おわりがきたら 金魚5


「――まあ、当然だろうな」
 煙草の煙を弾くように吐き出しながら、雄高が当たり前の顔をして頷いた。恭一は大袈裟に顔を顰めると、「判ってる、」と乱暴な口調で吐き捨てる。
 忙しい癖に懲りずこの家を訪れている雄高は、以前と比べれば滞在時間こそ極端に減っているものの、頻度と回数は余り変化がない。それでも結局は顔を出しているのだから、要は暇人なんじゃないかという恭一の見解は当分変わりそうもなかった。
「俺は楠田さんちの子じゃないから事情は良く知らんが。親父さんの会社の大きさだの影響力だのを考えると、今まで由成が実家にいなかったのが不思議なくらいなんじゃないのか」
「――そうなんだろうな」
 恭一は苦々しい思いで咥えていたフィルタを噛み潰す。
「見てりゃ判る。従兄弟がな」
「従兄弟?」
「ああ、親父の弟の子供だったか、いるんだよ従兄弟が。そいつは純粋に楠田の中で育ってやがる。アイツを見りゃ判るさ、楠田は頭がおかしい」
「――もしかしてそれは宗司さんのことか」
「良く覚えてるな」
 楠田宗司という二つほど年上の従兄弟は、明らかにおかしい。何がどうおかしいという決定的な理由はないにしても、おかしいのだ。
「俺たちがあんな状態だったから多分アイツが後継ぎとして教育受けてたんだろ。――俺は今まであんな阿呆は見たことねえぞ」
「そこまで阿呆には見えなかったがな。少なくともおまえよりは」
 面白がって茶化す雄高の言葉に、ウルセェと口汚く返す。
 雄高も昔――ひどく昔の話だが、宗司と会ったことがある。まだ小学生だか中学生だかの頃だ。
 やあ今日和従兄弟殿、なんて朗らかに微笑いながら宗司が突然この家に訪れたとき、恭一は死ぬほど仰天した。今まで一度だって顔を合わせていないのに、何が従兄弟だ。
 しかし寛容だった母は突然の来客を笑って迎え、従兄弟なんだから仲良くしなさいねと無責任に宗司を恭一に押しつけた。扱いに困り果てた恭一が雄高に助けを求め、何度か三人で一緒に遊んだことがある――「遊んだ」なんて可愛いものではなかったが、兎に角面識はあるのだ。
 はっきり言ってしまえば掴みどころがない。飄々としているくせにやけに鋭いところがある、良く判らない人間だった。ここ数年は正月に帰ったときにほんの一言二言会話を交わすくらいの付き合いだが、恐らくあの性格はまだ変わっていないのだろう。
「しかもボディガード付きだぞ。正月で親戚しか集まっちゃいねェってのに、番犬みたいなのが四六時中引っ付いてやがる。有り得ねェだろ。トイレにも着いてくるんだぞソイツが」
「……別世界だな」
 雄高が面白そうに笑いながら呟いた。
 全くの別世界だ。その生活を想像することも出来ない。雲の上だ。
 そんな世界に由成が足を踏み込むのかと思うとぞっとした。
「要人であることには間違いないんだろうよ。良識がある社会人には、楠田の大きさは判る。――俺たちみたいな下々の人間でもな。むしろおまえがその楠田の血を引いていることが俺には信じられない」
「黙れよテメェ一言多いんだっての。――しょうがねェだろ、俺は十五まで楠田とは無関係だったんだ。楠田にいたときだって、構われることもなかったしな。そんで今更楠田の後継ぎだの何だの言われたって納得行くかよ……」
「後継ぎだの何だの言われてるのはおまえじゃなくて由成だろう。おまえが納得行かなくても関係ない」
 冷静な雄高の言葉にぐうの音も出ず、恭一は奇妙な唸り声を上げた。
 それはその通りで、由成がああもきっぱりと家督を継ぐと宣言した以上、恭一が口を挟む理由はない。それでも――
「――もう、ずっと前から決まってたことなんだ。あいつが後を継ぐってのは……」
 昨日今日決まった話ではない。三年前、ぎこちなく家族の形態を取り戻していくうちに、父と由成が、そして恭一が横槍を入れながらもきっちりと話し合って決めたことなのだ。俺が楠田を必ず継ぐ。由成はそうはっきりと言った。その言葉は、由成の中でどれだけの負担になっているのかを恭一は知る術がない。
 恭一が、楠田なんて要らない、自分には関係ないと突っ撥ねていたせいで、そのツケが由成に回ってきたのは至極当然の話で、そのせいで無条件に由成が感じる必要のない義務感と責任感を背負ってしまっているのなら――。
 しかし恭一の心配を裏切って、由成は少しの逡巡も見せず頷いた。
 ――俺で良いなら。俺が父さんの力になれるなら。
 彼がそう言ったのは、一年か二年前の話だろうと思う。
「良いのか、あいつ――俺のせいで、背負いたくねェもん、背負ってるんじゃねェのか……」
「いいんじゃないのか」
 呻くように呟いた恭一の言葉を、あっさりと雄高は肯定した。あまりにも無責任だと恭一は友人の顔を睨み付ける。
「おまえな――」
「あいつがそうしたいって言ってるんならさせてやれ。おまえが無駄に反対してどうにかなることじゃないだろ。あいつは――そういうのがいいんだろうよ」
「――……何だそりゃ、」
「そういう形でおまえの力になるのが良いと言ってるんだ。……好きなようにさせてやれ」
 いとも簡単に言って退けた雄高の言葉を噛み締める。あの子のしたことが自分の力になる。それはそうだ。それでも納得出来ない感情が残る。
「あとは親父さんと由成の問題だ。――おまえは口を出せる身分じゃない」
 弁えろ――雄高は静かに言った。
 厳しい言葉だった。
 無責任なのは雄高ではなく、恭一の方なのだろう。自分には要らない荷物を放り投げて由成に押しつけた、その自覚があるのなら無意味に口を出すべきではないのだ。
 楠田家の問題は、恭一の問題ではなくなってしまった。
 由成がいつ楠田に帰ろうとも文句は言えない。
「それでも――無理矢理帰すようなことだけはするなよ」
「……あぁ……」
 そうだな――漸く恭一は笑みを見せる。
「同じことは繰り返さない。俺にだって学習能力はある」
 由成の将来を考えれば、彼は今この家にいるべきではない。後々苦労することが判っているなら、今すぐにでも由成を父の元へ送るのが賢明なのだろう。
 しかし恭一は、それほど愚かにはなりたくなかった。
「……おまえは、いいのかよ」
 やっとの思いで掴んだ手を自ら離すほど愚かにはなりたくない。
 心の向くままに生きてみたって良いじゃねェか――そう、思う。
 大人としては不適切な感情なのかもしれず、それをどこかで嘲笑う自分がいるのも自覚していた。それでも譲れないものは、多分ある。
「……何が、」
「おまえは今のままで良いのかって言ってんだ」
「――何年前の話をしてるんだ」
 灰皿に煙草を押し付け、火を揉み消すと雄高は薄く笑う。
「その何年前の話を、なんでおまえはまだ引き摺ってるんだ」
「引き摺ってるわけじゃない」
 雄高はソファから腰を上げた。まだ彼がこの家を訪れてから三十分も経っていなかったが、最近はずっとこんな感じだ。ちょくちょく訪れる割りには直ぐに帰ってしまう。だから由成とはずっと顔を合わせていないのだ。
 暇人のくせに忙しいらしい。生意気だ。直ぐに帰るくらいならいっそ来なければ良いと思うのに、彼の定期的なスケジュールの中に恭一宅訪問は組み込まれているらしかった。
「引き摺ってるわけでも未練があるわけでもない。ただ時々思い出すだけだ。――元気でやってれば良いが、と」
「……なんで由成に訊かねェ、」
 妙なところで律儀な友人は、横目で時計を確認するとリビングを出て行く。
「おい、雄高、」
 無言で去って行こうとする雄高の背を呼び止める。雄高は足を止めずに背中で応えた。
「――何も言わないで消えたんだ。俺に何も言いたくなかったんなら……聞かないでいてやることしか、出来ないだろ」
 一瞬言葉に詰まって、恭一は再び口を開くことを忘れた。
 ――馬鹿じゃないのか、おまえ……。
「それを、未練って言うんだよ……」
 漸くその言葉を呟いたときには、玄関が開く音がリビングに響いた。
 そのまま外へ出て行ったかと思われた雄高は、しかし再び古い廊下の床を軋ませて戻ってくる。
「――忘れ物か?」
「違う。……客が来てるぞ」
「客?」
 首を傾げると、リビングに再び顔を覗かせた雄高の向こうに人影が見えた。
「随分懐かしい客だ」
 雄高はどこか懐かしそうに目を眇め、自分の背後に立つ人影へと視線を遣った。
「俺もゆっくり話していきたいところなんだが、この後仕事があるんだ。汚い家だけどゆっくりしていってくれ」
 あんまりな雄高の言葉に、客人は軽やかに笑ったようだった。
「ここは私の家でもあるんだからあんまり失礼なこと言わないでね、雄高君。――行ってらっしゃい」
 そうやって雄高の背をそっと押した――女は。
「……帰って来てたのか? 佳澄さん――」
 意外すぎる来客に驚愕を隠し切れず、恭一は目を見開く。
 その人は、母と同じ顔で笑った。
「久し振り、恭一。――姉さんが死んで以来だから…十四年振りかしら」
 母の妹、つまりは伯母の、江上佳澄だった。
「雄高君も随分大きくなっちゃってびっくりしたわ。それもそうよね、雄高君も恭一ももうとっくの昔に二十歳を超えたのよね。私も歳を取るはずだわ」
 佳澄は少女のように笑って、そっと目を細めた。
「……二十歳どころか、もう三十路近いぜ俺は……」
 やっとのことでそう返す。目の前の女性の姿に、現実感が沸かない。
 伯母と呼ばれることを嫌って、自分のことを名前で呼ばせていた。そんなところばかり良く似ている。この人と、母親は。
 椛とは歳の離れた姉妹で、早くに両親を亡くしていたせいか酷く仲が良かった。暫くはこの家で母と佳澄、そして自分の三人で暮らしていた時期もあったから、実際自分には育ての母が二人いたようなものだと思う。
 その人が今目の前にいるその事実が信じられず、恭一は馬鹿みたいに突っ立ったまま瞬きを忘れていた。
「恭一?」
「……驚きすぎて死ぬかと思った」
 椛が死んだ後、仕事を言い訳にして渡米したこの人と顔を合わせるのは、香澄の言う通り十四年振りだ。雄高が懐かしむのも無理はない。
「……幽霊じゃ、ねェよな、」
 恭一は知っている。彼女が渡米したその理由が、仕事だけではなかったことを。
 喪失の痛みから逃げるように、この土地を去ってしまったことを。
「本当に――佳澄さん……帰って、」
 母と同じように慕った。
 あのころの宝物のひとつだった。
「やぁね。勝手に殺さないで。――本当に恭一なのね。大きくなって……」
 佳澄は丁度、あの頃の椛に近い歳なのだろう。まるで母親と話しているような奇妙な気分になりながらも、恭一はぎこちなく頷いた。椛よりは少しだけ柔らかい顔付きだった香澄は、歳を取ってまた穏やかさを増したように見える。
「あんただけが気がかりだったの。――……姉さんがいないのに。ちゃんと育ってくれて、よかった……」
 香澄は、喉を詰まらせて嗚咽した。

 ――恭一。良かったら私と一緒に来ない…?
 母の葬儀が終わった後に、佳澄が告げた言葉を思い出す。睫毛を涙に濡らしながら、佳澄は弱々しい声で過去の恭一を誘った。
 ――ずっと前からアメリカでの仕事に誘われていて。迷っていたんだけど、行くことにしたの。……恭一、私と一緒に来ない…?
 恭一が楠田という家を嫌っていたのと同じように、佳澄もまた姉に冷たかったあの家を憎んでいた。だからこその、優しい申し出だったのだ。
 しかし恭一は頷かなかった。
 ――おれがあんたと一緒に行っちまったら……父さんが困るから。
 その言葉を聞いた佳澄は、いっそう顔を歪めて泣いた。
 ――あんたも姉さんも、馬鹿よ。どうしてもっと幸せになろうとしなかったの。姉さんは、あの男のことなんて待たなくてもよかったのに……。
 佳澄の言う通り、椛が家庭を持つ父のことを想い続けていなければ、もっと幸いになれる別の道が拓けていただろう。子供だった恭一にでも想像は易い。子持ちでも充分結婚を考えられるほど、椛は若く美しかった。
 ――佳澄さん。俺だって楠田になんか引き取られたくねえ。だけど……。
 伯母という大切な女を傷つけても、その希望を裏切っても、父を置いてはいけなかった。
 あのひとの背中が小さかったから。
 母親を愛してくれたあの男の肩が、ずっと震えていたから――。
 ――あんなのでもさ、俺の父親なんだ。ごめんな、佳澄さん。
 ――あんたは。幸せになってよ。母さんの代わりに、ずっと、幸せでいてくれよ……。
 そう言ってあの日の彼女を見送った。
 椛を喪ったと同時に、恭一は、大切だった伯母も失った。
 遠い空の下できっと元気にやってくれているのだろう、そう思って連絡のなかった年月、痛みはもう残っていなかったけれど――。



「――小説家?」
「ああ。あんたが好きそうなモンじゃねェけどな」
 過去の我が家を懐かしそうに見渡して、佳澄は見慣れないソファに腰を降ろした。恭一がこの家に住み出してからというもの、小さな改装を行なったり新しい家具を運び込んでいたせいで家の中も大きく変わっている。
「どういうこと?」
「官能小説だ」
 楽しそうに家の変化を眺めていた佳澄は、大きく眼を見開いた。
「あら。意外ね」
「そうか?」
 自分は俗物的な人間だと思う。そこまで性的に飢えているわけではないが、エロでもグロでも書こうと思えば何でも書ける。食い扶持を稼げるほどに本が売れてくれているのも、要は自分に合っていた、それだけの話だろう。
「恭一が小説家っていうのは意外でも何でもないわよ。昔っから顔に似合わず文学好きだったもの」
 そう言って佳澄は柔らかく笑う。その眼差しは恭一自身ではなく、どこか遠くを懐かしんでいるものだった。
 そうか、とふと気付いた。
 ――この人の時間は止まっているのかもしれない。
「……顔に似合わずってのは余計だろ」
「あらごめんね。……そう、じゃあ大学には行ったの?」
 この人の時間は。
 日本という場所で、この土地での時間は、あの頃のまま動いていないのかもしれない。
「――いや」
 恭一は苦笑して静かに首を振った。過去を知られている分、始末に困る。
「楠田の金で進学する気はなかったからな。運良く卒業と同時にツテが見付かって、今もその出版社の世話になってる。暫くはバイトしたりして遣り繰りしてたが、今はだいぶ落ち着いた」
「……そう……」
 佳澄は少しだけ悲しそうに眼を伏せた。
 椛が進学のためにと貯めておいてくれた金は、実を言えば実家を出て一人暮らしを始めたときに使い果たしてしまっていた。さすがに由成を抱えて生活するには、どれだけ身体を酷使して働いても出て行く金に追いつかなかったのだ。母が死んだ時点で大学進学を諦めていたとは言え、それを正直に伝えるのはさすがに気が引ける。
「あんなに――行きたがってたのに……」
 恭一は何も答えずに薄く笑う。
 過去の話だ。
「……それで佳澄さん、急に帰ってきたのは何か理由があるんだろ?」
 佳澄が自分のこれまでの生活を聞きたがっているのは十分承知していたが、それを事細かに報告していては一晩では足りない。恭一は無理矢理話を切り上げると、蟠っていた疑問を口にした。
 すると佳澄は一瞬にして表情を凍り付かせ――薄く、唇を歪めた。
「――線香のひとつでも上げておくべきかと思って」
 その笑みを見た瞬間、ぞっと背筋が冷たくなった気がした。
「……貴美子さんのことか?」
「そんな名前だったわね。――あの人は一応、恭一の母親ってことになってるんでしょう。なら線香をあげるのが道理かと思って」
 やっぱり――何故か強烈に、そう思う。
 この人の時間は止まっている。
 椛をなくしたそのときから。
「親父から聞いたのか――」
「……変なところで律儀な人よね」
 笑みながら答えた佳澄の言葉は、恭一の問い掛けを肯定した。
「恭一のことも気になっていたから、丁度良いと思って帰ってきたの。こんなことがなければ、もう二度と帰って来るつもりはなかったから」
 楠田という名前を憎んでいた過去の恭一はもういないのに。
「あんな家に足を踏み入れるのも厭だったけど、わざわざ知らせてくれた庸介さんに悪いと思ったの――馬鹿ね。あの人が死んだって私には何の関係もないのに」
 佳澄は冷たく言い捨てる。佳澄が楠田のことを未だに快く思っていないことは火を見るより明らかだった。
 死んでくれてもいい。そんなふうに、逝ってしまったあの人のことを思っている。――過去の恭一のように。
 そして佳澄は、恭一が知らなかった事実を知っているはずなのだ。
 だからこそ、この人はまだ。
 椛を踏み躙った、淘汰した、排除した、そして死なせた楠田を、
 ――憎んでいる。
「……よ、しなり」
 思わず、呼んでいた。酷く小さな声で。祈るように呼んだ。
 ――駄目だ。一瞬で過ぎった様々な思考のうち、恭一は強く思う。
 この人をこの家に置いていてはいけない。
「何? 何か言った?」
「――なんでも、ねェ……」
 楠田を憎んでいるこの人を。
 あの事実を知っているこの人を。
「ねえ恭一、さっきから思ってたんだけど――誰かと一緒に暮らしてるの?」
「……なんで?」
 会わせては――いけない。
「だって、カップとお茶碗が二つお揃いでおいてるでしょ」
 そう言って佳澄はシンクに置きっぱなしだった洗い物を一瞥する。こんなとき、女は厄介だと思う。――生活の匂いに敏感だ。
「――あとそうね、ほらあの洗濯物とか。恭一の趣味じゃないでしょう、あの服は。一人暮らしにしては量が多い気がするし――」
 心臓が大きく跳ねた。
 悟られないように眼の動きだけで時計を盗み見る。時計の針が示す時間に流れそうになる冷汗を殺した。
 ――駄目だ。
 帰って来るな。
 おまえを傷付けたくなんかないんだ。
「佳澄――さん。あんた、今夜どうするつもりなんだ?」
「ホテルは取ってあるのよ。でもせっかくだから夕ご飯くらいは恭一と一緒に食べようと思って。ねえ、仕事は平気?」
 祈る恭一を裏切って、玄関が開く音がした。
 それでも恭一は祈り続ける。どうかあのリビングの扉から顔を覗かせるのがあの子ではないように。
「――恭一、誰か来たみたいよ」
 首を傾げた佳澄が、どうか由成の存在に気付かないように。
 足音が近付く。
 恭さん――柔らかな響きをしたあの声が廊下から響いた。
「誰か来てるの?」
 祈りは虚しい。
「……ああ」
 恭一は、思わず目を閉じた。
 間に合わない。もう、間に合わない。
「どなた?」
 佳澄が不思議そうな顔付きで、由成と恭一とを交互に見遣る。
 心臓の音が大きく響くくせに、遠く聞こえた。
 容易い。
「――俺の伯母だ。江上……佳澄」
 未来は容易く想像出来てしまう。
 俺は誰に――嘘を吐けば、いいのだろう。
「伯母さん?」
 リビングに現れた由成を、佳澄は不思議そうな顔で見つめている。大学から帰って来た彼の姿を見ても、すぐに楠田の子供だとは気付かないらしい。それはそうだろう。例え幼い頃の由成を知っていたとしても、昔からは想像出来ないくらいに彼は成長した。
「……こんばんは」
 由成は佳澄に向かって柔らかく微笑んで見せる。罪がない。
 逃げられない、誤魔化せない――逃げたい。
「――恭一? この子は……?」
 訝しげに佳澄の声が自分を呼ぶ。
 訊かないでくれ。
 その問いに答えてしまったとき、佳澄が由成に向かって吐き出す言葉を、容易に想像することが出来る。
 足掻きたいのに足掻けない。方法を見付けられない。
 どこか呆然とした想いを抱きながら、恭一は由成の顔を見つめた。どうしたらいい。どうやって逃げたらいい。
 どうして帰って来たんだと由成を責めることなど出来ない。
 今自分は、ひどく混乱しているのだろうと思う。だけど意識の遠くで冷静に、自分を眺めている自分を知っていた。
 おまえを。
 傷付けたくなんかなかったんだ。
「はじめまして。……楠田由成です」
 罪のないその声で、由成が名乗った。
 佳澄の顔が一瞬のうちに強張るのを感じる。
 ――駄目だ。
「佳澄さん――」
 今日はもう帰ってくれないか――口にしようとした言葉を、戦慄く佳澄の唇が遮った。
「い、や……」
 信じられない、そんな表情で佳澄はソファから立ち上がり、恭一を、そして由成を鋭く睨み付ける。
「どうしてこの子がこの家にいるの!? 姉さんの家に、どうして――」
 悲痛な叫びだった。白い病室に響き渡った、獣の咆哮のようなあの泣き声を思い出す。声が涸れるまで泣き叫んでいた、この人の悲しみは――
 時間が止まってしまっているから。
 ――駄目だ。
 佳澄さん、その言葉を――言わないでくれ。
「どうして姉さんを殺したこの子がここにいるの……!」
「佳澄さん!」
 まだ哀しいまま――動いていない、から。
「止めてくれ。……こいつは俺の弟だ」
 佳澄の中では、恭一もまだ中学生のままなのだろう。別れたあの日から再会する今日まで、記憶の中の恭一は母を失った哀れな少年だった。
 佳澄が抱いている痛みは少しも癒えていない。
 佳澄はあのとき、悲しみと直面することから逃げてしまったのだ。
「……おとうと?」
「そうだ。楠田を出たときから、俺が育てて来た弟だ。……母さんがあんたを大切に想ってたみたいに、俺もこいつを大切に想ってる。だから……」
 逃げてしまった悲しみは、しかし変わらず胸の中に潜んでいる。何かのきっかけでどうしようもなく溢れ出る。悲しみというのはそういうものだと、恭一は身を持って知っていた。
「……楠田を出たときからって……それじゃあ、恭一……」
 佳澄の悲しみは痛すぎるほどに理解できる。それは等しく、恭一自身の悲しみでもあった。恭一と佳澄は、同じ形の痛みを所有している。
「あんたが育てて来たって……ずっと……?」
「――ああ。ずっと、だ」
「じゃあ……じゃあ恭一、あんたずっと、この子の面倒を見てきたっていうの。姉さんを殺したこの子を育てて、そのせいで大学にも行けなくなったんじゃないの…?」
「……物騒なこと言うなよ」
 悲愴に顔を歪める佳澄を真っ直ぐに見つめて、恭一はほんの少しだけ唇を歪めた。
 優しい人。自分を育ててくれた、もうひとりの大切な女。
「こいつが母さんを殺したわけじゃ――ねェ」
「恭一はそんな風に思えるの…? ……そんなの……ねえさんの――あんたの人生は、何だったの……! みんな、この子のためにあるわけじゃないのに!」
 自分を想ってくれた大切な女――。
「佳澄さん、……良いんだ、もう」
 止めてくれ。
 由成の顔が青ざめている。
 何が何だか判らない、そんな表情をしていても、あの子はきっと会話の意味に気付いてしまう。
 傷付いてしまう。
 惜しみなく涙を流しながら佳澄は声を振り絞った。
「あの子が変えたんじゃない! あんたの人生も姉さんの人生も……滅茶苦茶にして…ッ!」
 その涙は自分のために流されているものだと知っている。
 ――だけど。
「恭一も姉さんも、楠田の犠牲になるためにいるんじゃないのに……ッ!」
「止めてくれ……ッ」
 あんな風に。
 誰かの代わりに死んで良い人じゃなかった。
 あんなに早く、別れることなんて望んでいなかった。
「帰ってくれ。――頼む、佳澄さん、今日はもう帰ってくれ。また会いに行くから……だから、帰ってくれ……」
 佳澄の言葉は、そのまま過去の自分の想いだった。
 どうして、と。
 どうして喪わなければならなかったのだろう、どうして諦めなければならなかったのだろう、どうして――
「……どうして……」
 佳澄は小さく喉を震わせる。涙は止まらない。恭一は震える背中にそっと掌を宛てて、玄関まで導くように軽く押した。
「由成、風呂入ってるからな。先に入れよ」
 擦れ違う由成に、努めて普通の声音で言った。
 由成は――動かなかった。
「……タクシー、呼ぼうか」
「……いいえ。大丈夫」
 玄関まで背を押しながら見送ると、佳澄は止まらない涙を細い指先で拭いながら首を振った。
「――恭一、どうしてなの……?」
 か細い声が耳を打つ。
 恭一は言葉を返さず、ただ、小さく笑った。
 今――あの子は泣いていないだろうか。



 ――可哀想にね。
 いつだったか、あの女がやさしい声でそう言った。
 憐れんでいた。喋れないというその子供のことを、彼女は何度かそうやって話した。
 ――関係ないだろ、そいつが可哀想でも何でも。
 あんたの方が可哀想じゃないか。
 帰らない男の、決して自分のものにはならない男をさんざん待って。
 罵られて蔑まれて。
 正しい形ではないことを、さんざん悪し様に言われて、それでも尚どうして待っていたのだろう。
 どうして愛せていたのだろう。
 ――恭一、その子、あんたの弟なんだよ。
 ――知らねえよ。
 ――だけど庸介さんの息子だからねえ、あんたもあの子も……。
 馬鹿だ。
 あんたは馬鹿だ。
 憐れんでいたその子供に殺されて。
 葬式だって、あんなに小さくて、まるで誰の目に触れることも許されないみたいに、ひどくささやかにしか行なわれなくて。
 あんたを惜しんでいた人間がどれだけいようとも。
 道外れた恋をした、ただそれだけの理由で、相手が楠田という名の男だったというだけで、あっさり亡きものにされた。
 存在を消された。
 そんなことを、佳澄でなくても許せるはずがなかった。
 ――可哀想に。
 可哀想。
 可哀想な、由成。

 


「――風呂。入っとけって言ったろ」
 由成はその場所から少しも動いてはいなかった。まるで身体中が凍り付いていたとでもいうように、下を向いて床を凝視している。
 声をかけると、やっと視線を動かしてぎこちなく恭一を見た。
「……恭、さ、ん……」
 声が上擦って名前を呼ぶ。その眼には困惑と躊躇い、それからまだ事態を把握出来ていない混乱が表れている。
「……どうした。妙な顔しやがって」
 恭一は敢えて明るい声で尋ねる。場違いに朗らかな声に、由成の眼はいっそう戸惑いを増した。
「今の、……あんたの伯母さんの話は……」
 無理に声を押し出して由成はやっとのことでそう尋ねる。痛いくらいに掠れた声は、佳澄の言葉を理解している証だった。
「……あんたの母さんを――椛さんを……俺が、……」
「――昔の話だ」
 誤魔化すことは出来ない。
 出来れば、この事実は、死ぬまで黙っていたかったけれど――。
「恭さ……ずっと、知ってて……?」
「……知ったのはついこの間だ。貴美子さんが……死ぬ直前に、話してくれた」
 由成は辛そうに眼を伏せ、固く瞼を閉じた。
「……覚えてねェかもな。おまえが五つのときだ。母さんが――事故を起こしたとき、子供が飛び出してきたっていうのは聞いてた。まさかそれがお前だなんて思っちゃいなかったが」
「……本当のこと、なのか」
「……あぁ」
 恭一は声を落として頷いた。
 嘘だったなら、どれだけ良かっただろう。
 貴美子が死の間際に遺した言葉が嘘だったら。
 どんなによかっただろう――
「本当みたいだな。母さんの車に飛び出してきた子供っていうのは――おまえのことなんだろう」
 痛い言葉を口にする。きっとそれは刃となって由成の胸を深く抉っただろう、――自分の胸と同じように。
「恭さんは――俺を、許せるの……」
「許すも許さないもねェよ。昔の話だ」
「――嘘だ」
 由成は酷く弱々しい声で、しかしきっぱりと言い切った。
「あんたが許せるはずなんかない。あんた、あんなに椛さんの話を俺にしたじゃないか。大切な母親だったって、何度も何度も……っ」
 震える声で、由成は静かに叫んだ。
「……俺に言っていたあんたが、俺を許せるはずがないじゃないか……!」
 言葉は静かな分、胸に痛かった。
 声を荒げることのない叫び。由成の静かな痛み。
「……由成」
 時期が悪かったのだと恭一はどこか冷静に思う。
 母をなくしたばかりのこの子に知らせるには、あまりにも辛すぎる事実だった。せめてもう少しだけ時間が経っていれば、彼の痛みが僅かでも癒されているころであれば、これほどまでにダメージは受けなかったはずだ。
「もう、……寝ろよ」
 時間が足りない。
「寝ろよ、由成。疲れた頭で考えたって、まともなことは考えられねェだろ。……寝ろよ」
 半ば命令するような言葉を口にすると、由成が微かに頷いた気配がした。それに少しだけ安堵して、恭一は自分の部屋へと向かう。
 しかし由成はまだ動こうとはしなかった。
 廊下にじっと立ち竦んで、ただ冷たい床だけを見つめている。
 今どれほどの混乱と驚愕と、そして自己嫌悪が彼の胸に渦巻いているだろう。
 考えれば堪らなかった。
 それでも恭一には、彼に掛ける言葉などない。
 事実は事実だ。知られてしまったからには、どうすることも出来ない。
 ――這い上がって来いよ。
 扉を閉める直前に由成の背中を一瞥して――静かに恭一は、扉を閉めた。
 
 
 
 
 目を覚ますと、既に由成の姿はなかった。
 ああ、大学に行ったのか。漠然とそう思う。その予想は外れてはいないのだろう。
 しかし足音ひとつ立てず――ほんの僅かな気配も感じさせず、ひっそりと由成は出かけて行ったのだろうか、そう思うとどうしようもなく胸が苦くなった。
 顔を合わせ辛いのは当然だと思うその反面、大丈夫だろうかと心配になる。
 昨晩、何か言いたげな顔をしていた由成を振り切って逃げたのは恭一の方だった。
 由成に言ったように、疲れた頭ではまともなことは考えられないと思ったからだ。
 実際、由成は疲れている。母が逝ってからまだ日は経っていないというのに、実家と大学とこの家とを毎日行き来しているのだ。父が楠田に帰って来いと言うのも納得が行くほど、由成のスケジュールはハードになっている。
 ――可哀想にな。
 唐突に、ぽつんと落ちるように胸にその思いが広がった。
 可哀想な子供だと昔から思っていた。今もそれは変わらない。
 楠田由成は、可哀想な子供だった。少なくとも恭一にとっては。
 ――今あいつを一番可哀想にしているのは誰だ。
 考えてみれば、答えはすぐに出た。
 他の誰でもない。恭一自身だ。望む望まないに関わらず、恭一の存在が由成を今一番に痛め付けている。
 もしも由成が恭一を想っていなければ、真実を知ったときの痛みも少なかったはずなのだから。
(馬鹿みたいだな)
 卵が先か鶏が先かじゃあるまいし。
 恭一はひとり笑った。
 愛さなければよかったなんて恰好をつけた台詞は似合わない。死んだって口にしてやるものか。
 ――だから、恭一は携帯を取り出すと、父親の携帯番号を押した。
 
 
 


 予想通り、帰宅したときの由成の表情は翳っていた。視線を合わすことすら躊躇っている素振りを見せていた由成に、恭一はいきなり切り出した。
「――旅行?」
「今度のゴールデンウィークな。空けとけよ」
 突然の提案に、由成が驚きを露わにして瞠目した。驚くのも無理はないかと恭一はそっと苦笑を殺す。
 そして気分転換と言ってこれくらいしか思い付かなかった自分を、少しだけ恥じた。
「だけど――」
 由成はすぐには頷かず、言葉を濁らせた。迷いの理由は察しが付いている。
 大学も休みになる大型連休、ここぞとばかりに父親から呼び出されていることぐらいこっちは予想していたのだ。
「親父にも連絡しといた。少しは休ませてやれって言ったら承諾したぜ。――それでも渋ってやがったが」
 最後の言葉を憎々しげに吐き出すと、由成は強張っていた表情を少しだけ和らげて微笑う。
「……良いの? 仕事は」
「知ってんだろ。長期休暇中だ」
 イレギュラーな仕事が舞い込んで来ない限り大丈夫の予定だ。そうでなければ幾ら恭一とて、こんな突飛な提案はしなかった。
「どこに行くの、」
「――どこにするかな。どこでも良いんだが」
「行きたい場所もないのに旅行だけ決めたのか」
 由成が目許を緩めて優しく笑った。相変わらず計画性のない恭一を笑っている。
「うっせェな。とりあえずどっか行きたかったんだよ。行く場所なんか後から幾らでも決めれるだろ」
 出来るだけ遠くに行きたかった。
 場所なんてどこでも良い。
 さまようように旅立ちたかった。
 ただ車を飛ばすだけで十分だったのかもしれない。
 出来るだけ――遠く。
「……温泉」
 由成がぽつりと呟いた。
「温泉って、幾らなんでも時期外しすぎてねェか」
「やっぱり駄目かな」
 恭一の応えを知っていたかのように、強く薦めることもせず由成は小さく笑って頷いた。
「……前に、一度行っただろう。雄高さんが連れて行ってくれたところ。あそこに行かないか」
「――ああ、」
 由成の言う場所に思い至る。
 何が何でも温泉であれば良いと言うわけではないらしい。
 由成が高校一年の冬か春、その曖昧な時期に連れて行ってやったのは海の近い温泉地だった。実際に連れていったのは仕事を兼ねていた雄高で、恭一と由成はそのオマケにしか過ぎなかったが、確かあのときは矢野和秋を加えた四人で小旅行を楽しんだ。
 二泊三日の短い旅行で、しかも移動には車を使ったせいで大人組は大いに疲れた記憶しか残っていない。恭一なんかは何故か雄高の仕事に付き合わされて、あちこち歩き回ったのだ。
「また四、五時間車走らせろって?」
「今は俺も免許があるよ。……でも、新幹線で行こう」
 緩やかに時間が過ぎた。
 あの頃は確か、恭一が昔から暖めてきた小さくて短い物語に出版の話が舞い込んで来たばかりで、由成は少しずつ、母親や父親との距離を縮めて行った時期だった。
 何もかもが満たされていた。
 今が、一番幸せだと思った。
「新幹線だけじゃ着かねェぞ。そっからローカルに乗り換えて――何時間かかると思ってやがる」
「それでいい。……ゆっくり行こう」
 今以上に幸せな時間は、きっとないと思った。
「時間なら沢山あるだろう。急いでいく必要なんてないよ。ゆっくり行こう」
 逆戻り出来るなら良い。
 何の蟠りもなく由成が自分を見つめてくれていたあの頃に戻れるなら、それでいい。
「……そうだな。のんびり行くか。弁当でも食いながら」
 同意して頷いた恭一に、由成は微笑った。
 どれだけ欺こうとしても、どれだけ隠そうとしても恭一には判る。
 その眼は、哀しいままだった。



 ゴールデンウィーク初日の新幹線はやはりというかさすがというか、ひどく人は多かったが、ローカル線に乗り換えた辺りから人だかりが少しだけ落ち着く。
 自分たちが向かう方向への帰省者が少ないのか、それとも朝一番で出かけたのがよかったのか、席を取るにもそこまでの苦労は要らなかった。
 乗り換えの駅で買った車内弁当はそこそこだったという恭一の評に対し、由成は物珍しさもあったのか、それを絶賛した。長年同じ釜の飯を食っていても、小さな味覚の差異はあるらしい。そう言えば濃い味を好む恭一に対し、同じ濃い味でも由成は甘めの味付けを好んでいる。酒呑みの性質が関係してか、恭一は甘いものよりは辛めに味付けされた料理の方が好きだった。
 そうやって規則正しい車内の揺れに身を任せながら、空になった弁当の中身について話したり、移り変わる景色をぼんやりと眺めているうちに、時間はすぐに過ぎ去った。
 意識してか、それとものんびりした空間がよかったのか、さして変わらないいつもの調子で会話を交わせることに、恭一は知らず安堵する。
 突飛で急な気分転換も悪くはなかったのかもしれない。
 車内で過ごした時間はひどく緩やかだった。あんまり揺れが心地好くて、うっかり由成の肩に額を預けて寝入ってしまったり、はっと目を覚まして気まずげに視線を反らして笑われたり、そのうち逆にうとうとと船を漕ぎ始めた由成を見つめたりしていた。
 穏やかな寝顔を見ながら、こんなふうに時間が続けば良いと唐突に思う。
 なかったことのように振る舞って、こんなふうに優しい時間が過ぎてくれればいい。
 祈ると同時に、無理なことだとどこかで知っていた。
「……由成、着いたぞ。起きろ」
 ――そう。きっと、無理なのだろう。
「ん、――…寝てた?」
「デコ、跡ついてんぞ」
 慌てて掌で額を擦る由成を一瞥して、笑いながら恭一は頭上に置いた荷物を手に取る。
「おら、さっさと持てよ。体力仕事はおまえ担当だろ」
「……前のときと同じことを言ってる」
「そうだったか、」
 きっと言ったのだろう。前にここを訪れたときも、多分自分は逞しいこの子に荷物を任せたはずだ。
 そして由成も同じように、大した不平も零さずに大人しく荷物を持たされている。
 あの頃と何ひとつ変わらないのに違っている。
 ――同じになるのは、きっと無理なのだろう。
 
 
 
 駅から徒歩十分。雄高から聞いていた時間よりも遥かに長く感じる道程を歩き、漸く辿り着いたのは記憶に残る旅館だった。
 老舗で地元でも有名らしいこの旅館の予約を取るのは無理かと思われたが、ツテとコネを駆使して何とか予約を取り次いだ。そのツテとコネは、今回は大人しく留守番中だ。丁度一部屋だけキャンセルが出たらしく、部屋の指定は出来なかったが文句は言えまい。――それが予定以上に高級な部屋で、宿泊料が予想以上の出費だったとしても、だ。
 わざとこの部屋にしたんじゃねェだろうな、などと留守番中の友人に毒吐きながら部屋の扉を開けた瞬間、恭一は凄まじい目眩に襲われた。
「……無理して同じ旅館にしなくてよかったのに……」
「仕方ねェだろこの辺の旅館ってココしか知らねんだよ。……にしても何だこりゃ」
 さすが一泊数万の部屋だと感心することすら出来ない。
 ただ脱力した。
「……半分、ちゃんと出すから、俺」
「馬鹿言え、半額つったって大した値段になるんだぞ。おまえのバイトの給料なんかすぐすっ飛んじまうっての」
 景色がすこぶる良いのは勿論、至るところに置かれた装飾品も見るからに高値そうで、うっかり壊して弁償することを想像したら背筋が凍り付いた。広すぎる空間は二人で泊まるには勿体無い。二十人は雑魚寝出来そうだ。
「しかも寝室は別になってんのか。……すげェな」
 襖の奥にもうひとつ部屋がある。察するにそこは布団を引くスペースなのだろう。和室で細部まで手入れされた部屋は実家で見慣れているものの、借り物だと思うと落ち着かない。
「……露天風呂があるんだ。すごいね」
 同じく部屋を眺めていた由成が、温泉の効能やら成分やらが書かれた紙を壁に見付けて呟いた。
「露天風呂って、この部屋にか?」
「みたいだよ。露天風呂と……ああ、普通に中にもあるみたいだ。二つとも効能は肩凝りと腰痛、筋肉痛。……あんたに丁度良い」
「いや丁度良いってな……」
 ぐるりと部屋を見渡せば、露天風呂に続くと思われる扉、そして室内に設けられた風呂へと続く扉が見える。
「さすが一泊……もう良いや。一晩幾らだの考えるだけ馬鹿みてェだな。先にどっち入る?」
「もう入るの?」
 頭を掻きながら尋ねると、あからさまに驚いた顔をした由成の視線とかち合う。到着したばかりなのに、と言外に視線で訴えていた。
「当然だろ。高い金払ってんだから。一日三回は入んねェと。風呂」
「またそんなこと言って……のぼせるよ」
 苦笑混じりに応えると、由成は担いでいた荷物を部屋の隅に置いた。
「どっちでも良いけど――あんたと二人で温泉なんて入ったら、変な気になりそうだ」
 由成の言葉に薄く笑う。まだこんなに陽は高い時間から、素面のままでは変な気なんて起こりようがないはずだった。
 そういえば前に来たときは部屋付きの風呂なんてなかったか、そんなことを思い出しながら由成を振り返る。
 思いの外真面目な顔付きをしていた由成に、一瞬視線を奪われた。
「……サカってんじゃねェぞ、昼間ッから――」
「うん。ごめん」
 口では謝りながらも、由成の腕はそのまま恭一へと伸びる。
 恭一は、その手を振り解くことをしなかった。
 どちらからともなく触れ合わせた唇は冷たく凍えていた。こんなに彼の唇は冷たかっただろうかとぼんやり思う。
「……冷たい」
「おまえもだ、ばぁか……」
 湿った音を立てて離れた唇を追うように恭一から口接けると、微かに由成が身じろいだ気配がした。
「……逃げんなよ」
「……けど、」
「良いんだよ。――良いんだ、由成」
 口接けることも、触れることも、誰が一番望んでいただろう。
「してェんだろ。……なら、良いよ」
 もしもと思う。
 もしも日常から切り離された空間に二人きりでいられたなら、何も考えず何にも捕らわれず愛し合うことが出来るだろうか。
 ――唇も、腕も、熱も。望んだのは恭一だ。
「……良いのか」
 まだ戸惑う由成の唇に、恭一は自分のそれを再び押し付けた。
 同じことを二回言わせるな、そう言いかけた言葉は吐息ごと奪われる。
 徐々に上がる息も、深まる口接けに呼吸すらままならない。抱かれた肩は、そのまま倒されて畳みへと押え付けられる。
 仰向けに見つめた由成の顔は、まだどこか迷いを孕んでいた。
 そんな顔は見たくない。
 見たくないから――ここに来た。
 ――忘れてくれ。
「良いって言ってんだろ。――……俺が欲しい」
 ――今は、
 由成に向かって伸ばした手は、逞しい背中を抱き締めた。穏やかなだけではない感情が、自分にも、そして由成にも存在する。名前を付ければ酷く俗物的なそれが、今は何よりもほしかった。
 ただそれだけのために、ここに来た。
 真っ直ぐな言葉で誘った恭一に、由成は何かを吹っ切るように頭を振ると、冷たい首筋に唇を埋めた。






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