気が付くと、部屋の中が鮮やかなオレンジ色に染まっていた。まさか朝焼けではあるまい。ああ、もう夕方になったのか。ぼんやりそう思いながら、重たい瞼を上げた。ひどく熱を持って、いつもよりも重たく感じる瞼は、多分軽く腫れているのだろうと思う。
いつもの癖で、欠伸と共に思い切り伸ばした腕は、何の障害もなくのびのびと布団の上を彷徨う。
隣にいるはずの由成がいない。
慌てて身体を起こすと腰に鈍い痛みが走る。思わず顔を顰めて呻いた恭一の背に、「どうしたの、」と優しい声が投げられた。
「急に動くからだよ。――おはよう。夕方だけど」
見るからに湯上りの由成が、丁度風呂場から別室に設けられた寝室の扉を開けたところだった。人が寝ている間にのんびりひとり湯を楽しんでいたらしい。ちくしょうと罵りそうになってから気付く。
自分の身体も汗やら精液やらでベトベトで、由成でなくとも風呂に入りたくなるのは当然だ。それでも最後に残る記憶よりは少しマシになっているところを見ると、由成が汚れを大雑把にでも拭ってくれたのだろう。
「……どれくらい寝てた、」
「一時間、三十分くらいじゃないかな。――寝るっていうよりは意識がなかったみたいだから」
苦笑混じりに言われた言葉の意味を一瞬計り兼ね、ぽかんと口を開いたままの恭一に、由成が申し訳なさそうに言葉を付け加えた。
「――ごめん。加減、出来なくて」
由成は布団から少し離れた窓際に腰を下ろした。背中を壁に預ける由成の表情が逆光で見え難くなる。
「馬鹿かおまえは。いちいち謝ってんなよ、そんなこと」
謝らなければならないのは自分の方だ。
自分の方が欲しがって誘ったくせに、途中で体力切れでも起こしてしまったのだろう。そんな状況が容易に想像出来る自分が厭になる。
「――風呂、入りてェな」
「うん。でもあんたは、もう少し休んだ方が良い。風呂場で倒れられたりしたら洒落にならないよ」
ぽつりと落とした呟きに、やはり静かな声が答えた。
おかしくなる。
こんな風に穏やかな時間を求めたのは自分なのに、どうしてこんなに胸が痛いのか。――おかしかった。
「……前に、来たときに」
覚えてる?そう言って、由成は唐突に切り出した。
「あのときも夕陽をわざわざ見に行って――」
「――ああ」
雄高の仕事に付き合わされた何年か前の恭一は、燃えるくらいに赤い夕日を海の絶壁から眺めていた。雄高の目的はその夕陽と海の風景だったらしい。その夕陽が壮絶に綺麗だったものだから、次の日に由成を同じ場所に連れて行ったのだ。
「海に行かなくてもここからは綺麗に見える。海と夕陽」
言われて視線を向ける。
確かに窓からは海と、それに沈む赤い夕陽が輝くように覗いていた。やけに部屋がオレンジ色だったのもこのせいかと気付く。風景に気を取られる暇もないほどに、由成を欲しがった自分を、浅ましいとは何故か思わなかった。
「一泊何万すると思ってんだ、夕焼けくらい見えねェと割りが合わねェだろ」
おどけて言った恭一に、由成はそっと笑って見せる。
「あのとき、俺はあんたに、ずっと一緒にいるって約束した」
夕焼けなんてものは良くない。
奇妙に切ない気持ちになる。
普段は恥かしくて言えない言葉でも、平気で口から零れ落ちてきそうになる。
これほどに甘い気持ちを噛み締めながらも、恭一はどこか自嘲した。もう遅いと、誰かが耳元で囁いている。もう遅い。もう何を言おうと、何を囁こうとも。
「一番、しあわせで。このまま恭さんが傍にいてくれて、一緒にいれたらどんなに良いだろうって、……あのとき、あんたは何も応えてはくれなかったけど……」
あの日夕焼けがあんまり綺麗で、夕焼けにはしゃぐあの子があんまり綺麗で泣けてきた。
綺麗なのは夕焼けなんかじゃない。そんなものよりもずっと美しくて失えないものがこの手の中にある。それが嬉しくて嬉しくて、同じように切なかった。
「おれは……ばかみたいに、はしゃいでた」
恭一は――何も応えなかった。
何が言えただろう。
「俺が何度好きだっていっても、恭さんは困った顔をすることが多くて、……どうして俺と同じように、一緒にいるって、そう言ってくれなかったんだろうってずっと思ってた」
由成はそこで言葉を区切ると、ひどく穏やかに微笑んだ。
あの日、同じように永遠なんて誓ってやれなかった恭一を許すように、微笑っていた。
「――あんた、俺に嘘を吐きたくなかったんだ」
その、あまりに穏やかな笑みに胸を突かれて、恭一は言葉を失う。
まるで自分ですら意識していなかった真実を、いとも簡単に見透かされてしまったかのような気がした。
「俺に嘘を吐きたくなかったから、あんたは簡単に「ずっと一緒にいる」なんて言えなかったんだ」
違うと叫びたかったのに、唇は動いてくれなかった。
それは、違う。
自分はただ狡かっただけだ。
永遠を誓ってやることなど出来なかった。そのことで由成が幾ら不安を抱こうとも、容易に口に出せることではなかった。
――それは。
「……俺はきっと、嘘吐きになるね」
――それは、きっと、いつか嘘になるから。
「ありがとう。……俺にいつも、嘘を吐かないでくれて、ありがとう……」
「由成……」
ならば自分は最初から由成の言葉を疑っていたことになってしまう。
若さと情熱のまま告げられたやさしい言葉を信じていなかったことに繋がってしまう。それならば否定しなければならなかった。――おまえの言葉を一度も疑ったことはないと、そう告げたいくちびるは、しかし変わらずに動いてはくれない。
鮮やかな夕焼けが邪魔をする。
由成の感情を隔ててしまう。
由成はふいに立ち上がると、浴衣を拾い上げてそれを恭一の肩にかけた。
「ひとつだけ、聞かせてくれないか、」
冷えるから、その言葉と共に裸体を覆った浴衣は、少しも寒々しさを補ってはくれなかった。凍えるのは身体ではなく、寒いのは部屋じゃない。
急激に、由成が言葉を発するごとに、冷めてゆくのは。
「――大学、って……?」
聞いていたのか。そう苦笑しながらも、直ぐ傍に腰を降ろした由成に、恭一は慎重に言葉を選んだ。
「――少しだけ、興味があった分野の研究をしてる教授がいてな。本も何冊か読んだ。それでますますその人の研究を間近で見たいと思って――その人のいる大学に進学してみようと思ってた。ガキのころの話だ」
誰かに学ばなければ自分の力にはならないと思っていた。誰かに教えてもらうことで、自分の知識が増えるのだと無条件に信じていた、子供だった。
しかしそれは勘違いだったと恭一は気付く。わざわざ指導を受けずとも自分の力で学べることなんて、その辺に幾らでも転がっていた。勿論大学に行かなければ学べないものもあるだろう。それでも、由成と共に家を出ることよりも進学が大切だとは思わなかった。
「俺が……いなかったら、あんた、大学に……行ってたか」
「――さあ。どうだろうな。どっちにしろ…お袋が死んだ時点で進学は諦めてたからな。無駄に楠田の世話になるつもりはなかった」
一刻も早くあの家から逃げ出したかった。由成と共に。
そんなふうに、恭一の最優先事項はいつだって由成だったのだ。
「……俺が、足を引っ張ってた……?」
「……馬鹿なこと言ってんじゃねェ」
「だけど、俺があんたの人生を変えたのは……ほんとうだろう」
その言葉に違いはなく、恭一は黙り込む。
どれが間違っていて、どれが正しかったなんてことは恭一には判らない。ただ確かに人生は変わった。あの小さな子供の手を引いた瞬間に、恭一の全ては由成になった。
「……佳澄さんに言われるまで、気付かなかった」
見上げれば由成の表情は、少しだけ――少しだけ歪んでいたのかもしれない。相変わらず、夕焼けが邪魔をして、その表情はぼんやりとしか読み取ることが出来なかかったけれど。
「俺がどれだけあんたの人生に関わっていたかなんてこと……考えたことが、なかったんだ」
声が震えている。
だから表情なんてものは見えなくても判った。
「恭さんが俺に関わってくれた分だけ――俺が、あんたに関わっていたことを……気付かなかった」
きっと、泣き出しそうに歪んでいるのだろう。
思えば昔から良く泣く子供だった。
それでも最初の頃は、あんまり無表情に泣くものだから、憐れで憐れで堪らなかった。
「……おまえが関わってたって、最終的には俺の人生だ。全部俺が選んで、俺が決めたことなんだ。おまえがそんなこと気にする必要なんてねェんだよ」
由成は聞き分けのない子供のように、幾度も首を振る。噛み締めた唇からは今にも嗚咽が零れ落ちそうだった。
涙を零すまいと懸命に堪えている嗚咽ほど、胸に痛いものはない。
そんな嗚咽など聞きたくはなく、恭一はそっと自分よりも随分成長した由成の肩に腕を伸ばした。
もうこの腕は、いっぱいに広げないと由成の身体を抱き締めてやれない。すっぽりと自分の胸に埋まった幼い彼が嘘のようだ。
何も言わず、伸ばした手で何度も背中を撫でる。まるであやすような掌の動きに、由成が身じろぎした。
「……こんなふうに、母さんに、抱き締められたことがある」
由成が呟きを落とす。ひどく静かに落とされた呟きに、恭一は顔を上げた。
母親に抱き締められた過去なんて珍しいものでもなければ、わざわざ喜ぶことでもない。しかしその常識は由成には当て嵌まらなかった。可哀想な子供だった由成には、母親に抱き締められた当たり前の記憶がないに等しい。
「……色々、思い出すことがあって、それがいつのことだったか今まで判らなかった」
「……いつのことか、思い出したのか、」
尋ね返した声は低く掠れる。水が欲しいとぼんやり思った。喉がからからに乾いている。
そっと由成が腕を上げて、壊れものを扱うように指先が頬へ触れる。まだ、熱い。
熱いのは余韻を残して火照る、自分の頬か。温もった由成の指先か。
「……俺が、事故を起こしたときのことだった」
なんて似つかわしくない話だと恭一は自嘲気味に思う。こんなに甘い空気の中、どうしてこんな話をしているのだろう。
「あの人、俺を抱き締めて泣いてくれた。俺が無事で良かったって、生きていて良かったって、……あの人、あんなに泣いてくれて、」
皮肉な話だと思う。
なんて――痛烈な皮肉だろう。
「そのときに、俺は世界で一番、愛されてるんだと思って、――だからあの人のことを好きでいれたんだ。大切にはされなかったけど……」
「……そうか」
最期がどうであれ、貴美子は良い母親ではなかったのだろう。それは由成も、そして恭一も、貴美子自身も認めている真実だ。あんなに無下にされても尚、由成が母親を慕っていることが、恭一はひどく不思議だった。
理由があったのだ。
記憶はなくとも、そのときに見た母親の涙が、ずっとこの子を支えていたのか――
「――良かったな、由成」
愛されていたのだと思うと、安堵した。
よかった。
この子はきちんと、愛されていた。
生きていてくれてよかった、そう言って涙を流してもらえるくらいには、可哀想な過去も愛されていた。
「……良くない」
本心から返した言葉に、しかし由成は眉を寄せる。
「良いことなんか、何もない。……あんたが椛さんを亡くして独りだったときに、俺は幸せだったんだ。母さんに愛されて幸せだった。椛さんを殺したくせに、俺だけ、幸せだった……!」
恭一は目を伏せて、由成の痛みの声を聞く。
あまりにも――不憫で仕方がない。
「……そうだな、」
変えようがない事実を、過去だと笑って遣り過ごせるほど自分も彼も賢くはなく、そして愚かではなかった。
ただ、それだけのことが、こんなにも由成の心に影を作る。
重みになる。
――可哀想に。
「俺が、あんたを……恭さんの……」
あの日何もかもに絶望した、喪ったものの大きさに打ちひしがれた、その原因が目の前で項垂れて嗚咽を殺している。
なんてリアリティのない――現実だろう。
「……教えてくれ」
あのやるせない過去、今由成が零したものと同じ言葉を、呪いのように吐き出した。
――教えてくれ。どうして母さんだったんだ。誰かの替わりに死んでいい人間じゃなかったはずなのに――
鈍い動きで顔を上げた由成の目許は、薄らと赤らんでいる。よく見れば、その目尻には涙が浮かんでいたのかもしれない。
「教えてくれ、恭さん。――あんた一度でも、俺を憎んだか」
由成の視線はまっすぐに恭一を射抜きながら、それでもどこか怯えるような翳りを含んでいた。
「……ちゃんと答えてくれ」
頬に触れる指先の動きが止まる。
指先は、それでもひどく優しくて暖かかった。
こんなに優しい指を持っているおまえを。
どうして憎めただろう。
「……いいや」
恭一は目を伏せた。
嘘じゃない。
――代わりに真実でもない。
「おまえを憎んだことなんかない。……一度も」
――嘘じゃない。
自分に言い聞かせながら告げた言葉に、由成は泣きそうに顔を歪めた。
「……うそ、だ……」
「……嘘じゃねェよ」
頬を滑る指先は、そのまま恭一の背を掻き抱く。折れそうなくらいに強い力に一瞬呼吸が止まった。
「嘘だ。……あんたは、俺のために嘘を吐く……」
額を押し付けられた肩が熱く濡れる感触がした。
――ああ、泣いているんだな。
「そんなときだけ俺のために嘘を吐いて、そうやって恭さんは自分だけ辛くなるんだ。あんた、いつだって俺には嘘を吐かなかった。そういう恭さんが、好きだった。――そんなあんたに嘘を吐かせる俺を、……俺が、許せない」
嘘じゃない。
二度は、言えなかった。
それを口にするには、抱き締める腕の力があんまり痛すぎて、堪え切れず溢れ出したかのような由成の言葉が、胸に深々と突き刺さりすぎていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
由成は声を震わせながら何度も詫びた。
「ごめんなさい。あんたを独りにして、ごめんなさい……」
そうやって過去の恭一に、何度も詫びた。
もう良いと止めてやる代わりに、恭一は由成の背中を抱き返す。身体ばっかり育って、中身はちっとも変わっていない。いつまでたっても泣き虫のままだ。
繰り返される同じ言葉を聞きながら、恭一もほんの少しだけ泣いた。釣られて流れた涙なのか、それとも純粋に自分の中から零れた涙なのかは判らなかった。
由成の抱き締める腕は痛い。骨が軋んで身体中が悲鳴を上げているようだった。
その痛みよりもまだ、彼の痛みの方が上だと思う。だから恭一は何も言わなかった。
由成はどんな恭一の言葉をも嘘だと決めつける。憎んで当たり前だと、由成は自分自身を責めた。
だけど由成、
こんなふうに痛いくらいの強さで抱きしめてくれるおまえに、まるで縋るみたいに強く抱きしめてくるおまえに、どうして憎しみをぶつけることができただろう――
由成の望んだ憎悪の代わりに、愛している、そんな純粋な感情がひどく自然に口を突きそうになる。決して言えないそれを、無理矢理飲み込むと、また涙が溢れた。
今その言葉は苦しめる。こんなに優しく自分を愛してくれている由成を傷付ける……。
だんだん涙が止まらなくなって、恭一は馬鹿みたいに声を殺して泣いていた。
死んだように眠るという言葉がまさしく当て嵌まった。
帰りの電車の中で、恭一はまさしく死んだように眠っていた。泣き腫らした瞼が重たかったのに加え、夜通し求められたせいで体力が回復していない。温泉に浸かりに行ってわざわざ疲れたようなものだと思う。
同様に疲れているはずの由成は若さで疲労を補っているのか、常になく眠気に襲われている恭一を支えるように傍にいた。
ガタゴトと揺れる車内で、人目を忍びながら、そっと握り締められた手が暖かかった。
確かにこんなこと、運転中じゃ出来ねェな――そんなふうに思ったのを最後に、また恭一の記憶は途切れた。
次に眼を覚ましたときは、我が家のベッドの上に転がっていた。
朧気に支えられながらタクシー乗り場まで歩いたことは覚えている。その後の記憶は一切ない。我ながら良く寝れたものだと感心しながら時計を見ると、到着したと思われる時間から二時間近くが経過していた。
最近は眠りが浅かった所為もあったのだろう。他人事のように思いながら、恭一は自分の部屋を出た。緊張を悟らせないように、由成の負担が増えないようにと張っていた気が、昨晩勢い良くぶち切れてしまったのだ。
今は必要ない。
気を張る必要も、緊張も。
恭一は自分の部屋を出ると、まっすぐに由成の部屋へと向かう。
――良いんだ。判ってる。
扉を開いた瞬間、信じられないくらいに冷たい空気が身体中を包んだ。
由成の部屋は元々荷物は多くない。しかし確実に変化している。彼がいつも通学に使うあのバッグ、日常生活品、クローゼットを開けば衣類もなくなっているのだろう。
――判ってる。おまえの考えることなんか、全部、判ってる……。
由成は出て行ってしまった。
自分の意思で出て行ってしまった。
もう、帰らない。
それを知っていたからこそ、昨晩自分はあれほどに泣けたのだろうと思う。どうしようもなく喪ってしまうものがあると判ってしまったから、悲しくて仕方がなかったのだ。
だから涙は涸れ果てた。
あの子は引き留めても帰らない。泣く意味もない。
一気に身体から力が抜けた気がして、扉を背にして恭一は座り込んだ。主を失ったデスクと椅子を見つめていれば、そこに座っている由成の姿を思い浮かべてしまいそうだ。
あれは恭一が買い与えてやったものだ。
前に出て行ったときは、由成はあれを実家に持ち込んだ。それなりに愛着はあるものなのだろう。
今度はどうするだろう。由成は同じように、あの机と椅子を求めるだろうか。
自分が買ってやった、あの机を。
――判ってる。おまえ、耐えられないんだろ。
声もなく落とした涙は、床に染みを作る。誰にも気付かれない。声を殺す必要はないと判っていても、情けない嗚咽は零れなかった。
思いきり声を上げた方が痛みは少ないと、判っているのに。
――罪悪感に、耐えられなかったんだろ……。
恭一はただ無表情に、空を見つめながら涙を流した。この調子では由成を泣き虫なんて罵れそうにない。
由成が罪悪感を感じていることなど知っている。恭一を思えば思うほどそれは強かったはずだ。母を喪った痛みを彼は知ってしまった。同時に、恭一の若い時間を奪ってしまった罪深さを思い知っている。
恨む気などないと恭一が何度告げても、その罪悪感は消えない。
だから恭一は許した。
――俺の傍にいると、おまえ、ずっと後ろめたいんだろう。
――それが、おまえの、枷になるくらいなら……。
そんなふうに罪の意識を抱きながら傍にいる必要なんてない。
自分を見る度にそんなものに苛まれるくらいなら、離れてもいい。
――全部、判ってる。
おまえも今、泣いてるんだろう、由成。
だから許してやる――。
何もかも許してやる。おまえのことなら全部、何だって許してやる。
その結末がこれだって、受け止めてやる。
部屋は相変わらずの冷たさで、恭一がここに座り込むことの無意味さを空気が教えた。どれほど待っても帰らない、二度とこの部屋であの子が暮らすことはないと恭一を嘲う。
涙が涸れたはずの眼で、それでも恭一は泣き続けた。
想像通り、友人の顔はほんの僅か――恐らく自分でなくては判断が付かないくらいに顔を歪めた。
「それでいいのか」
「なるようにしかなんねェよ」
由成があの家を去ってから数日間の自分は、酷い有様だったのだろうと思う。
この友人の来訪すら拒絶し、誰ひとりとして家の中に入れなかった。
まるで自分が呼吸をする毎に由成の匂いが消えてゆくような、そんな馬鹿みたいな錯覚に陥っていた。
「俺もあいつも、懸命に考えた。考えた結果がこうなっただけだ。いいも悪いもねェよ」
久し振りに訪れた雄高のマンションは、驚くほど変わっていない。荷物が少ないというわけでもないのに、それらが見事に整頓されている見栄えのない部屋だ。部屋は性格を現すとはよく言ったものだと思う。
「――由成は」
「もう、帰って来ねェよ。俺が何言ったって無駄だ。俺から追い出したわけじゃねェ、アイツから出て行ったんだ。もう二度と帰って来ない」
その言葉は、酷く淡々と言い放つことが出来る。
もうあの子は帰らない、そう思う度に溢れ出た涙が嘘のようだ。
「おまえ、許せるって言ったろ。……俺はまだ、その意味が判んねえよ。許せるっていうのがどういうことなのか、自分があいつを許せるのかどうか、それすら判らねえ」
感覚が麻痺しているのか、それとも本当に悲しいと思わなくなってしまったのか。それはまだ、自分には知ることが出来ない。
「けど許すも許さないもねェんだ。結局、答えはそれしかねえ。俺はアイツをなくしたくはなかったし、アイツだってそうなんだ。お袋のこととは無関係に、答えなんざそれしかねえ」
「――なら」
何か言いかけた雄高を、恭一は首を振って遮る。
「アイツが駄目なんだ。――由成は、このまま俺の傍にいたら駄目になる。妙な罪悪感を持ってまで、アイツが俺と一緒にいる必要はねえ、それが……答えだ」
そうやって、何事もなかったような顔をして告げられるようになるまで、自分がどれほどの苦しみを抱えていたかなんて、目の前の男には判ってしまうだろう。
「……悪かったな」
恐らくは、何よりも誰よりも自分たちのことを気に病んでいた、腐れ縁の付き合いだけは長いこの幼馴染みに。
結末を報告することが、自分に残された最後の仕事だった。
「今まで悪かった。」
雄高は珍しく驚愕の表情を表に出し、そのまま言葉を失った。
驚きの表情に開いた眼が、ゆっくりと伏せられる。
「おまえには、世話を掛けすぎた。俺もあいつも、おまえに甘えすぎてたことは充分承知してる。そんで、これなんだから救われねェだろ。……けどお前だってそろそろ、俺を構ってもいられねえだろう」
それは、自分と由成との、今でも共通するひとつの想いだと、恭一は思う。
あの子にも自分にも、大切なものが数え切れないくらいある。その中で重なっている部分で、最も重要だったこの男に。
由成を失ってから初めて、数え切れないくらいに感謝した。
――その気持ちがあるなら、まだ動く――
想いの行き場を作る男に、感謝した。
「……おまえは、馬鹿だ」
雄高は目を伏せたまま、小さく呟いた。
「ああ、判ってる」
きっとこう言われるだろうと予想していた言葉を、そのまま返した雄高に恭一は笑う。
「……判ってる」
雄高は、まるで自分が傷付けられたように、痛い表情で目を閉じた。
おまえも馬鹿だよ、と。
胸の中でだけ呟いて、恭一は、感謝した。
年に一度、正月に楠田家を訪れる恒例行事は今も変わっていない。
相変わらず恭一が楠田家を訪れるのはそのときくらいだが、しかし最近は由成に構っているのが忙しいのか、恭一がたまにしか帰って来なくとも父親が口煩く文句を言ってくることはない。
チャイムを鳴らせば、すぐに足音が聞こえる。
それが誰かは、足音だけで判った。
「おかえりなさい」
昔、たった独りでこの家を訪れたときと同じく、自分を出迎えたのは由成だった。
この家の門を潜るときは、どうか由成に傍にいて欲しい。その願いは、今も変わらず叶えられる。
それを何の汚れもなく嬉しいと、ただ純粋に嬉しいと思った。
「久し振りだな。元気だったか」
「うん。父さんも中で待ってるから早く入って」
元気だったか、学校はどうだ、親父はおまえを無理矢理働かせてはいないか――聞きたいことは、山ほどあった。それを今日、存分に話そう。話して、この子の話を聞いてやろう。
この子がいる家ならば、長時間滞在することも苦痛ではないはずだ。
痛みは慢性化することを、恭一はぼんやりと思い出す。
由成がこの家で過ごしていることにも、すっかり「楠田」の顔をしていることにも、ひとりで過ごす毎日にも、痛みに気付かないくらい──飼い慣らしてしまった。
時折顔を合わせる由成の、久し振りに見る背中に思わず視線を奪われ、自分でも無意識のまま恭一は足を止めていた。
その背中は、記憶に残る幼いあの子とは少しも重なるところはない。
小さかったな。
あのときのおまえの背中は、あんなに小さかったのに、
――ああ、どうして、子供のままで、いてくれなかった……。
「どうしたの――」
由成は足を止め、立ち止まってしまった恭一を不思議そうに振り返った。
「――兄さん」
聞き慣れた優しい声が自分を呼ぶ。
穏やかな声。決して聞き間違うことのない、大切な大切な、唯一の声。
「……ああ。今行く」
もう胸は痛まない。
涙も零れない。
その声が、例え以前のように甘さを持って自分の名を呼ぶことが二度となくとも、そうしてくれとおまえが望んだ。兄として自分を愛してほしいと由成が望むなら、自分はその望みを喜んで受け入れられるだろう。受け入れてやりたいと願う。
――ずっと、
自分にだけ誓った言葉が甦る。
立ち止まったまま自分を待っている弟に向かって、恭一は酷く穏やかに微笑った。
――どんな形でも、
――見守っているよ。