おわりがきたら 金魚5


 ――だれのことも憎まないのは難しいね。だけど、出来たらそんな感情はない方が良いに決まってるじゃない。
 どうしてうちにずっとお父さんがいてくれないの、そんな幼稚な質問を母に投げかけたことはない。幼い頃から肌に感じていた。自分はたぶん、誰かにとっては邪魔な存在なのだろうと。
 だけどそれがどうしたと思う。父親と苗字が違う、母親が父親の戸籍に入っていない、父親にはもうひとつの「家庭」がある。そんなもの糞食らえだ。自分はこの女から産まれた。この母親から産まれた。それが自分にとってどれほど嬉しかったことだろう。どれほど誇らしかっただろう。
 強い女だった。恭一は、いつだってその女の柔らかな両腕に守られていた。

 それは、高校受験を終えたばかりの頃だった。
 成績は良い方ではなかったのに、不思議と落ちた気がしなかった。すっかり受かった気分で、あんまり自分が自信たっぷりなものだから、あのひとは逆に心配ばかりしていたように思う。
 しかし自分といえば、既に頭の中は四月からスタートする高校生活のことでいっぱいだった。
 高校生になれば働くことが出来る。初めてのバイト代で、母に何かを買ってやろう。どれだけ喜ぶだろうか。逆に叱られるかもしれないとも思う。自分で稼いだ金は自分のために使えと言うだろう、あの母親なら。
 だけど思う。あんたを想うことが、自分を想うことに繋がる。俺にとって、自分を大切にするっていうのは、あんたを大切にすることなんだ――
 だけど合格発表を待たずに、母は逝った。
『――かあさん、』
 掠れた声で、そう呼んだ。
 あのひとは、眼を閉じたまま動かない。白い頬がとてもきれいだった。このひとの心臓は本当に止まっているのだろうか。隣で嗚咽を殺している父親は、勘違いをしているんじゃないか。ご臨終です、そう告げたという医者の声は、何かの間違いなんじゃないだろうか。
『かあさん、―――母さ、……』
 ――恭一。あんたは大丈夫だね。誰も憎んだりはしないね。楠田の名は、きっといつかあんたを縛るだろうけれど……。
『母さんな、飛び出して来た子供を避けて、対向車と衝突したんだ。幸い、対向車に乗っておられた運転手は無事だった。それから子供も、』
 父が呟く。その声はやはり、掠れていただろうか。
 ――何が。何がさいわいなものか。
 ほんの一瞬だけ、顔も知らないその子のことを憎いと思う。
 それなのに自分の唇は、意思とは反対の言葉を吐き出した。よかった、と。それはきっと、母の前だからだろう。母の前で恨み言など言えるはずがない。命を賭して子供を守った誇り高い母の前で、どうして子供への憎しみなど零すことが出来ただろう。
『飛び出して来た子供庇って自分が死んじまうなんて、このひとらしい死に方だよな。……なあ親父、』
 声を震わせて涙を流す父親に、諭すような口振りで呟いた。自分でも不思議に思うくらい、声は静かに吐き出すことが出来た。
 母は頭を強く打ったらしい。すぐに病院に運ばれたが、そのとき既に重体で、間もなく死亡したと聞かされた。それなのに母の顔は穏やかで、激しい事故の様子などまるで感じさせなかった。
 ――あんたを想っているひとがいる。あたしがいる、あのひとも――そう、それから雄高も。あんたたちは、昔っからケンカは良くするくせにちっとも離れはしないんだから、これからもきっとそうなんだろうねえ……。
 慌しい足音がひとつ、ふたつ。ひとつは母の妹のものだった。伯母にあたる女は、母の死顔を見た瞬間、わああああ、と大きな声で泣き出した。仲の良い姉妹だったからなあ――ぼんやりと思う。女は良い。構わず泣き乱れることが出来るから。
 もうひとつの足音は、
 ――もうひとつは。
 足音の正体を確認する間もなく、その人は病室から廊下へと恭一を連れ出した。父の嗚咽、伯母の慟哭が響く、白い病室から。
『恭一、』
 聞き慣れた声が名前を呼ぶ。
 声はどこか、何かを危惧して焦燥しているように聞こえて、やけにおかしかった。いつもならこんな声を出すようなヤツじゃないのに。
『恭一、――もう良いんだ。ここに椛さんはいない。親父さんもいない』
 両肩を揺さぶられる。しっかりしろ、大丈夫だ。同じような言葉が繰り返し繰り返し与えられる。
 その全てがどこか遠くて、耳の届く前に泡となって消えていくような気がした。
 しかし声は懸命に恭一に語りかける。
『良いんだ、恭一。椛さんは見てない。誰もおまえを見ていない。だからもういい』
 その言葉に、頭の中で何かがぱちんと弾ける音がした。瞬きをした眼から熱い何かが落ちて頬を滑る感触がした。
 これは涙と呼ぶのだろうか。
 ――ああそうか。自分は多分、泣きたかったのだろう。それに気付いたのが、彼ひとりだったのだろう。だから彼は自分を連れ出してくれた。母親の前では決して泣けない自分を。
『どうして母さんだったんだ』
『――恭一』
『どうして母さんだったんだ。どうして母さんじゃなきゃいけなかったんだ。……どうして、……死んで良いような人間じゃねェだろ、…誰かの替わりに死んで良いような人間じゃ、なかっただろ…!』
 泣きたかった。叫びたかった。世界中を呪いたかった。母を殺した子供が憎かった。
 だけど母はこう言うのだろう。自分は殺されてなんかいない。誰にも殺されてなんかいない。誰も悪くはないと。
 ――恭一。あんたは大丈夫だね。
 ――憎しみも悲しみも全部――好きだって気持ちに、変えることにしたんだよ。
 彼女が何を思ってそう言ったのか判らない。そのとき自分には、母の言葉の意味が理解など出来るはずもなかった。
 何を想えというのだろう。突然あなたを失った痛みを、何に変えれば良いというのだろう。
 ――母さん。俺は無理だよ。俺はあんたみたいに強くない。
 ――誰かを憎まずに生きていくことなんて、俺には出来ないよ。


「――恭さん?」
 エンジン音が止まる。眼を薄らと開けると、運転席の由成が怪訝そうに眉を寄せて顔を覗き込んでいた。
「――あぁ、悪い、……」
 免許を取ったばかりの由成の運転は予想以上に上手く、微かな振動の心地好さに身を任せて、うっかりうたたねをしてしまっていたらしい。下手をしたら自分よりも運転が上手いのかもしれない。
「良いよ。……それより魘されてたみたいだけど。大丈夫なのか」
「おまえの運転が下手だからじゃねぇのか」
 心配そうに自分の顔を見つめる由成に笑って返すと、恭一は車から降りた。ドライブ代わりにと車を一時間半も飛ばせば、新鮮な空気が心地好い自然の多い山地へと辿り着く。
 あんな夢を由成に話したくはなかった。一瞬、そうほんの一瞬でも――誰かに殺意を抱いたこと自分の話など。
「割りと近かったな」
「でも疲れただろう? ……無理して来なくてもよかったのに」
「助手席でぐーすか寝てるヤツが運転手より疲れてるなんて話あるか。……別に無理なんかしちゃいねえよ。おまえは忘れてるみたいだけどな、あのひとは俺の母親でもあるんだぞ。母親を見舞うのに何の無理があるんだ」
 いっそ顔を顰めて不本意そうな表情で言うと、由成は安心したように小さく笑う。それ以上はもう何も言わず、黙って運転席から降りるとゆっくりと歩き出した。
 二人が向かう先は、楠田家所有の別荘のひとつだった。静かな山地に建てられた別荘は、車を最低三十分走らせなければ買い物にも出かけられないという不便な場所だったが、その分澄んでいる空気が格別によかった。だからこそ、由成の母――貴美子はこの場所を選んだのだろう。
「貴美子さんの様子はどうなんだ」
「先週来たときは元気だったよ。家政婦さんと楽しそうに話す元気があるくらいに」
 一年ほど前に癌で倒れ、手術を受けたとしても完全に癌細胞を取り除くことは不可能だと医師から宣告を受けた貴美子は、その日からそっとこの別荘に篭り切りになっている。余命いくばもないと判断しての隠居生活なのだろう。
 その知らせを聞いたとき、恭一は信じられない思いだった。強かなあの女が病気に倒れることなど、全く予想もしていなかったのだ。しかしそれ以上にショックを受けたのはもちろん由成だろう。
「父さんも良く来てくれてるらしいから。休んでいる暇がないって、笑ってた」
 ぎこちなく本来の「家庭」を取り戻しかけていた矢先の出来事だった。恭一と由成が二人して実家に帰ることが多くなり、貴美子と恭一が牽制し合うこともなくなった、三年前。
 それから貴美子が倒れたあの日まで、確かに自分たちは家族の形を取り戻していた。
 由成は大学受験が終わるのを待って、直ぐに免許を取りに教習所へ通い出した。もちろんそれは、不親切な場所に篭ってしまった母のためだ。遠慮深い由成は、締め切りに追われて忙しい恭一に連れて行ってほしいと望むこともなく、自分の力で週に一度、母の元に通い出した。車の免許が取れるまでは険しい山道にバイクを飛ばしていたくらいだ。
 そして漸く恭一が長い長い執筆を終え、死ぬ気で長期休暇を勝ち取った今、恭一はおよそ五ヵ月ぶりにこの別荘を訪れた。
「まあ。今日はお二人でいらっしゃったんですか」
 庭先で水遣りをしていた初老の家政婦は、ふくよかな頬をにっこりと膨らませて穏やかに二人を出迎えた。
「貴美子さんは?」
「お部屋にいらっしゃいますよ」
 人が日に日に弱っていく姿を見るのは悲しい。それでも逢いに行ってしまうのは何故だろう。
 時間が惜しいからだろうか。
 恭一は閉ざされた扉を見ながらそう思う。この扉の向こうでは、過去あれほどに厭った女が、日々命を削られながら生きている。ここを中々訪れる気になれなかったのは、貴美子が憎かったからではない。
「母さん、入るよ」
 ――人が。死に近付いていることを肌で感じるのは、悲しい。
「いらっしゃい、由成。――それから、恭一さんも…」
 ベッドに腰を降ろしたまま、二人を出迎えた貴美子の頬は少し削がれているように見える。ただ思っていたよりは顔色も良く、随分健康そうに見えた。
「ごめんなさいね、遠いところを」
「――元気そうじゃねぇか貴美子さん。安心した」
 貴美子の穏やかな笑みを見て安心する。
 そうか、このひとはこんな風に笑うことも出来たのだと、恭一は改めて認識した。それほど遠くはない過去、由成を間に挟んでいがみ合っていた頃とは別人の顔で貴美子は微笑むのだ。由成に良く似た顔をして。
「由成、家政婦さんからお茶を受け取って来てくれるかしら。キッチンでお茶を淹れてくれているだろうけど、あんまり歩かせるのも可哀想だから」
 母から告げられた言葉に、由成は頷いて返すとそのまま木田という家政婦の元へと去って行く。
 閉まった扉を見送ってから、困ったわねえ――あえかな溜息を貴美子が吐き出した。
「由成もあのひとも、心配性なのよ。自分たちの生活があるんだから、そんな頻繁に見舞ってくれなくても良いって言ってるのに」
 顔付きが穏やかになった分、声は細くなっただろうか。それが病魔に蝕まれている隠しようのない証に見えて、恭一は胸を少しだけ痛ませた。
「……あんたに逢いたいから来てるんだ、あいつも親父も。それくらい許してやってくれ」
 貴美子は少しだけ笑うと、恭一にソファに腰掛けるよう勧めてから口を開いた。
「恭一さん、あの子は最近どうかしら。ちゃんと大学には行ってる?」
「ああ、真面目だよ相変わらず。少しは手抜きする方法を覚えた方が良いんじゃねえかってくらいにだ。……俺に訊くよりはあいつに訊いた方が早いんじゃねえか、それでなくてもあいつはここに良く来てるんだから」
 もしかして由成は自分の話を余り母親にはしないのだろうか、と危惧しかけた恭一を、いいえと横を首を振った貴美子が否定した。そして少しだけ顔を俯かせると、――静かにそっと、笑ったようだった。
「――あなたと、ずっと、由成の話がしたかった」
「――……」
「もう由成が、あのときの恭一さんと同じ歳になってしまったと思うと感慨深くて。子供の成長は早いわね、ついこの間、高校生になったと思っていたのに――」
「そうだな。あっという間だ。本当に……あっという間だった」
 恭一が母を失い、姓を変えてから十四年。それは丁度、由成と出会ってからの時間を意味した。そして由成を攫うようにあの家から連れ出して、もう十年。その間、彼女と息子が親子として過ごせた時間は、どれほどだろう。小さかったあの子が母を求めていた時間に比べれば、それは余りにも短すぎたはずだ。
 終わりに近付いていることを感じているのだろう。
 由成も、そして貴美子も。
「貴美子さん。ひとつだけ訊かせてくれ」
 母を失う辛さがどれほどのものか身を持って知っている恭一は、敢えてそれを考えなかった。しかし貴美子を改めて目にすれば、それはどうしようもない実感として胸に迫る。
 このひとは、もう直ぐ逝くのだろう。そんなに遠くはない未来に。
「あんたが三年前、由成を引き取りたいと言い出したとき、あのときに、もう――」
「……自分の身体のことですからね。だけど認めたくはなかったわ。まだ大丈夫、まだ大丈夫と言い聞かせて、きっと自分の不安から眼を背けていたかった。だってまだ、死ぬわけにはいかなかったもの」
 ――それはどんなに寂しいことかしら。たったひとりの息子と擦れ違ったまま死んでいくのは……。
 困ったように頷いた貴美子の優しい微笑みに、恭一は胸を詰まらせる。それは恐らく、後悔という名の感情だった。
「だから、なのか、貴美子さん。……どうしてそれを黙ってた、どうして……」
 あの日貴美子が嗚咽を殺しながら訴えた言葉に隠れた意味を、どうしてもっと考えようとしなかったのか。――貴美子は三年前のあの日から気付いていたのだ。自分の身体を蝕むものに。
「あのとき、無理にでも由成をあなたから引き離していたら、私は本当にあの子の母親じゃなくなってしまっていたわね、きっと」
 穏やかに笑うようになった。声が少しだけ、細くなった。頬が削げた。そしてまた美しくなった。それが、薄れゆく命の最後の輝きなのだとしたら。これほどに悲しいことはあるだろうか。
「……俺はあんたから由成を離すべきじゃなかった……」
「いいえ、恭一さん、…あなたにそんなことを言われたら、私の立場はどうなるの。母親の立場は」
 あのとき無理にでも由成を楠田に置いていくべきだった。そうすれば由成は少しでも長く、母親と共に過ごせただろう。過去の自分の判断を悔いかけた恭一を、しかし貴美子がそっと制した。
「あの子を見守ることが母親としての私の仕事だったと、それが私のしあわせだったと――思わせて頂戴。あなたの傍にいたからこそ、由成が今のように育ってくれたのだと、思わせて」
「――なんだか、あんたの言葉とは思えねェな……」
 近付く死は、どうしてひとをこんなにもやさしくさせるのだろう。貴美子を憎んでいた頃が嘘のように、恭一は彼女に生を望んだ。どうかもう少し、生きてやってくれないか。誰よりも大切なあの子のために、生きてやってくれないか――。
 恭一の望みはそのまま貴美子の望みでもあるだろうことを知っている。もう少しだけ、あの子のために生きたいと、身体中で語るこの女を初めて愛しいと思った。
「恭一さん。決してあの子を離さないでね」
 貴美子の言葉に、恭一は顔を上げる。貴美子の表情は硬く強張り、真剣そのものだった。
「決してあの子の傍から離れないであげて。どうか――ずっとあの子を見守ってあげて頂戴ね。私の代わりに……」
 貴美子は母親の顔で、まるで懇願するかのように告げた。
「――どうか、あの子から離れないで頂戴。あの子がひとりで生きていけるようになるまで、……決してあの子を、ひとりにしないで」
 貴美子の声が胸に痛かった。――あなたを騙している。俺とあいつは、あなたが思っているような綺麗な関係なんかじゃない。あなたを騙している。そう思うのに、罪悪感を告げることの出来ない恭一は、貴美子の言葉を確りと受け止めて頷いた。
「今更だ、貴美子さん。――俺は十年間あいつと離れずやって来た、今更どうして離れるっていうんだ」
 息子を託されようとしている。本当は、それを「今更」などと思ってはいない。今までとはまるで違う、これは命を賭けた貴美子の願いだ。
「だから安心して、あんたは身体を良くすることだけを考えてくれ」
 言い聞かせるように言った恭一の声に、貴美子は漸く強張らせた顔を緩めて笑った。しかしそれは一瞬のことで、和らげた表情に再び緊張を走らせると、貴美子は僅かに声を潜めて囁く。
「――私は、いえ私たちは……あなたに、謝らなければいけないことがあるの。……聞いてくれるかしら」
「別に構わねぇが――…それより貴美子さん、大丈夫なのか」
 貴美子の吐息が弾んでいることに気付いて、恭一はソファから腰を浮かしかける。しかし貴美子はそれを許さず首を振ると、再びゆっくりと口を開いた。
「聞いて頂戴。…あなたと、あなたのお母様の話よ。――許してね、恭一さん。どうか私を許してね…」
 そのとき貴美子の目尻から白い頬に一筋の涙が落ちて伝った。
「――貴美子さん、」
 貴美子が切れ切れになる呼吸の合間に、言葉を続ける。恭一は声をなくして、呆然とその涙を見つめていた。


 ――あの子のことを。恨まないでね。
 ――あなたには、酷なことだとわかっているけれど――。
「母さん、お茶を――」
 塞がれた両手で、四苦八苦しながらどうにかノブを回す。兄を見習って、足で扉を蹴り開けているところを見られたら、きっと母親は憤慨するだろう。家政婦がお茶菓子を探していたせいで、随分時間がかかってしまった。恭一辺りから遅いと罵られることを覚悟していたのに、なぜか返る声はなかった。
「……母さん、――恭さん?」
 変わりに由成を出迎えたのは、恐ろしいくらいの静寂だった。部屋の空気が、数分前と全く違う場所かのように冷え切っている。
 何度呼びかけても返る声はない。母は白いベッドに横たわって、瞼を落としていた。――眠っているのだろうか?
 慌てて恭一の顔を見ると、彼は険しく表情を強張らせたまま貴美子の頬をじっと凝視めていた。膝の上で握り締めた拳が、何かに耐えるように小刻みに震えているのが見える。
 自分の手から何かが滑り落ちるのが判った。
「――恭さん?」
 三つのグラスが静寂を切り裂くようにひび割れる音を、由成はどこか遠くで聞いていた。
「――由成。医者を」
 我に返った恭一が、自分を振り返って声を掛ける。声は、――ひどく、遠かった。





 それから数日は慌しかった。

 慌しかったのだろうと恭一は他人事のように思う。
 由成は二日だけ大学を休むことになり、通夜、葬式と喪主である父の傍らにずっと佇んでいた。その様子は、誰から見ても互いを支え合う親子の姿に見えただろう。
 由成の実父だという男の姿は、貴美子の葬式には見られなかった。聞けば、父の庸介さえも由成の実父の所在を知らないらしい。勿論由成もそんなことは知るはずがなく、今となっては貴美子がその男と連絡を取り続けていたのかすら定かではなかった。
 恭一は、少しだけ離れた場所から、父と由成の姿を見守っていた。本来ならば近くにいなければならない恭一を責める者は誰もいない。普段は口煩い親戚も、貴美子と恭一の過去の不仲を知っているからだろう。しかし、恭一が葬儀をただ眺めるだけの傍観者に至ったのは、そんな単純な理由だけではなかった。
 ――ごめんなさい。ごめんなさいね、恭一さん…。
 貴美子を悼むために次々と訪れる黒服に、丁寧に頭を下げる由成を遠くから見つめながら、恭一はそっと目を伏せる。
 ――あなたのお母様の車に飛び出した子供は、
 ――あの日、あなたのお母様が守ってくださったのは、
 慌しいことが、反対に幸いしたとさえ思う。由成は悲しみに浸る余裕すらないだろう。彼はまだ一度も、死んだ母のために涙を流していない。それで良い。今の恭一は、由成に掛ける言葉など持たなかった。
(……その話を――どうして墓場まで持って行ってくれなかったんだ…)
 ――あの日、少し目を離した隙にあの子が家からいなくなっていたの。あの日、私があの子から目を離さなければ…あの子が、家を出て行かなければ……――。
 母を間接的に殺したあの子供は、例え一瞬だとしても自分が殺意を抱いた唯一の人間だった。母の車の前に飛び出して来た顔も知らない子供を心から憎んだことは、恐らく自分と雄高しか知らない事実だ。
 それを今更由成に告げるつもりはない。こんなに月日が経ってしまった今、許すも許さないもない。しかし恭一は混乱を隠し切れなかった。
「恭一、そろそろ始まるぞ」
 喪服を着た雄高が肩を叩いて恭一を促す。ああ、と気のない返事を返してから、恭一は重い足をのろく動かした。
「相変わらずスーツが似合わないな。どこのチンピラなんだおまえは」
「ルセェ。おまえよかマシだ。――雄高、この後時間あるか」
「……構わないが。おまえ、抜けても良いのか、」
「俺なしで何の問題があるってんだ。……どうせ、誰も文句なんか言わねぇよ」
 出来れば由成が、貴美子をなくした悲しみの大きさに気付くそのときまで――喪失感に呑み込まれるそのときまでに、混乱を収めておきたかった。
 彼も自分と同じように、己にとって唯一絶対的なあの女を心から愛していたのだ。
 それでも、この秘密をひとりで抱えるのは苦しかった。由成には決して吐き出せないこの重みを、一緒に背負ってくれる人間が他にいるとしたら、それはただひとりこの男だろうと恭一は思う。
「恭一――大丈夫なのか」
 雄高が怪訝そうに声を潜め、そう囁いたと同時に事務的なアナウンスが式場に流れた。



「――おまえ、この話を……知ってたか」
「馬鹿言うな。おまえが知らないことをどうして俺が知ってる」
 煙草の箱の底を、長い指先が叩く。トン、という軽やかな音を立てて飛び出したフィルタを、雄高はそのまま歯に挟んだ。煙草のフィルタを歯で噛むのは雄高が動揺したときの癖で、彼が自分と同様に心が揺らいでいることを知った恭一は、少しだけ安堵する。
 式が一段落着き、遺体を火葬する段階になって、恭一は斎場に数カ所設けられた喫煙所のうち、最も人気のない場所に雄高を誘った。行く先が喫煙所と判れば誰も不審には思わないだろう。会場からはいちばん離れた場所だというのに、ここにまで線香の匂いが漂っている。
「おまえにだけ知らされてなかったのか」
「多分な。楠田の中じゃ、知らねェのは俺だけだったんだろう。親父辺りが気を遣ったのかもしれねェ」
 啜り泣く声、線香の香り、並べられた花。それらはどうしようもなく、母の葬式を連想させた。
 葬式は何のためにあるんだろうと考える。ただの習慣か、それとも本当に厳粛な儀式なのか。線香、経典、そんなもので死者が本当に成仏できると恭一は思わない。死後に待っているものなんて何もない。「死」は「死」でしかないのだと。死者にその先はない。地獄もなければ天国もそして来世なんてもっての他だ。
「――エゴだな」
 煙草に火を点しながら雄高が呟く。唐突な呟きが何のことを示しているのか理解できた恭一は、ちいさく頷いてみせた。
「ああ、そうだ。生きてる人間のエゴだ。葬式で思い切り涙でも流さなきゃ、やってられねぇからな」
 死者を悼む、その大義名分を振り翳してひとは泣く。単に死者を悼むだけの儀式なら、なぜ参列者を泣かせようという演出が行なわれるだろう。物哀しいバックグラウンド、ここで泣けとばかりに生前の故人を称える言葉が所々に挿入されるのは。
「葬式は踏ん切りだ。どこかで区切りをつけなきゃ、駄目なんだ。ひとが死んだ、その悲しみにいつまでも縛られてたら――駄目になる」
「――おまえは泣かなかっただろう」
 雄高の言葉に、恭一は知らん顔をした。思い切り吸い込んだ煙が、肺に少しだけ痛い。
「だからまだ踏ん切りが着いてないんじゃないのか」
 無反応の恭一を無視して続けられた言葉に、恭一は薄く笑みを返した。――そうかもしれない、と。
「――泣いただろ」
 しかしその言葉に、素直に頷くことはできなかった。踏ん切りが着いていない、それはイコールで許せていないということに結びつく。
 母の車に飛び出してきた、名前も知らないあの子供のことを。
「……由成を憎むなんてこと、俺には考えられねえ」
 ――あの日、あなたのお母様が守ってくださったのは、
 貴美子が涙ながらに語った。その声が耳から離れない。
 まるで呪いのようだと思う。
 忘れかけていた悲しみを思い出させた。忘れることが罪だと思い知らせるように悲しみを甦らせた、貴美子の声。
 しかし、誰よりも憎んだあの子供と、今現在誰よりも大切なあの子をイコールで結び付けることなど出来るはずがない。
「だけど、な……」
 誰かに吐露したかった。少しで良い、この胸の燻りを、誰かに持って行って欲しい。
「――母さんを殺したガキが、俺はまだ憎いんだ。……思い出せば、やっぱりどっかで許せねえんだ」
 どうしてあんなにも早く離れなければならなかったのかと泣いた。
 どうしてあのひとに、自分の成長してゆく姿を見届けてもらえなかったのだろう。
 どうして自分は、こんなにも早くひとりにならなければならなかったのかと絶望した。
「あのとき、由成は五歳だった。……そんな歳のガキがとつぜん飛び出すことがあったって仕方ねえ、しかも大人の目が離れたところで。──それは判る、判ってるんだ。罪はない」
 貴美子は真実を恭一に伝えた後、涙を流しながら詫びた。自分が幼い由成から目を離したせいだったと。それはそうだろうと思う。親の監督不届きは確かに原因のひとつではある。
「……母さん、死ぬ間際まで飛び出して来たガキのこと心配してたらしいんだ。あの子は平気か、怪我はしてないかってな。馬鹿みてえだろ。自分の心配しろってのに……」
 唇から吐き出した煙が目に染みる。雄高が灰皿に煙草を押しつけて、火を揉み消す気配がした。構わず恭一は続ける。雄高は相槌すら返さない、これではまるで独り言のようだ。
「母さんは満足だったかもしれねえ。――だけど俺はどうなるんだ。遺された俺は、どうなるんだ……」
 ひとりでさっさと逝くくらいなら、どうしてこの悲しみも持っていってはくれなかったのか。半ば恨むように思った。
 こんなにも苦しいのに、それでも誰も憎むんではいけないといった母の言葉は、いっそ残酷だった。
「――時間が経てば許せる、割り切れるって話じゃあないだろうな、確かに」
 雄高が漸く口を開く。しかしそれも酷く独白染みているものだった。
「椛さんが死んだときの悲しみは、おまえだけのものじゃない。だけどおまえの悲しみは、おまえだけのものだ。俺は持っていけないし、そんなものをもらうつもりもない」
 ――せめて。
 せめて、椛が逝ったそのときに真実を知らされていれば。
「おまえの悲しみを持っていってくれるやつがいるとしたら――由成だけじゃないのか」
 許せていただろうか。忘れられていただろうか。
 時間がこの真実を薄れさせてくれていただろうか。
「答えなんか出てるはずだろう。おまえは今混乱してるだけだ。もう少し経てば、答えも見えてくる。――おまえは許せる。間違えるなよ。忘れるんじゃない、おまえは許せるんだ」
 恭一の悲しみを知る唯一の男は、言い聞かせるようにそっと――ひどく優しい声で言った。恭一は知っている。普段は小憎たらしいだけのこの男は、恐らく誰よりも自分を理解しているのだ。
 普段は辛辣な厭味しか口にしないくせに、それでも彼は過去に何度も恭一を導いた。椛が死んだとき、由成を連れて家を飛び出したとき、由成を想う気持ちに苛まれていたとき――その全ての日々に、彼がいた。
「おまえが、言うのか。――許せるって。おまえがそう言うのか、俺に……」
 由成に出会う前のあの頃、自分にとって失えないものは何だっただろうと考えると、直ぐに母親とこの友人の顔が浮かんでくる。
 縋るように生きていた。守るものが少なかった。少年だったあの頃、大切なものを数えれば、片手で足りた。
 その彼が言うのだ。許せると。
 ならばそれば真実なのだろう。しかし恭一はすぐに頷くことが出来なかった。日が経つごとに薄れていたはずの悲しみが、堰を切ってどっと溢れ出してくるような気さえしているのに。
「おまえは椛さんの息子だからな」
 答えはある。判っていることがひとつだけある。
 もしも母が逝ったあのとき、車に飛び出して来た子供が由成だと知らされていたら、――確実に自分は、彼を愛さなかっただろう。



 それからも、由成と顔を合わせない日が、少しだけ続いた。遠くからぼんやりと由成を見つめることはあったのだから、厳密に言えば顔を合わせていないというのは正しくない。
 日に日に滅入っていく由成を見ていながらも、恭一はまだ迷っていた。彼にかけるべき言葉を、見つけ出せずにいた。
 それから由成は葬式が終わって一日だけ実家で過ごすことになり、顔すら見ない時間が続いた。
 由成が不在だった一日、恭一は死ぬほど考えた。
 考えて考えて――それでも、雄高の言った「許す」という言葉の意味がどうしても判らずにいる。
 由成を許すということは、即ち母の死を忘却してしまうことなんじゃないか。あんなに愛した母の死をどうして忘れることなど出来るだろう。――まだ、こんなにも苦しいのに。
 扉を開く微かな音が玄関から響いて、恭一ははっと我に返る。慌てて時計を見ると、夜の七時を過ぎていた。
 父親のために実家に残った由成が帰るには遅すぎる時間帯だ。それに気付かないくらいに考え込んでいたと言うことかと苦笑して、恭一は重たい腰を上げた。
 さめて玄関まで出迎えてやることくらいはしてやらなければ、ならないはずだった。
「――遅かったな」
 由成は丁度鍵を締めて、靴を脱ぎかけていたところだった。黒いスーツが一層彼を大人びて見せる。
 もうこんな風にスーツを着ても、何の違和感もない。
「……おじさんたちが離してくれなくて」
「そうか、疲れたろ。さっさと風呂入って寝ろよ。腹減ってんなら、何か作ってやるが」
 そうやって言葉を続けながらも、恭一は自覚していた。由成の顔を見れない自分を、どこかで冷静に知っている。
「……恭さん、」
 そんな恭一を咎めるように――まるで自分を責めるかのように呼び止めた声に、恭一は漸く顔を上げた。
「……何かあったのか」
 続けられた言葉に、恭一はふっと身体の強張りを解いた。
 同時に、自分は今、何を思ったと、凄まじい後悔に襲われる。
 この子がまるで自分を責めていると、咎めているとさえ思った。――ただ、名を呼ばれただけだったというのに。
 その上由成はそんな風に、気遣わしげに眉を潜めて恭一の顔を凝視めている。
「疲れてるの」
 優しい声だった。
 穏やかな、いつもと変わりのない、やさしい声で、やさしい視線で、由成は真っ直ぐに恭一の顔を覗き込んでいる。
「――…おまえ、そんな場合じゃねェだろ」
 数日振りに間近で見る由成の顔を、やっと真正面から見た瞬間、恭一の中で何かが弾けた。
 やさしい由成の眼はどこか翳りを含んで、それでも気丈に恭一を見つめている。
 そんなふうに哀しい眼で、やさしく笑って見せながら。
「そんな顔して、人のこと心配してる場合じゃねェだろ……!」
 少しだけ頬が削げた。目の下に薄く隈が見えるのは眠っていないからだろう。当然だ。たった二日前。たった二日前に母親を失ったこの子が、どうしていつも通りだと自分は信じていれたのだ。
 恭一は、愚かだと心から自分を罵った。
「俺のことなんかどうだって良いんだよ、おまえだろ、……今一番辛いのはテメェじゃねェか……っ」
 ――気付かなかったのか。どうして俺は気付かなかった。
 こんなふうになるまで、どうして自分は彼を抱き締めてやれなかった。
 言いようのない感情が溢れてくる。複雑に絡み合った様々な感情に、それでも名付けられるものが幾つかあった。
 どうして由成がこんなにも疲れ切ってしまうまで、自分は彼の悲しみに気付こうとしなかったのか。それは後悔という名前の感情だった。そして、もうひとつ。
「……あんたの方が、悲しそうな顔をしてるから」
 由成は少しだけ困ったような顔をして、囁いた。
 苦しいくらいに溢れ出した感情に、恭一は衝動的に由成の頭を抱き締めると、自分の胸元へと引き寄せる。
 そんな表情をこれ以上見たくなかった。
「――恭さん?」
 無理矢理顔を胸に押し付けられた由成が不思議そうに呟く。
 恭一の唐突な行動に、どうしたの、と困惑した声で尋ねた。
「俺じゃねェだろ。……おまえだろ。辛いのも哀しいのも頑張ったのも、――全部おまえじゃねェか……」
 どうして自分は気付かなかったのだろう。
 母親を失った悲しみは自分が一番良く知っているはずなのに、どうして由成の悲しみに気付いてやらなかったのだろう。気付いてやろうとすることを放棄していたのだろう。
「頑張ったんだろ。……ならもう頑張るなよ。俺の前で気ィ張ってんじゃねェよ」
 恭さん、そうやって小さく掠れた声で由成が呼んだ。
「……もう、いいよ」
 労わるように数度頭を撫でてやると、微かに震えた手が恭一の背を抱き返す。
「……ごめんな、由成。傍にいてやれなくて……悪かった」
 ピンと張っていた由成の何かが一度緩んでしまうと、後は酷く脆かった。
 小さな嗚咽が恭一の耳に届き始めるまでそう時間は掛からない。
 由成が零した涙で胸元が濡れていく。それでも構わずに恭一は由成の震える身体をただ抱き締めた。
 震える身体を、この腕をいっぱいに広げて抱き締めてやりたいと思う感情こそが、恭一を恭一として機能させている。
 それだけが全てだとさえ言える感情が、確かに存在した。
「そうだな、……おまえも、泣けなかったんだな。おまえにしちゃ、良く頑張ったじゃねェか――」
 愛しいと思う。この感情こそが、
 ――許すって言うのは、こう言うことなのか、雄高――
 まだ判らない。許すも許さないも、その境界線は曖昧なままだった。
 苦しみは癒えない。あの人を失った痛みを忘れることなど、きっと一生ない。
 それでも、約束をした。
 自分が大切なこの子の、一番に大切なあの女と約束をした。
 ――全部持ってってやる。墓場まで、
 許しても許していなくても、失うことには耐えられないから。
 苦しみでも悲しみでも、真実でも、
 ――俺がきっと、墓場まで持っていく。







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