おわりがきたら-in the lost story-V



 その日は、朝から風が強かった。
 気を抜けば瞼を閉じてしまいそうになるほど強烈な風に、台風が日本列島に接近していると天気予報が告げていたことを思い出す。季節が秋に近付きすぎている、時期外れの台風だった。
 雨は降るだろうか――佇んだ玄関先で、軽く空を見上げる。どんよりと曇った空は、この胸のうちを映し出しているかのようだ。
 理由をつけてずらかろうと思っていた祝賀会を、父親からの再三の説得に負け、先日とうとう頷いてしまったことにこの心の重みは関係している。内心舌打ちを打ちたい気分を堪え、覚悟を決めた恭一は、ジーンズにシャツといういかにも場に相応しくない服装で門を潜り抜けた。この格好を見れば父親は顔を顰めるかもしれない、それなら儲けものとばかりに早々と退散するつもりである。
 大体、帰国後既に二ヶ月が、婚約からも同じような時間が経過しようとしている頃に、祝賀会も何もあったものではない。聞くところによれば、由成の許婚――柏木瑞佳という名だったか、その女が体調を崩しているらしく、彼女の体力が回復するまで時期を見ていたとのことらしいが、それにしてはあんまりだ。
 庭を抜け、玄関に辿り着いたころ、既に屋敷はざわめきを見せていた。親戚一同とまではいかないにしても、分家の人間も集まってくるので、招かれているのは相当な人数になる。人口密度の高さに嫌気が差し出した頃、背後から不自然に明るい声が聞こえた。
「おやおや。どこのチンピラがこの厳粛な場に紛れ込んだのかと思えば、やあ、従兄弟殿じゃないか」
「やあ従兄弟殿じゃねえよ」
 振り向かずとも声の主に見当はつく。だがしかし視線を向けないわけにはいかず、面倒臭そうに振り返った恭一の視界に、長身の男が佇んでいた。上品なスーツを纏った男は、何が嬉しいのか口元を緩めながら恭一の全身を上から下へ舐めるように眺め、にっこりと微笑んでみせる。
「うん。好い。君は変わらないね。君が来ると庸介さんから聞いたときは驚いたが、まさかそういう格好でやってくるとは。そういう期待を裏切らないところが私はとても大好きだ。ところで君、髪くらいは整えなさい。男前が泣くよ」
「おまえなんかに好かれてると思うとこっちが泣きたくなる……」
 捲し上げるように流暢に言葉を継がれ、身体中から力が抜けるような脱力感に襲われる。この男のことを、従兄弟と書いて天敵と読んでも差し支えはない。
「私は面白いだけで構わないが、さすがにその格好では庸介さんは眩暈を起こしてしまうだろうし、由成君は兄の姿が恥かしくて庭に埋まってしまうだろうね。私のスーツを貸してあげよう。さあおいで」
 眩暈を起こす父親はいいとして、庭に埋まっている由成の姿を想像しかける。我に返り、相手のペースに乗せられそうになった己に頭痛を抱きながら、恭一は地を這う低い声で呻いた。
「……宗司、そのよく喋る口は漫談にでも使いやがれ。それが世のためだ」
「君もその適度な毒舌は漫才にでも使ったほうがいいんじゃないのかな」
 間違いなく血の繋がった従兄弟であり、また現在は由成の世話役を仰せ付かっているという彼こそが、楠田宗司だった。社会での肩書きは知らないが、恐らく幹部でほどほどの権力は持ち合わせているのだろう。何しろ、由成や自分の代わりに楠田の後継者として育てられていたくらいだ。そういう点では、恭一も彼に対しては複雑な部分がある。
「さて、本当に時間がなくなってきたね。車の中に予備のスーツがあるだろう。取ってきてくれないか、孝太郎」
 宗司は後ろに控えていた男に視線をやった。気付いて、恭一も彼に視線を向ける。存在感の薄い男だが、楠田ではよく見かける顔だった。楠田の血を引いているわけではなく、恐らくは宗司に仕えている護衛の人間とでも言ったところなのだろう。適度についた筋肉と、逞しい体躯は一瞥しただけでも見て取れた。ボディガードには相応しい体格である。小さく頭を下げ、孝太郎と呼ばれた男は去っていく。それを了承と受け取ったのか、宗司は恭一の手を引き家の中へと連れ込んだ。
「おい、俺は着替えなんていらねえぞ」
「うん? 気を遣う必要などないよ。幸い体格は然程変わりはない、ああ、もしかしたら足元が少し不恰好になってしまうかもしれないね。だがそれも心配ない、ここには裁縫の得意な家人なら幾らでもいるのだから」
「そういう意味じゃ……」
 いい歳をした男が腕を引かれて歩く姿など、滑稽以外の何者でもない。強く振りほどこうとした手は、それ以上の強さで握り込まれ、結局恭一は空き部屋のひとつに放り込まれた。
「さっきも言っただろう。由成君のためだ」
 宗司は、先程とは全く違う声質でぴしりと言い放つ。緩んでいた弦がピンと張ったように、穏やかでも厳しい声音が、恭一の鼓膜を震わせた。
「誰が恥を掻くか胸に手を宛てて考えてみなさい」
 溜息を吐きたくなる。こう見えて、この男は自分の弱い部分を的確に知っているのだから、厄介なのだ。
「時間は、ちゃんとあんのか」
「君が着替えて丈を詰める時間くらいならあるさ。何、それほどきっちりと合わせる必要はない。小一時間や二時間持てばいいのだから、いざとなれば安全ピンででも留めたらいい」
「……それこそ不恰好だな」
 了承を伝える代わりに小さく笑って応えた恭一を、宗司は満足そうに見つめる。
「らしくもないことをするんじゃないよ、いい年をして」
 一刻も早く楠田から逃げ出したかった恭一の心中を見抜くように宗司は呟き、戻ってきた孝太郎からシートに包まれたスーツを受け取る。それを恭一に向かって差し出しながら、彼は再び孝太郎に視線を遣った。
「孝太郎、もう一つ頼まれてくれないか。その辺にいる器用そうな家政婦を捕まえて連れて来てくれ」
「それなら富美さんを頼む。あの人なら仕事が早い」
 孝太郎は先程と同じように頭を下げ、無言のままに去って行く。宗司を相手にしてもにこりとも微笑むことすらしない。無愛想な性質なのだろうか。
「さあ早く着替えなさい」
「いいから出てけよ」
「男同士なのだから恥じ入ることはないよ。一緒に銭湯に入った仲じゃないか。いや、あれは中々に貴重な体験だった。大衆浴場というのも悪くはない」
 感慨深そうに語る宗司に、何年前の話だと横槍を入れたいのをぐっと堪え、恭一は着替えを始めた。あれはまだ椛が存命だったころだ。何が楽しいのかは知らないが、この従兄弟は一時期は毎日のように恭一を訪ねていたものだ。
 着慣れないスーツに違和感を感じながらも腕を通していると、ふいに、宗司が呟くような声で告げた。
「当主には由成君ではなく、君を推している声もあった」
 何の話かと視線を遣ると、宗司は小さな微笑みを浮かべ、真っ直ぐにこちらを見詰めている。ふいに、不可解な感覚に胸を襲われた。
「おまえはまだ判るが、――俺が?」
「血を重んじるのは楠田の特徴だ」
「……馬鹿らしい」
「ああ、その通りだ」
 楠田にとって何よりも大事なのは「血」なのだと聞いたことがあった。つまり当主が先ず為さなければならないのは種の保存である。そしてそれを継続し、何よりも重んじる教育を受けた「子」を遺さなければならない。
「それで?」
 宗司は腕を組み、少しの間を置く。自分にはそれほど意味のある会話だとは思えず、半分ほどは聞き流しながら、珍しいことにあの従兄弟が真面目な顔をしている、と思うと可笑しくなった。
「由成君は恐らくこのまま楠田を継ぐことになるだろう。だが「血の保存」はできない。血縁的な意味での楠田は絶える。だからこそ、この後に及んでも君か私を当主に推す声があるわけだ」
 暫くの沈黙の後に語られた言葉に、恭一は笑った。馬鹿馬鹿しい、そう思えば、笑う以外にない。
「血っていうもんは、そんなに大事か」
「家とはそういうシステムなんだよ。君には判らないだろうが、自分の身体に流れる血に誇りがある」
「テメェもか」
 宗司は応えず、曖昧に微笑んだ。微笑みを継続したまま口を開く。
「君は楠田を継ぐ気はあるか」
「ねえよ」
「そうか。なら、いい。安心した」
 宗司は微笑みを返し、満足そうに頷いた。間を持たせるための雑談に選んだだけにしては、どうしてか引っかかるものがある。
「ところで君、看護婦の恋人は元気か」
 宗司との会話に含まれる意図を計り兼ね、ふいに眉を寄せ掛けると、思わぬ言葉を投げ付けられる。しっかりと顔を顰めた恭一は、その表情に不快感を露にした。
「はあ? そりゃ何の話だ」
「照れることでもないだろう。白衣の天使なんて君には勿体無いような気もするがね、君もそろそろ所帯を持っても良い歳だ。相手は幾つなんだ」
「だから何の話……」
 言いかけて、ふいに頭の隅を横切る記憶があった。確かに最近、看護を職業とする女と会ったことがある。そのときに偶然やってきた由成から聞いたとでもいうのだろうか。
「――あれは仕事上の付き合いの女だ」
「成る程。仕事上の付き合いから始まったというわけだね。よくあることだ」
 恭一の弁解にも、宗司は一向に聞く耳を持たない。いよいよ頭痛が酷くなる。あれから二度ほど美香とは会い、それに下心がなかったかと言えば嘘になる。由成の言った通り、冷静に考えてみれば美香は自分の好み通りの女だし、相手からも満更ではなさそうな反応は返ってきていた。しかしそれだけである。冷静に考えることが出来た時点で、彼女は恋愛対象ではなくなっていた。
「由成君もめでたく身を固めることが決まったのだから、君が結婚を考えていようと何ら不思議はない。従兄弟として盛大に祝わせてもらうよ」
「俺は一生所帯なんて持つつもりがねえんだよ。期待に添えなくて悪いが」
 当人を取り残して先走りすぎた感のある話である。本人にその気がないのに周囲に祝福されることなど、全くの迷惑でしかない。不機嫌な顔をして応えた恭一に、宗司が何かを言いかける前に襖が開く。孝太郎に連れられ、富美が裁縫道具を持ってやって来たのだ。
 そこで話は一度打ち切られ、簡単な寸法合わせを施される。恭一と宗司の身長差は十センチ未満で、気にしなければそれほど余りも目立たないが、富美はそれを許さなかった。苦笑混じりに、彼女の手によってスーツが手際よく縫われていくのを眺めながら、ぼんやりと考える。――由成はどんな気分で、自分と美香の話を宗司に告げたのだろう、と。



 場は既に人を集め、ざわめくような声と声とが混ざり合っていた。空いた席は殆どなく、それでもかろうじて入り口近くに誰も座っていない空席を見つける。用意された膳の前に腰を下ろしかけた恭一の手を引いたのは、他の誰でもない由成だった。
「あんたの席はここじゃないよ、こんなところにいてどうするんだ。席はちゃんと決まってるんだから、こっちに来てくれ」
「決まってるつってもな。んなこと知らねえんだからしょうがねえだろう」
「俺の隣だよ」
 由成の隣、つまりは上座である。父親、由成と並んで一番に目立つ場所に腰を落ち着けるなど、到底できたことではない。俺はどこでも構わないと首を振っても、頑ななまでに由成は許さなかった。
「これじゃあどちらが兄でどちらが弟なのか判らないな」
 既に準備をして座り込んでいた父親の揶揄にも、「うるせえ、」と鼻を鳴らし、恭一は不機嫌な面持ちで席に着く。拙いことになった。これでは本当に逃げ出すことが叶わないではないか。
 遅れて入ってきた宗司を迎え、場のざわめきが少しずつ潮を引くように収まっていく。
「おい、――由成の婚約者とかいう女はどこだよ。そいつこそこういう席に座るべきなんじゃねェのか」
 ふと気付いて隣の宗司に耳打ちすると、彼は軽く肩を竦め、
「彼女は最近、体調が良くないからね。いつでも席を立てるように出口に近い席に座ってる。ほら、あの娘だ」
 宗司が示した先に目を遣ると、確かに見慣れぬ顔の女がひとり、静かな面持ちで座り込んでいる。遠目に見ても整った顔立ちであることが見て取れる。落ち着いた深い紅色の和服は上品な面持ちをいっそう引き立てていた。
 綺麗な女だ。あの女ならきっと、由成の隣がよく似合う。――瞬間、そう思った自分に、滲むような苦さを抱く。
 透けるように白い肌は青くも見え、体調が良くないどころかとんでもなく悪いんじゃないかと心配しかけたところで、よく通る父親の声が口上を告げる。
 恭一にとっては長い、退屈な時間が始まった。


 柏木瑞佳という女は、名を呼ばれた際に一度だけ席から立ち上がり、行儀の良い姿勢で深々と一同に頭を下げた以外、一言も喋りはしなかった。年内中に籍を入れることは決まっているものの、披露宴は由成の卒業を待ってから、という事項を告げたのを最後に、父親の話は極めて事務的なものに移行される。まるで定例会議のようなそれが終わった後、各々が杯を持ち上げ、乾杯の後に料理が振る舞われた。堅苦しいのはここまでで、後は好き勝手に会話をかわし、または呑み食いするのみである。
「――どうしたね。全く進んでいないようだが」
「食ってんだろ。ちゃんと」
「いやそっちじゃなくてね」
 乾杯のときに一応持ち上げたものの、それからは一向に手をつけない恭一の盃に視線を向け、宗司は首を傾ぐ。恭一はそれに、努めて仏頂面で答えた。
「呑む気になんねぇんだよ」
「三度の飯よりも好きなんじゃなかったか、酒が」
「こんなとこで呑む酒が旨いかよ。――下手に呑んだら帰れなくなるじゃねえか」
 由成はさっきから代わる代わる人々に話し掛けられ、盃を受けながら聞き飽きるほどの祝言を浴びせられている。受け答えする言葉も表情もそつのない見事なものだが、食事や酒が進んでいないのは見るからに由成のほうだ。可哀想に、あれでは息をつく暇もないだろう。
 宗司の良く回る饒舌に耳を傾けながら料理を片付けていると、ふいに視界に瑞佳の姿が飛び込んでくる。静かに席を立った女は、誰にも気付かれることなく、そっと部屋を出て行ったのだ。いよいよ体調でも悪くなったのかと考えていると、その後を追うように一人の男が立ち上がり、同じく部屋を出て行く。男はかなりの歳で、恐らくは庸介と同年代であろうことが伺えた。
「恭一?」
「ルセェ、便所だよ」
 適当な言い訳を宗司に聞かせると、恭一はそのまま立ち上がり場を後にする。別段、何か理由があったわけでもない。ただ同じようなタイミングに席を立った人間が二人いて、そのうちの一人が由成の婚約者であったことに、多少の引っ掛かりを感じただけだ。
 庭に面した廊下に出ると、暫く視線を巡らせる。既に人気はない。広い邸内で、女の部屋がどこに位置するかも知らない恭一は、どうするべきかと頭を掻いた。後を追うにも、行く先を知る術がない。
 そのとき、強い風に乗せて微かな声が届いた気がした。押し殺したようにかわされる会話の一片にも聴こえたそれを辿り、恭一は足を進める。多分こちらの方角だと見当をつけ、歩みを進めるに連れて声が近付いた。
 切れ切れに届く会話の断片に、注意深く耳を傾ける。声の調子からして、どうやら誰かが誰かのことを責め立てているらしい。
「由成さんがご説明された通りです。それがこちらの決まりなのだと。……了承されたのではなかったのですか」
「楠田さんの手前頷いておいたが、そんな馬鹿な話があって堪るか」
 男の声は激昂に近かった。押さえてはいるようだが、それは恭一の耳にもしっかりと届きてくる。廊下の丁度角を曲がったところで、漸く二人の姿を確認することができた。
「私が楠田の人間になることは、あなたが望まれたことです」
 想像通り、瑞佳と中年の男性の姿があった。ただ予想を裏切り、恭一を驚かせたのは、ふたりを囲う雰囲気の異様さだ。
「あなたの仰る通り、私は由成さんと夫婦になります。それに、何の不満を持たれるのですか」
 男の腕が抗う女の肩に食い込み、まるで従順を強いるように詰め寄っている。女は――悲しげな面持ちで、そっと顔を伏せた。冷たくも見える顔付きに翳りが落ち、痛々しささえ感じさせる。
「おまえは、私のものだ」
「いいえ」
 低く呻いた男の声を、女は無情にも冷たく突き放す。
「私は既にあなたの手を離れました。私の全ては楠田が所有、」
 ふいに、男の形相が一転する。憎悪さえ感じさせる視線で女を睨みつけた男に、鬼気迫るものを感じた恭一は、庭に敷き詰められた小石を拾い上げ、掌でそれを弄んだ。小石の中でも出来る限りに大きなものを、それでも掌に握れば容易に隠れてしまう大きさだが、渾身の力で投げ付ければそれなりのダメージは食らうはずだ。
「私の全ては由成さんのものです」
「――瑞佳!」
 恫喝したかと思うと、男の腕が乱暴に瑞佳を壁に押し付ける。背中に鋭い痛みを感じただろう瑞佳が、短い悲鳴を上げた。瞬間、恭一は腕を振り切って握り締めていた小石を思い切り投げ付ける。姿勢が変わったせいで狙いを少し外し、石は男の耳の下辺りに追突した。
 狙った場所には中らなかったものの、突然の痛みに驚いた男は奇妙な唸り声を上げ、耳を押さえながら恭一を振り返る。その隙を狙って男の腕から逃げ出した瑞佳は、足を縺れさせながらも恭一の背後に逃げ込んだ。
「あんたに中らなくてよかった。野球は苦手だが、ダーツは得意なんでね」
 怯えるように背中に回った瑞佳を一瞥し、あえて冗談めかして恭一は笑う。瑞佳も応えて、弱々しいながらも微かな笑みを見せた。
「なっ……誰なんだお前は、無礼な!」
「無礼なのはテメェのほうだろうが。人様んちでサカってんじゃねェよ。女口説くなら別の場所でやんな。もっと上手い方法で」
 男は不快感を前面に押し出し、露骨に顔を顰めた。顔を顰めたいのはこちらのほうである。余り寄り付きたくない実家で、余り歓迎したくない男女間の縺れを見せられて、不快なこと極まりない。しかも女は、弟の婚約者である。
 男は屈辱感を隠しもせず、恭一を険のある視線で睨みつけていた。その視線も意に介さず、ただ見つめ返した恭一に痺れを切らしたのか、男は自分たちの真横を通りすぎ、己が来た道を戻っていく。荒い足音が遠ざかるにつれ、背中で庇った女から強張りが解かれていくのを、恭一は感じていた。
「――ありがとうございました」
 足音が完全に消えたのを確認してから、瑞佳は深く頭を下げた。全身から滲むような安堵感を漂わせている。
「恭一、さんですね」
 続けて、恭一を見上げたまま瑞佳は問うてくる。どうして自分の名を知っているのかと聞き返しかけて、あまりにも馬鹿らしい質問だと気付いた。
「由成さんからいつもお話を伺っています。見苦しいところをお見せして、申し訳ありませんでした」
「別にそんなことはどうだっていいんだ」
 つくづく躾の行き届いた女だ。丁寧すぎる身の振る舞いといい言葉遣いといい、遣り難いことこの上ない。
「ありゃあ何だ。あんた、随分性質の悪い男に付き纏われてるんだな」
「あれは……父です」
「親父? 親父がまた何だってあんなこと……ああ、悪いな。答えなくていい」
 己の言葉に、瑞佳の眼差しにいっそう翳りが含まれたのを知って、恭一は慌てて口を噤んだ。誰にだって触れてほしくない事情のひとつや二つ、あっても不思議ではない。
「……顔色が悪いな」
 儚げに笑って見せた女の頬が、いっそ青く見えた気がして、恭一は眉を潜める。
「体調、悪くなったんじゃねえのか」
「いえ、……少しだけ」
 瑞佳は反射的に首を振り、それから少し迷うような間を置くと、恭一の問いに素直に頷いた。
「風にあたりたくなっただけですから、お気になさらないでください。……お酒の匂いがこもっていて、気分が悪くなっただけなんです。ほんの少しだけ」
「部屋で休んでたらどうだ」
 元より彼女の体調が良好でないことは周知の事実である。ひっそりと彼女が身体を休めたところで、誰も咎めはしないだろう。しかし瑞佳は気丈にも「いいえ、」と首を振った。
「由成さんのご迷惑になりますから」
「……あのな、こんなことで意地張って無理したって仕方ねえだろ。そんなことじゃ夫婦になったって後が続かねえぞ」
 とは言え顔面は蒼白で、見れば唇さえ紫色に近くなっている。彼女の体調が相当に思わしくないことは、恭一にも見て取れた。頑固な瑞佳の態度にほとほと困りかけた頃、新たな足音が聞こえてくる。ひとつ――いや、ふたつ。慌しささえ感じられる、急いたような二人分の足音だった。
「恭一、どうしたんだ?」
 足音のひとつは、どうやら宗司の物らしい。瑞佳と恭一を見つけた宗司は、不思議そうに首を傾げ二人を交互に見遣った。
「どうしたじゃねえよ、おまえ勝手に抜けてきていいのか」
「あんまり長い用足しだと思ってね、君を探しにきたんだよ。それに瑞佳さんもいつの間にかいなかったからね――」
 ふいに己の言葉に同意を求めるよう、宗司の視線が後ろへと向かう。宗司に続いて姿を現したのは、由成だった。
「瑞佳さん、もしかしてまた気分が悪くなったんじゃ……」
 由成は真っ直ぐに瑞佳の元へ向かい、労わるようにその肩に手をかける。彼の視線は、最早瑞佳以外を視界に入れていない。瑞佳が青白い顔を上げて、いいえ、と弱々しく首を振った。
「平気です」
「恭一、君が瑞佳さんに何かきついことでも言ったんじゃないのかい。女性は繊細なものだよ。乱暴に扱ってはいけない」
 馬鹿馬鹿しくて涙が出る。鼻で笑いながらも、恭一は、ほんの少しだけ痛む胸を知る。そう、ほんの僅かに、少しだけ。
「無理をしないで、少し休んでください。――宗司さん」
「ああ、私に任せなさい。君は早く戻るんだ」
 由成の言葉を受け、宗司が力強く頷いた。
「話が少し落ち着いたら、俺も行きます」
 座の主役である由成の長い不在は許されない。代わりに宗司が瑞佳を看るという意味なのだろう。婚約者が体調を崩しているというのに、融通が利かないものだ。
「でも……ご迷惑になるんじゃ」
「無理をしてまた身体を悪くでもしたら元も子もないからね。自分以外のことも考えてあげないといけないよ。母親が疲れているときは、お腹の子も疲れているんだから」
 頑なに言い募る瑞佳を微笑みで遮り、宗司は彼女を促すようにゆっくりと歩き出した。
 心臓が、止まった気がした。
 宗司に連れられて去る間際、瑞佳は一度だけ恭一を振り返る。何か言いたげな瞳でじっと恭一を見つけた瑞佳は、ただ静かに頭を下げたのみだった。
 背中を見送りながら、宗司が最後に告げた言葉を反芻する。
 一度止まったかと思われた心臓は、今や不愉快な早鐘を聞かせていた。
「兄さん、そろそろ俺たちも戻ろう。みんな、待ってる」
 当然のように恭一を誘った言葉が、遠く、冷たい温度で胸に落ちる。そうじゃない。彼はもっと他に、自分に言わなければならないことが、あるはずなのに。
「妊娠……してんのか」
 唇を湿らせるように紡いだ言葉は、ひどく掠れて聴こえた。ゆっくりと視線を動かし、視界の中に由成を捕らえる。重なった視線に、呼吸を奪われそうになった。
「うん」
 暫くの沈黙を置いて、由成の応えが鼓膜と鼓動を震わせる。
「――おまえの、子どもか」
 由成は――頷いた。
「俺の、……俺と瑞佳さんの子どもだよ」
 頷いて、真っ直ぐに恭一を見詰め、微笑んだ。
 疑いもしない眼差しで。
 祝福を受けることを信じ切った、幸福の眼差しで。
「あんたの甥か姪になる子どもが、もうすぐ産まれるんだ」
 ゆっくりと唇を持ち上げて、恭一は、薄い笑みをその口の端に掃いた。
 視線を合わせて告げられた言葉に、どうして微笑まずにいられただろう。微笑んで、告げずにいられただろう。
「そりゃ、めでてェな」
 何もかもが、お膳立てされ過ぎているようなさえ気した。用意された幸福な未来へのカウントダウンが始まって、手を伸ばせば届く距離にそれがある。彼のてのひらに、運ばれる。
「家族っていうのは、おまえが一番欲しがってたもんだろう、」
 ありきたりの幸福が。
 ――大切に。
「大切にしてやれよ。子どもも、――あの女も」
 運ばれる。
 彼と、そして何よりも自分が望んだ、普遍の幸福が、すぐそこまできている。
 ならば微笑む他に術がない。祝うこと以外、自分には選べる行動がないではないか。
 恭一は、微笑んで、おめでとうともう一度だけ呟いた。 
 そこに、痛みなどあるはずがなかった。



 宴も終わりに近付いた夜には、一層風雨は勢力を増していた。
「今から車の運転は危ないんじゃないのか。泊まっていけばいいだろう」
「仕事があんだよ。こっちは定期的な休みがあるような商売じゃねえんだから」
 もう日は完全に落ち、外は暗闇に包まれている。この上激しい雨と風に見舞われては、見送りに出た宗司が心配するのも無理はなかった。しかし恭一は首を振り、玄関を出る。ほんの一歩踏み出しただけで濡れ鼠と化してしまった。
 仕方なく傘を借り、停めている車までの短い距離を歩こうとしたとき、背中から声が追ってきた。
「兄さん!」
 地面を強かに打ちつける雨のせいで、声は綺麗に届かない。いつになく声を張り上げ、恭一を追ってきた由成は、濡れた前髪を揺らしながら微笑んだ。
「今日は来てくれて、ありがとう」
「馬鹿野郎、んなこたいいから早く戻れよ。風邪引いちまうだろう」
 短い距離だからと傘を持たずに飛び出してきたに違いない。少しだけ笑って、恭一は手にしていた傘を僅かに由成へ傾けた。傾けた分、肩が濡れる。それも、気にはならなかった。
「あんたに、話したいことがあるんだ」
 雨音に掻き消されぬよう、強く、真摯な声で由成が囁く。
「いつでもいい。今度、聞いてくれないか」
「……ああ、今度な。暫くは仕事で忙しいから無理だろうけど」
 狭い空間で絡み合う視線が苦しくて、恭一はそっと気付かれぬように視線を背ける。――今度なんて、来なければいい。
「――時間が空いたら、いつだって、何時間だって聞いてやる」
 いつだって、待っている。約束をしながらも、自らそれを裏切りたかった。なのに由成は、笑う。嬉しそうに、静かな笑みを、零すように笑う。
 その心に一点の穢れなく、最早影すらないと言うのなら、これほど喜ばしいことはない。
 兄と定め、弟と定め、規定の容れ物に収めた彼の心が、溢れることなく完結しているのなら。
「……じゃあな、」
 由成に背を向け、不安定な砂利道に足を奪われながら、恭一は短い距離をゆっくりと歩いた。強い風に吹かれながらも駐車していた車に辿り付き、乗り込んでからキーを回し、クラッチを踏む。その慣れた動作すら、ひどく面倒に感じる。
 どうした。
 胸はもう、痛まないはずではなかったのか。
 心臓を千の針で刺される痛みを感じても、息が止まりそうな圧迫感に苛まれても、涙という名の水は零れなかった。苦しみだけが、澱のように胸に落ちる。
 苦しめるのは、未来図か。
 由成と瑞佳と、そして未だ見ぬ子どもの、幸いな家庭の未来図が、この胸に泥のような痛みを増やしていくのか。
 まだ――続くのか。
 突如強さを増した台風に、道は思う以上に混雑していた。身体が冷え、車の暖房を入れると、濡れた髪は帰り着くまでに乾いてしまう。片手間に煙草を吹かしながら漸く自宅に辿り着いたとき、玄関先の僅かな庇の下に誰かが佇んでいるのが見えた。
 慌てて車から飛び降り、誰かを確かめるために目を眇める。ほんの数秒の時間で、遮るものを持たない身体は瞬く間に濡れた。
「先生? お帰りなさい」
 美香だ。
 仕事帰りなのだろうか、初めて会ったときよりも薄い化粧を施した顔は、そのときと印象がまるで違う。純朴さを感じさせる表情で柔らかく微笑んだ彼女は、傘も差さずに玄関先に佇んでいた。軒下なら、少しは雨が凌げただろうか。
「雨、突然降ってきましたね。風は朝から強かったけど、まさかこんな大降りになるなんて」
 どうしてここに、と尋ねるより先に美香が笑った。肩を、容赦なく雨が打ち濡らしている。耳が痛くなるような轟音と共に強く風が吹き、一瞬視界さえ奪った。
 轟々と、風の音が瞼の裏に響く。
 ――寂しくって、
「……濡れてるな」
「ええ、先生も」
 寂しくて、寂しくて、寂しくて。
「どうか、しましたか」
 立ち竦んだまま動かない恭一を見上げ、美香は緩く首を傾げた。飾りのない表情にさえ癒される、心は、とうに疲れ切っている。
「……いや、なんでも」
 疲れた心に、気付かされる。
 してやりたかったよ。
 本当は、この手で、幸福に導いてやりたかった。
 心の奥深くに沈めたまま、見て見ぬ振りをしていた思いに気付かされる。
 ――おまえの、
 おまえの人生の、一番に重要な部分に位置できない自分に、なんの意味があるだろう……。
「先生――風が、」
 一際強い豪雨と風が身を襲う。美香の声も、注意していなければうまく聞き取ることができないほどだ。
「風が強くなってきました。早く中に入ってください」
「あんたは、どうするんだ?」
「私はただ寄らせてもらっただけですから。もう帰ります。お疲れなんでしょう、早く休んでください。身体を壊しますよ」
 女性らしい気遣いに笑みが漏れた。もしかしたら、それはひどく疲れた笑顔になっていたのかもしれない。
 ――疲れたな。
 覆い隠していたものが、壊れて剥がれて殺がれる。構わないじゃないか、とさえ思った。何が壊れても、剥がれても、殺がれても。それを知る者がいないのなら――構わないじゃないか。
 誰の名前を呼びたいのかも、もう、判らなかった。
「こういうときは……どうしたらいい」
 疲れて疲れて疲れ切って、何も保つことができなくなったときは、一体どうしたら。
 濡れた身体を、まだ、嵐に晒し続けていればいいだろうか。
「私なら、最初にタオルで身体を拭きます。それから、暖かいミルクを」
 美香の言葉に笑みが浮かぶ。こんな状態でさえ笑顔を作れる自分に、いっそう泣きたい気分が増した。なのに相変わらず涙は流れない。それなら涸れ果てた。涙はきっと、とうの昔に。
「……先生、もしかして」
 美香の腕がゆっくりと持ち上がり、額に触れる。触れた指先はひんやりと冷たく、その冷たさに心地良ささえ感じた。癒しを与えるような指に身を任せて、恭一はそっと目を伏せる。目を閉じると、一瞬のうちに現実が遠ざかった。遠ざかって、霞みかかって消えていく。本当にそうであるなら――消えてゆくものであれば、どんなに。
 ――言えないんだ。
 本当は。
 ――心から、幸せなんて、祈ってやれなかった。
 胸の中の呟きは、誰にも届かなくてもいい。本心とは隠し続けてこそ意味がある。だから。
「――やっぱり。熱が」
 女の声は、ひどく、遠かった。





  


200400924

NAZUNA YUSA