おわりがきたら 金魚5


 それからはずっと、眠りに落ちるまで優しく抱き締めてられていた。
 もう子供じゃないから平気だよ、そう言って首を振ったのに、あの人は抱き締める腕を少しも緩めてはくれなかった。
 まるで自分が本当に子供に戻ってしまった気がして、止まりかけた涙がまた溢れてきた。
 ――あのひとは、良い母親じゃなかったけれど、
 独り言のように、まどろみ始めた意識の中呟きを落とした。
 ――愛されていたんだよ。
 彼は静かに頷いて、丁寧な相槌を返してくれた。
 ――俺はあのひとに大事にはされなかったけど、それでも世界で一番愛されていると思ったことがあるから、
 ――俺はあのひとが、ずっと好きだったんだ。
 そうだなと彼はそっと頷いて、もう寝ろよ、明日ガッコあるんだろ、といつもみたいにぶっきらぼうな口調で言った。
 ――恭さん。あんたも、同じだった――?
 母親を失ったとき、彼も同じように哀しかったのだろうか。尋ねると、あの人は小さく微笑った。
 ひどくやさしい笑い方で。ひどく切ない笑い方で。
 そのときに彼を抱き締める腕はあっただろうか。
 今の自分が彼に救われているように、彼はそのとき誰かに救われていただろうか――。
 ふいに、眠りが落ちてくる。
 漸く眠れるのかと安堵する暇もなく、瞼の裏に薄らと母の姿が浮かんだ気がして、それが身体中に染みこんだ線香の匂いの所為かと思うとやけに切なかった。
 綺麗に微笑むあの女に。
 世界で一番に愛された記憶がある。
 それがいつのことだったか、欠陥だらけの記憶の中に見出すことは出来なかったけれど――。



「――なんて言えばええんやろな。この度は……?」
 眉を寄せて気難しい顔を作る目の前の青年に、由成は小さな苦笑を漏らした。
「止めてください。……似合わない」
 真面目腐った表情や深刻な顔は、この人には似合わない。
 そう告げた由成に、矢野和秋はふっと小さく笑って見せる。いつもの顔だ。
「……そうやな。慣れへんことはするもんやない」
 彼にとっては由成の母の死も他人事同然なのだ。それなのに、二日振りに大学に顔を出した由成を捕まえ、カフェテラスへ誘ったかと思えばいきなり和秋は神妙そうな顔付きでそう切り出したものだから、由成は礼を言うよりも先に驚いてしまった。
「けど、大変やったやろ? もうガッコ来て平気なん?」
「休んでたら単位が心配だから……」
「平気やろ、今んとこ真面目に来てるんやし。無理せんとき、今無理したら後がしんどいで」
 恐らく心配されているのだろうと思う。妙に実感の篭った声に、それでも由成は首を振った。
「――一晩泣いたから」
 心配だけを有り難く受け取る。
 和秋はその言葉に驚いたように一瞬目を丸めた後、そっか、と笑みを零した。
「共通で被ってる講義は代返しといたから。俺とあっちゃんで。がんばって」
 珈琲を啜りながら笑って言った和秋が、他人事ながら自分のことを気にかけてくれていたことを知って、悲しみが少し氷解していく気がした。
「敦、ちゃんと学校来てました?」
「来とったで。由成くんがおらん分自分がノート取らなて、いつもより張り切っとったわ。今日は――どうなんや。見かけてへんけど」
 熱い、と顔を顰めながら和秋はカップを戻す。顰められた顔は純粋に珈琲が熱かっただけなのか、それとも敦の不在を嘆いているのか判断が難しい。
「俺も今日は見かけてない、……寝てるのかな」
「昨日新歓あったからな。酔い潰れてんのかも」
「……あとでメール入れておきます」
「ん、そうしたって」
 大学に進んだと言うのに、和秋との先輩後輩関係は変わらずに続いている。というのも、由成と工藤は和秋に一年遅れて同じ大学へ進学したのだ。和秋と同じ学部を選択した由成はもちろん、慣れない大学生活で工藤も世話になっている。工藤は主にサークル関係で顔を合わせることが多いらしく、由成は校舎を行き来している際に良く和秋に掴まる。おかしな縁だとつくづく思う。
「……和秋さん、」
 何かの際にそう呼べと言われてから、由成は彼のことを意識して名前で呼ぶようにしている。聞けば家庭の事情で姓を一度変えているらしいから、そのことが関係あるのかもしれない。
 彼はただ、他人行儀だからと笑っていたけれど。
「雄高さんに会ったよ」
 その名前を口にした瞬間、和秋の表情から笑みが消える。
 しかしそれも一瞬のことで、次に目を凝らしたときには、和秋はいつものように唇に笑みを浮かべていた。
「元気やったか?」
 その表情からは何も読み取ることが出来ない。
 彼はとても正直で、同じくらいに感情を隠すことに長けているのだと思う。雄高の名前が動揺を誘ったことは確かなのに、それがどんな感情から来た動揺なのかをまるで読ませようとしない。
「俺も結構久し振りだったんだけど――元気でした」
 和秋は不自然なほどに雄高について何も尋ねて来ない。それでも伝えておこうと由成は何故か思う。まるでそれが自分の義務であるかのように、雄高の近況を尋ねられずとも和秋に伝えていた。
 和秋と雄高が顔を合わせることを止めてから一年間、ずっと。
「久し振り?」
「最近仕事の方が本当に忙しくなってるらしくて、……来てても直ぐ帰っちゃうみたいだから、俺が会うのは久し振りだった」
「あのひとにしてみたらえらい遠慮してるやん。ストレス溜まるんやないの、それ」
 和秋は笑っている。やはりその表情からは何も読み取ることが出来ない。
 和秋と雄高の関係が終わっていることを、由成は丁度一年前に聞かされた。母が癌に倒れた数ヵ月後、――和秋が大学に通い出してから間もない春のことだった。
 由成はそれを聞かされても、何故と尋ねることをしなかった。和秋も深く語ることはなかった。
 ただ和秋は、自分がここで進学していることをあの人に告げないで欲しいと由成に頭を下げた。恭一にも、誰にも。雄高に関わる人間には誰にも告げないで欲しいと、和秋は言った。
 つまり雄高は、和秋の現在の居場所を知らないということなのだろう。
 大阪に帰ったんと思ってるんやないかな、いつだったかそんな風に和秋が小さく呟いていた。
「……そうやな、仕事がんばってるみたいやもんな。あのひとの写真、良う見かける」
 由成は決めていた。もしも一度でも雄高が和秋の所在について尋ねてきたら、自分は和秋との約束を破ろう。しかしそんな誓いも虚しく、雄高はまるで和秋の存在を忘れてしまっているかのように、その名を一切口にしなくなった。
「可愛いもんや。夢なんか欠片も持ってませんって顔しといて、あのひとずっと写真で食っていくの夢やったんやで。最近、ほんまに写真の仕事多いやろ。……喜んでるんちゃう?」
 だけど、と由成は思う。
 本当に一切関係がなくなってしまった人のことを、こんな風に穏やかな声で語ったりするだろうか。
 和秋は、自分が約束を破ることを本当は望んでいるんじゃないだろうか――そんなことまで、考えた。
「――今度、写真集が出るって言ってました。前に出したみたいなヤツじゃなくて、本当にちゃんとした写真集が、」
「知ってる」
 由成の言葉を遮って、和秋は笑った。
「……この間、本屋のトイレで広告見た」
 そんな風におどけて見せた和秋の真実を、由成は知っていた。
 どんなに小さな写真でも、雄高の撮ったものが掲載されている雑誌を、和秋が見落とすことなくチェックしていることを。
 ――何故、とは訊けない。
「買わへんけどな。あんな高い本、教科書代だけでいっぱいいっぱいやっちゅーの」
「――でも、雄高さんは一番、あなたに見てもらいたいと思う」
 何故そんなにしてまで雄高の影を求めているのだろう、それは、いとも簡単にたったひとつの答えにしか結びつかないんじゃないか。
「和秋さんに、一番――見てもらいたいと思う」
 和秋は、少しだけ顔を歪めた。
「……俺は君と違う。あのひとも恭一さんとは違う」
 一瞬言われた言葉の意味が飲みこめず、由成は眉を寄せた。
「恭一さんも本出るやろ。官能小説やないヤツ――」
「童話?」
「ああ、うん、多分それ。ごめんタイトルまでは覚えてへんかったわ」
 意外と読書家らしい。恭一の新刊までチェックしているとはさすがに思わなかった。
「恭一さんは君に一番その本を読んでもらいたいやろうと思う。君も恭一さんの夢が叶うん、傍で見てて嬉しいやろ?」
 静かに尋ねた和秋の声に、由成は頷いた。
 それは、むしろ過去の由成のために書かれたストーリーだった。過去の自分が読んで心が暖かくなった物語が、やっと形になる。それは等しく恭一の夢でもあった。どれほど嬉しいことだろう。
「恭一さんも、君に喜んでもらうんが一番嬉しいと思う。……けど、あのひとは違うやろ。そんな可愛い人やない」
「そう――かな」
「そうやろ。俺は違うけどな、君らはそれでええねん。そういうのが似合っとる」
 和秋は言い切ると、冷め切った珈琲を飲み干した。
「ほな俺そろそろ行くわ。三コマあるし」
「和秋さん、」
 立ち上がって鞄を肩に掛けた和秋を、由成は引き止める。
 ん?と緩く首を傾げて見せた和秋を、真っ直ぐに見つめて口を開いた。
「俺の所為?」
 ずっと訊こうと思っていた。
 だけど訊けなかった。
 確信として、ずっと胸にあった疑問を、由成はそっと口にした。
「……俺の、所為ですか」
「違う」
 和秋は意外なほどに強い口調で、きっぱりと首を振った。
「……俺の所為や」
 そうして酷く小さく微笑うと、和秋は由成に背を向けた。
 由成は確信している。
 もしも彼らの関係がこじれてしまった決定的な瞬間があるとするのなら、――それは、母が倒れたあの日だろうと。



 夕方近くに帰宅すると、見知らぬ靴が玄関に並んでいた。男物のそれは由成の目から見ても上等なものだと判る。間違っても恭一の友人の誰かではないことは確かだ。
 じゃあ誰だろう、そんなことを考えながらリビングへと向かうと、聞き慣れた声が耳を打つ。意外にも恭一以外の声――来客の声も、酷く耳に馴染んでいたものだった。
「父さん、来てたの、」
 来客は父だった。
 リビングからひょっこりと顔を出した由成を、父の庸介は目尻の皺を深めて迎えた。
「お帰り。早かったな」
「いつもこれくらいだよ。――どうしたの、」
 血の繋がらない父親は、まるで本当の父親かのように柔らかく自分に微笑んでくれるようになった。それはどれほどに幸せなことだろうと由成は思う。こんな風に愛されてはいけないはずの自分を、庸介は手を広げて迎えてくれる。はじめて「由成」と優しく呼びかけられたとき、――どんなに嬉しかっただろう。
 そして同じように、自分に優しい血の繋がらない兄は、なぜか少し不機嫌そうな顔をしていた。
「おまえに話があるんだとよ。――座れよ」
 表情と同じく不機嫌そうな声で命じると、恭一はソファから立ち上がった。その背中を見送りながら、入れ替わりに由成は腰を降ろす。
「俺に、話?」
「ああ、だがおまえだけの問題じゃない。そう思って、さっき恭一に先に話をしたんだが――拗ねられた」
 誰が拗ねてんだよ糞ジジィッ、とキッチンから恭一の怒声が飛ぶ。もう三十路に近いのに、相変わらず口が悪い。
「先に言っておこう。強制するわけじゃない。あくまでおまえの意思で決めたら良いことだ」
 呟くように言いながら庸介が姿勢を正したのを見て、思わず由成も居住まいを正した。
「――楠田に帰って来ないか」
 庸介の口から零れたのは予想外の言葉で――それでも、驚きは少なかった。どこかで覚悟をしていた言葉だったのかもしれない。
「……父さん、俺、」
「判っているよ、おまえを……おまえたちを無理にこの家から引き離そうと思っているわけじゃない。だが、出来れば帰って来てほしいと思う。おまえだけじゃなく、恭一も一緒に――」
 そこで言葉を一旦区切って、庸介は息子を一瞥した。そしてほんの少しだけ笑う。
「――と言ったら怒られたんだがね。あの子はどうしてもこの家から離れるつもりはないらしい」
 それは当然だろうと由成は思う。
 母親を大切にしていた恭一にとっては、彼女の遺したこの家が母親そのものなのだろう。この家に住み始める前から、恭一は自分の母親の話を幾度となく由成に語って聞かせていた。
 秋に美しく咲き誇る、あの綺麗な木と同じ名前をした女性を、誰よりも想っていたと。
「だが、おまえだけ帰って来てもらうわけにもいかないだろう。恭一と離れて暮らすつもりはないんだろう?」
 優しく尋ねられて、由成は戸惑いながらも頷いた。
「俺が……どうしても、帰らなきゃいけませんか、」
 そっと尋ねた由成に、庸介は首を振った。
「強制はしないと言っただろう。だが、おまえにも色々と覚えてもらわないといけない時期だ。もしもおまえがまだ楠田を継ぐつもりでいてくれるのなら、私はおまえに教えてやらなければならないことが沢山ある」
 庸介が続けた言葉に、由成は強く頷く。
 長子である恭一が家督を放棄している以上、楠田の相続権は全て由成に託される。楠田と言う組織を、そして庸介が現在経営している会社を、いつかは継がなければならない。
「おまえが思っている以上に楠田には制限が多い。会社も同じだ。それを今覚えていかないと、おまえが将来苦労することになるだろう」
 だから――と、庸介は続けた。
「おまえが大学生になったら話そうと思っていた。私が今持っているものを、おまえに少しずつ託していきたい。それには、おまえが楠田以外の場所で暮らしていることが多少不都合を生む――それは判るな、」
「……はい」
 本来は恭一が受けるべき話だ。
 しかし恭一は、過去散々貴美子に不出来な後継ぎだと罵られ、その名を継ぐことに一切の興味を示していない。うんざりしていると言うのが正直なところだろう。
 そして自分も、恭一に楠田を継がせるつもりはなかった。
「……楠田は……父さんが守ってきたものは、必ず俺が継ぎます」
 由成が後継ぎを了承したのは、それが恭一には似合わないという、ただそれだけの理由だった。
 家を継ぐことでは叶えられない彼の夢がある。それを妨げるものがあるなら、なんでも自分が請け負ってやる。そんなことでしか自分は彼の盾になれない。
「だから……」
 そして父に必要とされることが嬉しかった。
 こんな自分でも必要だと手を差し伸べてくれるなら、出来る限り答えたいと思う。この人の息子として出来ることをしたいと思う。
 だけど――。
「直ぐに答えられるようなもんでもねえだろ」
 言葉に迷って口を噤んだ由成を、恭一の声が救った。
「あんたは気が早えんだっての。由成はまだ十八だぜ、そんな歳で将来の何を決められるって言うんだ」
 キッチンから戻って来た恭一は、露骨に顔を顰めている。その両手には来客用のカップが握られていた。
「本当は十八でも遅いくらいなんだ」
 粗茶、と乱暴に置かれたカップに庸介は苦笑を零す。乱暴に扱われた所為で、茶の飛沫がテーブルに散った。
「お茶くらいもっと丁寧に置きなさい。――おまえも由成も楠田じゃ異例なんだよ。私も先代も、もっと幼い頃から教育を受けている」
「異例の種撒いたのは誰だってんだ。あんたじゃねェか。大体俺に相続権は最初ッからねェだろうよ、その楠田の遣り方じゃ。――由成、こんなオヤジの与太話は聞き流せよ」
 恭一はそう言っても、到底聞き流せる気にはなれない。それでもこれが恭一なりの庇い方だと知っている由成は、小さく微笑って首を振った。
「恭さん、俺は楠田を継ぎたいんだ。もうずっと前から決めてる。だから……それは、良い」
 恭一は言葉に詰まったような顔をして、それ以上は何も言わずドカリとソファに腰を降ろした。その横顔は、なるほど拗ねているように見える。
 口を僅かに尖らせた横顔に思わず零れそうになる笑みを堪えながら、由成は父を真正面から見つめた。
「……だけど父さん、もう少しだけ待ってください。……今はまだ、答えが出せないんです。俺はまだ、ここから離れたくない」
 庸介は頷いた。まるで最初から由成の答えを知っていたかのように。
「ああ。最終的にはおまえの意思に任せる。ただ、これからは楠田に顔を出してもらうことが多くなると思う。それは――」
「構いません。……大学を優先して欲しいけど」
「学生の本分だな。当然だ」
 庸介はおかしそうに笑った後、少しだけ顔付きを神妙にして呟いた。
「すまなかったね。……貴美子が逝ったばかりでこんな話をするのもどうかと思ったんだが――」
 そう言った庸介も随分とやつれているように見える。貴美子の葬儀中も通常通り行なわなければならない仕事は山ほどあるのだろうし、今日ここに足を運ぶのにもだいぶ無理を通しているはずだ。
「話は終わったことだし、私は失礼しよう。恭一、邪魔したな」
「二度と来るな」
 息子の悪態にも慣れたもので、庸介はただ静かに笑って聞き流している。
「……手間をかけさせて、すみません」
 深々と頭を下げた由成に、庸介はソファから立ち上がりながらその垂れた頭をくしゃりと撫でる。
 その感触に驚いて思わず顔を上げると、彼はひどくやさしい目をして自分を見つめていた。
「息子にそんなことを言われると親の立つ瀬がないな。……学校、がんばりなさい。無理はしないように」
「……はい」
 大きな掌が離れていく。初めて触れた掌はひどく温かくて、思わず泣きたい気分に駆られた。
 掌から伝わる何かがあった。
 少しだけ疲れたように笑ったこのひとが、自分の母親を――貴美子を確かに悼んでくれているような、そんな気がして。
「父さんも身体に気をつけて。……無理、しないで」
 庸介の背中を見つめながら告げる。
 背中がひどく小さく見えた。
 玄関の扉が閉まる音がリビングに響くと、父親を見送りもしなかった恭一がテーブルの上に置いたカップを片付け始めた。
「糞、人の睡眠邪魔しやがって……」
 挙句の果てにはそんな文句をぶつくさ言っている。
「――でも、恭さん……」
 自分が気付いたことに、彼も気付いているはずだと思う。
 あの掌が伝えたことを。言葉以外のものが伝えたことに、敏いこの人が気付いていないわけがない。
「……父さん、寂しそうだったね」
 恭一は一瞬だけ動きを止めて、――目を伏せた。


 夢を見た気がした。
 あの人は、泣きながら自分を抱き締めてくれただろうか。
 生きていてくれてよかったと、抱き締めてくれたような気がして。
 その瞬間だけ、自分は世界で一番に愛されているんだと思った。
 ――おまえ、どこまで良い子でいるつもりなんだ…。
 これは恭一が、過去の自分に言った言葉だ。
 どうしてそこまであの女のことを想うんだと、彼は言葉にはしなかったけれど、きっと疑問に思っていたはずだ。
 だけど俺は良い子なんかじゃない。
 ――由成、由成、よかった……
 ――あなたが無事でよかった……
 抱かれた肩があの人の涙で濡れていた。
 あのとき世界で一番に愛されたから、
 世界で一番に愛された記憶があるから――
 俺はあの人のことを好きでいられたんだ。

 ああ、あれは、たぶん俺が事故を起こしたときだ。
 あのときは――何が、あったんだっけ。




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