風はまだ強い。たかだか少しの間雨に打たれただけで発熱してしまうとは、心底情けがなかったが、まさかこれが風邪なわけがないと恭一は信じた。だから要は知恵熱なのだと宥めても、彼女は強情なまでに引いてくれない。
「知恵熱だって立派な熱です。それが原因になって本当に風邪を引いたらどうするんです? あんなに濡れて」
「そんときはそんときだ。――こういう大袈裟なもんは要らないんだ、本当に。それに濡れたっていうんなら、あんただって同じだろう」
無理矢理ベッドに押さえ付けられ、その上額には濡れタオルを宛がわれている。思いがけず手厚い看病を受けてしまい、ひどく居心地の悪い気分がした。病人とは言え、独り暮しの男の寝室に何の危機感も持たず入り込んでいる美香は、看護婦の顔付きをして手際よく恭一の熱を計り、タイミングよくタオルを取り替えた。この状況を色気がないと嘆息するには、自分が疲れすぎている。
「知恵熱って言っても高すぎる気がするんですけど。三十八度ですよ?」
「だから、いつもそうなんだよ。ガキのころは、修学旅行も遠足もそれくらいの熱が出やがった。今日も多分同じだ」
「今日、知恵熱出すような大イベントがあったんですか?」
換えられたばかりのタオルの心地良さに目を閉じてしまいそうになる。堪えて、恭一は傍らの美香に視線を移した。
「この間帰国した弟の婚約が決まっててな。それを祝うパーティだったんだよ。パーティなんて洒落たもんじゃねェが、大イベントには違いないか」
「弟さん? ――この間の人ですか? 弟さんと仲がいいんですね。弟の結婚が決まってお兄ちゃんが知恵熱出しちゃうのって、中々ないですよ」
呼吸だけで笑い返し、恭一はそっと瞼を下ろした。
不思議なくらいに、心が静かだった。
「そういや、美香さんは今日どうしてうちに? 何か用事があったんじゃねェのか」
「いえ、ちょっとだけ。また体調がいいときにでもお願いします。今日は先生、病人ですから」
思い出して、閉じた瞼をもう一度開く。見つめ直した美香は、どこか楽しそうに笑っていた。
「――? 何か頼みごとでもあったのか、俺に」
「入院患者さんに中学生の女の子がいるんですけど、彼女、先生の大ファンなんだそうです。――あ、ポルノ小説じゃなくて、子ども向けのお話のほうですよ。それで、サインが欲しいって本を預かってきたんです。袋に包んできて正解でしたね」
美香は持ってきたバッグからビニール製の袋を取り出し、その中身を見せた。見覚えのある装飾のハードカバーが出てくる。推敲に推敲を重ね、ときには担当編集者の頭を痛ませながらも半年ほど前に漸く発行することができた本だ。
「先生、この本書かれてる人だったんですね。びっくりしました、私本はあまり読まないけど、これは本屋でよく見かけて覚えてましたから。山内さん、そういうこと教えてくれなくて。今まで、先生がどんな本を出しているのかも聞かされてなかったんですよ。今話題の作家さんだから教えてくれなかったのかしら」
「……いや、忘れてただけだろ。あの人はそういう人だ」
そういう自分も、今の今まで忘れかけていた。奇しくも幼馴染の手を借り完成したその本は、発行後半年間に口コミやインターネットの力を借りて、緩慢に売れ行きを伸ばしていった。デビュー当時から目をかけてくれていた山内は感涙に咽び泣き、出版社は予想外の売れ行きに諸手を挙げて喜んでいるが、ひとり実感が湧いていないのが恭一である。
「サインくらいなら……そこにペンがあるから、取ってくれないか」
元が官能小説家であるだけに、面白がられているだけの感が否めない。事実、幾つかの評論家の口からは、物語自体の価値はなく、官能小説家が児童文学に手をつけたという物珍しさから売れ行きが伸びているだけだと言われていることも知っている。官能小説だけを書いていたわけではないが、今まで一番に売れていたものがそれであることは確かで、故に面白がられるのも納得がいく話だった。美香のいう「話題」とは、そう言った点である。
「……その子、何で入院してる子なんだ?」
「部活中に足を怪我した子なんです。すごく元気な子で、怪我も順調によくなってきてるから、もうすぐ退院できると思いますよ」
美香から本とペンを受け取り、自分の名前を記した後、少し考えて短い言葉を足す。――「早く怪我が良くなるように祈っています。」書き足してしまってから、自分の悪筆に幻滅しなければいいけれど、と些か心配になってしまう。
「官能小説と子ども向けのお話が書けるなんて、不思議な感じですね」
美香は大事そうに本を受け取ると、それを持ってきたときと同じように袋に仕舞った。この雨の中、本が濡れず無事でいたのは、ビニール袋の効力だ。
「そりゃあ、俺だって年がら年中欲情してるわけじゃねえからなあ」
「欲情しないと書けないんですか?」
「そういう意味じゃない。――欲情することもありゃ、優しい気分になったり悲しくなって泣いたりすることもあるだろうって話だ。官能小説家が一年中エロいことばっか考えてるかっていうと、そういうわけでもない」
「じゃあこの話は、優しい気分のときに書いたものなんですね」
美香は何の拘りもなく、率直な言葉を告げて笑った。思いがけず核心を突かれた気がして、そうだろうか、とつい考え込んでしまう。
子どもたちを、優しい眠りに導くような話を書きたかった。それに相応しい物語が果たしてこの指からは生み出せているのだろうか。欠けるものがなく、幸福に満たされている時期であれば、決してこの物語は生まれなかった。故に、悲劇の物語であるはずだった。皮肉なものだ。幸福から生まれるものは、決して人の心を揺さぶらない。
「優しいお話です」
恭一の逡巡も知らず、美香は呟くように囁きを落とした。
――おわりがきたら、
――世界中におわりがきても、それが真実のおわりではないことを、少年はもう知っていました。
祈るように紡いだ物語。
もう、その話を聞かせてやった子どもは、世界中を探してもどこにもいない。
ふいに轟音に耳を奪われて、雨と風に打たれ続ける窓に目を遣る。風はまだ強い。――なのに、この胸のうちはそれと反している。不思議なくらい、心が静かだった。
宗司が数年ぶりにこの家を訪れてきたのは、それから数日後のことだった。既に台風は去り、晴天には何の余韻も残していない。まだ日差しが強いと文句を言いながら、彼は玄関先に佇んでいた。
「……何の用だ?」
この一ヶ月で宗司の顔を二度も見るはめになるとは思わなかった。恭一にとってこれはただの不幸である。
「庸介さんからの預かり物でね」
「オヤジから?」
相変わらずボディガードらしき男――確か孝太郎と言ったか、彼を背後に従え、相変わらず虫の好かない笑顔でやってきた宗司を、渋々家の中へ迎える。宗司が取り出したのは、何の変哲もないただの封書だった。
「先日相談された件とのことだよ。何のことか私にはさっぱり理解できないが、この間は忙しくてゆっくり話を聞けなかったことを謝っておいてくれと言伝を受けた」
「――ああ。わざわざテメェが持ってきたのか。郵便にでも出せばよかったのに」
中身は容易に察することが出来た。実家に帰った先日、確かに父親にはある相談を持ちかけている。相談と呼ぶには決意の固い、最早事後報告でしかなかったそれに、父親は律儀に応えてくれたらしい。
「私も丁度この辺りを通る用事があった。――ああ、お茶は結構」
「出すかよンなもん。とっとと帰れ」
封書を受け取りはしたものの、何となく宗司の前でそれを開く気にはなれず、テーブルに伏せる。すげなく返した恭一の態度にめげもせず、宗司は当然のように来客用のソファに腰を下ろした。
「先日、君に話をしたね。楠田を継ぐ気はあるかと」
「――ああ、」
玄関先で佇んだまま、上がろうとしなかった孝太郎の存在を気にしながらも、恭一は向かいのソファに腰を降ろす。文字通り忠犬だと笑ってやれる気にはなれない。
「私はそれを歓迎する。君が由成君の障害にならないのはいいことだ」
「下らねェ。もう何年も前から言ってんだろうが。何だって今更そんな話をするんだ」
「君がもしも少しでも楠田を継ぐ意思を見せでもしたら、由成君はあっという間に楠田から淘汰される。それほどに由成君の味方が少ないからだよ。楠田の中ではね」
煙草の箱を引き寄せかけた指がピクリと止まる。ゆっくりと仰ぎ見た宗司は、やはり微笑っていた。
「七年前の話だ。まだ、君も由成君も楠田に関わりを持とうとせず、私が楠田の後継者として周囲から見られていた時期だった。私もそうなるものだと思っていたよ。君や由成君は一向に楠田に寄り付こうとする気配を見せなかったからね。――私は、背中を刺された」
「――刺された?」
「ナイフでね。幸い大事には至らなかったよ。あと刃渡りが数センチずれていれば危ないだろうと言われたが」
宗司は軽い調子で「見せてあげようか」と笑う。それにゆっくりと首を振り、恭一は話の先を促した。
「犯人は――逆恨みだろうね。丁度その時期、庸介さんはある会社との契約を打ち切った。犯人はそこの副社長だったよ。元々傾きかけていた会社が、契約を打ち切られたと同時にどうしようもならなくなった。その恨みが募って私に向かったらしい。まあ、よくある話ではあるね」
よくある話どころの騒ぎではない。背中に冷たいものが流れる感触を感じて、恭一は思わず身震いした。
「君の弟は、これから今まで私が歩いてきた道を歩むんだよ」
――由成は、これから、その世界を生きる。
時には非情な、冷たい、恭一には想像もつかないような世界で。
「私には楠田という盾があった。由成君には、それすらない。だから彼が全てを担うそのときまで、私は可能な限り彼の障害を排除する」
「――それが俺だったってわけか」
「君が由成君の敵になるはずがないことくらい、私にも判っていたよ。だが用心に越したことはないと思って一応はね。気分を害したならすまなかった」
素直に詫びた宗司に、恭一は首を振った。飲むものが欲しい、と無性に思う。嫌でも乾いてしまった喉を潤す何かを準備していればよかった。
「本当は、君が楠田に戻ってきてくれれば一番なんだろう。後継ぎがどうのと言った問題ではないよ。ただそうしてくれれば、庸介さんがどんなに安心するだろうとね」
「冗談じゃねえ……あんな家に、なんだって今更、」
「君もいい加減に頑固だね。何がそんなに君を意固地にさせる?」
宗司は僅かな苦さを滲ませて微笑んだ。
――ああ、下らない。
どいつもこいつも、寄って集って思い出させようとする。忘れかけていた悲しみや憎しみを、当たり前のように甦らせて、放置したまま去っていくのだ。それを慰められるのは、己自身だけだというのに。
――いいじゃないか。
もう、忘れても、いいじゃないか。許せなくても――全ては終わってしまったのだから。
ソファに深く背中を預け、鈍い視線で宗司を見つめたまま、恭一はゆっくりと口を開いた。
「十五のとき、ある男から札束を投げ付けられて、ここから出て行けと、二度と楠田と関わるなと言われた。金なら幾らでもやるから今後一切、自分にあの阿婆擦れの名を思い出させるな、だとよ」
何が血だ。
何が家族だ。
継ぐ代わりに、おまえたちは、何を殺す。――誰を踏み躙る。血を吐くような呪詛の言葉なら、今でも鮮明に、甦る。
「……そんな家をどうして俺が愛せる」
一人の人間を蔑み、憎み、抹殺してしまわなければ保てないものなら、滅んでしまえばいい。
奥深くに根付く衝動に、恭一は内心目を瞠った。
――楠田という家が、俺はまだ、こんなに憎いのか。
そうして最早、あの子もその家を構成する。――独りだ。俺は、ひとりだ。
「それは――祖父様か」
宗司の静かな問い掛けに、沈黙で応える。
恭一を罵った男も、今はもう亡い。
「今、君にそんなことを言う人間がいたら、斬首の刑だな。何なら市中引き回しの刑も加えようか」
強張った顔つきを一瞬のうちに緩めて告げた宗司の、彼らしい言葉に、恭一は笑みを取り戻す。なのに宗司は、今までにない真摯さで言葉を継いだ。
「私は、君のお母様のことを本当に尊敬していたよ。楠田の中じゃ、彼女のことを悪し様に罵る人間も確かに少なくはなかった。けれど――あの人は、素晴らしい人だった」
「止めろよ、らしくねェ……」
「――だから由成君を、許してやってくれ」
思わず凝視した宗司の顔は、いつもの飄々とした軽さを微塵も見せていない。
「……何の、話だ」
宗司が募る言葉を、首を振って遮る。許すだの、どの口が言えただろう。所詮はこの男も楠田の人間だ。知るはずがない。自分たちが抱えたものを――知るはずがない。
「もう、どうだっていいんだ。俺は一切楠田には関わらねェ。それは、十年も前に決めたことだ。憎いだの何だの、今更言うつもりもなきゃ責めるつもりもねェ」
――ならば、と考える。
あの溢れんばかりだった憎しみを氷解してくれたのは、誰だっただろう、と。
「恭一、君は何故、由成君を育てた?」
――憎むだけで人が殺せるなら、きっとあのときに、何人も殺していた。それをしなかったのは何故だろう、流れもしない涙を溶かして流させてくれたのは。
「憎いはずの楠田の子どもを、何故君は苦労を背負い込んでまでも育てようとした」
「ざまあみろ、なんて、思えなかったからだよ」
そう、思えなかった。例え大嫌いなあの家の子供でも、痛々しさに憐憫を抱くことはしても、鼻で笑うことなど到底できなかった。――可哀想だと。
「……あいつが、あんまり可哀想で仕方がなかったんだ」
ああそうか。
哀れだから愛したのか。
彼が幸福な子供であったなら、きっと、愛しはしなかった。
「君は彼を、楠田に返したくなかったか」
意識して、少しだけ笑う。
そんなはずはない、そうやって否定しようと開きかけた唇は、震えて、何の言葉も紡げない。
――憎いあの家の子どもが、もしも自分を愛するようになれば。
根本からあの家を、壊すことができはしないか。
それが一番の復讐だと、あのころ自分は少しでも考えはしなかっただろうか。
「――祖父様は、庸介さんを本当に愛していたんだよ」
宗司が小さな呟きを落とす。あの男は――庸介の父にあたる、年老いたあの男はどんな顔をしていただろう。恭一はその面影をぼんやりと思い出そうとした。けれど思い出せない。顔も思い出せないのに、対する憎しみだけが残る。人間というものは、そういった生き方しかできないのか。それとも自分が、あまりにも浅はかなのだろうか。
それでも忘れられていたことは確かなのに。
あの子と生きてきた数年間、憎しみも悲しみも、忘れ続けていたことだけは確かだったのに。
「そう――由成君がね、本当に喜んでいた。まさか君がきちんと顔を出してくれるとは思わなかったらしい。折を見て瑞佳さんをちゃんと紹介したかったようだが、手間が省けてよかった」
「紹介つったってな。一寸ばかり顔見ただけじゃねェか。顔以外の何にも知らねェんだぞ、あの女のことは――」
ああ、違う。長く伸びすぎた前髪を億劫そうに掻き上げながら、恭一は思った。何の因果か、知ってしまったことがひとつだけある。――いや、もっとか。
「――あの女、自分の実家と揉めてんじゃねェのか」
「何か見たのかい?」
「見たかったわけじゃねェよ。向こうが勝手に見せつけやがっただけだ。あいつの親父は、婚約に納得してんのか、……どうもそうには見えなかったがな」
「納得も何も、見合いに一番乗り気だったのは先方だよ。楠田とのパイプを欲しがっていたのは柏木のほうだ。確かに楠田が損をすることもないが、取り立てて得をすることもない。由成君の強い希望もあったし、気立てよし器量よしとくれば私たちも是非にと推しはしたが」
ふいに言葉を区切って、宗司は考え込む素振りを見せる。彼の言葉のひとつひとつに過敏な反応を返さないよう注意をしながら、恭一は無関心を装って尋ねた。
「――由成の?」
「ああ。今回の話が纏まったのは一重に二人の情熱の結果だよ。これは内緒の話だけどね、」
守れるかい?そう言って宗司は冗談のような仕草で口元に手を宛てた。ふざけてんじゃねェ、と低く唸った恭一に軽やかな笑い声を聞かせ、宗司は話を続ける。
「君は短気なところがよくない。――実は、瑞佳さんは今妊娠四ヶ月目なんだが」
「……計算が合わねえ」
「そう。由成君が帰国したのは先々月だ」
由成が帰国し、その直後見合いをさせられたとしても、瑞佳の腹の子供が現在妊娠四ヶ月だというのなら、どう考えても辻褄が合わない。疑問をそのまま口に乗せた恭一に、宗司はあっさりと頷いて見せる。だから内緒なんだよと、笑って。
「つまりね、二人は見合いをする前から恋仲だったというんだよ。恭一、由成君がこの一年間、時々戻ってきていたのは知っているか?」
「……いや」
「戻ってきていたんだよ。ごく短い期間だけね。その度、由成君は瑞佳さんと逢瀬を重ねていたらしい。帰国する直前にも、彼は二三日ほど日本へ戻ってきていた。どうやらそのときに出来た子供なのだというんだよ。全く、二人にとっては都合のよすぎる縁談だったというわけだ」
宗司の声は弾んで、明るく響く。癪なことに、彼は決して悪人ではない。純粋に由成を祝福しようとしている喜びがその声音から滲んでいるのを悟って、恭一は小さな笑みを口元に掃いた。
「――そうか」
ならば、何の思惑も関係ないのではないか。家同士の繋がりでもなく、利害でもなく、彼らの心が先に重なり合っていたというのなら、何も憂う必要などない。
この想いに生きているのは、最早己だけなのだと知って、何故か心が安らいだ。
胸のうちに、もう波紋は立たない。
心はもう、静かなまま、少しの動きも見せなかった。
「一日じゃこれだけの荷物は持って帰れないぞ」
顔を顰め、憂鬱そうに呟いたのは雄高である。
「テメェの都合なんざ知るか」とぼやきを一蹴し、恭一は手にしていた木製の玩具をその顔面に投げ付けた。衝突する寸でのところでそれを受け止めた雄高は、積み木の一部のような玩具を睨みつけて低く唸る。
「これは俺のじゃない。おまえのだろ。荷物減らそうとして妙なものを押し付けるな」
「ゆたかって書いてんじゃねえか、下手糞な字で。それおまえの字だろ」
「……これはおまえの字だ」
軽口を叩きながら、家を掘っていけば掘っていくだけ雄高の所有物が出てくるのだから面白い。持ち帰るのが面倒になって置きっ放しになっていたもの、そもそもここにあるのを忘れていたものをと数えていけば、それらは相当な数に登る。塵も積もれば山になるのだとしみじみ思う。
「持って帰れないんなら捨てるしかねェだろ。おまえんちだってそうデカくねェんだからよ」
「まさか実家に置いていくわけにもいかないしな。――捨てるか」
長い年月のうちに積み重なってしまった品を整理しようと雄高を呼びつけたとき、予想通り彼は厭そうな顔をしていたが、それほど抗わなかったのは自分でもそのうちどうにかしなければならないことだと思っていたからだろう。
「玩具の類は捨てるしかねェな。教科書は――廃品回収か。なんでおまえの教科書がウチにあんだよ。この辞書もテメエのじゃねェか」
几帳面な字で「梶原雄高」と名の刻まれた英和辞書を投げ付ける。受け取った雄高は、眉を寄せて溜息を落とした。
「ここにあったのか」
「は?」
「十五年前におまえに貸したっきり返ってこないから困ってたんだ。十五年前の俺は。――今更返してくれてありがとう」
万事がこんな調子である。これでは片付くものも片付かないと二手に分かれ、昔よく使っていた二階の部屋を整理しているうちに、思いがけないものが発掘されたりする。所謂思い出の品と呼べる懐かしいそれらを、恭一は容赦なく選り分けた。元より物に執着があるほうではない。これは雄高も同様で、捨てると一度決めてしまえば、短時間での整理が可能に思われた。物に縋らなくとも、自分と思い出を共通した友人は、どうせ傍にいる。
つい数日前、宗司が持ってきた父親の返答は、予想通りのものだった。全ては恭一の掌中にある、ならば、焼こうが煮ようがそれは恭一自身の自由なのだと。
――この家は、俺ひとりじゃ広すぎる。
予想していた通り、父親は恭一の行動を許す文章を便箋に記していた。本来であれば庸介の許可など必要としない事柄に、それでも恭一が確認を取ったことに対して、感謝を述べた父親の文面が甦り、揺るぎかけていた決意が固まるのを感じる。恭一はそっと目を伏せた。――もう。いいな。許してやろう、と何故か思った。唐突に、対象も定めずに、許してやろうと思う。何を、と問われれば、自分をと答える以外になかった。
纏まらない思考を抱えていた最中、ふいに古ぼけたノートを見つけたのは、開け難い棚の戸を苦労して引いたそのときだった。長い時間の経過に、どこか立て付けが悪くなっていたのだろう。
ノートは、それほど日焼けはしていなかった。しかし年月を感じさせる独特の手触りがする。見覚えがないということは、恐らく母親の所有物なのだろう。
家計簿でもつけていたのだろうか、と考えかけて、ありえなさに笑ってしまう。あの女がそんなことをするものか。
興味をそそられて、表紙を捲ると、それはすぐに日記であることが知れた。日記とは言え、一日分の日付に対して二三行の短い文章が記されているのみだ。誰それと会ったとか、今日は天気がいいだとか、そんな詰まらない日常が続く。
それは毎日続いている時期があったかと思うと、一ヶ月以上間の空いていた時期もある。やはり自分の血縁だと笑いかけ、ノートの終わりの方が白紙であることに胸が痛んだ。この空白が示しているのは、存在しない生命だ。
白紙から数枚遡り、最後に書かれている日記に何となく目を遣る。
『恭一が、あの子に笑顔を与えられるようになったら、それはどんなに素敵なことだろう。』
――あの子?
ふいに飛び込んできた文章の不可解さに、思わずページを遡る。「あの子」とは一体誰のことなのか。見当もつかない。一瞬、父親のことかとも思ったが、それにしては表現が不似合いだ。何ページか遡って、漸く「あの子」という記述が初めて日記に登場した日付を見つける。
『――はじめて、あの子に会った。どこかで見たような顔だと思ったら、あの人の子どもだった。あの人に、よく似ていた。あそこからなら徒歩でも来れる距離だろうけど、ひとりで遊びに来ていたようだった。あの子はまだ、五歳か四歳のはずなのに。危ないと思う。』
目が自然と先の文章を追う。あの人、とは一体誰だろう。あの子とは。
何日か置きに付けられた日記には、度々「あの子」の様子が描かれていた。
『今日もあの子に会った。あの子は、いつも同じ時間帯にいる。話し掛けても、やっぱり何も喋らない。こんなに小さな子どもが一人で公園まで来ていて、誰も不思議に思わないのだろうか。それとも、誰も気付いていないのだろうか。あの人はまだ気付かないのだろうか。』
――由成?
まさかと思う反面、確信に近くその名前が浮かび上がった。恐らく、そうなのだろう。椛が「あの子」と呼んでいるのは、紛れもなく由成のことなのだ。あの人とは恐らく貴美子のこと。垣間見た偶然に胸が震える。母と由成がこんな遭遇をしていたことなど、今の今まで知る由もなかった。
『今日は、あの子にお菓子を渡してみた。暫く迷うような様子を見せてから、あの子はお菓子を受け取ってくれた。ありがとうというように、少し笑った。』
『綺麗な顔をしている、と思った。子どもというものは、幼いという理由だけで可愛らしいものなのに、あの子には「かわいい」よりも「綺麗」という言葉が真っ先に浮かぶ。それは、あの子にとって、幸せなことだろうか。』
少しずつ、椛の中で、由成の存在が大きくなっている様子を感じ取る。情の深い女だと父が言っていたことがあるが、その通りだと思った。――そんなの、ほっとけよ。思わず胸のうちで呟いた言葉に、涙が出そうになった。――だってあんた、その子どもに、殺されちまうんだ。恭一の胸中を余所に、日記は容赦なく流れる時間を刻々と綴っていく。椛の思考が、哀れな少年に占められていく過程を、鮮明に。
『怖くなった。この子の失われた笑顔の上に、私と恭一の幸福は成り立っているんじゃないだろうか。私と恭一の幸せは、もしかしたら、この子を犠牲に、』
『私や恭一がいなければ、せめて庸介さんだけでもあの子を可愛がっていただろう。なら、あの子の笑顔をなくしてしまったのは、間違いなく私なのだと思う。私と、恭一なのだと思う。』
ふいに、日記の様子が変わったことに気付く。今までは日常にあったことを淡々と綴っていただけのものが、椛の心の話になっている。まるで誰かに聞かせるように、自分の意志を伝えたがっているように。
『恭一にあの子の話をした。あんたには弟がいるんだよと言ったら、不機嫌そうな顔をして「そんなの弟じゃない」という。血も繋がらないし、戸籍も同じじゃないから、そう思うのも当然だろうと思う。だけど恭一が庸介さんの血を引いている限り、あの子が楠田という家の息子である限り、あの子たちは兄弟と呼んでもおかしくない関係にある。』
それは、後悔や懺悔に見えた。子どもに罪はない。椛の口癖だ。父親がいなくてごめんね、あんたは悪くないのにね。何度も言われた言葉を鼻で笑った記憶がある。
『恭一に、いつかあの子の話をしようと思う。あの子の犠牲の上に成り立った私の幸せの話をしようと思う。』
――子どもに罪はない。由成に罪はない、なのに、どうして笑わないのだろう、話すことをしないのだろう。そんなふうに誰がしたのだろう。椛の疑問と、罪悪感が視覚から伝わる。与えられて当然のものを、罪のない子どもから奪い取った。そのことにすら、長い間気付かずにいた。――それは、なんて、罪深い。
『恭一が、あの子に笑顔を与えてやれるようになったら、どんなに素敵なことだろう。』
なあ。憎んだか。
自然と零れ落ちる言葉を、もういない人へ口には出さず投げかける。
あんた、一度だって、何かを憎んだか。――由成を、憎んだか。
『私の代わりに、庸介さんの代わりに、あの子を愛さなかった人たちの代わりに、けれど恭一は、嫌がるだろうか。』
声にはならない言葉が視界を滲ませ、それはやがて涙になった。
――あんたは、大丈夫だね。そんなものに負けたりしないね。
いつでも先を、ずっと遠くを見つめているような女だった。最後のほうは、日記というよりもメッセージのように思える。いつか誰かの目に触れることを望んでいるような、見つけ出してもらうことを祈っているような気さえした。――他の誰でもない、恭一に。
現実となった未来を、祈る言葉が、ここにある。
「あんたは、馬鹿だ……」
――母さん。
自然と零れた言葉を噛み締める。どうしてもっと自分のことを考えなかった。どうしてもっと自分のことを思い遣ってやれなかった。
けれど同時に思う。あの人は、そういう遣り方で自分を愛していた。自分の愛する者を大切にすることで、自分を大切にしていた。そんな母親を誇らしく思う恭一の思惑通りに、由成はそう育った。
――楠田という名前は、いつかおまえを縛るだろうねえ。
遠い日に呟いた声が甦る。ねえ恭一、あんたには、弟がいるんだよ。血は繋がってなくてもね。あの人の息子なんだから、あんたたちは、兄弟なんだよ。耳の奥で震えた声が、はじけるように消え、またリフレインする。――そう生まれついたのも、何かの縁さ。最後にはそう言って、笑っただろうか。あの女は。
――今は、笑うんだ。
――あいつは今、ちゃんと、笑うんだ。
あの人は、たくさんの、先のことを見据えていた。
それはとてもやさしい。
そして、悲しい。
彼女を愛した人間には、悲しすぎるやさしさだった。
――なら、あんたも幸せだったんだな。
声を殺して流した涙は、ノートの隅に染みを落とす。ポツリと落ちたそれは、後から後へと留まる術もなく、頬を濡らした。
――あんたの望みは、全部叶えてやった。なら母さん、いいだろう。……母さん、あんたはちゃんと、幸せに逝けたんだろう……。
「……恭一?」
そのとき扉を開いたのが誰なのかも忘れかけるくらい、恭一は打ちのめされていた。ただ、悲しかった。残された母の想いがただ悲しくて仕方がなかった。
「……いい、のか」
尋ねても尋ねても答える者は既に在らず、答えは、この胸のうちにだけに託されていた。
自分の嗚咽を聴くのはやはりこの男なのだろう。笑いたくなって、けれど笑えずに、また、涙を零した。背後で、雄高が言葉をなくしたのが気配で判る。
「俺は、許しても……よかったのか」
――あいつが笑うなら、あんたは幸せなんだろう。
――そう。信じても、いいのか。
ならば自分は、愚かなことをした。
「――許して……」
許して。許してくれ。
おまえの傷を塞がないまま手放してしまったことを許してくれ。
雄高の手が、凍り付いたようにノートを握ったままだった掌に落ちる。そっと、やさしい手付きでノートを取り上げられても、恭一は身じろぐことすら出来なかった。背中に触れた手は、涙を覆い隠すように恭一の顔を肩に押し付ける。遮られて、静かに涙を零した。彼は、諦めたことを笑わない。――恭一が二年前、諦めてしまったことを、嘲わない。
これは、最後の涙だ。
彼を。
――笑わせることができたら、それは、どんなに、素敵なことだろう。
音すら寂び付いて聞こえるチャイムに、恭一は身を起こし、玄関へ向かった。訪れたのは予定通り、二人の男性である。涼しくはなってきたものの、台風が去った後の晴天下ではスーツは辛いのだろう。上司と思わしき中年太りの男は、額に掻いた汗を拭いながら、恭一に向かって愛想笑いを見せた。
「楠田さん、先日は色好いお返事を頂きましてありがとうございます」
「いえ。――どうぞ、上がってください」
どちらにしろ、決めていた。例え庸介が難色を示そうとも、この胸は、とっくの昔にある答えを弾き出している。思いついて、男を振り返り恭一は訪ねた。
「工事は、いつからになりますか」
「早ければ早いほどこちらとしては助かるんですが、それは勿論楠田さんのご都合を優先させて頂きますので……」
なるほどと納得して、恭一は目につく範囲を見渡した。雄高に物を持ち帰らせたせいで、家の中身は空に近付いてきている。これからは全て自分次第ということだ。――ぼんやりと、まだ遠い未来のことを思い描くように考えた。ふいに足を止めて振り返っても、この家は何の音も響かせない。自分の足音以外、何も。
――そう、この家は、ひとりでは広すぎる。
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