道中、自分を導くものはコンビニで買った地図と、紙に記された住所と電話番号だけだと思うと、それはあまりに頼りなかった。
ゴトゴトと揺れる新幹線の中で、由成はそっと目を落とす。脳裏に浮かぶのは、僅か一週間ほど前、眼前に叩き付けられた景色だった。
罰だと思った。
苦しみも悲しみも、想い続ける痛みも、罰と呼ぶにはやさしすぎる。自分にとっての罰は、たったのひとつの形でしかありえなかった。
だから、これは、罰なのだ。
跡形なく消えたあの人の家と、息衝くものを感じない空っぽな地面は、笑えるくらいの空虚さで静かな秋の空気を与えている。ほんの一月前までは確かにあの人が住んでいた。あの人が迎えてくれていたあの家は、今や有刺鉄線が侵入を阻み、その痛いくらいに空虚な空気の中に佇む。――そのことが、やっと与えられた罰なのだと。
涙など、出るはずがなかった。
夢なのかもしれないと思う、その反対側から、夢ならばどんなによかっただろうと囁く声が聴こえて、これが真実なのだと由成は悟った。
乾いた唇を湿らせるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……兄は失踪したんですね」
目の前でたった今食事を終えた男は、付き合いの古い編集者だった。勿論由成自身の付き合いがあったわけではない。兄との付き合いが長ければ、自然自分もそうなるというだけの話である。
「失踪というのは些か大袈裟なような気もしますが」
山内は言葉を濁らせて、曖昧に笑ってみせた。僅かに口の端に浮かべた笑みは、恐らく瞬時に表情を凍りつかせてしまった自分を労わるためのものだろう。
「兄の家が売却されていたのは、俺も自分の目で確認しました」
自分の表情が強張ったまま動かないのを知りながら、由成は続けた。
「その上、新居を決めた形跡もない。父もあの人の行き先を知らないし、山内さんも連絡が取れない。誰もあの人の所在を知らない。……これを失踪じゃなくて、何て呼ぶんです」
確認した事実を口にしているだけで身体中から血の気が下がっていくような気がした。
「失踪と言っても、例えば二度と帰ってくるつもりがないとか、自棄になって蒸発してしまっただとか……そういったことではないと思うんです」
今日の昼過ぎ、突然に山内を訪れたのは由成のほうである。仕事柄、ひとつの場所にじっとしていることがないかもしれないと思ったものの、運良く編集部内にいた山内を捕まえることに成功した由成は、遅めの昼食にかこつけて近くの喫茶店で山内と向き合っていた。思えば付き合いだけは長いのに、こうやって二人きりで話をするのは初めてかもしれない。
「由成さん、貸し倉庫ってご存知ですか?」
「――貸し倉庫、ですか」
山内は今まで、兄の仕事相手でしかなく、自分は直接の関わりを持たない人間だった。そうであるべきだと思い込んでいたのは、偏に自分が恭一の障害になることが許せなかったからだ。互いに不可侵領域はあって当然だと、そう思っていた。
「月に幾らでですね、倉庫をレンタルできるんです。ほら、最近の家は狭いでしょう。だからどうしても収まり切れない荷物なんかが出てくる。そういうときに利用するんですよ。トランクルームとも言うのかな。倉庫って言っても、何畳計算らしいから、そんなに大袈裟なものではないですね」
「……それが、何か」
「その話を、少し前に楠田さんとしたことがあるんです。今はそういうのがあるんですよっていう話をしたら、結構興味を持ったみたいで。あの人、家は広いですが、本はかなりの数になるでしょう。いつか入用になるんじゃないかと思いまして。――それで、楠田さんと連絡が全く取れなくなった後、確認してみたんです」
山内は食後の珈琲に手を伸ばしながら、ゆっくりと笑ってみせた。内面から滲み出る人の好さ感じさせるような、穏やかな笑みだった。
「楠田さん、倉庫をレンタルされてました。大半のものは捨ててしまったようですが、蔵書や生活必需品は借りた倉庫に押し込んでいるみたいです。――考えなしに蒸発する人は、そんなことしないでしょう」
山内の言葉にどこか安堵した自分を知って、由成は漸く気付く。――この人は、大人だ。
「……すみません、俺、慌ててしまって」
山内のこの落ち着き払った態度も、穏やかな笑顔も、全ては自分のために齎されているのだと気付いた瞬間、徐に自分が恥かしくなって、由成は僅かに俯いて視線を落とす。
「兄がいなくなったって聞いてから、どうしても行方を知りたくて……必死で、山内さんの仕事先まで押しかけてしまって、ごめんなさい」
「由成さん、今日大学は休まれたんですか」
「……はい」
山内は相変わらずの穏やかさで、由成を許した。本来であれば、自分と同様に山内が慌てふためいていてもおかしくはないはずだ。担当作家が突然行方知らずになってしまったのだ。彼が僅かにも憂いを抱いていないはずがない。
「楠田さんはお幸せです」
なのに山内は些かの不快感も表さなかった。自分のうちに秘めた動揺を、微塵も感じさせず。
「私のほうは大丈夫です。実は以前から楠田さんからは長期の休みを貰いたいと打診はされていまして。今度の連載が終われば、という話をしていたところです」
「その仕事は大丈夫なんですか」
「ええ。代わりといってはなんですが、楠田さんが書き溜めておいたらしい長編を預かりましたから。連載分は、何とか持つでしょう」
巧すぎる、何もかもが出来すぎている。
行方が知れないことも、連絡がつかなくなったこの事態も、突然に思えたのは自分だけで、とっくの昔に彼の腹は決まっていたのかもしれない。
「……ありがとうございます」
山内に感謝して、去り際、由成は深く頭を下げた。
後は事実だけが胸に残る。
あの人は、自分の前から、姿を消した。
「由成、待たせたな」
気遣う声に、少しだけ、と微笑んで、病室の扉を振り返る。身体を少し悪くし、検査のためにニ、三日入院することになった父親の姿がそこにあった。
「検査、終わったの?」
「半分くらいはもう終わったよ。あとは何の検査が残ってると言ったかな。血液検査と、レントゲンと――」
庸介は指を折って数えながら、置かれた椅子に腰を下ろした由成と向かい合うよう、ベッドに腰を据える。見ようによっては普段と体調は大差ないが、庸介の年齢と立場上検査が大掛かりなものになるのも、致し方ないものと思えた。
「思いがけず休暇をもらったとでも思って、のんびりするさ」
庸介はそう言って笑っているが、病院に押し込まれている休暇など堪ったものではないだろう。しかしその言葉は半分真実に近い。身体を壊したときくらいしか、忙しすぎるこの人は自分の時間も持てない。
「恭一の所在は、まだ判らないか」
「……はい」
静かに落とされた声に、由成はゆっくりと頷いた。
「梶原君も判らないと?」
「はい」
雄高と連絡が取れたのは、つい三日前のことである。由成が恭一の行方を探し始めてからは、既に数日もの時間が経っていた。それもそのはずで、雄高は仕事の都合上、日本にすらいなかったのである。
「タイミングの悪いことは続けて起きるものだね。梶原君にも心配をかけてしまったかな」
由成がそれに気付いたのは、ほんの一週間ほど前のことだった。
自分の帰国と婚約を祝う会合が行われた後、幾ら待っても恭一からの連絡がないことに痺れを切らし、彼の家を訪れたのが一週間前である。恭一が実家を訪れたあの日からは既に一ヶ月以上の時間が流れていた。
一ヶ月、恭一から連絡がないことは不思議でも何でもない。けれどあの義理堅い人が、自分との約束を違えたりするだろうか。――仕事が終わったら。いつだって、何時間だって聞いてやる。その約束を信じて、由成は連絡を待っていた。
――話したいことがあるんだ。
決意にも近い約束は、現実にあっさりと裏切られる。
一週間前の由成は、既に取り壊した建築物が綺麗に取り除かれ、平地と化したその場所を、ただ呆然と見詰めていた。
「兄さんがお世話になっていた編集者の人と、会ってきました」
「何か判ったのか?」
「兄さんと最後に連絡を取ったのは、三週間ほど前のことだそうです」
「そんなに長いこと姿を眩ましているのか。困った子だな、あの子は」
庸介は――どこか、苦笑を滲ませて、それでも笑っていた。
「由成にも心配をかけて、――本当に、困った子だ」
言葉は、時間を繰り返しているようにも思えた。
「家を売り払うだの言い出したときは驚いたがね。よく考えれば、あの子だけの持ち物にするには大きすぎる。家を売ってマンションのひとつでも買ったほうがいいとでも思ったんだろうね。どうやら恭一は、所帯を持つという考えがないようだから」
――困ったな。笑いながら呟くその声は、確かに、何かを懐古する苦味が滲んでいた。
「私のせいだろうね。恭一が、結婚というものに興味を示さないのは」
由成は頷くことも出来ず、ただ黙ってその言葉に聞き入っていた。ふいに視線を上げた庸介は、静かに笑いながら切り出す。
「未亡人という言葉があるね。伴侶を亡くした女性を指す言葉だが、女性だけに使われるのは差別だと言われているらしい。――全くその通りだ。未だ亡くならざる人、つまり共に生きるべき伴侶を失って尚も生きているのかと、そういう意味のことを言っているんだろう」
唐突な話題に僅かに首を傾けた由成を余所に、父は言葉を続けた。
「――なら、私は三度、死に損じていることになる」
迎えるはずだった伴侶を亡くし、次に出会った女を亡くし、漸く寄り添った女を亡くした。歳を取り、大掛かりな検査入院を迎えることになった今、庸介なりに思い出すことが多いのだろう。
「……俺を、憎んではいませんか」
死に損じた。その言葉を信じるなら、彼が二度目に死に損じた理由は、今も尚生き長らえる自分にある。庸介は、やはり笑った。
「おまえを憎んでしまったら、私は私を憎まなければならなくなるのだよ」
触れることのなかった事実に触れて、重たい唇を開いた由成は、視線を逸らすことをせずに真っ直ぐに庸介を見詰めていた。――覚えていた。父さん。そう呼びかけた日は、恐らくあの時代にはなかった。けれど見つめていた。その背中を。振り返らない、その背中を。
「おまえの父親になってやれなかった私を、憎まなければならなくなる。おまえの孤独は、私が作り出したものだ。私と貴美子が補ってやれなかったものが、あれを引き起こした」
――ああ、あなたには、大切なものが他にある。
その中に、自分の存在はない。
寂しさを殺して、その背中を見送ったあの日を、覚えていた。
「おまえを憎んでしまったら、椛を殺したのは私なのだと――思わなければ、ならなくなるのだよ」
皺の増えた目尻に、薄っすらと透明な雫が浮かんだ。
――憎んでも。
憎んでもいいのに、と、何故か言えなかった。
あの日々。――俺は、あなたの息子に、なりたかった。
山内にも所在は知れず、父は勿論由成の手のうちにもそれは掴めていない。一体いつからあの家を空にしていたのかも判らず、正確な状況さえも掴めていない今、億分の一にも等しい恭一からの連絡を待つことしか出来なかった。
ふいに、呼び止められた気がして、長い病院の廊下を歩いていた由成は足を止める。自分を遠慮がちな声で呼び止めた看護婦は、「やっぱり」と顔を綻ばせて、嬉しそうに微笑んだ。
「楠田先生の弟さんですね? 以前先生のおうちでお会いしたんですけど、覚えてますか」
記憶を探るまでには、少しの時間を要した。化粧のせいか、と数秒遅れて気付く。女は、あのときよりももっと薄い、自然な顔立ちをしていた。
「ここの病院にお勤めだったんですか」
彼女が看護婦だという話は恭一から聞いている。まさか父の入院が決まったこの病院だとは思わなかった。ネームが書かれたプレートを見ると、そこには「堀川美香」と書かれてある。名前すら知らなかった女の出現に、由成は目を丸めた。
「お見舞いですか?」
「父が入院しているんです。検査入院で、五階に」
女は、「あら、」と口を手で覆い、苦笑した。
「タイミングが悪いですね。先生が旅行に行ってらしているときに入院されるなんて。連絡は取れました?」
「そんな大袈裟なものでも……」
微笑みかけて、ふいに引っかかるものに気付く。
「……すみません、兄が旅行に行っているっていうのは、誰に聞いたんですか?」
「先生からですよ。一ヶ月くらい前かしら、丁度お邪魔したとき、先生支度をしてましたから。どこか行くんですか、って訊いたら、人生の洗濯だなんて言ってましたけど。あの人、面白いですよね。言うことがいちいち古臭くて」
何でもないことのように言って退けた美香の言葉に、心臓が跳ねるような気がした。この人ならもしかして、恭一の居場所を知っているんじゃないか。そう思う反面で、それを否定したい自分にも気付く。
「予定を……どこへ行くつもりだったのかは聞いていませんか?」
「さあ、そこまでは。ただ帰るのがいつになるか判らないようなことは言ってましたけど……。あの人もしかして、弟さんにも行き先告げてなかったんですか?」
驚いたような美香の真っ当な反応に、由成は苦く笑った。
「兄弟なんてそんなものです。俺は、……あの人がいつからいなくなったのかも知らなかったから」
一ヶ月前、といった美香の言葉は、一番真実に近いのだろう。一ヶ月もの間、どこへ行き、何をしているのだろうと思うと、厭でも気が逸る。無謀なあの人らしいとは、今は笑えない。
「俺が知らないことでも、あなたなら知っているんじゃないかと思ったんです。――兄さんの、恋人なんじゃないかと思ったから」
「あ、それは違います」
美香は笑って、即座に由成の言葉を否定する。
「振られちゃったんですけどね。どっちかって言えば」
そう告げた美香の表情は、言葉とは裏腹にあっさりとしている。その意味に驚く暇もなく、美香は笑いながら続けた。
「先生、前に付き合ってた人のことが忘れられないそうですよ。何かを書こうと思ったら、いつもその人のことを思い出してしまうから仕事にならないって。だから旅行に行って、全部置いてくるって言ってて。――弟さんにこんな話しちゃって、悪かったかな」
慌てて口を噤みかけた美香に首を振りながらも、その言葉を反芻する由成の思考は、内容に追いつけてはいなかった。
「……前に付き合ってた人ですか?」
「あ、付き合ってたかどうかは知りませんけど。片想いだったのかもしれないですし、その辺はちょっと聞いてないんです。でもその人のことをいつも想って文章を書いてしまうなら、ただのラブレターにしかならないからって。ロマンチストですよね」
少しの切なさと驚きを胸に、由成は小さく頷くだけに反応を留めた。
それが自分なら、と思う気持ちが、どこかにある。
――それならどうか、置いてこないで、と思う気持ちも。
「あっ」
小さく叫んだ声が聞こえて、由成は再び去りかけた足を止めた。
「先生、紅葉を見に行く予定があるって言ってた気がします。頼れる親戚があるから、そこに少し長居させてもらうかもしれないって」
瞬間、確かな光明が見えた気がして、意識せずに掌を握り締める。
ありがとう、と口にする代わりに、由成は黙って頭を下げた。
どの感情も、言葉なんかでは伝わらない。
その足で雄高のマンションに赴いた由成は、開口一番に美香の話を告げた。しかし雄高から返る反応はそれほど思わしくない。「看護婦か」と難しそうな顔で考え込んでいるが、拘るべきところはそこではない。
「大変なときに連絡がつかなくて悪かったな。まさか俺もあいつがそんなに早く行動に移すとは思わなかった」
「――雄高さん、やっぱり、知ってたの」
「家を売るってことはな。あそこのすぐ裏に、マンションが建つんだとよ。どうやらそこの駐車場の一部になるらしいな。随分前から話を持ちかけられていたみたいだが、決めたのはほんの最近だと思う」
「マンションが建つから、こんなに急に立ち退いたのか」
「それもあるだろうし、恭一の都合もあるんじゃないのか」
雄高は曖昧に笑って、丁度由成の向かいに位置する椅子を引いた。珍しくダイニングテーブルで珈琲をご馳走になっているのは、リビングのソファも床も、帰国したばかりの雄高の荷物で溢れ返っていたせいである。
「恭さん、親戚のところに長居してるかもしれないって」
「……あいつに頼れる親戚なんかいるのか。親父さんのほうは殆ど縁を断ってる状態だから、あとは椛さんの筋ってことになるんだろうが……」
「何か、心当たりはない?」
カップを受け取りながら縋るように尋ねた由成に、雄高の眉間の皺が深く寄る。機嫌が悪いわけではなく、考え込んでいるだけだろう。
「……日光か?」
「日光? ……どうして」
思案するような顔で煙草を引き寄せながら、雄高は「紅葉だよ、」と当然のことのように答えた。
「あいつはガキのころ独りで日光まで出かけてったことがあるんだ。中学生くらいのときか、椛さんにも黙って出てったもんだから大騒ぎになってな。――確か椛さんの遠い親戚ってのが旅館をやってて、滞在してた間はその手伝いをして旅費を浮かせてたらしい」
――椛さん。その名前を胸の中だけで呟くと、無意識に身体が強張った。力を篭めているつもりはなかったのに、いつの間にか拳の形に握り込まれた掌に気付く。
「日光、嵐山、耶馬溪。紅葉の三大名所だな。本人は全部回るつもりだったらしいが、その前に金が尽きて椛さんに捕まえられてたよ。……あれも、今と同じような時期だった」
「恭さん、そこにいるのか」
「可能性としてはな。そんな遠くじゃなくて、案外この辺にいるかもしれない」
「それはない。……近くにいるなら、雄高さんを頼るはずだ」
雄高は声なく笑って、由成の推測を肯定した。その雄高ですら、行方を知らない。
「……心配だな」
「うん。……あの人、ただでさえアルコール依存症に近いのに、ふらふらして身体でも壊してるんじゃないかと思うと」
ほんの少しだけ無理をして冗談を返す。しかしその瞬間、雄高は何故か僅かばかりに目を瞠り、表情を動かした。
「……ああ、おまえ、知らないのか」
「……? 何を?」
まるで驚愕しているようにも、そして悲しんでいるようにも見える。不思議な表情だった。
「あいつは、とっくの昔に酒は止めてる。おまえが家を出ていったあとくらいにな」
「……どうして?」
三度の飯よりもアルコールを好む恭一が、まさか酒を止めるなんて、天変地異が起こってもありえない。由成の見解は、あながち外れてはいないはずだ。
「ぶっ倒れたのも理由にあるだろうが、一番は茶断ちのつもりだろう。あいつは元々茶なんて飲まないからな。どうせなら一番自分が好きなもんを断ったほうが、早く成就するだろうって――」
言葉に詰まって、迷うように雄高は僅かな沈黙を落とす。煙草の煙を燻らせながら、「恭一には言うなよ、」苦笑と共に呟いた。
「最後の酒だって飲み明かしたときにな。――おまえが、少しでも早く椛さんのことから立ち直れるようにって、願掛けしたんだ。あいつは、」
何かを言いかけて、しかし留まった唇は、小さな苦笑を吐き出した。
「……古風だろう」
信じられないくらいに、胸が痛い。痛くて痛くて、叫び出しそうになる。
そんな資格はないのに、と思う。――思われる、資格なんてものは、とうの昔に放棄していたはずなのに。
「……雄高さん、俺、日本を離れていた間、あの人のことをずっと考えてなかったんだ。思い出すことも、殆どなかった」
叫び出したい衝動を堪えると、自然と声が震えた。いけない、と思う。――いけない。溢れてしまう。
「……あの人を好きで、好きで仕方がなくて、そういう想いすら俺にはもう、贅沢で……」
溢れて涙になる。流せる涙などあるはずがないのに、尚も胸から溢れ出る、痛みすら贅沢で、許されてはならないはずだった。
自分は結局、幸福なのだと思った。
「これは、罰なんだと思ったんだ。あの人が俺の前から姿を消したのは、俺への罰なんだって」
どんな痛みも悲しみも、罰と呼ぶにはやさしすぎる。あの人を想っての痛みなら、そんなものは罰にはならない。
「あの人が突然、俺の前からいなくなる。俺には、そういうのが、……罰なんだと思う」
ならば追いかけられるはずがない。
涙を零せるはずがない。
「俺には判らないが、」雄高が溜息混じりに呟く。見えているものに、敢えて見えない振りをするやさしさに感謝して、由成は乱暴に目尻を拭った。
「……おまえが一番判ってやれる恭一のことを、今、考えてやればいいだけの話だろ。そんなに難しい話じゃない」
言葉は静かに、胸に染みた。
離れても、愛していられるだけ、その想いを抱けるだけ、自分は幸福なのだ。
だからこれは罰だ。あの人がどこで生きているかも知れない、幸福なのかどうかも判らない、そんな状況に追いやられていることが、一番の、罰だった。
「おふくろなら、その親戚にも連絡がつくかもしれないな」
ふいに落とされた呟きに顔を上げる。涙に塗れた由成の顔を見て、「付き合いの長さを舐めるな、」とどこか冗談を混ぜ、雄高は笑った。
「椛さんの葬儀のときに、その親戚とも会ってるはずなんだ。もしかしたらそのときに連絡先でも聞いてるかもしれない。――期待はするなよ、一か八かだ」
「それでいい」
――会いたいんだ。
言葉にしなかった思いを読み取るように、雄高は笑って立ち上がった。
アナウンスに瞼を開き、初めて自分が浅い眠りに引き込まれかけていたことに気付く。窓の外の景色と、記憶した駅名を照らし合わせると、もう二駅ほどの余裕があった。そろそろ降りる準備はしておくべきかと、うたたねの最中に凝った肩を巡らせる。
――気をつけて。
ふいに、微笑んで自分を見送った女の姿を思い出した。
由成の決意を聞いたときも、瑞佳は静かに笑っていた。腹の膨らみはまだそれほど目立たない。苦しいだろうに、毎日綺麗な着物を着こなしている。いつもと同じように藍染めの着物で佇む女は、四季折々の花を散らす庭にうつくしく溶け込んでいた。この人はもう、この家を構成しているのだと思った。――少なくとも、自分の中では。
何かあったら連絡をくれ、と告げたときにも、あの人はただ笑っていた。
――ええ。そのときは必ず、お兄様と一緒に。
雄高の言った通り、彼の母親は椛の遠縁にあたる人間の連絡先を把握していた。だが、そこに恭一がいると断言することは出来ず、万が一いたとしても事前に連絡をしていては逃げられてしまう可能性もある。確かな所在も確認できない状態でわざわざ日光まで出かけるのは、まさに一か八の賭けだ。
――話したいことがあるんだ。
まだ見る夢の話を。
瑞佳は笑わなかった、あの夢を。
――あなたは、笑うだろうか。
大枚を叩いてタクシーを拾い、漸く辿り着いた旅館は、寂れた感のある古風な佇まいをしていた。旅館と呼ぶよりは民宿と呼んだほうがしっくりと来る。山に近い場所に建てられたそこは、週末と紅葉の季節ということもあって、それなりに客はいるようだった。
「あら、恭一の弟? 話はちょっとだけ聞いてますよ。椛が死んだあと、暫く一緒に暮らしてたんでしょう」
五十を少しすぎた頃の女将は、突然旅館を訪れてきた由成に向かって目を丸める。少しの驚きに留め、すぐに微笑んだ女は、間違いなく恭一の親戚筋にあたるようだ。恭一とは血の繋がらない兄弟にあたると説明したとき、僅かに緊張した由成を余所に、女将はふっくらとした頬を綻ばせ、突然の来訪を歓迎した。
「わざわざ遠いところからよく来たわねえ。どうぞゆっくりしていってください。何泊の予定ですか?」
「いえ、宿泊じゃなくて……」
想像していたような拒絶が返ってこなかったことに安堵して、由成は左右に首を振る。椛が事故を起こした直接の原因を、彼女は知らないのかもしれない。
「兄がここでお世話になっているかもしれないって聞いて……」
「今ちょうどあの子はいないんですけどね。ここに来てからというもの良く働いてくれるもんだから、あたしのほうが今日くらい休みなさいって言っちゃったわよ。そう多くもいない親戚なんだから、もうちょっと甘えてくれたっていいのにねえ――」
椛の又従妹にあたるというその人は、僅かな苦笑を混ぜて笑った。
「……兄さんは、ずっとここにお世話になっていたんですか?」
「ふらっと顔を出したのは……そうねえ、二週間くらい前かしら。前とおんなじで、連絡もなしに現れるもんだから驚いちゃったわ」
雄高の予想は大方中っていた。姿を消してからずっとこの旅館の世話になっていたというわけではないらしい。ここへ辿り着く前までは一体どんな生活をしていたのだろうと思うと、頭が痛くなる。
「今、兄さんがどこにいるか判りますか」
恭一の放浪生活に関する憂いは後に回すことにして、由成は口早に問いを重ねる。こうしている間にもまたふらりと逃げられては堪らない。
女将は頷いて、近くにあったメモ用紙を引き寄せた。
「歩いて十分か二十分か行ったところに小さい公園があるの。多分そこじゃないかしら。山の近くでね、紅葉が綺麗に見えるから。散歩してくるって出てったのよ、ついさっき」
一枚破り取ったメモ用紙に、女将は手馴れた仕草で簡潔な地図を書き記し、それを由成に渡した。それから、そこはちょっとした穴場なのよ、と親切に笑う。
「地元の人間しか行かないような公園だからねえ。――時間があるなら車でも借りて湯の湖までお行きなさい。今が見頃だから」
最後に付け加えた女将の顔は、れっきとした商売人の顔付きをしている。ここからの距離がどれほどあるかは知らないが、日帰りでは難しいのではないだろうかと少しだけ考え、
「……一晩、お世話になってもいいですか」
告げると、女将は満足そうに微笑んだ。
地図を頼りに、見知らぬ町を歩き続ける。今日一日での移動量は少なくはないはずで、しかし不思議と疲れは感じなかった。――あと少し。もう少し。確実にその瞬間が近付くのを感じながら、反面、どんな顔をして会えばいいのだろうと迷う。
何を思って彼が突然の長い旅行に旅立ったのか、もしかしたら自分の存在すら厭うかもしれない。むしろ、自分だからこそ、厭うのかもしれない。
不安定な決意を揺るがせながら辿り着いたのは、女将の言葉通り、空き地に近いような公園ものだった。申し訳ない程度に置かれた遊具と、寂れたベンチが隅に置かれてある。夕日も沈みかけた薄暗い空気の中に、彼はいた。
ぼんやりと滲む夕日の中で、ベンチに腰を下ろすその人の表情はよく見えない。けれどそれが確かに恭一であることを、由成は知ることができた。座るときは、少し背を丸めたような姿勢で座る。時間を持て余したときは必ず煙草を咥えている。伸びた前髪も、横顔のラインも、何もかも、知っている。
静かに紅葉を鑑賞できる場所ではあるのだろう。遠くに見える山も、公園自体に植えられている木も、美しく紅に染まっている。しかし恭一の視線は、そのどれにも向けられていない。どこを見ているのだろう、と恭一の視線を追いかける。そこには、子供を連れた家族の姿があった。
まだ三歳か四歳くらいの愛らしい服を着せられた女の子が、ブランコの上に腰を下ろした姿勢で、しきりに父親に向かって手を伸ばしている。抱き上げられることを望んでいるのだろう。しかし父親は困り顔で、腰が痛いだの身体がきついだのと何とか子供を言い包めようとしていた。そのうち母親らしき女性が茶々を入れ、渋々と言ったように父親がしゃがみ込んで子供に背を向ける。
うれしそうに、子供は父親の背中に飛びついた。
その瞬間、腰が痛んだのか奇声を上げた父親に、母親と子供の笑い声が散る。休日の穏やかな夕暮れを過ごす、家族の風景だ。
――そうだね。
やさしい気持ちで、由成は思う。そういうものを、求めていた時期が、確かにあった。だからこそ、その寂しさを持ち合わせて、寄り添うように恋をした。自分たちの出会いは、最初からそういうものだった。
気付いているだろうか。
あの家族を見つめている自分の眼差しが、どんな瞬間よりもやさしいことを。
子供は好きじゃないと常々言っている通り、恭一は決して子供の世話を焼いたり可愛がったりしてやるような性質ではない。けれど彼は好きなのだ。笑ってしまうくらいに普通の、一般的でしかない幸福な家族の風景が、彼は好きなのだ。
今、彼の物語が、胸にあった。
母を求めて彷徨い、最後には穏やかな死を迎えた少年の話。
――終わりなんか、こない。
あれは自分の話なのだと、昔、彼が言った。言葉通り、あの少年の絶望も悲しみも全ては彼のもので、物語は感情が発露して形成されているのだろう。どこを探しても、愛した者がいない世界。当たり前に自分を愛してくれていた存在が突然に消える。探す、求める、なのに、この掌には掴めない。二度と巡り会うことがない。ならば、終わりがくればいい。世界中に終わりがくれば、悲しみは終わる。――そんな終わりなど、誰が望んだだろう。その終わりを望ませたのが、例えこの自分だったとしても、許せるはずがなかった。
遠くに見える恭一の横顔が涙で滲む。
不思議だった。
――判るんだ。
あなたの考えることが、思うことが、手に取るように判る。
悔やんだだろう。離したことを、認めたことを、諦めたことを。ほんの少し、悔やんだこともあっただろう。そしてそれが自分だけの感情だと思い込んで、傷付いたことも。
――気付いていないのは、あんたのほうだ。
どれくらい見つめていただろう。ふとした瞬間に、恭一が顔を上げた。そのままゆっくりと、吹き上げる風を避けるように、顔を横へと背ける。
――それは、俺じゃない。あんただ。
視線が重なり合った瞬間、ほんの僅かに目を見開いて、恭一は由成をまっすぐに見詰める。その瞬間、身体中を静かな風が、けれど強烈に突き抜けていくのを由成は感じた。風もなく波立つ水面のように。逃げるだろうか、それとも怒り狂うだろうか。覚悟を決めて姿を現したはずなのに、決意は脆くも崩れ去ってしまう。この唇は、一番に何を伝えたらいいだろう。逡巡よりも先に、恭一が動いた。
そのとき彼は、確かに微笑んだ。
確かに由成を視界に認めて、そうして小さく微笑んだ。見たこともないくらいに、静かで穏やかな微笑みだった。
――ああ、
俺はまだこの人を愛してる、
――この人は、まだ俺を、
恭一の唇が、緩慢な動きで開かれる。
「……どうして」
距離を置いているにも関わらず、その声は真っ直ぐに鼓膜を震わせた。微笑んだまま、静かなのに強い声で告げた恭一は、気のせいか悲しそうな目をしているようにも見える。
「どうして、おまえなんだ……」
――寂しかった。ずっと、寂しかった。
気が狂いそうなくらい、腕が彼を抱き締めたがっていることに、気付いていた。
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