穏やかであるはずだった午後、赤ん坊の泣き声が、けたたましく屋敷を揺るがした。毎度のこととはいえ、容赦のない泣き声は耳につく。小さく舌打ちして、恭一は仕事を中断すると勢いよく襖を開いた。
「おいッ、泣いてんじゃねェか!」
「そりゃあ泣きますよ。赤ん坊ですから」
開口一番に叫んだ怒号をさらりと受け流した瑞佳は、春の暖かい日差しを受けながら庭に立ち、赤ん坊を抱いていた。まだ泣き喚く赤ん坊の必死さとは対照的に、瑞佳の受け答えは至って呑気である。
「……腹減ってんじゃねェのか」
「さっきあげたばかりなんです」
「おむつは」
「さっき替えたばかりなんです」
夜泣きはそれほどひどくはないが、一度むずがりはじめると、中々機嫌がよくならない。まだ首も座っていない頃なら、どの赤ん坊もこうなのだろうか。頭を抱えたくなった。
「もしかして、お仕事の途中でしたか?」
「もしかしても何もお仕事の途中だよ。ちくしょう。女のくせして、なんだってこんなデカい声で喚きやがるんだ」
「赤ん坊ですから」
朗らかに笑う瑞佳を余所に、やはり赤ん坊は泣き止まない。仕方なく縁側から庭に降り、瑞佳の傍らに立ったところで、赤ん坊に変な顔をして見せる。
やはり泣き止まない。
「……おまえが笑ってんじゃねェよ」
「すみません。──まだ、泣き止まないと思いますよ、それじゃあ」
くつくつと肩を震わせたのは、赤ん坊ではなく瑞佳のほうだった。そうしている間にも赤ん坊の泣き声は激しさを増していく。何が悪いのだろう、と二人して顔を見合わせ、ほとほと困りかけたそのとき、背後から余り聞きたくもないような声が聞こえてくる。
「おまえのように怖い顔をしている男がいれば、そりゃあ赤ん坊だって泣くさ。さあ、私に貸したまえ」
いつの間にやって来ていたのか、休日だというのに相変わらず由成を引っ張り出しては連れ回している、楠田宗司がそこに立っていた。その後ろには由成と、相変わらずガードマンのような厳つい男が佇んでいた。
「もう帰って来たのか」
「うん、宗司さんも急ぐような仕事はなかったみたいだから、うちに寄ってもらった。旭に会いたいって……」
「お腹もいっぱい、おしめも濡れていないとなれば、眠たいのだね。どれ、私が子守唄でも歌ってあげよう」
「……止めてくれ」
穏やかな睡眠には、母親の子守唄が一番に決まっている。瑞佳に目配せすると、楽しそうに笑いながらも彼女は赤ん坊を連れて屋敷の中に戻っていった。そういえばそろそろ昼寝を与えてもいい頃合だ。
「由成、おまえも行ってやれよ。あの泣き様だと、瑞佳ひとりじゃ手を焼くだろう」
頷いて、由成が去って行った背中を追う。二人を見送りながら、宗司が笑った。
「旭というのは、いい名だね」
「そりゃどうも」
赤ん坊にそう名付けたのは、他の誰でもなく、恭一である。妙な話ではあるが、そう言った意味では「親」であることは間違いない。
昇る日のように鮮明であれと祈った。
希望を抱いて生まれろと願った。
「そういやテメェ、よくも俺を謀りやがったな」
何の話だと惚けた顔で、宗司は首を傾げる。その呑気な横顔を睨みつけ、恭一は再び縁側に腰を降ろした。
「あいつらがとうの昔からの恋仲だの何だの、全部でっち上げたデマじゃねェか。……最初ッから騙すつもりだったんだろ、俺を」
「そんな今更の話をまだ根に持っているのかい? 庸介さんにも知らされていない話を、まさか君に言えるはずがないと思ったんだよ」
宗司は苦笑して、恭一を見下ろす位置からそっと呟いた。彼はすべての嘘を承知して、由成と瑞佳の婚約に一役買っていたのだ。
「……私にも、誰が敵で誰が味方か、わからなくなることくらいあるんだよ」
呟きに潜んだ僅かな本音に、恭一はふと睨みつける視線を和らげ、代わりにじっとその顔を凝視した。誰が敵で、誰が味方か。おまえは、いつもそんなことを考えながら生きているのか。問い掛けかけた唇は、結局小さな笑みを浮かべて歪んでしまう。旭が生まれてからというもの、何かと理由をつけて彼がこの屋敷に立ち寄る理由を、垣間見たのかもしれない。
「……テメェも寂しい人間だな」
寂しかった場所に、今は、暖かな日が降り注ぐ。
――朝昇る陽のように、きっとそれは、希望になる。
終わりがもしも来るとしたら。
そのときは何から始めよう、ということを、恭一は最近よく考える。矛盾を含んでいるようで、その実少しも矛盾していない。終わりを初めて意識したときに、さて今から何を始めようかと考える。新しい何かを意識する。――そういうものなのだろうと、思うのだ。
だから、何から話そうと今から考えておくのは、別に間違った話ではないはずだ。
宗司が去り、暮れ始めた日の中、もう赤ん坊の泣き声は屋敷には響かない。
まだ縁側に腰を下ろし、煙草をふかしていた恭一の耳に、かすかな足音が届いた。
「旭、寝たのか」
「うん。瑞佳さんも」
「しょうがねェなァ……」
唇で煙を弾き出しながら、恭一は笑った。赤ん坊を寝かしつけようとして、つられた母親が寝てしまうのはよくあることだ。
「……窮屈だろうな」
「――うん」
夕日に照らされた由成の横顔を見上げ、そうして、母親になったばかりの女に思いを馳せた。瑞佳はひどく大人しい女だ。およそ古風で、自己主張といったものに欠けている。そんなふうに従順に見える女でも、外に出たいと思うことはあるだろう。この家を出て、自由に生きたいと願う日が、きっといつか。
「今はまだ、きっと幸せでいてくれるんだろうけど……」
彼女は檻に囚われている。その中で、生まれたばかりの幸福に縋り付いている。そのままで彼女は本当に幸福だろうかと考えるのは、自分ばかりではないようだった。
「あと何年かしたら……瑞佳さんも、母さんみたいに誰かに恋をして、ここを出たいと思うようになるかもしれないね」
恭一の横に腰を下ろし、由成は独り言のように呟いた。
どんなに大切にしても、繋ぎ止められないものはある。
「……俺は、あの人を幸せにはできるけど、恋はあげられないんだ」
「……そうだな」
やはり自分たちはいびつで、どこまで行っても、綺麗な形には収まらない。それでもと思うのは、わがままだろうか。
もう少し、あともう少しと願うのは。
「仕事、まだ終わらないのか」
「もうちょっとだな。旭が泣かなきゃ、もう仕上がってる頃だ」
――考えている。
この幸福はいつまで続くだろうと。
必死に繋ぎ止めることで保っている、必死に手を伸ばして繋ぎ合わせている世界を、自分たちは愛している。バラバラにならないように、努めて掌を伸ばしている、幸福というものは、そういうものでいい。無様なくらい懸命なのが、丁度いい。
けれど伸ばす腕がひとつでも疲労に降ろされてしまったら、別の方向を向いてしまったら。それを引き止める術を、自分たちは持たなかった。
「恭さんの仕事が終わったら、みんなでどこかに行こうか」
「はあ? どこにだよ」
「……ピクニック?」
「ばかじゃねえの」
今は静かなこの胸に、もう二度と憎しみが溢れないことを、祈った。
必死に紡いでいけるよう、繋がっていけるよう、願った。
「わざわざ出かけて葉っぱ見ろってのか」
「葉桜もそんなに悪くないよ」
「虫が出るだろ、虫が」
生まれたての赤ん坊の無邪気な笑みについ微笑んでしまいたくなる、そんな胸の擽ったさを持つ自分を、生まれて初めて知った。幼かった由成の手を引いたのとは違う感情で、その女の児を抱き上げるこの腕が。
それだけが、いつまでも、自分の本当であるように、祈った。
由成の肩に額を預け、恭一はそっと目を閉じた。驚くことも嫌がることもせず、由成はその重みを受け止める。身じろぎすらしない当たり前の体温に、恭一はひどく安堵した。
「……眠てえんだ」
「うん」
「起こすなよ」
「――うん」
考えている。
幸福のその先の話を。
このてのひらにある、暖かな日差しの話を。
例えば、いつか、おわりがきたら。
いびつな幸福に亀裂がもしも入ったら、あの子の幸福を自分が阻んだとしたら。
――きっと、終わりにしてやる。
縋りたい自分を、終わりにしてやる。
支えるように由成の手が肩に回り、かすかな力で引き寄せられるのを感じた瞬間、ふいに笑い出したくなった。それは少しせつなく、泣きたい気分にも変わって、鼻の奥を痛くさせる。
だからそのときは、何から話そう。
せめて伝えることは許されるだろうか。幸福に終わりがくるとして、その間際に、愛していると叫ぶことくらいは、許されるだろうか。
――今もまだ許せない自分を、今度こそ許してやれるだろうか。
ああ、終わりのない──
やさしい光の中で、恭一は穏やかなまどろみに就いた。
夢を見ている。
静かに、幸福な夢を、見ている。