流れる時間が悲しいと鳴く。流されて、失われていく時間が悲しい。
――どうして。
尋ねるとあの人は少しだけ笑っただろうか。
だからこそ愛しい、けれど時計の音すら、今は悲しい。
そうして唄を口ずさむ。
いつかは消えてなくなるものがある。
だからそのときはきっと笑って、と。
初めて恋をした。幼い、甘い恋だった。数えれば一回り以上も歳が離れているのに、どうしてあんなに好きでいられたのだろうと今なら不思議に思える。
あの人も、そしてその息子も、当たり前に存在していた季節はもう返らない。それが悲しいということなのだろうかと、雄高は思う。
その家では時間が止まる。逆行していると言ってもいい。古ぼけた木製の家を眺めながら漠然とした思いを抱く。自分たちが幼かったころ、この一帯はもっと静かな土地だった。もっと暖かな陽の差す場所だった。今ではすぐ隣に高層マンションが建てられている最中で、建設工事の轟音が喧しく鼓膜を震わせている。昔馴染みの家も次々に建てかえられ、道は随分綺麗になった。今や昔ながらの形を保った古い家は、ここくらいしかないだろう。
町は、たったの十年や二十年のうちに、こうも変化する。この辺りは特に古びた町だったから、変化がめまぐるしく思えるのも仕方がないのかもしれない。
ほんの僅かな苦笑を浮かべて、雄高は玄関の戸を引いた。予想通り錠は下ろされていない。この時代、ありえないくらいに無用心だと笑みかけて、どうかそれがずっと続いていればいいとどこかで願っている自分に気付く。時間が止まれば。戻ればと、微かに、しかし叫ぶように胸のうちで祈っている。
扉を開けば今にもあの女の声が聞こえてきそうな気がした。
――雄高、あんたまた来たの。ご飯食べてくなら、陽子さんに電話しときなさいね。
初めて恋をした。悲しみはもう、少しも胸を痛ませない。思い出せば胸を暖めるだけの優しい記憶が、この家と自分の身体に染み付いている。時は確かに流れたけれど、同じように、悲しみも流れていく。懐かしい記憶が駆け巡るのを思考の隅に感じながら、古い廊下を軋ませる。すぐに辿りついたリビングで、幼馴染みはいつも通りだらしなく身体をソファに預け、口元に咥えた煙草から細く煙を上げていた。
何の言葉もないまま、振り向きもしない背中が、軽く笑う気配がした。
「また来たのか。幾つになっても暇人だな、おまえ」
「――お互い様だ」
「矢野は放っておいていいのか。また拗ねてんじゃねえのか、てめェが優柔不断なせいでよ」
繰り返される挨拶代わりの悪態は幾つになっても変わらない。そう、自分と彼の間に存在するものは、何ひとつ変わらない。
変わったものの数が多すぎて、変わらないものを、努めて大切に慈しんできた。変わらないものを探すことは難しく、なのにこの家に足を踏み入れれば、容易に時間は過去へと戻っていく。
恭一は吸いかけの煙草を灰皿に押し付けると、首を回して顔だけをこちらに向けた。漸く合わさった視線も、いつもと変わらない人を食ったような笑顔である。
「そんで、今日は何の用だ。用がねえならさっさと帰れよ。てめェと違ってこっちは忙しいんだ」
「そんなこと言われてもな」
その様を見て誰が納得するものかと雄高は毒吐いた。どこからどうみても時間を持て余す暇人にしか見えない。この空間に、自分だけが知っていることがある。
「忙しいんだよ。夕方から人と会う予定があるんだ」
「どうせ山内さん辺りだろう」
「いいや、現役ナースだ。確かに山内さんの紹介ではあるんだけどな」
「……どうして看護婦とおまえなんかが会う必要がある?」
「山内さんの勧めだ。今度、看護婦――ってよりは病院か。そういう類を扱う小説を連載することになったから、参考までに会っとけと。妹の同級生だったか、とにかく知り合いに看護婦がいるんだとよ」
この家には、時の流れを嘆き、流れる悲しみさえも嘆く人間が住んでいる。嘆きに嘆いて、繰り返し訪れる悲しみに、彼は自ら幸いを放り投げた。悲しみの元を断ち切ることが、幸福に繋がるとでも思ったのだろうか。
ふいに苦しくなった。
「……おまえ、まだ知らないのか」
「……何の話だ?」
いつも通りに振る舞おうとすることが、既に常ならぬ事態であることを、充分すぎるほどに承知している。雄高は恭一の向かいのソファに腰を下ろしながら、ゆっくりと口を開いた。
「許婚が決まったんだとよ」
その言葉を告げた瞬間、雄高は僅かにも表情を動かさなかった。また恭一も同じように、何の感情も露わにせず、ただ静かにその言葉を聞いていた。
「随分早ェな」
「この間、わざわざうちに挨拶に来やがった。土産持参でな。先月にはもう帰国してたらしいが、色々と疲れてるだろうに。……あの律儀さは誰に似たんだか」
努めて振る舞う。何事もなかったかのように、まるで他愛ない世間話を掻い摘んで聞かせるように。けれど自分だけが知っている。興味がなさそうに緩く向けられた目の奥深くに、傷付いた光の色が秘められたことを、雄高だけが知っていた。
「誰にって、そりゃあ俺だろ、俺」
「おまえが律儀だって言うんなら世界中の人間が殆ど律儀ってことになるな。――おまえには今度知らせると言っていた。そういや来月は楠田の会合があるんだろ、由成の帰国祝いの」
「あぁ、……なんかあるとは聞いてるな。楠田の中でも、長生きし過ぎの爺ィ共が集まるって話だ。俺には関係ねえだろ」
もう傷付かないと信じている。それほどに時間は経ったと、恭一自身が信じたがっていることを、雄高は嫌というほど判っていた。
「おまえも呼ばれるはずだ。目出度い席に兄貴がいないのは格好がつかないだろ」
「……で、爺ィ共に許婚の女を紹介するってんだろ。そりゃあ確かに目出度い話だ」
この家では時間が止まる。容赦無く過ぎる時間の中で、変化する周囲の風景の中で、この家だけが違和感を感じるほどに昔のまま残っていた。
「――目出度くって、涙が出る」
どんな動揺も表さず、恭一はただ微かに傷付いた目をして、俯き加減に笑った。
彼はもう、傷付いた心臓の痛みを埋めるためにアルコールを煽らない。己の痛みを紛らわせるための逃亡手段を、彼は自ら放棄した。
この家での時間は止まる。
――それならばいっそ、戻ればいいと。
丁度一年前の八月、たった一人の弟は突然海外に飛んで行ってしまった。突然だと感じたのは恭一だけで、彼自身と父親やその周囲にしてみれば、予定通りのことだったのかもしれない。
人伝に聞いた話によると、彼の目的はふたつあったらしい。福祉機材開発への進出を模索している父を助けるための専門知識を頭に叩きこむこと、そして勿論語学を学ぶための留学である。全ては伝聞で、確かではなかった。留学する際の報告はもちろんなかったし、帰国時に知らせがあったわけでもない。そんなものを細やかに伝え合う時期はとうに過ぎていた。
由成は来年の一月で二十一になる。その歳にもなれば、今更兄に些細な報告をしたいとも思わないだろう。そろそろ帰国するはずだと踏んではいたが、由成がとっくに帰国しており、しかも厄介な報告付きで雄高に会いに行っていたことは、想像以上に恭一を打ちのめした。
来客を迎えるために身支度を整え、洗面所で髭を剃る。目を覚ましたのが昼過ぎで、その後すぐに雄高がやってきたせいでまともな準備が出来ていなかったのだ。胸中で幼馴染を罵りながら、ふいに真正面から向かい合った自分の顔に、ひどい面だと笑う。鏡の中に映った自分は、下手をすれば存在感のない悲愴な幽霊にでも見えるかもしれない。それにしては凶悪な面だ。本当に――ひどい顔だ。
玄関のチャイムが鳴り、来客を告げる。ついさっきまで雄高が居座っていたおかげで、リビングを片付けていなかったが仕方ない。思考を切り替える。相手は忙しい時間の合間を縫い、胡散臭い官能小説家の取材を受けてくれる貴重な人物だ。もっとも今回の仕事は官能小説の類ではなかったが、相変わらず仕事の殆どは官能小説で占められているのだから、まず誤解されても無理はないだろうと思っている。
「――楠田先生のお宅ですか?」
玄関先で佇んでいる女性は、夏の日差しに薄っすらと額を汗ばませながら首を傾げた。予想していたよりもずっと若く、女子大生のような雰囲気を纏わせている。まさか、と一瞬思いかけたが、この時間、この家に来訪する予定の女性などひとりしかいないのだ。
「そうです。――堀川美香さん?」
山内に引き合わされる予定の看護婦である。予想通り、彼女は小さく微笑んだあと頷いて見せた。
「ようこそ。……山内さんはご一緒じゃないんですか?」
精一杯余所行きの顔を見せる努力はするが、元々人付き合いは得手ではない。化けの皮が剥がれるのも時間の問題だと己に諦めを抱きつつ、恭一は精一杯紳士的に振る舞った。仕事上の付き合いになる女の扱いが一番に厄介だ。
「そこまでは一緒だったんです。でも、他の先生のところへ回るから、また後で伺いますって」
「そうですか。――すみません、汚いところだけど適当に座っといてください」
人付き合いは得手ではないが、初対面の人間と二人きりで話すことはもっと得意ではない。勝手に姿を消した山内を呪いながら、恭一は二人分の珈琲を淹れた。
看護婦という堅苦しい職業から、もっと地味な女性を想像していたが、全くの見当違いだった。軽く伸ばされた髪は明るい色で、艶やかに潤った唇は女性らしい。付け爪だろうが、指先には華やかなネイルアートが施されていた。外見からはナースという神聖な職業をしているとはとても思えないが、話し方や視線はしっかりとしている。職場での顔とプライベートの顔を使い分けているのだろうと、何となく好感を持った。
堀川美香は断りを置いてから椅子に座り、前に置かれたカップを両手で掬い上げると首を傾げた。
「それで、私は何をお話したら……」
「ああ、適当に――」
というわけにもまさか行くまい。しかし生まれてこの方、場所の取材はしても人に対しての取材やインタヴューは行ったことがないのだ。思わず頭を抱えそうになる。
「……あの、楠田先生?」
「……悪ィ。実は俺、取材とかしたことなくてな。山内さんがいりゃあ何訊けばいいかアドバイスしてくれるんだろうが、ひとりだとさっぱり判んねえ。何訊けばいいんだろうな」
小説を書くと言っても、まだプロットを打ち出す前の段階である。病院を題材にすると言っても、こんな話はどうだろうかと山内に提案をしただけで、勝手に彼が乗り気になってしまった節があるのだ。今回は全く、間が悪い。
「……おかしな人」
しかし美香は呆れもせず、おかしそうに声を立てて笑った。恐らく三つや四つは年下であろう女性にこうも笑われてしまっては面目がない。
「取材というほどきちんとしたことがお答えできるか判らないので、適当になんでも訊いてください」
気を取り直し、恭一は思いつく限りに必要と思われる箇所を訪ねた。美香が現在所属しているのは外科らしいが、その前は救急医療スタッフをしていたらしい。よくテレビでやってるような激しいアレだろうか、と尋ねると、美香はやはり笑いながら頷いた。
それから幾つか病院の組織的なシステムに関しての確認を取り、症状に関しての処置法や対応を尋ねたころには、美香は概ねのストーリーを解していた。
「――ああ、患者さんが主人公になるんですね。小説で病気や怪我を扱うのは難しいでしょう?」
「自分が病気知らずだからな」
美香は笑い、それから恭一の手元に置かれたメモに視線を落とす。
「本当に……難しい問題です。特に、脳死状態を「死」と認めることのできない遺族の方が多いんです。身体にはまだぬくもりが残っていますから」
リビングウィル――患者が受けている治療行為に対し、患者自身が判断を下せなくなった場合を想定して、延命措置に対する要望を予め意思表示する文章である。要はこれが今回の大きなテーマとなり、故に医療従事者の話が必要不可欠であった。
「あんたの考えを聞いてもいいか?」
「死を定義することは難しいです」
「死は死だろ」
「ええ。でも、脳は死んでいるけど身体は生きている。もしくは人工的に呼吸を、血液を送ってさえいれば生きられる。その状態は本当に「死」でしょうか」
「――脳死は「死」だ。後者は……難しいな」
美香は微笑み、恭一の言葉を肯定も否定もしなかった。明言を避けているのだろう。自然に生きていけなくなった時点で人間は死を迎えるべきだと言ったのは、誰だったか。――誰の言葉だったか。
「失礼ですが、楠田先生のお母さんは交通事故で亡くなられたと聞きました」
「ああ、山内さんから聞いたのか?」
「はい。――もしも、です。気分を悪くしないでくださいね。そのとき、お母さんがもしも脳死状態になられていたら、先生はそれを「死」と認められますか?」
「そりゃあ、認め……」
答えかけ、ふいに言葉を失う。あのとき、自分が母親の死に対して何を考えたかを思い出す。――無様でもいい。しがみつくようにでもいいから、生きていてほしかった。
「……られねェ、かもな」
心臓が動く、頬に色が差す、掌が温かい。それをどうして死と認められようか。……生きていてほしい。生きていてほしかった。
「自分に対しては、延命措置を求めず尊厳死を希望する人が多いんです。だけどそれが恋人や家族となると、いくら本人が尊厳死を求めていても納得できないことが多いと思うんです。――心が」
「……よくわかった。ありがとう」
頷き、恭一はペンを置く。今回の連載は、山内に是非にとせがまれて請け負った感のある仕事である。連載する予定の雑誌は堅苦しい文芸誌だ。勿論そう言った雑誌も好んで読んではいるが、官能小説しか好調に売れていない自分に対し、山内が何を求めようとしているのか皆目見当もついていない。正直に言えばまだ構想も纏まってはいない。依頼さえくれば何でも遣って退けるつもりではあるが、こんな状態で果たして仕事を受けていいものかと疑問を抱き始めたころ、美香が思い出したように口を開いた。
「そういえば――事故で脳内出血を起こしたっていう女の子がいたんです。……ああ、こういう雑談は無駄な話にしかなりませんね」
「いや、構わねえよ。話してくれ」
「――交通事故を起こしたときは確か八歳で、彼女は生死を彷徨ったんですが、そのときは奇跡的に助かったそうです。それから何の障害もなく四年間を過ごしていたんですが、ある日とつぜんてんかんを起こして、救命センターに運ばれてきました」
どんな雑談でも有り難いからと話を促した恭一に、美香は小さく微笑んでから続ける。
「十二歳でした。私立中学の合格発表から帰る途中で、……彼女の制服のポケットに受験番号が書かれた紙が入れられていました。見つけたのは、私でした。彼女、合格していたそうです。……その帰り道に、突然癲癇を起こして、意識不明の重体に陥ったんです」
「――助かったのか」
美香はゆっくりと首を振った。
「運ばれてきたときにはもう手遅れで、彼女は脳死――いわゆる植物人間状態に陥りました」
手遅れ――厭な言葉だと、恭一はそっと顔を顰める。あのときもそうだった。自分が駆けつけたときには、もう、何もかもが手遅れだった。
「……ご家族の方が、彼女の財布の中から意思表示のカードを見つけました。脳死判定後にも、心臓停止後にも、全ての臓器を提供すると。そして余白に、かわいい字で、小さく書かれていました。――「使えるものは、なんでも、ぜんぶ使ってください」と」
恐らく、少女が書き記したものなのだろう。たった十二の幼い命が書き残した、強い意志だ。カードは十五歳以上から有効とされ、脳死判定後の処置は結局両親の判断に委ねられたことを前置きし、美香は続けた。
「……まだ、十二歳だったんです。十二歳って、自分のことで精一杯の時期でしょう。それなのに、そんなふうに……「もしも」のことを考えていて、使えるものはなんでもぜんぶ、なんて……どうして言えたんでしょうね」
十二歳、と指を折って数えてみる。たったの十二年、自分の半分も生きていない。十二の自分を思い出そうとしても、記憶は上手く甦らなかった。恐らく、何もかも自分を中心に生きていた、小さな世界に生きていた。まだ、それが許される年齢だった。
「……カードを見つけた瞬間、涙が止まらなくなりました」
美香はゆっくりと言葉を紡ぎ、噛み締めるように、細く呟いた。
「十二歳だったんです。たったの」
悲しいと、彼女は言った。
「多分、とても素晴らしいことなんです。そういうふうに、幼いときから他人のことを思い遣れるやさしさを持っていることは、すごく素晴らしいことなんでしょう。色んなことを考えられることも。――…だけど、それは、悲しい」
結局最後まで山内は姿を見せず、ほんの十分ほど前に入れられた連絡によると、他の作家の原稿待ちで今日は恭一宅には行けそうにない、ということだった。今日中に掻き集めなければならない原稿でもあったのだろう。どちらにしろ、彼に罪はない。
「今日はありがとう、参考になった。――あぁ、依頼料っていうのか、インタビュー料っていうのはどうなってんのか俺は知らねえんだが、山内さん経由かな」
「いえ、そんなのは頂けません。友達のお兄さんからのお願いですし、取材というほど堅苦しいものじゃないって聞いてましたから。だけど今度、サイン頂けますか?」
「……質屋に入れても二束三文にもならねぇと思うが、それでいいんなら」
何しろ普段はエロ小説家だからなあ、と頭を掻いてぼやいた恭一に、美香は声を立てて笑った。玄関に華やかな笑い声が散る。この家に女性の笑い声が響いたのはどれくらいぶりかと思うと、思わず苦笑が零れた。既に、この家を慈しんだ女はいない。
「送って行こうか?」
「先生、お忙しいんでしょう? 平気です。タクシーを使っても山内さんがお金出してくれますから」
冗談のように可愛らしく笑ってみせた美香に笑い返し、恭一は玄関を開けた。家の前まで見送ることくらいはするべきだろう。美香を送り出そうとした瞬間、丁度玄関先に佇んでいた影に気付き、恭一は動きを止めた。
「由成……」
いつからいたのだろう。美香に気を奪われて、まさか誰かが訪れているとは思いもしなかった。一年ぶり、いやもっとか――久方ぶりに見た弟は、年相応の成長を遂げた男の顔で「久し振り」と小さく笑った。背はまた伸びた。けれど変わらない笑い方は、恭一の胸を不愉快に揺さぶる。
「……おまえ、いつから?」
「ついさっき。――ごめん、忙しかった?」
「いや、……」
そうでもない、と首を振り、恭一は怪訝そうな顔をしている美香を振り返った。少し迷ってから、「弟」と適当に説明する。
「ああ、弟さんがいらしたんですね。――お邪魔しました」
美香は由成に向き直ると小さく微笑んだ。それから恭一へ視線を持っていき、「それじゃあまた。御本楽しみにしています」と丁寧に頭を下げると去って行く。世辞も忘れない。全く出来た娘だと感心する恭一を余所に、由成がそっと口を開く。
「綺麗な人だね」
「あぁ? ……あー、そうだな」
「あんたが好きそうな顔をしてる」
玄関に背を向け、家へ上がり込もうとしていた恭一は思わず足を滑らせかける。言うに事欠いてそれはない。
「……なんでてめェが俺の女の好み知ってやがんだ」
「あんたが昔付き合ってた人たちに似てるなって思っただけだ。……これ、お土産」
そこまで自分の好みは統一していただろうかと悩みかけ、我に返る。「馬鹿なこと言ってんじゃねえ、」と一応釘を刺してから差し出された紙袋を受け取り、リビングへ入った。ぱっと見は菓子のようだが、そもそも海外の土産にあまり期待は出来ないだろう。試す以前に味覚が合わないと思うのは、外国に馴染みのない偏見かもしれない。
「わざわざ土産なんて買ってくんなよ。遊びに行ってたわけじゃねえんだろ。そもそも俺は餞別もやってねぇのに」
「――うん」
餞別をやろうにも、留学することすら知らなかったのだから。――無意識に突いて出た己の言葉にひやりとする。まさか、そんな非難じみた響きが、今の言葉に篭っていなければいい。
由成は曖昧に頷いて見せ、リビングに置いたソファに腰を下ろす。この家に由成がすることに、どうしようもない違和感を感じた。もう彼がこの家の住人ではなくなってから、二年以上の月日が流れている。以前なら、彼がわざわざ手土産を持って訪れるのは理由をつけただけだと考えただろう。互いに変化のなかった、ずっとずっと、以前なら。
「さっきの人は?」
「看護婦」
「……看護婦さんと付き合ってるのか」
「そりゃいいな」
同じように向かいに置いたソファに腰を下ろして、由成に「お帰り」さえも言っていないことに気付く。当たり前に言えた言葉を、当たり前に忘れそうになっていた。
「許婚とかいうのがいるんだろ。こんなとこふらふらしといていいのか」
紙袋の中を漁る振りをして、恭一は努めて軽い口調で告げた。今、きちんと、話せているか。声は震えずに。
「雄高さんから聞いたの?」
「今朝な」
「……相変わらずだね」
予想していたことだったのか、由成はおかしそうに笑って見せた。相変わらずと笑われても、三十年間この付き合い方をしてきたのだから、今更変わりようもない。
「許婚って言っても俺はまだ学生だから、ちゃんとした式を挙げるのはずっと先の話だ。籍は……早めに入れようと思うけど」
「いつ決まった?」
「お見合いしたのは俺が帰国したばかりのころだったから、……先月かな」
「見合い? ……おまえ、そんなもんさせられてんのか」
由成は何も言わず、静かに笑った。二十歳ちょっとで見合いをさせるなど、あの親父は一体何を考えているんだと頭を抱えたくなる。もしも自分がその話を知っていれば、賛成などできなかっただろう。――しかし、賛成できないと思ったとして、それを口に出来ていたかは別の問題だ。
「すごくいい人なんだ。父さんも……それから宗司さんも勧めてくれたから」
どういう了見でそれを勧めたのかは、深く考えなくても答えが出る。利害関係の絡んだ見合いに違いはないのだろう。あの家は昔から変わらない。そうやって続いてきた。
「今、その人、家にいて……」
「楠田に? ――まだ先の話だってのに同居か」
「そういうものらしい。婚約したときから女の人は楠田の家に住むんだって。父さんの場合はもっと若いときから婚約者がいて、その人と兄妹みたいに育ったって言ってた。だけどその人とは結婚する前に死別して、それから椛さんと会って、――その何年後かに母さんとの結婚が決まったんだって」
「へえ……」
そりゃあ知らなかった、と恭一は興味深そうに頷いて見せ、煙草の箱を引き寄せる。楠田特有の決まりごとなどには興味はなかったし、もちろん母親と父親の馴れ初めなど聞いた覚えもない。恭一が知っているのは、父と由成の母、貴美子が愛情で結ばれているわけではなかったということだけだ。
「親父も考えてみりゃ不幸な人間だな。女に三人も先立たれてよ――」
――そりゃあ、人間はいつか死ぬもんだ。
唐突に訪れるものもあれば、カウントダウンが許されるものも、奪われるものも、形は様々でも、いつかは必ずそれを迎える。それが人間の業だ。死を迎える準備をする者も、しない者もいるだろう。
「兄さん」
だけど、と思う。だけど、死に様くらいは選びたいものだ。できるだけ悲しみのない、幸福な最期を迎えたって――いいじゃないか。それくらい、懸命に生きてきたあの人には許されたはずだ。
「あなたに、紹介したい人がいる。いつか、……会ってくれないか」
――死に方くらいは。
許されたって、いいじゃないか。
改まった由成の声に、恭一は笑った。
「……ああ、いつかな」
彼の幸福が己の幸福であると信じてしまった、だから恭一は笑ってやることもできた。全ては自分で決めたことだ。自分と、そして彼とが選び取った結末だ。
これから由成は、自分の知らない女と幸福になる。きっとそうなるはずだし、ならなければならない。彼は幸福になる義務がある。
「メシ、食っていくか」
「――いいの」
「いいも悪いもあるか。テメエが準備するんだからよ」
由成は笑う。応えて、恭一も同じように笑った。
何を悲しむことがあるだろうと、泣きたいような気持ちで思う。
いつか母親が口ずさんでいた唄が、ふいに頭を過ぎった。
やさしすぎて吐き気のする、甘すぎて耳障りなだけの、あの唄が。
未来は容易く、選んだ結末に辿り着く。
時の流れが、ただひたすらに悲しかった。
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