「これで全部か?」
「うん。すぐ必要で、運べるものはこれくらい。雄高さんが車を出してくれたおかげで色々持っていける」
お礼をしなきゃ、と由成が意気込むのに、そんなものはいらないと恭一は首を振る。
楠田家に車を置きっぱなしの恭一を送るついでに、荷物くらい運んでもらったって、それがどんな手間になるというのだろう。
「――いくらなんでも、ここ最近ずっとタクシー代わりに動いてもらってたんだから。恭さんも少しお礼を考えた方がいい」
苦笑混じりに由成が嗜めるのを、恭一は鼻であしらった。
「礼なんかするくらいなら、最初っからあいつに頼んだりしねえよ」
楠田家の一室、由成に与えられた広い部屋の中は元々物が少なかった上に、三人がかりで荷物を運び出した後はいっそう生活感を失ってしまった。
「今が冬休みで、よかった」
「――厭味かそれは」
煙草の煙を弾くように唇から吐き出しながら、恭一はひどく嫌そうな顔をする。由成は首を振って否定しながら、楽しそうに笑った。
「母さんに会ってくる。恭さんたちは先に行っててくれ」
大きなショルダーバッグを肩に下げた由成は、長い廊下を歩いている最中、ふと足を止めて恭一と雄高を伺うように見た。恭一が雄高に視線を流すと、彼は一度だけ頷いて先に玄関へと向かっていく。
「おまえだけ挨拶ってわけにもいかねえだろうが。……俺も行く」
雄高の背中を見送ってから、恭一は貴美子の部屋へと向かって再び歩き出した。
「……でも、恭さん」
「文句あんのか。……どうしたって俺がおまえの保護者代わりになることは変わらねえんだから、おまえの母親に挨拶するのは当然じゃないのか」
由成に背中を向けたまま捲くし立てると、由成は押し黙った。由成が自分と母親を会わせることに躊躇いを覚える理由は、恭一にも判っている。正直にいえば、恭一自身、貴美子と顔を合わせるのは気が重たい。
「……避けられねぇことだろ。どうしたって」
会えば、罵られるかもしれない。昨晩遅く、由成が見付かったと連絡を入れたとき、貴美子は電話口で泣いていた。安堵からの涙だろう。啜り泣く女のか細い泣き声を聞いたとき、このひとにもようやく母親としての情が湧いてきたのかと恭一は複雑な気分になった。
罵詈雑言を覚悟して、唇を引き結んだ瞬間だった。長い廊下の先の曲がり角で、しとやかな足音と共に貴美子が姿を見せたのは。
「――由成、」
少し痩せただろうか。由成が不在だったこの四日間、このひとはこのひとなりに食事も咽喉を通らない思いをしていたのかもしれない。
貴美子はゆっくりと面を上げると、少し離れた場所に立ち竦む息子の顔を真っ直ぐに見つめた。
「……行くの、」
貴美子の細い声が震える。由成は僅かに眼を伏せて――しかし良く通る声で、はっきりと告げた。
「……うん」
由成が恭一の家に戻るつもりであるということを、父親である庸介には予め連絡を入れていた。どうしても由成は自分の元で育てたいのだと恭一が訴えると、庸介は静かに頷いて、
――私は、由成に関してどうこう言える立場じゃない。あの子がしたいようにすれば良い。
由成を再び引き取ることを許した。貴美子には伝えておこうと父は言ってくれたが、それで貴美子が納得するとは思えなかったが、何を言われたとしても、二度と由成を離せるわけがない。悲惨な決戦を覚悟していた恭一は、自ら姿を見せた貴美子に気の抜けたような思いだった。
「ごめんなさい。……俺を、恭さんのところに、帰らせてください」
貴美子は沈痛な面持ちで由成の言葉に耳を傾けている。俄かにその美しい顔を上げたかと思うと、貴美子はふっと笑みを形作った。
「――そうね。もう私は止めはしないわ。……勝手になさい」
微笑みを称えたまま、お行きなさいと貴美子は素っ気無く由成に告げた。言葉はひどく冷たいのに、由成を見限ったような響きは、どうしてか感じられない。
「恭一さん。――少し良いかしら、」
由成に続いて歩き出そうとした恭一を、貴美子が呼び止める。
「別に構わねぇけど――、由成、おまえは先行っとけ」
訝しげに母と恭一を見比べている由成に告げる、少しの間の後、由成はこくりと頷いた。しかしその足はまっすぐに玄関へは向かわず、貴美子の前で一旦行き止まる。何をするつもりかと見ていた恭一の前で、ゆっくりと上がった由成の掌が、貴美子の白い頬をそっと撫でた。
「ごめんなさい……痛かったね、……もう二度と、何があったってあんなことはしない。ごめんなさい」
貴美子は驚愕の表情で目を開き、息子の掌がその頬を撫でる間中、由成の顔をじっと凝視していた。由成は二、三度労わるように優しく貴美子の頬を撫でると、あとはもう何も言わず貴美子と恭一に背を向ける。由成の足音が遠ざかっていく中、恭一は見た。
貴美子の白い頬に、すうっと一筋の涙が流れるのを。
「――謝らなければならないのは私の方なのよ、恭一さん……」
「……俺は、謝られるようなことはされてねえ」
「いいえ。……あの子が私を殴った理由を、聞いたかしら、…きっとあの子は言っていないでしょうね。本当の理由は――」
さっき由成が触れたばかりの頬に流れる涙を自分の指先で拭い、貴美子は声を詰まらせながら嗚咽した。
「私はあの子の前で、あなたをひどく罵ったのよ。由成を盗られると思ってしまったから――悔しさのあまり、自分でも厭になるくらい汚い言葉であなたを罵ったのよ……」
「あんたが俺を罵る気持ちは真っ当だ。気にすることじゃない」
罵られるのは当然だと恭一は思う。結局、自分は彼女の母親としての望みを奪った。甘んじて罵倒を引き受けることはしても、謝られなければならない所以など、どこにもない。
しかし恭一の許す言葉にも、貴美子は首を振った。
「……あなたは許しても、あの子は許さなかったわ」
――母さん。お願いだからあのひとを悪く言わないでくれ。あのひとは、俺の大切なひとなんだ。お願いだから、あのひとを悪く言わないでくれ……。
由成は貴美子の頬を殴りつけた後、すぐに我に返って悲しそうな顔で言ったという。母親を殴りつけた拳は、固く握り締めたまま震えていた。
「あの子から見たら――そしてあなたから見ても、私は善い母親ではないわね。でも、これだけは信じて頂戴。今更と思われても、私はあの子との時間を取り戻したかった。いくら遅くても、大切にしたかったの」
恭一は静かに頷いただけだった。――何を今更と憤る気持ちは、まだ確かにある。貴美子は遅すぎた。由成が強く母を望んでいた時期は、とっくに終わってしまったというのに。
「ある日ふと気付いたの。もしもこのまま由成と擦れ違ったまま生きていけば、私は母として何もあの子にしてやれない。あの子も私のことを母親だと思ってくれていないんじゃないかと……。それはどんなに寂しいことかしら。たったひとりの息子と擦れ違ったまま死んでいくのは……どんなに……」
しかし貴美子の流す涙は、後悔と懺悔のそれだった。それを見た瞬間、貴美子への蟠りが、完全ではないものの、急激に薄まっていくのを恭一は感じる。
「……でも、由成にとってはあなたが一番なのね。それは当然だわ。今まで由成をほったらかしにしておいた私と、そばであの子を育ててくれた恭一さんとじゃ、比べるまでもないことだった」
「もし俺が同じ言葉であんたを罵ったとしたら、由成は俺を殴ったと思うぜ」
貴美子が自嘲気味に放つ言葉を、恭一は静かに遮った。
「――あんただって、判ってるだろ」
落ち着いた声音のままで続けると、恭一はもう貴美子の顔を見なかった。由成が消えていった廊下を、ゆっくりと歩き始める。背中に泣き声が、いつまでもいつまでも追うように聴こえていた。
「それでおまえ、矢野ってヤツとはどんな関係なんだ」
恭一の家へと無事に運び終えた荷物を、由成が自室に篭っての整理している間、ソファに踏ん反り返った恭一は、祝杯代わりに缶ビールを手にしていた。由成が昼間早々にと嫌な顔をする前に一缶飲み干してしまおうと、いつもより飲むペースを速めている。やはりどこか情けない。
「――親戚」
「ふざけんな。おまえの親戚が関西地方にいるなんて話、聞いたことねえぞ」
ビール代わりにコーヒーを口にしている雄高が、あのとき示した矢野の存在は、全くの盲点だった。由成によれば、矢野は合宿の前後に親しくなった部活の先輩だという話だ。合宿後、由成とまともに顔を合わせていない恭一が、その存在など知るはずがなかったのだ。
「なんでおまえが俺の親戚一同を把握してるんだ。……前に一度話しただろう」
矢野が自己申告しなければ、由成を発見することはできなかった。それに関して言えば、雄高と矢野がなぜか知り合いだったことに感謝はするが、恭一はどうも納得がいかない。
「話したか? おまえに高校生の知り合いがいるなんて話聞いてねェぞ、不釣合いな――、」
そこまで言ってから、ふいに思いついたある「理由」に恭一は目を見張った。
「……まさか……あれか」
「おまえにしちゃ良く覚えてるな」
ついまじまじと凝視してしまった雄高は、ふんと鼻で軽く笑って恭一の考えを肯定する。恭一は頭を抱えて、絶叫した。
「もっとじっくり顔見ときゃ良かったー!」
「……おまえの後悔はそこなのか」
知らぬ間に引き合わされていた親友の恋人の顔は、由成にばかり注意が言っていたせいで残念ながらあまり覚えていない。覚えているのは、由成を殴りつけた後に自分を宥めてくれた印象的なイントネーションだけだった。
「近いうちに会うこともあるだろ。……俺もまさか、アパートに転がり込むほどの仲だとは思ってなかった」
呟く雄高の声は、どこか苦々しげだ。矢野と由成が顔見知りであることは知っていたようだが、すぐに矢野の存在に行き当たらなかったらしい。
「……誰の顔をじっくり見ておけば良かったの?」
部屋から出てきた由成が首を傾げるのに、恭一はああいや、と言葉を濁して誤魔化した。
「片付け終わったのか、」
「大体は。一日で片付くとは思ってなかったから、今日はこれくらいで止めとく」
そう言った由成は、恭一の手に握られた缶ビールを見て予想通り嫌そうな顔をした。
「雄高さん、今日と――それから、色々、ありがとう。矢野さんにもお世話になりましたって伝えておいて」
雄高の方へ顔を向けながら、由成はソファへ腰掛ける。雄高は、「伝えておく」と頷くとソファから立ちあがった。
「帰るのか」
「……いつまでも暇人じゃないんだ、俺も」
テーブルにカップを置きながら、軽い皮肉を残して雄高は玄関から出て行く。玄関が静かに閉まる音を聞いてから、由成はビール缶と雄高のカップを持ち上げた。
「恭さん、仕事は?」
「あることにはあるが、まだ余裕がある」
雄高の台詞に、由成は恭一の仕事を思い出したのだろう。返した言葉に、缶を片付けながら由成は安堵を滲ませて小さく微笑った。
「……なら、少しはゆっくり出来るね」
「どっか行きてえとこでもあんのか、今なら連れてってやれるぞ」
「どうして。恭さんが家にいるのに、出かけたいところなんてないよ」
さらりと返された言葉に、恭一は沈黙した。由成は昔からこういうことを平気で言える人間だったと判ってはいるのに、今はまるで違う意味が含まれているようで、どうやり返せばいいのかが判らない。
「――ねえ、恭さん。これを……」
再びソファに戻って来た由成が差し出したのは、日焼けして随分変色した大きな茶封筒だった。
「……なんだ?」
首を傾げながらも、差し出されたそれを受け取る。なんだか記憶にあるようなないような曖昧な気分になったが、この封筒の正体にはすぐに見当が付かない。
「夏休みに向こうに移ったときに、部屋から出て来たから。恭さんに返さなくちゃいけないと思って」
受け取った封筒の中身を引きずり出そうとした瞬間、恭一は驚愕に思わず声をなくした。
封筒から出て来たのは、やはり日焼けに変色してしまった古い原稿用紙だった。二十枚ほどもあるだろうか、それに綴られている文字は間違いようもなく自分のものだ。
「――……良く、残ってたな」
驚きを隠せないままそう呟くと、「うん、」と短く由成が頷く。
ガサガサと音を立てながら、当時とは感触さえも違う原稿用紙を捲った。懐かしい思い出が一気に甦ってきて、鼻の奥が少し痛い。
「……恭さんがこれを俺にくれたとき、ずっと大切にしようって決めた。何度も読み返したよ。だからまたこれが出て来てくれたときは、本当に嬉しかった」
それは、十年前の恭一が綴った拙い童話だった。ずっと昔から、物を書いて食っていこうというぼんやりとした決意はあったものの、自分が何を書きたいのか、何を書いていけば良いのかは全く掴めていなかった。何年も前、言葉を返さない小さな小さな弟に、面白おかしく既存の童話を改竄して聞かせていた。それは、ひとりで喋り続けるにも限界があったからだという些細な理由で、そしてそれにも飽きたころ、恭一は由成のために幾つかの童話を書いた。
「夏休みにそれが見付かって、読み直したときに……やっぱり、好きだなって……」
由成は恭一の創る物語に、眼を輝かせて反応した。それがひどく嬉しくて、由成が言葉を話すことを覚えてからも、懲りず恭一は子供向けの童話を創り続けた。由成に読み聞かせるために。そして自分の創作意欲の向くままに。
「……あんたの創る話は、どの物語よりもやさしいから。そういう話を書けるあんたのことを、本当に好きだと思ったんだ」
「そうか」
いつからか童話を作ることは止めてしまった。由成は童話を読む歳ではなくなっていったし、童話の代わりに官能小説が売れてくれたおかげで由成を養って生活することもできたのだ。
小さな由成が喜んだ、あの日に芽生えた情熱は、とうに捨てたはずだった。
「……もう、書かないの」
頭の片隅で、出番を待ち望む、生み出すことが出来なかった優しい優しいストーリーたちが、か細い声で叫んでいる。恭一は努めてそれを無視してきた。
今はもう誰も、自分に優しい物語など望んでいなかったから。
「……時間もなきゃ、余裕もねえしな」
「……じゃあ、時間ができたときで良いから俺に読んで聞かせてくれ、あんたの創る物語を。……色っぽい方のじゃなくて」
由成の言葉は最後だけ、冗談混じりに告げられた。果たしてそれに、上手く笑うことができただろうかと思う。
「聞かせるだけなら、そう手間はかからないだろう?」
「……あぁ、」
やさしい物語を書く人間になりたかった。眠れない子供たちを穏やかな眠りに導けるような物語を作りたかった。それが確かに自分の夢だったのに、忘れてしまったのはいつからだろう。なんでもいい、小説と名のつくものを書けるだけで幸せなんだと自分に言い聞かせるようになったのは、いつからだろう。
「文字にする必要なんてない、俺にだけ聞かせてくれば良い。……この話を書いていたときの恭さんが、いちばん楽しそうだったから」
由成は、恭一の夢を笑わなかった。それどころか、背中を押してくれているとさえ感じる。
「……別にな。官能小説を書くのが楽しくないってわけじゃねェんだ、」
「うん」
「……でもな、俺が本当に書きたかったのは――最初に書きたいと思ったのは」
「うん」
恭一の言い訳に、由成はひとつひとつ丁寧に頷いてくれる。心がひどく穏やかになった。
由成が自分のやさしい物語を求めてくれるというのなら――いくつでも、書けるような気がした。
「……おまえがいちばん喜んでくれた、ああいう話だったのかもしれねえ」
無意識に、握り締めた指に力が篭って、原稿用紙がくしゃりと歪む。それも気にせず、綺麗とは言えない文字を眼でなぞりながら、恭一はゆっくりと目蓋を下ろした。思いも寄らぬプレゼントに、らしくもなく感傷的になっている。
再び目蓋を開く前に、唇に柔らかい感触が落とされた。それを黙って受け止め、やがて唇が離れると恭一は目を開いて由成を睨み付ける。
「――昨日の今日で」
「うん、ごめん」
口では謝りながらも由成は口接けを止めようとしない。
まるでじゃれ合うように啄ばむキスを何度も繰り返され、恭一もそのうち、まぁいいかという気分になって来る。
観念して由成の背中に手を回そうとしたとき、ふと気付く。――白い箱が、テーブルの上に置かれたままだ。何のかのと慌しくて、結局渡しそびれていた由成への誕生日プレゼントだ。
キスを遮って今プレゼントを渡そうかと一瞬思ったが、やけに嬉しそうな由成を見るとそれも忍びない。
――まぁ、良いか。
とりわけ急ぐ必要もない。今日も明日も明後日も、恐らく一年後も――飽きるくらい由成は自分の傍にいる予定だ。
恭一は今度こそ由成の背中へと、躊躇いなく手を伸ばした。