夏逝けば--金魚3


 その女の名を、椛と言った。
 思えばひどく、古風な女だった。ただ静かにそこに息衝いていて、そっと、男の帰りを待つような女だ。それでも儚げな印象はなく、どちらかと言えば勝気で 男勝りな性質で、よく考えれば不思議な女だったのかもしれない。
 病気とは程遠く、健康的だった女が、交通事故で呆気無く逝ってしまったのは、恭一が十五の歳だった。その歳から恭一は姓を変え、正式に父の戸籍に入るこ ととなったのだ。
 ――楠田と言う名は、
 いつだったか。椛がぽつりと落とすように呟いたのは。
 ――恐らくいつか、おまえを縛るだろうね。
 その言葉の通り、義母の貴美子からは不出来な後継ぎだと罵られ、それでも世間体を気にして恭一を追い出すことが出来ない彼女から事ある毎に不当な扱いを 受けた。しかし、そんな些細な嫌がらせに泣いてへこたれるほど、こちらも殊勝にできてはいない。
 いつかこんな家は出て行ってやるのだと決心するには、そう時間は掛からなかった。しかし、その家の中で空気のように漂うだけの、弟の存在だけが気になっ た。
 幼いその少年は、恭一とは口を利かなかった。それが恭一に対してだけではなく、家族全員、自分に接する人間に対してそうであると気付いたとき、
 ――子供って言うのは、大人を見て育つからな、
 憤りを通り越してやるせなさだけが残った。
 ――喋れない子供ってのは、多分、
 こんなに小さな子供が、自分の意思を伝える術すら持たないなんて、そうそうあっていい話ではない。
 ――誰からも話し掛けて貰えなかったんだろう。
 そんな悲しい話など、そうそうあっていいものではないのだ。
『見ろ、ヨシ。椛ってのは、綺麗な木だろう……』
 友人の言葉を聞いてから、恭一は懸命に由成に話し掛けた。最初は、憐憫に近い感情があったことを覚えている。それでも反応を返さない子供に根気強く話し 掛け続けたのは、こんなに綺麗な子供が笑えば、どれ程に美しい花が咲くだろうと思ったからだ。
『俺の母親と同じ名だ。綺麗な女だった』
 その強張った表情にどれだけ美しい花が咲くのだろうと。
『……あのな、由成。俺は、家を出ようと思ってる』
 遠くはない将来――こんな家など捨ててやろう、出て行ってやろうと決めていた。今すぐに、身一つで出て行く訳にはいかないが、それに近い状態に準備は 整っている。もう自分を戒めるものは、どこにもない。
『……俺と一緒に行くか』
 躊躇いながら問い掛けた。明らかにこの家は恭一の居場所ではなかったが、由成にとってはそうではないかもしれない。何も知らない子供の彼が母を捨て、家 を捨て、自分に着いてくる理由などない。だからこその迷いで、躊躇だ。
『俺と一緒に、行くか』
 ――それでもそう尋ねてしまったのは。この美しい子供の手を離したくなかったのかもしれない。自分の手の中で寵愛して、育てていきたかっただけなのかも しれない。
『――行く』
 望んでも決して得られないものを、繰り返し求め続けるほど由成は子供ではなかった。彼に必要なのは只ひとつのきっかけなのだ。踏み出す、踏み切る、そし て――切り捨てる。そのきっかけを与えてやれるのは、今は自分以外存在しない。言い訳のように恭一は考える。自分は傲慢ではないのだと、そう思い込むため に。
『恭さんと行く。……一緒にいたいんだ』
 初めて聞いたその声は想像よりもずっと綺麗で、透き通るような声をしていた。ふいに、握っていた掌に力が込められる。それは由成の強い意思を匂わせた。
『――母さんも、』
 はらはらと美しく紅葉を散らす庭の大木を、手を引いて一緒に眺めた。梢から落ちて地面に赤い絨毯を作る、その鮮やかな紅を眺めながら、謳うように由成が 言った。
『おれの母さんも、とてもきれいに笑うんだよ、恭さん』
 その言葉に言いようのない痛みを覚えはしたけれど――
 ――俺だけの、小さな、小さな由成。

 

 

 自分が守ると決めたあの小さな肩は、生意気にも自分よりも大きく育ってしまった。可愛い可愛いと日々愛でた幼い顔付きは、精悍なものへと変わってしまっ ている。
 もう今の由成に、「可愛い」と形容詞は言葉は似合わない。
 近所の男子高に通わせているから学校生活はさほど騒がしくはないだろうが、あれほどの男を――しかもどこぞの御曹司らしいという噂もきっと何処からか流 れているだろう――、近隣の女生徒が放っておくわけがない。
 ついこの間、見知らぬ少女が家の前をうろついていたことを恭一は思い出す。何か用かと声を掛けると、締め切り明けで寝不足の上に元々顔付きの凶悪な恭一 が余程恐ろしかったのだろう、「ひっ」と小さな叫びを残して風のように少女は去って行ったが、あれは恐らく由成目当ての女だろう。
 面白くない。非常に、面白くない。
 誰に言われたわけでもなく、自分が好きで考え込んでいただけなのに、不愉快な気分をどうしても殺し切れず、脚を投げ出すと、蹴り上げられたテーブルの足からガンッと大きく音がなった。
「恭さん、行儀が悪い。そのテーブルもそろそろガタが来てるんだ、大切にしてやって」
「うるせェ。壊れたら壊れたでお前が新しいの買って来い」
「またそう言うことを言う」
 苦笑混じりに呟きながら、由成は手際良く作ったフレンチトーストの載った皿を恭一の前に置く。大きな図体をして律儀にエプロンを纏い、台所に立つ由成の 姿をあの少女たちは知らないだろう。あまりの不似合いさに昏倒してしまうかもしれないなどと考えれば、不機嫌さは多少は拭われた。
「幾ら俺だって、こんなに大きなテーブルは持って帰れないよ」
「そんだけ立派に育ててやったんだ、それくらい働きやがれ」
 尊大な態度で言い返しながら、まだ熱いフレンチトーストに息を吹き掛けんでそれを口に放り込む。甘さも焼き加減も申し分ない。何せ由成の作る料理は全て 自分が仕込んでやったものだ。自分好みの料理が出て来るのも当然のことだった。
「俺、もう行くから。皿だけは洗っておいてくれ」
「何だ、食って行かねえのか」
 とは言え恭一が不規則な生活を送っているせいで、料理当番が由成に移ってからは朝食時に顔を付き合わせることは皆無に等しい。珍しく二人揃って朝食を摂 り、いってらっしゃいだの見送ってやるのも偶には良いなど考えていた恭一は、隠れて落胆する。
「集合時間、早いから」
 大きなスポーツバッグを抱えながら、由成はせめてとコーヒーを咽喉に流し込んだ。そう言えば今日から部活の合宿だと言っていたのを、恭一はぼんやりと思 い出す。
「何日間だっけな、」
「二泊三日。明後日の昼には帰るよ」
「丁度良いからもう帰って来るな」
「…だからなんでそう言うことを言うのかな、あんたは」
 恭一の悪態にも慣れたもので、由成は静かに笑って見せた。
「お前がデカくなったせいで家が手狭になってきてんだよ」
「――明後日、朝には家に着けるように急いで帰って来るから。そんなに寂しがらないで」
まるで恭一が悪態を吐き続けるのは、由成の不在による寂しさからなのだと言わんばかりの言葉に、恭一は思わず咽喉を詰まらせた。あながち見当違いでもない その読みに、舌打ちを堪える。
「うるせぇ。さっさと行け」
 唸るように言ってから恭一は由成から目を逸らす。輝かんばかりに眩しい時代を生きている少年は、恭一の捻くれた態度にしょげもせずに笑った。
「行って来ます、恭さん」
 少年と言う言葉はもう不似合いかもしれない。それでも彼を男と呼ぶことは出来ない恭一は、苦々しい気持ちを押し殺して手を振った。
「気ィ付けて行けよ。歯磨き忘れんな」
 あくまで由成を子供扱いしたい恭一は、彼に不似合いな言葉で由成を送り出す。
「それから夜更しも、」
「判ってる。もう子供じゃないんだ」
 恭一の複雑な心境に気付いているのかいないのか、由成は穏やかな笑顔を浮かべると扉に向かい、恭一に背を向けた。
 彼は既に庇護を必要としていた子供ではない、そんなことは恭一にも判っている。それでも由成を大人と認めることが出来ない狡い恭一を、由成はいつも笑っ て許した。
 そして真実、由成は完全な大人ではなかった。少年期と青年期とを漂う危うい思春期の香りは、昔の由成のユニセックスなものとは全く別の物で、成熟しかけた男の匂いは酷く恭一を落ち着かない気分にさせる。
「……生意気にデカくなりやがって」
 あの小さな小さな由成が、あんなにも逞しい男に成長することを誰が予想出来ただろう。線の細い美少年は今や押しも押されぬ精悍な青年へと成長しつつあることを、実の母親ですら想像していなかったに違いない。
 由成の成長に目を瞑りたい恭一は、誰にともなく畜生、と口汚く罵ると、フレンチトーストの欠片を甘く咽喉奥に流し込んだ。

 

 

 その日は午前中から慌しかった。まず仕上げた原稿を一番世話になっている出版社の担当である山内が取りに来たし、直ぐに帰るかと思われた彼はその場で世間話兼次のスケジュールを話し始めた。
 纏まった仕事が終わると暫くは身体を休めたい恭一も、熱心な山内の説得に根負けして直ぐに次の仕事に取り掛かることを約束してしまう。軌道に乗り始めた 恭一の作品を今まさに力を込めて売り出すべきだと山内は語ってくれた。それは有り難い、非常に有り難い、――軌道に乗り始めた作品と言うのも、相変わらず官能小説だったが。
 二時間近く粘った山内を漸く帰し、悶々と次の作品の構想を練っていると、招かざれる客が来た。恭一の中ではただの暇人という認識がされている、幼馴染の梶原雄高だ。
 恭一の同居人が不在なのを見て取ると、我が家よろしくソファにどかりと陣取った雄高が首を捻った。恭一は茶を入れてやるような親切な真似はせず、向かい のソファに腰を降ろすと煙草を吹かした。恭一と雄高が揃うと、この家は途端にヤニ臭くなる。
「補習もないのに夏休みにわざわざ学校に行くヤツがいるか。――今朝から合宿だとよ」
「合宿って、部活か。確かテニス部だったか?」
 他人の義弟の部活まで良く覚えてやがるなと毒づきながら、恭一は鷹揚に頷いて見せた。
「人数が足らなくて廃部直前になってるところを、友達にせがまれて人数合わせに入部してやったんだとよ」
「その割には熱心じゃないか。合宿にまで参加してやることもないだろうに。バイトもわざわざ休んだのか?」
「みてェだな」
 人数合わせの幽霊部員同然だと言っても、誰に似たのか律儀な由成は週に何回かは部活動に顔を出しているらしいし、その後に近くのファミレスでバイトまで している。良くも体力が続くものだと最近めっきり身体が鈍ってしまった二人は顔を合わせ、しみじみと感心した。
「小遣いくらい出してやれば良いだろ」
「受け取らねェんだよ。小遣いくらいは自分で稼いでみるとか生意気言いやがって、」
 由成は、恭一の過剰な扶養は強く拒んだ。昔とは違い財政も落ち着いて、高校生一人分の小遣いくらい出してやれないことはないと恭一が言っても、由成は頑 として首を縦に振らない。
「――俺に小遣いをやるくらいなら老後のために貯金でもしろ、だとよ」
「親孝行じゃないか」
「誰が親だクソッタレ」
 数年前まで、確かに自分は由成の「親」だった。授業参観にも運動会にも、年の離れた義兄としてもれなく参加してやったし、彼が身に着ける下着の一枚まで も世話をしてやった。
 しかし今では授業参加のプリントが恭一に渡されることはないし、由成は由成の趣味に合った服を自分で稼いだ金で用意する。
 そして何よりも、彼と自分の間に存在するものが肉親の情だけではないことも知ってしまった。
 ――一年前のあの日、
「光源氏は失敗したか、」
 触れてはいけないものに触れた。
「……あァ」
 恭一は、雄高の言葉に自嘲気味に笑って見せる。光源氏。確かに自分はそれを気取っていたのかもしれない。何も知らない小さな子供を自分の手の中で、自分 好みに育てたかった。
「半分、失敗だ」
 だが由成は自分の予想を外れた成長をした。困るのは、それはそれで恭一の好みをストレートに行ってしまったと言うこと。そして、恭一は自分が思うよりも 案外モラリストだったと言うことだった。
「全部おまえの所為だ、雄高」
 一年前のあの日、噛み付くような痛いキスをして由成は自分を好きだと言った。その言葉に、恭一は驚愕するよりも先に、当然だと納得してしまったのだ。そ うならなければおかしい。恭一は、由成が自分を好きになるように育ててきたのだから。
 由成の目が常に自分に向いているように狡猾に仕掛けた。世界には自分一人しか頼れるものはいないのだと、家から連れ去った瞬間に教え込んだ。それだけの ことが、雄高とのあらぬ行為のお陰で、独占欲と嫉妬という形で由成の中に芽を生やしてしまったのだ。それも恋愛感情という、やり場のない不毛な形で。
「俺のせいか」
「おまえのせいだ」
 似た言葉を唸るように口にして、恭一は頭を抱え込んだ。
 こんな関係は不毛だと、自ら思う。思うような感情を、しかし先に抱いたのは、他でもない恭一である。それは、由成が知る必要はない、知ってはいけないこ とだった。
「わざわざ、男に執着する必要なんてねえだろう」
 若々しい高校生から見れば十も年上の男など、むさ苦しいだけではないのだろうか。
 もしも由成が自分の気持ちを知ってしまったらどうなるだろう、考えただけで背筋が凍った。
「百歩譲って、同じ男でも、学校にでもバイト先にでも可愛いのがいるだろうに……」
 きっと若さ故の過ちと理由を付けてでも、由成は自分を抱くはずだと、思春期の性欲をよく知る恭一は、確信に近く思う。自分が想像していた以上の肉欲を由 成が抱いていることも、一年前に思い知った。
「それでも、どうしても、俺が良いんだとよ」
 だが恋と言う熱病が去った後、由成はどうするだろう、そして自分はどうなるだろう。肉体関係を持った後でも仲のいい兄弟に戻れるだろうか。――答えは簡 単に導き出せる。否だ。
 例え由成が兄弟関係を望んでも、自分は引き返せないに違いない。昔通り笑って彼を迎えることなど出来ないだろう。今この想いを押し殺しているだけでも狂 いそうに辛いのに、一度半端に叶ってしまった恋心を手放さなければならない状況は、恭一にとって死に等しい。
 だから始めから恋愛感情などないものだと考える、それが唯一の手段だった。
「――あいつが、」
 捨てられる恐怖に怯えている、今の状態が心地好すぎる恭一にとって、由成の求愛は喜びを伴う負担でしかない。
「あいつがお前といるときに、背を丸めていることを知ってるか?」
「……あァ?」
 唐突に訳の判らないことを言い出した雄高を、何の話かと怪訝に見遣る。見れば雄高は勝手に恭一の煙草を拝借しているところだった。
「何言って――」
「見下ろすと、お前が不機嫌になるから、だとさ」
 涙ぐましい努力だと雄高は笑って見せたが、恭一にとっては笑い事ではない。そんなところにまで気を遣わせていたのかと軽いショックを覚え、恭一は目の前 が暗くなる。
「……まさか、アイツそんなことまで……」
「俺はお前が何に躊躇っているのかを、一応判っているつもりだが――」
 咥えた煙草から煙を燻らせながら、呟くように雄高が言った。
「――全部、杞憂に見えるな」
「…そうだろうか」
 恭一自身、理由が多すぎて何に躊躇っているのか混乱しつつあるのに、それを判っていると雄高は言う。そして杞憂だ、心配はないと身勝手に後押しするの だ。
「そろそろお前たちが片付いてくれないと俺も困る」
「……なんで」
「お前のところに頻繁に出入りすると、落ち込む奴がいる」
 恭一は、雄高の台詞に思わず盛大に咳込む。そのおかげで痛んだ咽喉に眉を寄せ、取り敢えず恐る恐る、尋ねた。
「……そんなヤツ、いたのか?」
「つい最近」
 成る程それなら自分たちが片付かなければ困るだろう。何せ彼に自分を見張っておいてくれと頼んだのは他ならぬ恭一なのだ。例えば恭一が理性を失って由成 と関係を持たぬようにと、懇願されて雄高は定期的にこの家を訪れていた。
 恭一の理性のタガが外れる頃合を見計らって訪れる、その洞察力は大したもので、所謂一年前のあの日もまさに恭一の理性に揺るぎがかかっていたそのときだったのだ。
「因みに、アレは由成の一つ上だ」
 雄高が自分を止めに来てくれなければどうしよう、あの日は衝動的な性欲を雄高にぶつけてしまったお陰で頭とついでに肝も冷えたが、そういう事情であれば 頻繁にここに通わせるのも忍びない、そんな考えを巡らせていた恭一の思考は、続いた雄高の言葉に完全に停止した。
「――ってことは、」
「高ニか」
「犯罪者」
 恭一の非難に対し、雄高は何とでも言えとでも言うように手で煙を追い払う仕草を見せた。その仕草すら癪に障る。
「――つまり、」
 俺の話はどうでも良い、そう前置きしてから雄高は続けた。
「おまえが壁だと思ってる壁は、そう高くはないってことだ」
「………」
「何が不満だって言うんだ。アイツはおまえに惚れてる、おまえもアイツに惚れてる。それだけじゃ駄目なのか」
「駄目だ。おまえと俺じゃあ、事情が違う」
 唸るように言ってから、恭一は頭を抱えた。
 ――慣れすぎた。
 痛みは、慢性化することを恭一は自分の身を持って知っている。もしかしたら自分が意固地になるのも、痛みがなければ生きていけない性分だからかもしれな いと思う。
 それくらいに、この痛みは恭一にとってあって当然の存在だった。もう随分と、長い間。
 雄高が何事か伝えようと口を開いた瞬間、玄関から来客を告げるチャイムが鳴った。その音に恭一は我に返る。雄高に断ることもせず、真っ直ぐに玄関へと向 かった。どうしてか頭が痛い。
 こめかみを押さえ付けながら、来客が誰かを確認することも忘れて、恭一は扉を開く。
「――はい、」
 どなたですか、そう続くはずの言葉は、咽喉に絡まる。扉の前に佇むそのひとを見た瞬間、恭一は呼吸を忘れた。
「お久しぶりね、恭一さん。あの子は元気かしら?」
「――貴美子さん」
 そこには由成の母親である貴美子が、艶やかに微笑みを浮かべながら立っていた。

 

 

「楠田くん、ちょっとええ?」
 周囲とは少し違ったアクセントで呼ばれ、振り返らずともそのひとが誰かを由成は知ることが出来た。一応は部活の先輩にあたる、矢野という少年がユニ フォーム姿で佇むのを、珍しい思いで由成は見つめる。先輩の前に一応と名のつくのは、名前だけ貸しているはずの由成以上に矢野は幽霊部員で、殆ど部活で顔 を合わすこともないからだ。
「俺の相手してくれるかな。他のヤツ、上手すぎて相手にならん」
 だから集合場所で矢野を見た瞬間、幽霊部員の彼が合宿に参加していることにも実は驚いた。元々の運動神経は悪くはないとは思うのに、矢野は素晴らしく ノーコンなのだ。ノーコンはノーコンと既に諦めている節のある彼が、まさか合宿に参加して真面目に練習をするなどとは思いも寄らなかった。
「良いですよ。でも俺手加減しませんけど」
 自分を卑下しているような、しかし自然な矢野の言葉に、思わず笑いながら由成は頷いた。参ったなあ、と頭を掻きながら矢野はぼやく。
「なんで部員少ないのに、皆こんなに上手いんやー…」
「少ないからじゃないですか。部員数じゃ廃部になるかもしれない人数だから、成績だけでも良いのを残しておきたいんだと思います」
 由成の言葉に、なるほどとあっさり納得して、矢野は早速向かいのコートへと移動してラケットを構える。
「矢野さん、目標は?」
 部活魂を燃やしている正式部員には申し訳ないが、親切心で名前を貸してやっている自分たちの可愛い遊びには目を瞑ってもらおう。手加減しないと言いつ つ、先輩を立てることは忘れない由成は矢野に尋ねた。
「ラリー、10本」
 大真面目に答えた矢野の言葉があまりにも想像通りで、由成は声を立てて笑った。

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