夏逝けば--金魚3

「そういえば……矢野さんはどうしてテニス部に?」
 汚れた皿を片付けながら由成は矢野に尋ねた。四月に入部した由成よりも少し遅れて、五月か六月ごろ に彼は入部してきている。二年生の彼を自分と同じ新入部員と呼ぶのは少し違和感があった。やはり彼も由成のように、友人にせがまれて入部したのだろうか。
「楠田くんは、工藤くんに頼まれてココに入ったんやって?」
 テニス部所属の工藤敦は中学からの友人で、由成をテニス部に引き摺り込んだ張本人だ。何の因果か中学三年間同じクラスだったのに加え、打ち合わせたわけ でもないのに同じ高校に通い出してからもクラスメイトなのは変わらなかった。工藤と自分、そして恭一と雄高を見ていると、腐れ縁というのは本当にあるもの だと思う。
「あいつ、中学のころからテニスやってましたから。高校行ってもテニス続けるとは言ってたんですけど、部活のこととか調べなくて、ウチに入学しちゃって ――」
 幼いころからテニスをやっていた工藤は、入学してみれば廃部寸前のテニス部の状況を知って愕然としたらしい。圧倒的に部員が足りないのだ。
「今年はまだ廃部ギリギリの人数だけど、来年潰れちゃ意味がないからって言ってたから。仕方なく」
 由成は部活動をする気はなかったが、名前だけ貸してくれればで良いという友人とテニス部部長の熱心な言葉に首を横に振る理由もなかった。
「けど、合宿に参加するくらいなんやから、割りと君も好きなんやろう。テニス」
 ええまあ、と由成は曖昧に頷いた。確かにやってみれば意外とテニスというスポーツは由成の性に合ったらしい。バイトのない日は極力部活動に顔を出してい るし、本来なら毎日バイトで稼いでいるはずの夏休みでさえ、わざわざ連休を取って合宿に参加した。
「何や、はっきりせんなあ」
 しかしこの二泊三日の合宿に参加したのは、純粋な動機だけではない。
「――家からちょっとでも離れられるのって、こういう機会じゃないと出来ないじゃないですか。それこそ家出でもしないと」
 落とすように呟いた由成の言葉は、蛇口から流れる水音に消されたかに見えた。しかし、それよりも矢野の耳聡さの方が上だったらしい。
「家、出たいんか?」
「いえ、そういうわけじゃないですけど――」
 そう、自分は決して家を出たいわけではない。恭一と自分の、あの家を。
「別に何が不満ってわけじゃないんですけど。……少し家から遠ざかりたいときってありませんか」
「家、厳しいん?」
 尋ねられて、由成は少し考えてから首を横に振った。恐らく恭一は、自分が外泊をすると言っても駄目だとは言わないだろう。隠れて心配くらいはするかもし れないが、無碍に外泊を却下されるほど過保護に育てられたわけでもない。
「ほんならわざわざ合宿なんかに来んでも。友達の家適当に渡り歩いてたらええのに」
 おかしそうに矢野が笑う。無駄な体力使うなあ、と至極まともな感想を漏らした矢野に、由成は苦笑染みた笑みを返した。
「――俺、友達少ないから」
 何がそんなに面白いのか、由成のその言葉にも矢野は腹を抱えて笑い出す。怪訝に眉を寄せて矢野を見つめると、漸く矢野は笑いを収め少しだけ真面目な顔付 きになった。
「うん、けど、……判るで。俺も家出て来たクチやけど」
 蛇口を止め、濡れた手をタオルで拭き取りながら矢野が呟いた。それはどういう意味かと尋ねようとしたのに、既にそのときには矢野は由成に背を向けてい る。部長に呼ばれ、そちらに向かおうとしている矢野を引き止める言葉は、由成にはない。
 そう言えば矢野は、一学期の不自然な時期に転校してきたらしい。それにはきっと様々な事情があるのだろうと考えて――由成は溜息を落とした。どうも、思考が下世話になっている。矢野の事情などどうでも良いじゃないか。自分にだって、誰にも話したくないことは山ほどある。
 例えば、本当の意味では由成は家なんてとっくに出ていること。血の繋がらない年の離れた兄に、長く悶々とした片想いをしていること。
「――由成、」
 矢野の後に続こうと、同じようにタオルで濡れた手を拭っていると、由成の傍にやって来た工藤が声を潜めた。
「悪いな、合宿まで付き合わせちゃって。ホントは名前だけって約束だったのに。練習も、ある程度人数がいないと出来ないからさ……」
 申し訳なさそうに頭を下げる工藤に、由成は軽く笑みかけた。
「気にしてない。気分転換になって丁度良いし、夏休みの思い出になるよ。…バイトの思い出しかない夏休みにならなくて良かった」
「恭一さんちゃんとメシ食えてんの、おまえがいない間さ」
 工藤は、由成が恭一に向ける好意に気付いている。面と向かって確かめられたことはないが、多分気付いていて、それでも嫌悪もせず責めもせず、見守ってく れているのだろう。誰かに自分の秘している部分を知られているのは本来なら厭うべきことなのに、知っていて何も言わない工藤の存在が、由成には有り難かっ た。
 しかし工藤のこの言葉は聞き飽きた。何しろ工藤は中学の修学旅行のときも、高校に入ったばかりで行なわれるオリエンテーションのときにも、同じ言葉を由 成に言ったのだ。付き合いが長いくせに、工藤は由成の言葉を覚えない。
「……あの人は俺がいなくても、本当は何でも出来るんだよ」
 だって俺に料理を覚えさせたのだって、恭さんなんだから。
 恭一は何でも出来る。料理だって洗濯だって掃除だって。――だから、自分がいなくても大丈夫、と。
 由成が告げた言葉に、工藤は複雑そうな表情を見せる。そのことに気付いていながらも、由成は敢えて工藤から視線を逸らした。
 ――見上げると、汚く曇った窓ガラスから、美しい満月が見えた。

 


「――ええ相変わらず。ピンピンしてますよ」
 始末が悪い。恭一は胸の中でだけ舌を打つ。
 そう、この女は本当に始末が悪い。最後に姿を見せたのは何時だったか――それも随分前のことで、毎度のことながら連絡なしにやって来る。こちらは心の準 備も何もあったものではない。
 そう、と恭一の言葉に相槌を打って、玄関からリビングへと上がり込んだ貴美子は、ソファに腰掛ける雄高を見てにっこりと「あら雄高さんいらっしゃってた の、」と微笑んだ。その瞬間、雄高が逃げ腰になったのを恭一は見ていたが、勿論逃がしてやるつもりなど毛頭ない。「じゃあ俺はそろそろ……」と雄高が言い かけるのを、足を踏み付けて止めてやる。
 貴美子は雄高のことを事の他気に入っていた。雄高は学生時代の成績もよろしければ教師からの受けもいい、大人からは好かれ易い典型的な優等生だったの だ。とはいえ、恭一との友人付き合いが長いことからもわかるように、あれもこれも表向きの話である。
「私の用は直ぐ済みますから」
 渋々ソファに腰を沈め直した雄高に向かって、貴美子は静かに口端を上げて笑った。その笑みを見て恭一は、あぁ、と思わず目を瞠る。由成だ。この笑みは確 かに由成だ。確かに由成は、この女から産まれた……。
「由成は? 部活かしら」
 部屋の中を見渡し、息子の姿を見付けられなかった貴美子が緩く首を傾げる。寝起きのまま整いもしてない髪を何とか一括りに纏めようと四苦八苦しながら、 恭一は頷いた。
「部活の合宿で今朝から出かけてる。帰るのは明後日の昼頃だと言ってたが――」
 本当は(恭一の為に)明後日の朝には帰って来ると由成は告げたが、そんなことを教えてやる義理はない。むしろ今回の突然の来訪は都合が良かった。由成は いないのだ。恭一はどうしても、この女と由成を会わせることに乗り気ではない。
「残念ね、あの子とも久々に話をしたかったのだけれど――、」
 何を白々しいことを、いまさら。胸の中で毒づきながらも、恭一はつとめて笑顔を絶やさなかった。それで今日のご用件は、と見兼ねた雄高が助け舟を出す。
「お邪魔でしたら俺は席を外しますが――」
「いいえ、構いませんわ。由成は雄高さんにもお世話になっていますし。あの子はご迷惑を掛けていなければ良いのですけど」
 迷惑とは何だ、由成は俺以外の誰にも世話も見てもらわずに立派に育ったし勿論迷惑なんざ誰ひとりにも掛けたことはない、それをオマエが言うかオマエがと吐き捨てたいのを懸命に堪えて、やはり恭一は笑顔を保った。
 雄高に促されて、貴美子はまず白い封筒を鞄から取り出した。中身は聞かなくても判る。
「貴美子さん、毎度のことだが俺はあんたから金を受け取るつもりはねえ」
 苦々しさを含んだ声で告げると共に、恭一は封筒から視線を背けた。
「――弟の生活費を受け取る兄貴がどこにいるって言うんだ。貴美子さん、俺は成人してんだぜ?」
 同じ家で暮らしている以上、弟である由成を養うのは当然だと恭一は自分の正当性を主張する。そう、恭一が未成年であるならいざ知らず、立派とはいえない が稼ぎのある成人者なのだ。
 由成と暮らし始めて数年、貴美子がこの白い封筒を見せる度に吐き気がした。そんなもので、由成との関係を踏み躙られて堪るものか。意地になって、恭一は 白い封筒を拒み続ける。
 貴美子は困ったように吐息を落とした。
「――でもね、恭一さん。聞けば由成は自分の小遣いをバイトで稼いでいるって言うじゃない。……それは貴方の経済力が、あの子に小遣いも渡せないほど」
「……アイツは、好きで働いてんだ、自分で勝手に!」
 あんまりの貴美子の言葉に、思わず激した恭一がテーブルをガンと殴り付けても、彼女は動じる様子は見せなかった。やっぱり厭な女だ。こんなにあっさりと人の弱いところを突いてくる。本当に、厭な女だ――。
「それも、貴方を気遣ってのことじゃなくて?」
 恭一が激するほど、貴美子は冷静さを増していくように見えた。恐らく恭一の言葉は、彼女にとって予想内のことだったのだろう。
「……貴美子さん。高校生がアルバイトで自分の小遣いを稼ぐのはそんなに珍しいことじゃありませんよ」
 あくまでも穏やかな雄高の言葉にも、貴美子は悠然と笑みを返す。
「ええ。それは知っていますわ。でもね、由成は本来であれば、アルバイトなんてする必要はない子なの。家にいれば気を遣うこともなく、充分な小遣いを与え てあげられるんですもの。――母親である私が」
 だから、と貴美子は続けた。
「恭一さんに無理をして、あの子に小遣いをやれなんてことは言いませんわ。それは母親の仕事ですもの。――だから、そろそろ由成を返して頂戴」
 その言葉に恭一は呆然と瞠目する。――この女は何てことを言いやがる。今更。俺がアイツを引き取って何年経ったと思ってるんだ。俺が由成を引き取って直 ぐ、この女は大喜びで大金を俺に渡そうとした。荷物を引き取ってくれた礼とでも言うように。
「――あんたなんかに、由成を渡せねえ……」
 憤りの中、噛み締めた奥歯から恭一は短く唸った。その言葉を貴美子は一笑する。
「私は由成の母親です。私以上に、由成の居住地の決定権が貴方にあるとは思えないわ。…由成がどうしても貴方のところに居続けたいというのなら、勿論あの 子の意思は尊重するつもりだけれど」
 今更由成を手元に置きたいと言い出したのは、手の掛からない程度に彼が成長したからとでも言うのか。それとも、後継ぎにさせたい由成を家に置いた方が賢 い手だと、気付いたとでも言うのか。今更。
「あの子は何と言うかしら。家に戻れば、今以上に贅沢な暮らしが出来て、気を遣ってバイトで忙しい思いをすることもなく、充分なお小遣いが手に入るのよ。 それは高校生には魅力的な条件よね」
「…あんた、自分が何を言ってるのか判ってるのか…」
「それに、何よりも――私があの子を求めているのよ」
 貴美子のその一言に、恭一の怒りは一気に醒めた。握り締めた掌の指先からすっと熱が冷めていく。
「私が、家に帰って来て欲しいと頼んだら――あの子は頷いてくれるかしら」
 貴美子の言わんとすることが、恭一には瞬時に理解出来た。最初から由成が贅沢な暮らしなどに揺れないことは知っている。――この女は。
 あの優しい子供の中に存在する、母への情を最初から利用するつもりだったのだ。
 それは恭一がどんなに懸命になっても埋められるものではない。埋めてやれるものではない。由成は確かに、自分を省みない母親からの愛を求めていた。その 母親からの頼み事を、優しい優しい由成は果たして拒むだろうか。
 ――恭さん、おれの母さんも、とても綺麗に笑うんだよ……
 幼い日の由成の言葉が強烈にリフレインして、恭一は声を無くした。




 テーブルの上で、携帯が鈍い震動を伝える。同時に軽やかなメロディが流れ始めて、恭一はのろのろと手を動かした。
 絨毯の上に座り込んだ姿勢では、携帯まであと一歩手が届かない。しかし、その場から動くのも酷く面倒だし、ちょっとでも動けばその辺に転がっているはず の酒瓶を踏ん付けてしまいそうだった。あの、幼かった笑顔が脳裏に浮ぶ。あの女に。良く似た顔で。
 見兼ねた雄高が、呆れたように溜息を吐き出しながらそれを恭一へと放り投げた。
「……早く出てやれ」
 携帯は鳴り続ける。
 何か急ぎの用事かもしれないだろ、そう言った雄高の言葉に励まされて通話ボタンを押した。
『――恭さん? ごめん、寝てた?』
 携帯を耳に押し宛てると、すぐに聞き慣れた声が鼓膜を震わせる。声変わりを終えた低い声。幼い頃とは違う。――おれの母さんもとても綺麗に笑うんだよ。 そう告げたときとは、違う声。
「……馬鹿。こんな時間に寝るヤツがあるか……」
 どんな良い子だよ、と笑い混じりに返す言葉は掠れて、どうやっても寝起きの声にしか聞こえない。もしくは。
『……恭さん。泣いてるの』
「……ばぁか。誰がだ。それより何の用だ。用がなきゃ切るぞ」
 由成の言葉は一蹴して、恭一は努めて冷たく言った。そうでなければ、泣いてしまいそうだった。
『待って切らないで。……恭さん、ちょっと外見て』
 今はただ静かに流れ続けるだけの涙に、嗚咽が加わりそうだった。
「――何、」
『月。そっちから見える? 綺麗な月だなって思ったら、恭さんに見せたくなって、』
 言われるまま、恭一は鈍く視線を窓に映した。美しい満月がぽっかりと、暗闇に穴を空けたかのように浮んでいる。電灯を落としたままの部屋の中でさえ、こ んなに明るく見えていたのは満月のお陰かと初めて気付いた。
『……本当は恭さんと一緒に見たかったんだけど、』
「――あぁ。見える。綺麗だな」
 そのあまりの美しさに、胸が震えた。言いようのない感情がどっと胸に押し寄せて、止まりかけた涙がまた再び溢れてくる。
「…おまえ、昔っから変わってねえなぁ……、」
 感受性の強い子供だった。どんなに些細なことであっても、誰も気に止めないようなことであっても、いちいちに感動しては恭一に報告する。由成の見つける 小さな感動を、常に恭一は共に見ていた。そしてまた由成は、恭一が自分と同じものを見ていることに喜びを覚える。――そんな子供だった。
「――由成、」
 今日、いつものように金を渡されるだけならどんなによかっただろう。それをいつものように跳ね除けて、帰って来た由成に笑い話として話してやれれば、ど んなによかっただろう。――いつもの、ように。
「おまえ、もう家に帰れ、」
 恭一は月から視線を動かせぬまま、静かに言った。ああ綺麗だ、今日の月は本当に綺麗だ――。
 電話の向こうで、由成が息を詰めた気配が伝わる。しかし恭一は、動いてくれない唇を無理矢理震わせて続けた。
 ――勝てない。俺は、あの母親には勝てない。ごっこ遊びの延長でしかない兄貴なんかが、母親に勝てるはずがない――
「もう、楠田の家に、帰っても良い時期だ」
 ぼやける視界に浮ぶ月の光が痛くて痛くて、堪え切れず、恭一はそっと瞼を落とした。

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