果たして、その予感はあっただろうか、と自分自身に問い掛ける。
来るか来ないか。ふたつにひとつを考えたときに、恐らく彼が追ってくるだろうことを、自分は確信として知っていたはずだった。だからこその微笑みは、きっと、かなしく歪んでいたに違いないと、冷静な思考で考える。
やさしい彼は、今になっても、必ず自分を見捨てない。
「――てっきり、雄高の野郎が来やがるもんかと思ってたんだが」
「雄高さんも心配してた」
ゆっくりと歩み寄りながら、由成は静かに応える。薄暗く陽の傾きかけた空気の中で、彼の表情は、まだ見えない。
「山内さんも、父さんも、それから宗司さんも、――瑞佳さんも」
少しずつ距離が縮まっていくのを気配で感じながら、恭一は真っ直ぐに、その姿を見つめた。まるで見納めだと自分へ言い聞かせているかのように、近付く由成の姿を、真摯に見つめていた。
「みんな、あんたを心配してる」
「そりゃ悪かったな。どうせもうすぐ帰るつもりだったんだ。ニ、三週間もあちこちふらふらしてりゃ、金もなくなる」
「帰るって、家、どうするんだ。もうないのに」
「んなもん仮住まいが決まるまで雄高んとこにでも世話になりゃあいい話じゃねえか」
「今以上雄高さんに迷惑かけるつもりなのか……」
――もう。これだけでいい。これだけで。見つめながら、自分の言葉にだけ注意を払っていた恭一は気付かなかった。呆れ返ったような由成の声が、僅かに震えていたことに。気付かないまま、笑って見せた。
「なら、どうしろってんだよ。ホテル暮らし出来るほど金なんざ残ってねえぞ」
「うちにおいで」
近付いてきた由成が、とうとう目の前に立ち塞がる。視線を上げて見上げた先には、さっきよりも表情の判る由成が、ひどく静かに自分を見下ろしていた。
「雄高さんの世話になる必要なんかない。あんたが帰るのは、俺のところでいい」
汚れるのも構わず、地面にしゃがみ込んだ由成が、代わって低い場所から見上げてくる。ずっと前、正反対の位置で見つめ合ったことがあった。膝をついたのは自分のほうで、俯いたのは彼のほう。そうやって過ごした季節を数えることは、今や難しい。
「ふざけんな。……おまえが一番、判ってるだろう。あんなとこに帰るくらいなら、死んだ方がマシだ」
「そうじゃない、……俺の家に、あんたは帰るんだよ」
止めてくれ。そう思うと、声が震えてしまいそうだった。そんな間近から見つめられたりしたら、曝け出してしまう。だから恭一は、そっと地面に視線を落とした。静かだったはずの胸が、また、騒いでしまう。
「恭さん、お願いだから俺の話を聞いて。俺は、そのためにここまであんたを追いかけてきたんだ」
――また、苦しくなる。
言葉に迷うように視線を滑らせて、少しの後、由成は伺うように恭一の顔を見上げた。
「……その前に、あんたを、抱き締めてもいいかな」
自然すぎて聞き逃してしまいそうになった呼び名に顔を上げたのは、由成がそう言葉を継いでからのことだった。
笑い飛ばそうとした。笑い飛ばそうとして、唇が凍り付いたのは、自分が応えるよりも早く由成の腕が伸びて、冷えた頬を両手でそっと包み込んだからだ。冷たい、なのに暖かい、痛い、なのにやさしいあの掌が、触れた。
「判ったんだ。もういい」
振り払え。そう思うのに、唐突すぎる由成の話の展開に頭が追いつかない。たった今まで、自分は何をしていたのだろう。――そうだ、自分より少しあとにやって来た、やさしい家族の光景に目を奪われて、穏やかな時間を過ごしていた。ただ、それだけだった。ただそれだけの空間だったはずなのに、それがいつ、自分の全てを、由成が支配したというのだろう。
「あんたはまだ俺を愛してる。――だから、もう、いい」
目の前にいる、ただそれだけのことで、動けなくなるのは。
「あんたをひとりなんかにしない。俺はずっと、そう決めてる。なのにあんたは、どうしてそれを判ってくれなかったんだ……」
――嘘だ。
もう、子供の笑い声は鼓膜を響かせない。母親の朗らかな声も、父親の困ったような苦笑交じりの声も。
真っ直ぐに見つめてくるひたすらな瞳を、同じように見返すことしかできない。
――嘘だ。おまえは俺を、ひとりにする。残して、行ってしまう。
「嘘じゃない。俺はもう、ずっと前からそうだ。ずっと前から、あんたのために生きてる。あんたと生きるために、生きてる」
――俺じゃない、幸福に、辿り着いてしまう。
脳裏に浮かび上がっては消えていく、反する言葉を読むように、由成は言葉を継いだ。
「あんたと生きるためにどうしたらいいのか、俺は、そればかり考えてる。なのにあんたは、どうして俺から逃げたんだ、どうして俺があんたをひとりにするなんて考えたんだ……」
声は静かで、その分するりと胸の内側へ落ちた。
「――おまえ、なんで来たんだ。どうしてこんなところまで来た」
その言葉を口にしてから、笑ってしまった。さっきからそればかりだ。どうして、なぜと、互いに問うことばかりしている。判っているつもりで、何ひとつ判っていなかったのか。思う反面で、違う、と誰かが思考の隅で否定した。
答えなんて、最初から。
「なら、あんたはどうして一人でこんなところまで来たんだ。どうして、椛さんの家を売った。あんなに大切だった、あの人の家を」
判っているのだ。由成は何もかもを知っている。恭一がどれほどあの家を愛していたか、その理由も、心の在り処も、何もかも。なのに尋ねる。探ろうとする。
――最初から。
「……よく考えたらよ。おまえとは人生の半分、一緒にいたんだよなあ」
それは何故と問うことを、恭一はしなかった。言葉にすれば痛いだけの感情を、形にしたがっている。そんなことすら、判りきっていた。
「おまえを俺の人生から完全に切り捨てようと思ったら、今まで持ってたものを半分は捨てなきゃなんねェんだ……」
――あんた、まだ俺を愛してる。
その通りだ。由成は、正しく自分の心を読んでいる。だから判ってはくれないか。半ば祈るように思った。もしもここに来た者が、自分を追いかけてきた者が、他の誰でもなく由成だったら。――もう、それだけでいい。
「そろそろ、捨てたっていいだろう。独りで持ち続けるには、重てえモンばっかだ」
迎えに来て、手を差し伸べてくれたら。
もう、それだけでいいんだ。
「俺は、半分以上だ。殆どの時間をあんたと生きてきた。あんたを切り捨てようと思ったら、俺は、俺の全部を捨てなきゃならない」
「ああ、……判ってる」
「俺は、何も捨てない。あんたから椛さんを奪ったことも、――あんたの望んだ人生を奪ったことも、俺は忘れない」
「判ってる……」
だから離れた。
何ひとつ捨てることも忘れることもできないせいで離れた。
我侭な生き方をした。
互いに、自分が傷付かない生き方をした。
「傍にいるのが、一番辛かったんだよなあ……」
俺も、おまえも。
辛かった。
だから、修正が効かないと手放したのは、同時だった。
もう、遣り直せない。由成は女と寄り添い、子どもを育てる。家庭を育む。血を吐くように渇望した、ありきたりな幸福を手に入れる。そこに、自分は、ない。
「そんな下らねェ話も、もう終いだ」
――それがどうした。
「由成、おまえはあの女と幸せになりゃあいい。あの女も、子どもも、目一杯大切にしてやるんだ。それだけでいい。それだけで、おまえはちゃんと幸せになる」
置いてくるつもりで、記憶に生きていた。愛した母親と同じ名前の大木を眺めていても、考えるのはいつも、由成のことだった。かすかな切なさを感じながら、それがどうしたと思った。いつも、彼のことを考えていた。今や自分は、まともな文章のひとつ書いてはならない。どの文章も、どの言葉も、いつも、想いながら、綴っていた。――それが、どうした。余りにも、当然すぎる結論だった。
「――俺には、おまえを愛した記憶がある」
記憶に残る小さな指は、俺の全てで、俺の命。
記憶に残る大きな掌は、俺の全てで、俺を俺として生かすもの……。
判ってるんだろう。
判ってるんだろう、由成。
「あんたは……っ」
短く叫んだ由成が、悲しげに顔を歪めた。
「あんた、自分じゃ気付いてなかったんだろう……」
言葉の意味を理解するよりも先に、固い腕の感触が視界を遮る。胸に顔を押し付けられ、抱き締められた恭一の頭上に、歯を食い縛るように苦さの篭った声が落ちた。
「家族がほしかったのは俺じゃない。あんただ。――あんたはずっと、家族っていうものを欲しがってた。俺じゃない。それは、あんたなんだ……っ」
あんただ。あんたなんだよ。震えた声が、幾度も鼓膜を打つ。
肩に、熱い感触が伝わった。
「だから俺は、……俺は」
その瞬間、恭一は、すべてを理解した。言葉ではなく、形にならない感情が、何かをはっきりと理解させた。
「……だから、か」
――ああそうか。だからか。
言葉の意味を、深く。
「だからおまえ、戻ろうって言ったのか。……普通の、兄弟に……家族になろうって、俺に言ったのか……」
――俺を独りにさせないために、家族になろうって、
――言ってくれたのか。
おまえは、馬鹿だ。言いかけた唇は、無意味に震えただけだった。
筋違いだ。全くの筋違いで、見当違いな話だと思うのに、視界を何かを滲ませる。それは溢れて、ちいさな涙になった。罪悪感も後ろめたさも後悔も、由成が恭一の手を離した最大の理由として当て嵌まらない。時には肉欲さえ伴う愛情を、形の違う容器に押し込んだ。押し殺す苦しさを得ることを代償に、共に生きる手段を得た。だからもう永遠に寂しくない。――そんなものは、筋違いで滑稽だ。なのに、由成は恭一が欲しがったものを確かに与えた。
「俺は、夢を見てる」
確かにこの掌に、それを与えようとした。
「あんたと俺と、――瑞佳さんと、これから生まれる子どもと。一緒に生きる、幸福な夢を見てる」
ふるえる指を、その背中に縋らせる。
女も、子どもも、そしてこの自分をも手中に収めようとする由成は、この上なく欲張りだ、と思った。だからこそ、完全に降伏する他に選べない。手段がない。
由成の描く未来図に、自分の居場所があった。ただそれだけのことがこんなにも幸福なら、最早項垂れて、何もかもを委ねる以外に、生きていく道がない。
――俺だけの、由成……。
その夢は永遠に見ることが叶わないと知っても、恭一は、神様でも何でもない、ただ一人の男に降伏した。
閉じた瞼の裏、最後に視覚に焼け付けた一面の赤が広がった。
宿へと戻る帰り道、ぽつぽつと小さな声で、けれどたくさんの話を、した。それは当たり前の、普通の会話でしかない。けれど忘れ続けていた、当たり前の優しい会話だった。由成が留学していた間、どんな勉強をしていたのか、どんな生活だったのか、言葉がうまく通じず苦労したと笑った由成に、恭一もまた笑い返した。その生活は、想像の範疇にないと思った。そして自分の話もした。
「本屋でよく、あんたの名前を見かける。知り合いにも、恭さんの本を読んでいる人は多いよ」
そういわれても、やはり実感は湧かなかった。けれど由成が小さな声で、「嬉しい、」と呟いたときに、救われた、と思った。
労力で間借りしている一室に辿り着いたとき、もう紅葉はうつくしく視界に映らなかった。日がすっかり落ちていたせいでもあって、世界には、自分たち二人しか存在しないような錯覚に陥っていたせいでもあった。
だから恭一は、抗うことをしなかった。戸を引いた瞬間、その腕の中に閉じ込められたことも、狂おしいほどに懐かしい口付けも。声を上げる余裕もなく、軋むくらい強く抱きしめた腕がゆっくりと降下する。衣類を掻い潜って肌に辿り着いた指先が冷たいと、意識の隅で思った。
それからゆっくりと押し付けられた固い床の感触も、何一つ拒むことをせず、ただそっと受け入れた。むしろ望んでいたことだと伝えるように、自ら進んで愛撫すら施した。
沈黙の中にひそやかな喘ぎを零すと、容赦のない唇で塞がれる。口付けが苦しくなると、その首の後ろに腕を回して、縋りつくように抱き合った。
もう少しの隙間も厭だ、けれどその瞬間にはきっと、痛くて泣いてしまう。溢れそうになるものを、歯を食い縛って耐えるごとに、放出を戒められた感情に殺されてしまいそうになった。
交差する吐息の中で、時折由成が名前を呼んだ。恭さん、恭さん。変わらない呼び名に、苦しさと愛しさが相俟って、どれほどその声に焦がれていたかを知る。
還っていく。望んだ通り、排水口にでも捨てるつもりでいた感情は、全てこの胸に還っていく。一度は心から流れ落とした感情が、異物となり、棘を含んで還ってくる。綺麗だったはずの感情は、汚れにしかならない。
――それでいい。
唐突に、陳腐な質問が、頭に浮かんだ。
「――由成、」
受け入れた苦しさに身体を強張らせながら、恭一は言葉を継ぐ。何、と囁きで答えた由成の顔を、その膝の上から見下ろして、恭一は微かに笑った。
「俺と、あの女が死にかけてたら、おまえ先にどっちを取る。……どっちを、助けようとする」
由成は僅か、眉を寄せた。汗ばんで滑る腰を捕まれて、一思いに引き落とされた衝撃に喉が鳴る。誤魔化される、と思った瞬間に、囁きが落ちた。
「……俺は、瑞佳さんを絶対に助けようとすると思う」
――それでいい。吐息に混ぜて応えようとしたとき、由成の声が答えを奪った。
「……あんたは、絶対に、死なない」
祈る響きのそれに、笑ってしまった。問い掛け以上に陳腐な答えは、由成の真実だろう。
「やっぱりおまえ、ただの欲張りじゃねえか……」
――使いものにならない。
こんな身体なら、もう、幾らだって好きにしてくれていい。
恭一は、泣きながら何度も射精した。
冷たい指先で、部屋の隅から灰皿を引き寄せた。その前に、長く伸びた灰が口元から畳の上に落ちる。落下の間に熱を失ったそれは、無様に欠片を散らした。摘み上げようとしても、その先からボロボロに崩れてしまう。この指だけで綺麗に片付けられない灰は、何かに似ている、と唐突に思った。
「おまえ、部屋借りてんだろ。そっちで寝たらどうだ。このままだと宿泊代ふんだくられるだけじゃねえか」
恭一がその腕の中から抜け出していたときには完全に眠っていた由成も、とうに目を覚ましている。寝返りを打っているのか、それとも布団から抜け出そうとしているのか、背後で何かが動く音がした。
「金払ってんなら、わざわざこんなボロに寝泊りするこたねェ」
「いいんだ。――離れたくない」
「……そうか」
笑ってしまうくらいに率直な言葉もただそっと受け入れて、恭一は指先につまんだ灰を灰皿に落とした。
昔、従業員が寝泊りするために建てられた離れで、ここは風の軋む音もすれば雨漏りもするほどに古い。とはいえ労力で間借りさせてもらっているのだから、恭一に文句を言う筋合いはなかった。
「恭さん、――お酒、止めたんだってね」
「身体に悪ィからな。ぶっ倒れて懲りた」
部屋の隅に置いた旧式のストーブ、その上で薬缶が蒸気を立てている風景も、嫌いではない。寒さは完全に凌げないにしても、何よりも趣がある。
「……明日、帰ろう」
背中で由成の声を聞きながら、指先から零れる灰を、今度はきちんと灰皿の上に落とす。
帰ればまた、あの日々が始まるのだろうとぼんやり思った。自分は兄に、彼は弟に。つい先刻までの熱も、嘘のように消し去って、静かで退屈な幸福が始まっていくのだろうと。
「……雄高と家を片付けてるときにな」
なら、もう、拭ってやろう。
迎えに来た、手を差し伸べた、一緒に生きようと言ってくれた。それだけでいい。もう、それだけでいい。だからその心の影を、ちゃんと、今度こそ、拭ってやろう。
「母さんの日記が、出てきた。俺の母親のことだからな、毎日きちんとつけちゃいなかったが――死ぬ前の日まで、残ってたんだ。おまえのことが書いてあった」
そうして、好きに使ってくれていい。
一緒に生きろというなら、一緒に生きてやる。見守れというなら、見守ってやる。血を吐いてでも、必ず叶えてやる。それがお前の幸福なら、必ず、そうしてやる。
「おまえは覚えちゃいねえだろうけどな。母さん、おまえと会ったことがあるんだとよ。何度も、何度も――おまえの心配ばっかり、してた」
懺悔と祈りの詰まったあのノートを、帰ったら由成に見せようと思った。きっとそれで、彼は救われるはずだと思う。
「覚えてるよ」
椛はきっと、何も恨んではいない。それどころか、詫びてもいた。そのことが、きっと由成の心を、救ってくれるはずだ。続けようとした言葉を遮った由成の声に、恭一は振り向き、その顔をじっと凝視した。
「……あの人、いつも俺がひとりでいると、必ず会いにきてくれた。何度も話しかけてくれた。おなかが空いてると、お菓子をくれた」
まさか、と口に出しかけて、目を瞠る。見つめた由成の顔は、とても冗談を言っているようには見えなかった。
「おまえ……昔のことは、覚えてないんじゃなかったのか」
「……覚えてる。少しずつ昔のことを、思い出していってるみたいなんだ。……他のことも、たくさん。恭さんに初めて会ったとき、俺は、なんて怖い人なんだろうって思った。だけどすぐに、やさしい人だって思った。忘れてた分、あのころの記憶は、すごく鮮明に思い出せる。今は、」
声を詰まらせながら、由成が言葉を選ぶように俯いた。ぼやけていた輪郭がだんだんはっきりと浮かんできて、胸すら痛ませる。どうして忘れていたのだろうと、後悔する。
「今は……椛さんのことも、思い出せる。お母さんみたいだって思ったんだ。こういう人が自分の母親なら、どんなに嬉しいだろうって思った。俺が笑うと、椛さんも笑ってくれた。……やさしい人だった」
淡々と、けれど隠しようのない痛みを殺して、由成は続けた。
――何度も、繰り返し夢に見る、と。
「夢に見る。――椛さんが、血塗れで、なのに笑ってる。由成君って、……俺の名前を呼んだんだ」
はっとして、恭一は向かい合った由成の顔を見つめる。青ざめた頬はすっかり色をなくし、それでもとまるで押し出すように、由成は言葉を続けた。
「それがただの夢なのか、本当にあったことで、俺が思い出しているのかは判らない。だけどあの人、俺の名前を呼んだんだ。呼んで、大丈夫かって言って、道路に転がった俺に手を差し伸べた」
――由成君、由成君、
――大丈夫。大丈夫だからねえ。すぐ、誰かがきてくれるから。怖がらなくてもいいからね……
「椛さんのほうが怪我は酷かったんだ。椛さんがすぐにハンドルを切ってくれたから、俺はほとんど無傷だったんだと思う。なのに、あの人、俺に大丈夫だって――車の中から」
ただの夢だ。そう言ってやることが、できなかった。病院に運ばれたとき、母親にはかろうじて意識が残っていたと聞いている。ならば椛が死の間際、由成に声をかけていても不思議ではない。
何もかも、辻褄が合いすぎている。
「――手を差し伸べて、笑ってくれた。あんなに傷だらけで、ひどい怪我なのに、なのに俺のことを心配して」
固く握り締めた由成の拳が細かく震えているのが見えた。閉じた瞼に薄ら涙さえ浮かんで見える。痛ましい告白から目を背けることもできず、恭一は、ただ声を失って由成の語る言葉を聞いていた。
もしも夢なら、また真実なら。
これほどに恐ろしいことはない、悲しいことはない。
「椛さんの顔が、あんたになる」
繰り返し夢になって現れる。
それがもし事実であれば、何故今になって思い出してしまったのだろうと、恭一は夢のように思った。夢であればと願った。今や自分の存在ではなく、彼の記憶自体が影を作る。その心の中に澱を落とす。
「……由成、」
笑っていてくれ。おまえはどうか。幸せでいてくれ。
俺がお前の心に影を作るなら消えてやる。目の前から消えてやる、だからどうか、幸せでいてくれ。願いは届かない。自分の声が、貪欲にそれを凌駕する。
「血塗れで、傷付いてまで笑う椛さんの顔が、だんだん、あんたになる……」
血を吐くように絞り出した声と共に、由成の目尻から涙が伝うのが見えた。一瞬だけ煌いて、ただの水滴になって落ちる。まるで心臓に落ちた針のように、涙は胸を軋ませた。
――しあわせに。なってほしかった。
「あんたは、自分が傷付いても俺を守ってくれていた。それに気付かないで、あんたに甘えてばかりいた俺は……どんなに罪深いだろう」
嘘じゃない。幸福になってほしかった。何も背負わずに、いてほしかった。
――ああ、そうか。
「……俺はな、おまえを守ったことなんて一度もねえんだ」
結局貪欲だったのは、狡かったのは、自分ただ一人だった。
「母さんが死んでから――寂しくて寂しくて、毎日死にそうだった。自分をそういう状況にやったのは、俺だったくせにな」
せめて楠田と馴れ合うことを覚えていれば、寂しくはなかっただろう。代用さえ求めていれば、母の死にあれほどの孤独を感じることもなく、幸福な少年でいられたはずだった。必ずひとりきりで生きていく。必ずこの家を出て行く。そう決意することが、自分を奮い立たせているかのように、意固地になっていた。それを選んだのも、自分自身であることも間違いない。
「おかしいだろう。――…俺は、寂しかったんだ」
意地は、ただ悲しかった。楠田の屋敷へ帰る度、他人の顔をして父親や貴美子と擦れ違う度、胸を押し潰されそうな孤独を感じていた。孤独を訴えることは敗北だと信じ、寂しく悲しい日々を唇を噛んで耐える。そんな毎日は、きっと、虚しかった。
「……だけどあの家にはおまえがいて、それに気付いてから、やっと寂しくなくなって、――嬉しくて。おまえが俺についてきてくれるのが、嬉しくてよ。――初めて口利いてくれたときなんか、どんなに……」
どんなに嬉しかったことだろう。どんなに誇らしかったことだろう。小さな由成が自分に心を開いた証に思えて、はじめて声を聴いたそのとき、涙が出そうになった。自分が傍にいてよかった。この子の傍にいてもよかったのだと信じられた。自分を許せた。
「俺がどんなに嬉しかったか、おまえは知らないんだろう……」
――そう、許せたのだ。
この子の生涯を背負って生きていくことを、自分に許せた。
「……おまえを、一番しあわせにしてやりたかったよ」
この掌から生み出せるものが、ただ彼の幸せであればいいと思った。それが叶わないと知ったとき、自分は自分の存在意義をなくしたのだろう。
「俺が、自分で、おまえを幸せにしてやりたかったんだ」
こんな自分は、使いものにならない。けれど許されるなら、せめてその幸福のために動いていたい。叶わないなら、全てを置いていってくれていい。遠い場所で、幸福になっていい。
「教えてくれ、恭さん」
忘れてくれて、いい。
誓ったのは、嘘なんかじゃなかったのに。
「――どうして俺は、あんたじゃないと駄目なんだ」
そんなこと知るかと叫び出しそうになって、喉が嗚咽に鳴った。そんなことは知らない。知らない。おまえじゃないと駄目なのは、俺のほうだ。どうして。――どうして、おまえだけが。
ひくつく喉は、堪えきれずに小さな嗚咽を漏らす。
どうしておまえだけがこんなに俺を無様にさせるんだ。
おまえだけが俺を不幸にするんだ。
おまえだけが。
恭さん――震える声が、名を呼んだ。全てを捨てると決意したこの自分に縋るよう、声は、小さくささやいた。
「……どうしてあんただけが、俺を孤独にさせるんだ」
――言わせたいのか。
おまえは、それを、俺に言わせたいのか。
涙は落ちて、白いシーツに吸い込まれる。跡形もなく消えていく。
「……離れるな」
恭一は、乾いた喉の痛みを押し殺し、生涯言うはずのなかった、自分に禁じた言葉を、そっと口にした。祈るように、呪うように、囁いた。
「おまえが、俺の人生を滅茶苦茶にして奪ったっていうんなら、一生、俺の傍にいやがれ。一生傍にいて、俺に償ってりゃいいんだ、おまえは、……おまえの」
言葉は、終わりに近付くにつれ途切れて消える。口にしてしまえば、ひどく簡単な言葉だった。許しを与える、代わりに縛り付ける。ただそれだけの言葉を、死んでも口にするつもりなどなかった。由成の一生を罪悪感で戒めることが恐ろしかった。だからこそ、二年前の自分は手放すことを決めたはずだった。互いの傷が塞がらないうちに遠ざかって、触れない場所から幸福を祈ることを誓ったのに。
ずるいやさしさで、誓ったのに。
「……おまえの一生を、俺にくれ」
寂しさは、やさしい誓いを凌駕した。一生を賭けて償えなんて、そんな酷い言葉を口にしたくはなかった、一生口にするはずのない言葉だった。――なのに。
「……約束する」
真摯さを伝えるように、その眼が真っ直ぐに自分を射抜く。近くに見える瞳が、綺麗過ぎて気が触れそうだった。
「俺は一生、あんたの傍にいる。一生を賭けて償う、……何もかも」
――涙が止まらないのは、由成がたった今、酷い愛の言葉に戒められたことを知ったからだ。なのに幸福だった。これでもう由成が離れることはないと、自分勝手な願いが満たされたことが、幸福を生む。由成の胸に欠片にでも罪悪感が存在する限り、自分に対する後ろめたさが存在する限り、何があっても、彼は自分の傍を離れない。それを、知りすぎている。だからこその幸福と涙、――そんなものは、少しも、幸せなんかじゃない。
嘘だよ。そう言って笑ってやりたい。そんなものは、ぜんぶ、嘘だ。おまえはおまえのやり方で、生きていけばいい。――そう言って笑ってやろうと、決めたのに。
「……泣かないで」
差し伸べられた腕を、笑い飛ばそうとして失敗した。やさしい言葉にも笑ってやれる余裕はなく、されるがままに押し付けられた腕の中で、ひたすらに嗚咽を殺す。
こんなものは、いびつで、望んだ形ではない。
狡い自分を知りすぎている、だからこその涙は、もう、止めようとも思えなかった。
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