、予め知っていたよう に。
「——送ってやる」
その一言で、雄高は由成を助手席へと再び座らせる。由成は雄高の気遣いに、言葉もなくただ頭を下げた。窓から見える景色が変わる。楠田家へと続く、見知った風景だ。そして、恭一からはどんどん遠くなることを、由成は視覚からも痛感する。
——あなたが、遠くなる。
溢れる涙がせめて雄高に悟られることがないようにと、由成は窓から流れる夏の風景を努めて見つめ続けていた。