おわりがきたら-in the lost story-U




 この玄関にも、最初は馴染むことができなかった。ここが己の帰る家なのだと思い込めたのはいつからだろう。帰国後この玄関を潜り、ああ帰ってきた、と思 えた瞬間は本当に嬉しかった。自分はもうとっくに、楠田という家を構成するひとりになれていたのだと安堵した。
 戸を開けてすぐ、すぐに足音が聞こえてくる。多分、家政婦のものだろう。
 楠田は異色だと、あの人は何度も言った。彼自身が十五という歳まで関わることがなかったせいで客観的に述べられた言葉でもあるし、半分は嫌悪と反発心か ら出た言葉でもある。人間の心は難しい。すべての言動も行動も、決してひとつのみの感情で動いてはいないからだ。
「お帰りなさい、由成さん」
 予想通り出迎えたのは、付き合いの長い家政婦だった。自然と口元が綻んでしまうのは、彼女のふくよかな全身から滲み出る人の好さのせいだ。
「ただいま、富美さん。――瑞佳さんは?」
「中でお待ちですよ。お食事はどうしますか?」
「今日は兄さんのところで食べてきたから」
 富美は「あら、それは結構なことです」と笑って言った。恭一も彼女には随分世話になっている。彼女にしてみれば手のかかる息子同然なのだろう。そして、 自分も。喋りもせず表情も動かさない、可愛げのない子どもの世話をしてくれていたのは、やはり彼女だった。いつか面と向かって、彼女にもありがとうと告げ られる日がくればいい、と思う。時間は無限ではない、だから遠くはない将来に、きっと。
「瑞佳さんはお食事はまだなんですよ」
「――部屋に運んであげてください。俺もあとで行きます」
「そうしてあげてください。お独りでの食事は味気ないでしょうから」
 由成を出迎えたときと同じく足音を立てながら富美は去っていく。この屋敷で生活するうちに、この足音にも聞き慣れてしまった。なくなれば、きっと寂しい と思うのだろう。あって当然なものほど、突然失ったときに感じる悲しみは、例えようがないほどに大きなものなのだ。


 楠田家には、幾つかの空き部屋もある。富美のような住みこみの家人が住まう一角もあれば、由成や父の庸介が住まう一角があり、それから来客を迎えるための部屋もある。多さに、部屋のひとつひとつを全てを回っていれば、きっと日が暮れてしまう。
 つい最近から使い始められた部屋は、中でもいっそう静かな、喧騒の聞こえてこない位置にある。その部屋の前に立った由成は、廊下からそっと声を投げた。
「瑞佳さん? 俺です」
「……どうぞ」
 声に許され、そっと襖を開く。この部屋の主である瑞佳は丁度布団から身を起こしているところで、視界に由成を認めた途端、華が咲くように笑った。
「寝ていたんですか」
「だって何もすることがないから。家事のお手伝いしようとしたのに、富美さんに止められてしまって」
 年齢で言えば、彼女は由成よりも二つ上になる。歳相応の落ち着きを見せる瑞佳は、しかし儚げな風情をした美しい女性だった。
「……退屈?」
「ええ。みんなが思うほどの重病人じゃないですもの」
 とはいえ、見たままで言えば瑞佳は線の細い華奢な女だ。透けるような肌が病弱そうに見えるのも無理はなく、周囲が過度の心配をするのも当然のことだった。
「退屈なら、今度旅行でもしましょう。身体に障らない程度に」
「お忙しいのに……」
 瑞佳は鈴のように軽やかな笑い声を上げる。無理なことを、と言外に告げているのだ。
 正式に引き合わされてからは、まだ一ヶ月ほどしか経っていないが、父に連れられて行った先で以前から顔を見かけることはあり、何度か軽く会話を交わした ことはあった。初めて見たときは、その容貌があまりにも美しすぎて、作り物のようだと思ったものだ。白すぎる肌の色も、黒めがちの瞳も、しなやかな黒髪 も、まるで高価な日本人形のようだった。何度か会話を交わすうち、ひどく聡明な女性だということも容易く知れた。それでいて、他人を引き立てることを心得 てもいる。彼女には良家の娘という言葉がぴったりと当て嵌まった。そのときから何かと気にかかる女性ではあったが、半ば強引に見合いをさせられ、何度か逢 瀬を重ねるうちに、由成は彼女が最近体調を崩し始めていることを打ち明けられた。それを理由に、この話をなかったことにして構わないと。
 ――どうぞ由成さんから今回の話はお断りください。父は破談を残念がるでしょうが……。
 確かに乗り気なのは、瑞佳の実家――柏木家の方だった。どんな利害関係が絡もうと、誰が得をしようと、由成は瑞佳の語る言葉のひとつひとつに驚愕し、悲しいと思った。その身に背負ったものを、彼女は笑いながら話すのだ。うつくしく、微笑みながら。
 ――由成さんがどれほど素晴らしい人なのか、私にはよく判りました。だからこそ、私のような者は添うに能わない。
 彼女の微笑みを美しいと感じたこと、悲しいと感じたこと、愛しいと感じたこと。それら全てを総合して、由成は決意した。
 ――どうぞ、なかったことにしてください。
 ――…できません。
 独りで背負い切る荷物であれば、告げはしなかった。仮にも人の一生に関わる話である。しかしはそうではないと、瞬時に悟ったからこその決意だった。
 ――俺はあなたを楠田に迎えます。
 そして共に、また自分の胸に澱が沈む。
 あなたを必ず救うなどと、どの口が言えるだろうか……。
「――由成さん?」
 ふいに瑞佳の声に引き戻される。うっかり考え込んでいた自分に笑いかけながら、瑞佳は運ばれたお椀の中身を蓮華で掬い上げていた。
「怖い顔、」
「……すみません」
「今日は、お兄様にお会いにいかれたんでしょう」
 薄味の粥と、添えられた白身魚と野菜だけでも、最近食欲のない瑞佳には丁度いいようだ。「もう少ししたら食欲も出てくるでしょう、」と笑って言っているが、この女ががつがつと物を食す姿はどうしても想像できない。
「だからお疲れなんですね。お兄様とお会いしたのは、どれくらいぶり?」
「一年と……もう少しかな。留学する前から、もう会っていなかったから」
「喜ばれたでしょう」
「……どうでしょうか」
 ほんの少しの苦笑で答えると、やはり瑞佳は微笑みを返した。
「喜ばれたはずです。家族が訪ねてきて、喜ばない人はいません」
「――あなたも、」
 滑るように突いて出た言葉は、もはや飲み込むこともできず、流れるように問いかけを続けていた。
「あなたも、ですか。……ここにお父様がお見舞いにいらしたら、あなたは喜ばれるのでしょうか」
「さあ……」
 綺麗に片付けた皿を重ね、瑞佳は丁寧な仕草で手を合わせる。そうして顔を上げ、唇を緩く綻ばせた。
「喜ぶ――のかもしれませんね。最初は疑うでしょう。……でも、人の心は、ひとつではありませんから」
 瑞佳の口癖である。人の心は決してひとつではない。確かにその通りだ。あらゆる感情が混ざり合い、より複雑な感情が形成されることもあるのだから。
「さっき、あなたのことを考えていました」
「私が食事をしていたときにですか?」
「はい。すみません」
 瑞佳はおかしそうに目を細め、話の先を促す。
「俺の母は、恐らく生涯を通せば幸せではありませんでした。楠田に縛られて、いつもいつも足掻いているように俺には見えた。――俺は、そんな母が悲しかった」
 若いうちから自由な恋愛も許されず、強制的に添うことを決められた相手と支え合うことも出来ず、最期は病魔に蝕まれて逝った。きっと、若すぎる死だったのだと思う。
「あなたは楠田という家と結婚するわけではないけれど、俺を伴侶にするということは、楠田に縛られるということを意味している。……それはいつか、あなたを苦しめはしないでしょうか」
 胸のうちに澱が落ちる。ひとつ、ふたつ。減ることもなく、消えることもない。増えることしかしない、暗く痛みを持つ澱が。
 この先、この女に新しい苦しみを与える原因に、きっと自分はなっていく。
「有難うございます」
 しかし瑞佳の笑みには、何の翳りも感じられなかった。
「お母様は、逝くときも幸せではなかったのでしょうか」
「――俺には、判りません」
 由成はゆっくりと首を振った。死んでしまった者の気持ちなど、推し量ることもできない。
「由成さんは、泣かれましたか」
「泣きました」
 母が逝ったのは、もう二年以上も前になる。春だった。大学に上がったばかりの頃で、慣れない生活に四苦八苦しながらも暇を見て見舞いに行くと、彼女は決まって嬉しそうに笑ってくれて――
「ならば、幸せだったのでしょう」
 美しく笑う人だと思っていた。焦がれて焦がれて焦がれ続けていた幼い日、その笑みがどうか自分に向けられていればと、どれほど祈っただろう。
 ――笑って。……母さん、笑って。
 どれほど願っただろう。
「本当にそうなら……」
 よかったのに、と続けようとした声は、苦しさに奪われる。
 漸くその笑顔が向けられ始めた途端、母は逝ってしまった。一度でいい。言えたらよかった。産んでくれてありがとうと。――時は無限ではないと、由成は思う。だからあの頃、母という人に、たったの一度でも、言えたならよかった。
「最期に幸福に逝けるのなら、私は何にでも耐えてみせます。最期にあなたが見送ってくれるなら。あなたや、私が愛したものに見送られるなら――」
 産んでくれてありがとう、おかげでたくさんのことを知れた、たくさんのものを与えられた。母に、たった一度でも、伝えられていたら。
「お母様は、きっと幸福でした。あなたという人が息子だったことが、お母様はどれほどに嬉しかったことでしょう。――私は、あなたのような人に、この子を育てたい」
 瑞佳は、己の腹にそっと手をやった。まだ何の膨らみも見せない、そこに。
「あなたのためになるなら、私は「楠田」の良き妻も演じてみせます。それが私のため、――この子のため」
 瑞佳は強く微笑んだ。
 優しく、また強烈に鮮明な、美しい笑みだった。



 予め電話で約束を取り付け、その数時間後に訪れた由成が「お土産、」と手渡した箱を、工藤敦は大仰に喜んだ。本当はもっと早く渡したかったのに中々都合が合わず、夏休み中だったこともあって、帰国後の再会までに一ヶ月以上もの時間が過ぎてしまっていた。
「いいなあ、俺パスポートも持ってねえもん。外国なんて夢のまた夢だっての」
「敦は一生日本から出ないんじゃなかったのか」
「――何年前の話だよそれ」
 恨めしげに上目遣いで睨んでくる工藤の視線を、由成は「さあ、」と笑ってかわした。中学時代から付き合いが続いている工藤敦は、英語という教科がとにか く苦手で、事あるごとに「俺は一生日本から出ない」と豪語していた時期があった。多分あれから、二年以上は経っている。
「そんで、英語とかペラペラ喋れるようになったの?」
「たった一年でいきなり上達はしないよ。留学する前から勉強してたから、それを加えて……日常生活には困らない程度かな。専門的な話になるとちょっと辛い」
「俺にしてみりゃそれだけですごいよ、充分だよ」
 溜息を吐くように言い、工藤はギシリと椅子を鳴らした。由成はクッションを敷いた床の上に腰を下ろし、彼を見上げている。この位置で彼と会話するのは一 年ぶりであるにも関わらず、感動は感じられない。こんなものだろう、と由成は思う。どれほど離れていても、時間を感じさせない友人がいることは、きっとこ の上ない幸福だ。
「でもさ、おまえが専門的な研究? つか、技術とか勉強してもあんま意味ないんじゃねーの。だって行く行くはシャチョーさんなんだろ?」
「社長っていうか……」
 僅かな苦笑で応えつつ、由成は言葉を濁らせた。楠田は所謂グループ企業で、経営事業は多岐に渡っている。今現在、その中枢の頂点に立つのが父、庸介だ。
「違うの? おまえの親父さんが一番偉いんじゃねーの? で、その後継ぐおまえも一番偉くなるんじゃねーの?」
「偉いっていうか……偉いのかな。でも父さんの行動を見張ってる人もいるから、多分敦が思うほど自由なものじゃないし、偉くもないよ」
 答えながら、多分、と由成は考える。勿論そういう意味でも後継ぎも重要ではあるのだろう。しかしそれ以上に保存したがっているのは、楠田という「家」だということを、由成は朧げに理解しつつあった。
「――うん。偉くは、ないんだろうね」
 当主でありながら、庸介はいつも何かに操られているような気がしてならない。人格が、という意味ではない。行動や生き様が、何かに縛られているように思えてならないのだ。それは自分が、楠田という家の中では異色であるからこそ思うことなのだろうか。
「俺はさあ、おまえはシャチョーとかじゃなくて、そういう研究とかのが合ってるんじゃないかと思うんだよ。そういう仕事ねーの?」
「あるよ。たくさん。開発部門とか、研究所とか」
「じゃあそこに配属してもらえよ。シャチョーの息子なんだからそんくらい融通利くだろ」
 軽く言ってのけた工藤に、由成は思わず額を押さえかける。彼の言う通り、望みさえすれば融通は利くかもしれないが、気は進まない。
 気の置けない友人と他愛のない会話を交わすこの時間は、以前の自分に戻れるような気がした。遠慮なく笑ったり、何の考えもなく言葉を選ぶ。楽しい会話だけを続けられる。そんな時間にだけ、由成は誰にも話せない本心を吐露することができた。
「俺も、本当は……研究がしたいと思う。そういう方向で父さんの手助けが出来たらって思ってる。父さんは多分、それを判ってくれていると思うんだ。だから留学も許してくれた。――だけど、難しい」
 唯一の我侭だった。
 いつしか、技術を学ぶこと、研究に没頭することに情熱を見出した由成は、叶わないと知りながらも、父に頭を下げた。父は「知識が増えるのはいいことだ」と笑って送り出してくれたけれど、学んだ知識や由成自身の技術が発揮される日は、恐らく来ない。
「どうしても駄目?」
「どうしてもってことはないんだろうけど……駄目だよ。俺は父さんの息子だから」
 留学していた一年間は、心底充実していた。
 同じテーマを研究する友人ができ、日々研究に明け暮れ、高名な教授から直接指導を受けたこともあった。毎日が忙しく、めまぐるしく過ぎてゆき、あっとい う間に過ぎた一年間、日本に置いてきたものたちに思いを馳せる余裕もなかった。或いは、そうであるように、自らを酷使していたのかもしれない。
 ――あの人は、どうしているだろうか。
 思うことを、由成は自分に許さなかった。
「もう、恭一さんには会ってきたのか?」
「会ってきたよ。一昨日だったかな、元気そうだった」
 そっか、と頷くと、工藤はそれ以上は何も言わなかった。
「敦」
「ん?」
「俺、結婚するんだ」
 いつか、告げよう、告げようと思っていた。告げた瞬間、きっと彼は驚いて目を見張るだろう。これ以上ないくらいに驚いた顔を見せて、それからきっとこう言うはずだ。
「……おまえ、何考えてんの?」
 予想通りの言葉を予想通りの表情で呟いた工藤に、思わず笑ってしまう。全く彼は期待を外すことをしない。
「いや笑ってんなって。笑い事じゃないって」
「先月、お見合いしたって電話で話しただろ?」
 ああ、と思い出したように工藤は頷いて見せる。留学する前からちらほらと話が舞い込んでいた由成にしてみれば二度目になる見合いで、そのときは「またか」とお互い笑っているだけだった。
「……その人と結婚、決まったの?」
「うん。今度、敦にも紹介する。すごく綺麗な人だよ」
「何おまえ無理して……」
「無理なんかしてないよ。俺が決めたことなんだ」
 いい人だよ――恭一に告げたときと、同じ言葉を口にする。あのときは、きっと上手く笑えていた。
「おまえ、おかしいよ……」
 工藤はどこか苛立たしげな表情で頭を掻き、呻くように言った。
「……さっきおまえと会ってさ、ああやっぱ変わってないと思って、俺すげえ嬉しかったんだよ。おまえは、どんなとこにいたってぜったいに変わらない。そういうやつなんだって、すげえ嬉しかったのに……ああもう、本気で何考えてんだよ」
「……俺は――変わったのか」
 変わっていないのは、おまえのほうだ。由成はほんの僅かに自然な笑みを作る。留学を希望したとき、彼は自分のことのように応援してくれた。英語が苦手な くせに、勉強にも付き合ってくれた。変わらないものは、自分のすぐ傍にある。それがどんなに嬉しかっただろう。敦だけは変わらず自分を迎えてくれる。笑っ て、叱って、昔と同じように話を聞いてくれる。それが、どんなに。
「――おまえ、恭一さんの前でも無理してんのか」
 ふいに、今までにない真摯な声で、工藤が呟きを投げかけた。
「おまえがちゃんとおまえらしいときって、もう俺の前以外じゃないんじゃねえのか。違うのか、おまえちゃんと、恭一さんの前で、……結婚するって人の前で笑えてんのか!」
 工藤はまるで叩きつけるように語尾を荒げる。怒られているのだろう、と思うと、なぜか嬉しくなった。彼は判っていないようで、様々なことを理解している。見られていないはずだと由成が思っていることでも、その実彼は鋭く見抜いているのだ。
「俺は、あの人のためになら死んでもいいって思ったんだ」
 だからこそ、同じく真っ直ぐに工藤を見据え、由成は言葉を返す。
「――死んでも、あの人を守りたいと思った。だからきっと、俺はあの人を……瑞佳さんを、大切にする。俺にできるかぎり、彼女を幸せにする」
 何一つ偽りはない。全ては由成の感情で、決意だった。
「じゃあ、……じゃあ、恭一さんは何なんだよ。おまえにとって恭一さんは何だったんだよ……」
「俺は、恭さんのためには死ねない」
 選んで、真っ直ぐに告げた言葉にも、工藤は訝しげに眉を潜めた。理解できないと、その表情が告げている。彼はどんな存在だったのか、その問い掛けに対する答えなら、もう随分前から持ち合わせていた。
「恭さんは、一緒に生きる人だ。一緒に生きていけたらいいと思ってた」
 本当は、今でも夢に見る。
 一緒に生きていけないか、叶わないか、叶わないのなら、全てをなかったことにして、収まるべきところへ還るしかない。あの人は兄に、自分は弟に。あの人 に憎しみが残っているのなら、その関係すら壊してしまってもいい。けれど自分は知っている。彼は憎しみと共に、捨て切れない愛情も抱き続けている、情深い 人なのだと。
「だから、恭さんのためには死なない。俺は、恭さんのために生きる。……俺にとってあの人は、そういう人だ」
 もしも自分が死ねば、恭一は悲しむだろう。反面、愛した母親を死に至らしめた由成の死を喜ぶこともするかもしれない。僅かにでも、報いを受けたと思うことが、あるかもしれない。そして彼は悲喜に苦しむのだ。だから生きる。憎んでも、いいよ。嫌ってもいいよ。
 俺はちゃんとここで息をしているから、憎んで憎んで、憎み切っていい。
 ――最早この命は、あなたと、あの人のためにある。
「……なんで、一緒にいられねえんだよ」
 泣きそうな声で、工藤が低く呟いた。
 どうしてだろう。
 言えるはずがない。
 自分のために必死に過去を忘れようとしているあの人に。
 向けられて当然の憎しみを、殺そうとしているあの人に。
「……もう、愛してるなんて、言えない」
 そしてそれは己の罪悪感から目を背けるに等しいということも、知っていた。



「あれは紅葉の木でしょうか」
 夜風を身に受けながら瑞佳が視線を遣った先には、庭に埋められた見事な大木があった。瑞佳の言う通り、紅葉――カエデである。
「あと一月もすれば、紅葉が始まると思います」
 葉が作る赤色絨毯。色付く。あの人の名と同じ木が、美しく色付く。
「秋が楽しみですね」
 瑞佳は罪なく笑う。由成にとってそれがどんな意味を持っているかを知りもせずに。もう、その季節は強い。野分に耐え、逞しくも生き残った木が鮮やかに彩られる季節が。
「――はい」
 時間が過ぎ、季節が移ろい、歳を取る。その中に甦るものがあった。今まで忘れていたことが、思い出さなかったことが不思議なくらいに、鮮烈に胸を締め付ける。苦しい記憶が今も尚、この心臓を痛め付ける。
「俺は……赤があまり、好きじゃありませんでした」
「どうして?」
「血の色だから、かな」
 思いがけない言葉だったのだろうか、瑞佳は僅かに目を丸め、それからおかしそうに声を上げて笑った。
「そういえば、女性よりも男性のほうが血に弱い人が多いんですって。信じてなかったけど、案外、本当のことなのかもしれませんね」
「女性のほうが逞しいのは確かだと思います」
 笑いながらも、脳裏に浮かぶのは鮮やかな一面の赤だった。
 赤く染まった腕を向けて、名を呼ばれた。――由成君。大丈夫だからね。泣かないでね。細い声だったのに、あんなにも力強く鼓膜を震わせたのは何故だろう。赤い、赤い、……――あのとき、俺は、泣いていた?
「由成さん?」
 ふいにフラッシュバックした記憶に意識を奪われた由成を、瑞佳が見上げる。少しだけ無理をして、由成は微笑んだ。
 いつかこの人に、罪の話をしよう。
 自分が奪ったものの話を、愛したものの話を、それでもまだ見る夢の話を、懺悔の季節が始まる前に。





  


20040904

NAZUNA YUSA