元々恭一が使っていた部屋は、埃が被っているわけでもなく、物がなくなっただけの形で綺麗に手入れを施されていた。それが由成の指示であり、家政婦の誰かがそうしたものであることは容易く予想がつく。
旅行に持っていった荷物だけを置き、恭一は空に近い部屋を出た。貸し倉庫に預けておいた荷物を早いうちに取りに行かなければならないだろう、と思った。それから早いうちに、アパートでも借りて来なければならないだろう――。
縁側に腰を下ろし、ポケットに突っ込んでおいた煙草の箱を取り出す。咥えて、ぼんやりと庭を見つめた。
当たり前に自分を連れ帰った由成は、今は学校で講義を受けている頃だろう。昨日、この家に帰り着いた頃には、日は暮れ始めていた。充分に眠れただろうかと確認することも出来ないまま、無情に時間は日常に還る。父親は帰って来た恭一の顔を見て、「相変わらず無茶をする」と苦笑しただけだった。
――嘘みたいだ。
静かすぎて、何もかもが、嘘のようだった。
あんなに酷い約束をしたことも、させたことも、ほんの一日が過ぎただけで、夢のように静かな記憶になる。
けれど、確かだった。今更拭いようのない、確かで、鮮明な、記憶だった。
由成は誓った言葉の通り、一生自分の傍を離れないのだろう。何度恭一が逃げても、何度離れても、後を追ってくるのだろう。
だから、今は、幸せにはなれない。
暮れゆく夕焼けに目を凝らしながら、一本目の煙草が短くなりかけたとき、しとやかな足音が聞こえてくる。顔を上げると、長い廊下の向こう側から、瑞佳がゆっくりと歩いてきているところだった。
「ゆっくり眠れましたか」
「……この顔見りゃ、判るだろ」
声に笑うと、瑞佳もひどくひそやかに笑い返す。睡眠なら、充分すぎるほどに摂った。何しろ昨日の帰宅から今の今まで寝過ごしていたのだ。だから由成ともあれ以来顔を合わせてはいないし、勿論瑞佳と会う時間もなかった。
「ご旅行は楽しかったですか」
「まあ……そうだな。楽しくなくは、なかった」
数えれば、一ヶ月以上も前になる。この女と会い、ほんの僅かに会話をかわしてからは。
「おかえりなさい」
由成の子どもを孕む女。由成の子どもを産む女。由成と寄り添うべき女。――由成と、生きるべき女。
「言いそびれていましたから。あなたには」
「帰るって言ってもな。住むとこさえ決まりゃ、俺はまたすぐにでも出てくつもりだ。ここに長居するつもりはねェよ」
そう告げると、女は静かに、悲しげな目を見せた。ああ、似ている、と思う。唐突に、この目はいつかの何かに似ている。
「――お茶、持ってきましょうか」
「いや、……あんた、体が弱いんだろう。そんなことしなくていいよ」
瑞佳は視線を合わせると、その可憐な面に薄っすらと笑みを掃いた。――その微笑み方さえ、作り物染みていると、何故か思う。それからふいに、喉に引っかかっていた小骨のような違和感が、するりと解けた。それと同じことを、ひどく昔に感じていたことを思い出したのだ。あの美しい子供はまるで、作り物のようだと。
「体が弱いというほどではないんです。父が過保護だったせいで、自然と周りの方にもそう思われることが多くなってしまって。今はこの通り身重ですから、楠田の方々には丁重に扱って頂いていますけど」
一息に告げると、瑞佳は恭一の隣に腰を下ろした。奇妙だ、と思った。もう今は、焼け付くような嫉妬も感じない、羨みさえ感じない。――由成は、まだ確かに自分を、愛している。知ってしまった今なら、負の感情は湧いてはこない。ならば、この女は由成にとってどんな存在なのだろう。
「子ども、いつ生まれるんだ」
「来年の春には」
そうか、と頷いて、恭一は煙草を土の上に投げ捨てた。二本目に手を伸ばしかけて、躊躇う。お気になさらずと瑞佳は笑ったが、妊婦の前での喫煙はやはり気が引けた。
「由成さんの夢の話を、聞きましたか」
どの話だろう、と少しだけ迷って、恭一は頷く。椛の夢か、それとも描いた未来図の夢か。
「あの人の望みを、了承されて……帰ってこられたのでは、ないのですか。私たちの家族に、なってくださらないのですか」
続いた言葉に、恐らくは後者の話だろうと、あたりをつける。自然と、笑みが零れた。それは、自嘲にすら近かった。
「俺に、どうしろっていうんだ」
由成が望んだ未来図は、わがままで勝手な、狡いだけの夢だ。
「俺なんかがあんたたちの家庭に土足で踏み込んでどうする。そもそも親戚には違いねェだろう。いちいち、家族だの何だの名付ける必要は……」
「それではいけないんです。それでは、由成さんの望みは叶わない。――私の望みも」
瑞佳は、思う以上の強さで恭一の言葉を遮った。
「あなたは、由成さんを、あの人らしく生かす人。だから、あなたじゃなきゃだめなんです。あなたが傍にいなければ、だめなんです」
懸命に言い募る横顔に、ふいに不安が過ぎる。――この女は、もしかして、全てを知っているのではないだろうか。
「……あんた、どこまで俺たちのことを聞いてるんだ」
培った全て、壊れた全て、いびつに再生した全てを、掌握しているのではないだろうか。
「あなたはまだ、ご存知ではないのですね」
問いかけに、更なる問い掛けで答えた瑞佳は、己の腹に掌をあてた。
「まだ、由成さんはあなたに何も、話していないのですね。それもまた、あの人らしいことではあるけれど……」
触れるだけの掌に、僅か力をこめて、瑞佳は顔を上げた。弱々しいばかりだと思っていた女の瞳に、痛いくらいに輝く強さを見つけて、恭一は息を呑む。
「この子は、由成さんの子どもではありません。あの人の血なら、僅かにも継いではいないのです」
その眼差しの強さに、どんな理由が込められているのかを、恭一はまだ知らない。
けれど、この女は強いのだと、――ただそれだけのことが、唐突に判った。
「おまえの子どもじゃねーって、どういうことだよ」
堅苦しいネクタイを緩めながら、工藤敦は呆けたように口を開けた。今日は彼の所属する研究会でプレゼンテーションがあり、そのために着慣れないスーツを着ているのだ。
「DNAでいうなら、俺の子どもじゃないっていうことになる。でも、俺の子どもなんだ。俺と瑞佳さんの子どもなんだよ」
「わけわかんねえ……」
着慣れないスーツに疲労を一層増させているはずの工藤は、しかし学校が終わるなり由成を引っ張って、行きつけのバーへ連れ込んだ。何か話したいことでもあるのだろうかという由成の予想を裏切って、彼は開口一番に「恭一さん、見つかったのか」と切り出した。突然の話題に面食らったのは由成だけで、きっと知らない間に過剰な心配をかけていたのだろう。
「その人に騙されたってこと?」
「まさか。――瑞佳さんは最初から本当のことを話してくれたよ。話さないでいいことまで、全部話してくれた。自分は他の男の子供を妊娠してるから、それを理由に見合いを断ってくれてもいいって。それで、瑞佳さんが幸せになれるなら、俺はそれでもよかったんだ」
恭一を見つけ出し、家へ連れ帰ったまでの経緯を話したところで、話が振り出しに戻ってしまった。自分の妻となる女についての話である。
「瑞佳さんは、どうしても子どもを産みたいって言ってた。でも、きっと、許されないだろうって。それは俺にも判ったよ。多分あの人は、俺との話が破談になったところで、子どもを産むことができないんだ。なら、俺と結婚して、子どもを産んでもらいたかった」
「なんで? 子どもの父親の男と結婚すりゃいいだけの話じゃねーか」
真っ当で、至極当たり前の正論を、工藤は当然のように口にした。本当にその通りだ、と頷いて、由成はグラスの底に残ったアルコールを飲み干す。
「できないんだ。――子どもの父親は、瑞佳さんの父親だから」
静かに告げた言葉に、工藤が声を失って、じっと自分を凝視しているのが判った。彼の想像を上回る現実は、確かに存在する。
孕んだ命を何が何でも守り通したいという瑞佳の気持ちは、由成には、よく理解できた。
――手放したくないんだ。
「あの人は、やっと自分で作れそうな幸福を、絶対に手放したくなかったんだ。賭けてみたいと思った。……俺には、その気持ちがよく判る」
瑞佳を見つめることは、自分自身を見つめることに等しかったと、由成は思う。
「結局俺は、ずっと、母さんに充分に愛されなかったことが、この辺の……胸のほうに、蟠ってたんだと思う。それを、恭さんが埋めて、隠してくれた。瑞佳さんは……埋めてくれる人がいなかった。それどころか、ずっと傷付けられていた。でも、あの人はそのことで、自分を嫌いにはならなかった。いつか必ず、自分で幸せを掴もうって決めて、生きてきた強さがあった。――俺は、瑞佳さんがそういう人だから、愛せたんだ」
工藤が何か、否定的な言葉を言い出す前に、秘密を分け合う。
あの人は、ずっと、強い人だ。
こんな自分なんかよりも、強い人だ。
あの人を不幸にするものなら、神様でも許せなかった。
瑞佳が告げた言葉は、思考の能力を奪う充分な効果があった。
「本当の両親は、幼いときに亡くなりました。それからは遠縁の――今の父の元で育てられました。父はあの頃から未婚で、子どももいなかったせいか、本当に私のことを可愛がってくれたんです。私も、記憶にない両親よりも、今の父のことを大切に思っていたし、大好きでした。――やさしい、父だったんです」
言葉を継げない恭一の代わりに、瑞佳は淀みない口調で続ける。眼だけに、悲しい光が宿った。
「高校を卒業したころです。父が、私を娘ではなく、ただの女として見ていたことに気付いたのは」
六年間、と瑞佳は言った。――それから六年間もの間、望まない関係を続けさせられていたと。
「憎いんです。私は父のことが、本当に憎い。殺してやりたい」
変わらぬ声音のまま、瑞佳は呟く。静かな分、それは胸に迫って聴こえた。――女であることは、最早業でしかない。誰の言葉だっただろう。遠い昔、聞いたことがあるような気がして、けれど思い出せない。女として生まれただけで、生まれながらに業を背負う。
「……だけど、愛している」
――けれど。
女にしか得れないものがある。
「父の行為にも、決して抗えないわけではありませんでした。けれど私は……恐ろしかった。拒絶することで、父からの一切の愛情を失ってしまうことが、怖かった」
「そんなの……」
――酷い、話だ。言いかけた恭一を遮ったのは、瑞佳の穏やかな微笑みだった。
「だから、父のことを、愛しているのも確かなんです。泣いている私を慰めてくれた。叱ってくれた。誉めてくれた。そういう日々が、私の父への情を、断ち切らせてくれないんです。それを偽りだと思えないのも、私の本当です」
愛している、けれど憎んでもいる。憎んでいる、けれど愛してもいる。理不尽に思えても、その異なる感情が同時に存在することが事実であることを、恭一は身を持って知っていた。
「私は父のことを、男としては愛せませんでした。それが私の不幸の始まりなんでしょう」
ふいに気付いたことがある。
彼女は、由成そのものだ。
まるで鏡合わせをしているかのように、彼女と由成は、全く同じものだった。
――これは、自分を愛さなかった、由成の姿だ。そう思うと、背筋が凍りつくような気がして、恭一は知らずに掌を強く握り込む。そして、一方的な執着が見せる果ての結末に、怯えたように胸が震えた。
「何があっても、この子を産みたかった。それが私の復讐であり、父への愛情なんです」
人の心は、ひとつにはならない。ひとつでは、ありえない。
愛しているのに、憎しみを、捨て切れない。――それで当たり前なのだと、瑞佳は言った。
「この子を産んで、新しい幸福を手に入れたかった。私だけに作れるものがあると、信じたかった。それに手を差し伸べてくれたのが、由成さんです。あの人は……一緒に家族を作ろうと言ってくれた」
「――滑稽だな」
思わず口から突いて出る。なんて滑稽だろう。
ありあわせのものを張り合わせ、むりやりに作り上げた。なんて滑稽な姿だろう。
「滑稽ですね。……由成さんは、普通の家族の形など知らないと言っていました。――そして私も、そんなものは知りません。だから、いびつでも、いいんです」
瑞佳の苦しみも悲しみも、由成が背負う必要などない。けれど彼は、それを糧にしたいと信じたのだろう。楠田という檻の中で、彼は自分の居場所を作りたかった。そうして運命のように、同じ悲しみを分け合える瑞佳と出会った。―-それは、なんという幸福だろう。
「いびつでも、私と由成さんらしい家庭が作れれば、きっとそれでいいんです。私たちはきっと、普通の夫婦のようにはなれませんから」
――なんて幸福だろう。
きっと彼らは、彼らで作り上げていく。知らないから幸福になれないなんて、そんな馬鹿な話があるわけがない。だからきっと、大丈夫だ。この女は、きっと幸福になる。ならなければならない。そうして、由成も。
「そこに、あなたがいてほしい」
白い指が伸び、それは羽のようなやさしさで恭一の掌に被さった。冷たくもない、ただひたすらに暖かい指先が、固く手を握り締める。痛みは、瑞佳の願いの強さを思わせた。
「あなたがいて、あなたが由成さんを何よりやさしくさせる。由成さんは、私やこの子を幸福にする。――それが、私たちの見る夢です」
ああ、希望だ。
この子は希望だ。
「俺は……」
瑞佳が孕むのは、希望だ。
それを産み落とす瑞佳も、希望に違いない。
「俺はいつか、あんたから、由成を奪わないだろうか」
涙が落ちる。その感情に、つけられる名前はない、と思った。愛している。愛している。その幸福に、使いものにならないと思っていた自分が、確かに機能する。――愛してるんだ。
「さっきも言いませんでしたか」
ただそれだけの感情が、由成を彼らしく機能させるというのなら、幾らでもやれる。幾らでも、切り落としても、抉り出しても、放り出しても、いい。
「あなたは、由成さんを、もっともあの人らしい状態で生かすことが出来る人。あなたなしでは、私が望んだものも、あの人が望んだものも、ありえないんです」
幸福だ、と思った。
もしも生まれてくる子どもを愛することができれば、そうしてその子が少しでも、自分の存在を求めてくれれば、――それはきっと、これ以上にない幸福だろうと。
最後まで唖然とした顔をしていた工藤は、別れ際には何かを決心したかのように唇を引き締めて、こう言った。
――俺よくわかんねーんだけどさあ、結婚祝いとか、出産祝いとか、何やればいいの?
その言葉に、自分が分け与えた秘密を、秘密のまま胸に仕舞っておくことを彼が了承したことを知って、由成は微笑んだ。
瑞佳の腹に宿った命が、自分と血が繋がらないことは、父の庸介すら知らない事実だ。二人して世間を謀っていこうと決めたのである。
知るべき人間だけが、知っていればいい。
その子どもが生まれ落ちたときに、例えばあの男だけは、何かに気付くかもしれない。瑞佳の身体に植え付けた、自分の何かに、気付くかもしれない。――それで、いい。それだけで瑞佳の復讐は終わる。そして、生まれた命を、復讐だけで終わらせはしない。
早く生まれておいで、と由成は、何度かその腹に話し掛けたことがあった。瑞佳はくすぐったいような顔をして、そっと自分の腹を撫でていた。ぎこちない、一般的な夫婦の遣り取りを真似ているようで、二人して顔を見合わせて笑った。きっともうすぐ、そこにもう一人が加わる。自分の大切なあの人が、早く生まれておいでと、ぶっきらぼうな顔をして言うはずだった。
世界はきっと、思う以上の幸福に満ちている。
だから早く生まれておいで、と思えることが、とてつもなく幸福だった。
――幸せに。してあげるよ。
門を抜け、自宅の庭を抜ける最中に目を遣った紅葉は、既に葉を落としはじめ、凍える季節の到来を告げている。けれど少しも、寒くはなかった。
夢を、見ている。
――必ず俺が、幸せにしてあげる。
庭を通り過ぎると、遠く見える縁側に、瑞佳と恭一が二人して腰を降ろしている姿が目についた。何事か込み入った話をしているように見える。――ああ、話してしまったのか、と思う。きっとあの人は、人生の中で一番に辛かった記憶を、恭一に話してきかせたのだろう。そうして、夢の話を、しているのだろう。
陳腐だと笑うだろうか。けれど、それがもしも叶えば幸福だと、あなたは思わなかっただろうか。少しでも思ってくれたなら、それでいい。それが、夢を叶える糧になる。自分の生きる糧になる。
少しずつ近付いていく最中、恭一が何事か囁いて、自分の目尻を荒く拭う姿が見えた。――泣いて、いるのか。
早く、と思う。
早く、生まれておいで。
気付いて、恭一が顔を向けた。ゆっくりと視線を合わせる、その目が、潤んで赤く見える。震えた瞳の奥を和らげて、彼は、ちいさく微笑んだ。いいようのない感覚が胸中に充ちて、そこから身体いっぱいに、暖かい何かが広がっていく。それを、幸福と、呼ぶのだろう。これが、あなたと生きる、幸福なのだと。
ほら、きっと、幸せになる。
――愛してるよ。
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