自分のほとんどは、やさしい記憶で作られている。そういうふうに育ててくれる人が当たり前に傍にいてくれた幸福を、もうずっと前から知っていた。
幸福だ。
幸福なんだ。
手を引いてここに連れて来てくれたことが。
俺は本当に、嬉しかったんだ――。
――判ってるのか、恭一。お前がしてることは誘拐だ。母親が騒ぎ出したら、犯罪者扱いされちまうんだぞ。
――んなこた判ってる。けど俺がアイツを連れ出してから何日経ったと思ってる、一週間だぞ一週間。そんだけ経っても、あの女は由成がいなくなったことに すら気付いてねぇんだろうよ。そんな女のとこに、アイツを置いていけるか。
――……あのな。俺が言ってるのはそう言う問題じゃない。世間はお前が思ってるほど甘くないんだよ。
溜め息交じりの厳しい言葉に、けれどと、懸命に言い募る声が返った。これが、自分の大好きな、あの人の声だ。
――判ってる。判ってる。けどな、雄高。アイツをあそこには置いて行けねえ。アイツが初めて喋りやがったんだ。俺の手を、握って。俺と一緒に家を出たいって、アイツが初めて言ったんだ。判ってくれ、お前だけは判ってくれ……。
その声は確かに震えていたと、由成は思う。
そうだ、あのときの彼の声は、確かに少し、震えていた。
震えていて、なのに強い、自分の大好きなあの人の声だった。
――親父さんは、何て言ってる?
――親父は、俺が出て行くことにも由成が出て行くことにもウンともスンとも言いやしねえ。反対もしてなきゃ賛成もしてねえってトコだろう。
――まず、親父さんに、由成君を育てることを、きちんと許してもらえ。それが先だ。……もしそれが可能でも、
――あの女が、由成を返せって言い出したら、俺はアイツを返さなきゃなんねえのか……
苦いものが含まれたあの人の言葉には、言い聞かせるような、穏やかな声が返る。これも、大好きな人の声だ。彼らは自分に、やさしかった。自分にやさし い、大人だった。
――由成君が未成年のうちはな。それからお前もだ恭一。お前が由成君を充分に養えるとは誰も思えないだろうよ。もし訴えられたとしたら、圧倒的にお前が 不利だ。
――……俺は何でもする。
あのとき震えた声をしていた。彼は、少し泣いていただろうか。ぼんやりと考える。だけど上手く、思い出せない。あなたの言葉なら、全てを覚えていたかっ たのに。
――だから力を貸してくれ、雄高。
ゆたか。そう呼ばれた男は、家を出たすぐあとに、一番に頼れる友人なのだと紹介された。彼の前で、そう言えば恭一は少し泣いていただろうか。
――助けてくれ。
――俺を共犯者にするつもりか。
溜息混じりに彼が言った言葉に、自分の望むものを感じ取ったのか、恭一は明るく顔を上げた。だからお前は頼りになるんだと、先刻の殊勝な態度はどこにも なく朗らかに笑う。
――おれは、すこし、それが悔しかったんだ、恭さん……
「ヨシ。……オイ、由成、」
繰り返し名前を呼ばれて、由成は重たい瞼を上げた。ぼやけた視界の中に、心配げに自分を見下ろす恭一の顔がある。
「……何、恭さん」
「ナニじゃねぇ。……魘されてたぞ」
寝起きの掠れ声に眉を顰めながら身体を起こし、手探りで探し当てた時計の針は午前二時を示していた。とんでもない時間に眼を覚ましてしまったものだ。
「悪い夢でも見てたのか、」
「……別に」
ぶっきらぼうに言葉を返す、そのまま再び布団の中へと潜り込んでもぞもぞと心地良い体勢を探した。自分の言葉に、恭一がむっとしたのが気配で判ったが、 何も言わずに再び目を閉じる。
「お前、何だその態度。人が折角心配してやってんのに……」
「恭さんが。一緒に寝てくれないからだ」
返した自分の声は恐らく子供染みているだろう。判っているものの、一度出てしまった言葉を取り戻すことは出来ない。
背後で恭一が絶句する気配がした。
「……おまえ、何子供っぽいこと言ってやがる、中三にもなって……」
「中学に上がる前までは一緒に寝てくれてたじゃないか」
「お前がデカくなったからだろッ、ンな小せェ布団の中に良い図体した男が二人も入るかッ」
「なら、俺、邪魔にならないように小さくなっておくから」
普段はチビだガキだの人のことを平気で罵るくせに、こういうときだけ由成の順調な成長を非難する。恭一の狡さに気付きながらも、敢えてそれに知らん顔を して由成は続けた。
「だから一緒に寝てよ、恭さん。そしたら俺、もう魘されないと思うんだ」
甘えるように上目遣いでそうねだると、恭一は明らかに困った顔で言葉に詰まった。内心しめたと思いながら、態度だけは殊勝に肩を落として恭一の返事を待 つ。
「……判った、判った、今日だけだぞ」
最終的には沈黙に堪り兼ねた恭一が折れた。渋々と頷く恭一に、由成は満足げに微笑った。
そう、こんな風にいつだって、彼は自分に優しかった。
「もうちょっと向こうに行け」
「これ以上は無理だ、恭さん。だからもう少し大きなベッドを買おうって言ってるのに」
「それじゃ毎日俺とお前が一緒に寝なきゃなんなくなるだろうがッ」
俺は別にそれでも構わないよ、呟くように言えば容赦なく頭に拳骨を食らった。
「狭いとこで寝ると肩が凝るんだよ」
それは半分は真実かもしれない、しかし半分は只の言い訳でしかないことも由成は知っていた。例えば狭い空間の中で肩が触れ合う度、また指先が触れ合う度 に恭一の身体が一瞬強張ることを。
由成は、知っていた。
由成が恭一に連れ去られるようにして共同生活を始めてから、五年が経った。五年も経てば由成も成長し、そして当然恭一も歳を取る。物書きという職業柄、 身体を動かす機会のない恭一は体が鈍ったとぼやいては通販で健康器具を買い、その半分は未使用のまま自然と由成へのプレゼントになっていた。
由成が自分の身長に追いつく度に不機嫌になる恭一は、自分のプレゼントがその成長を手助けしていることに気付いていないらしい。由成は、恭一のそんな考 えなしのところが気に入っていた。
――あの手のタイプは自分で自分の首を締めるんだ。しかも上手に無意識に。
そう評したのは誰だっただろう。朝食代わりの菓子パンを口に詰め込みながら由成は考える。
最後の一口を飲み込もうとしたところで、ああそうだ、と思い至った。
(雄高さんだ)
胸の中が僅かに苦いのは、パンを流し込んだコーヒーの所為だと思い込むことにして、由成は流し台に皿とコップを置いた。
梶原雄高は恭一の幼馴染だ。今でも定期的に恭一を訪れては、偶に由成を交えて朝まで呑み明かす。腐れ縁の悪友だと恭一は笑うが、実際は飲み仲間兼親友と 言った関係だろう。
蛇口の水を止めて、濡れた手をタオルで拭きながら由成は時計を見た。先程の菓子パンを朝食と呼ぶには時間が遅かったが、そろそろ恭一を起こしても良い時 間だろう。
折角の日曜日に一人で過ごすのも味気ない。仕事明けで疲れているところ申し訳ないが、恭一には是非自分の遊び相手になって貰わなければ。
五年の間にすっかり強かになった由成は、嬉々として恭一の部屋に向かおうと足を向けた。その瞬間、玄関で来客を知らせるチャイムが鳴る。
来客の正体に心当たりはあった。恭一の仕事上のパートナーである山内は一昨日原稿を受け取ってペコペコと頭を下げながら帰って行ったばかりだし、ここ数 日は恭一はオフを決め込んでいるらしく、切羽詰った締め切りもない。恭一の仕事明け――そして恭一がそろそろ起きるだろう時間――を狙ってやって来る人物 は、一人しかいない。
「……雄高さん」
一応はチャイムを鳴らして見せるものの、由成以外で唯一この家の合鍵を持っている雄高は、家主に断りなくこの家を出入り出来る。来客が雄高だと察して出 迎えもしなかった由成を見て、雄高は小さく眼を丸めた。
「なんだヨシ、いたのか」
「今日は日曜日だから……」
奇妙なことに揃って恭一と同じ職業を選んだ雄高は、やはり恭一と同じように曜日感覚が抜けているらしい。なるほどと合点の行った顔をして、雄高は来客用 のソファに腰を降ろした。
「恭一の仕事明けだってことは覚えてたんだが、そうか、今日が日曜だってことは頭から抜けてたな。悪い」
穏やかに過ぎる筈だった日曜日の午後に騒がしく来訪してしまったことを、雄高は軽く頭を下げて詫びた。ううん、と緩く首を振って由成はそれを否定する。 これまでの自分が彼にかけている迷惑を考えれば、詫びられる必要などない。
「恭さん、まだ寝てるんだ。起こして来ようか、」
「いや、別に良い。暇だから来ただけだ、お前が話し相手になってくれるんなら、あんなのの顔は見なくても」
由成の保護者をあんなの呼ばわりして見せた雄高は、ひどく静かに笑って首を振る。どちらかと言えば騒がしい雰囲気を持つ恭一とは逆に、雄高は静かに笑う 男だった。口にする言葉は恭一のそれと似る粗野な雰囲気はあっても、纏う雰囲気は全く違う。由成は、この穏やかに笑う男のことも大好きだった。
「でも、俺も今恭さんを起こそうと思ってたところだから。待ってて」
恭一の好きなものは無条件に好きになる。自分はきっとそんなふうに育ってしまったのだ。
雄高をリビングに残し、由成は恭一の寝室へ向かう。予想していた通り、恭一はまだいびきを掻いて眠っていた。
「恭さん、恭さん、起きて。雄高さんが来てるよ」
寝顔だけはあどけない恭一は、由成の前では努めて大人びて振舞っている。まるでそうであることを自分に強いているかのように。しかし雄高を前にすると態 度は一変して、まるで学生時代に戻ったかのように喋り方も表情も子供染みる。そういう意味では、由成にとっても雄高は貴重な人物だった。雄高が傍にいると きだけ、自分は普段知ることの出来ない恭一を垣間見ることが出来るのだ。
うるせぇあんなの放っておけと暫く布団の中でごねていた恭一は、四度目の「起きて」に漸く身体を起き上がらせた。
ぼさぼさの頭を整えず、雄高の前に姿を現した恭一は、友人の挨拶を「うるせぇ暇人」と一蹴して向かいのソファに腰を降ろす。
「暇人とは酷い言い草じゃねえか。仕事は終わったのかエロ作家」
「そのまんまだろうが暇人。煩い。文句言うなら帰れ」
容赦なく辛辣な言葉を吐くことで寝ぼけ眼の頭を起こそうとしているようだ。仕事明けの疲れはまだまだ抜けてはいない。
「心配して来てやったんだろう。心配するまでもないか、相変わらずみたいだしな」
来客用と恭一用にとびきり濃いコーヒーを淹れながら、何の話かと由成は首を捻る。仕事の話だろうか。
「ハ。変わるようなこともねェよ」
カップをテーブルに置く瞬間に、雄高と視線が合う。意味深に笑って見せただけで、雄高は話の内容を説明してはくれなかった。
「由成。おまえ、クラスで何番目だ」
「え?」
「身長。随分伸びただろう」
身長の話をすると恭一が不機嫌になるので、面と向かって自分の身長を告げたことはない。だから正確な自分の身長は保護者である恭一も知らないだろう。
「クラスで今後ろからニ番目だとよ、大したもんだろう」
雄高の問いには恭一が踏ん反り返って偉そうに返した。俺が良い物を食わせてやっているからだと言わんばかりの態度だ。
面映い気分を味わいながらも、問うような雄高の視線に由成は頷き返す。
「七十に届くまで、あとちょっとくらい。春に計ったときがそうだったから、もう少し伸びてるるかもしれないけど……」
「もう行ってるだろ、七十くらいは。――中三でその身長って言うのは確かに大したもんだな」
最近の子供の発育は良いと、雄高がしみじみ呟いた。
「そんなことないよ。他のクラスじゃもっと高い子だっているから」
「まだ成長期が終わった訳じゃないからな。これからもグングン伸びて、そのうち恭一を追い越しちまうんじゃないのか」
雄高は揶揄するように笑いながら告げた。その笑みは、恭一に向けられたのか、それとも自分に向けられたものなのか、由成には判らなかった。
「恭一、お前何センチだ」
「七十五」
「チビ」
「うるせェ。帰れ」
とはいえ、恭一の身長は決して低いと笑われるようなものではない。雄高からチビだと揶揄われるのは、雄高が群を抜いて背が高いせいだ。雄高から見れば大概の人間はちいさく見えてしまうだろう。
他愛ない言葉遊びを遣り取りする、二人の間に透明なフィルムが掛かり自分が阻まれているのを感じて、由成は居心地悪くなる。勿論そんなつもりは二人には ないのだろう。由成が勝手に、二人の間に入っていけない空気を感じているだけだ。
「……恭さん、俺宿題があるから」
下手な言い訳しか思い付かず、それでも不自然に由成は腰を上げた。折角の休日に恭一に構ってもらえないのは寂しかったが、楽しそうに雄高と話を交わす恭 一を見ていれば子供っぽく拗ねて見せるのも気が引ける。
「ヨシ、今日は飯食いに連れて行ってやるからな」
複雑な由成の心境など知るはずもない恭一は、部屋に向かう由成に上機嫌で告げた。曖昧に頷きながら扉の向こうへと消えた由成の背に楽しげな笑い声が被 さって来る。
唇を噛んで、耳を塞いだ。
雄高のことは、決して嫌いではない。むしろ、世話になることの方が多くて幾ら感謝しても足りないくらいで、こんな自分の相手をしてくれる、大切な、大好 きな人だ。
それでも恭一を奪われたような錯覚に、熱いもので胸が一杯になる。
――恭さん。恭さん。
声を出さずにせつなく名前を呟いて、由成は痛む胸を握り締めた。
恭一は、自分の前では拗ねて見せたりはしない。頼ったりしない。感情を激することもない。
それもそのはずで、恭一は自分よりも十も年上なのだ。自分といるよりも寛いだ表情で雄高と話すのは、歳の離れた義弟の相手などするよりも、楽しいからに 決まっている。
――それでもあの日、彼は少し泣いていただろうか。
自分と共に生きる為にはどうしたら良いのかと、少し、泣いていただろうか。
律儀に言い訳でしかなかった宿題を終えて、更に余ってしまった時間を使って予習復習までも終えたときには空は暗くなり始めていた。腹も良い具合に減って きている。そろそろ外出をねだっても良い頃だろうと見当を付け、リビングの扉を開けた途端、アルコールの匂いが漂って来る。
半ば予想していたことだとは言え、由成にとってアルコールの匂いは気持ちのいいものではない。変なところで幼い由成は、たまに恭一や雄高に酒を勧められ ても旨いものだとは到底思えず、舐める程度で終わってしまう。
酔い潰れてしまったのだろうか。リビングは薄暗いまま、僅かな物音すらしない。
電気のスイッチを探ろうとしていた由成の眼に、ごそりと動く影が見えた。どちらか片方が眼を覚まして身を起こしたのだろう。雄高か恭一かと、声を掛けよ うと口を開き掛け、影の動きを見た瞬間に由成は硬直した。
起き上がった影は、ソファに寝転がっているらしい人物に鈍い仕草で覆い被さって行った。離れた由成の耳にも、唇と唇が重なり、それを啄ばむ湿った音が生 々しく響く。
その音に、ゾクリと背筋が粟立ったのは嫌悪感からだったのだろうか。由成には判らなかった。只、その二つの影の片方が恭一だと言う事実が信じられず、呆 然と立ち竦んだ。
重なった影のどちらかが、吐息で何かを囁く。
途端に慌しく動く気配と音がして、二人揃って縺れ合った影はソファから転げ落ちてしまったらしい。
驚いて反射的にスイッチを押し、明かりを点けた由成の眼には、痛いと呻きながら頭を押さえ、転がり落ちた床から身体を起こす二人が見えた。お陰でさっき の影のどちらが雄高でどちらが恭一なのか判断が付かなくなってしまった。
「イってェ……、起きたんだな、由成」
何でもない表情で恭一が由成に眼を遣る。酔いの所為かほんのりと赤く目許が染まっていた。
「雄高、お前も一緒に飯食いに行くか、」
「俺は帰るぞ。逃げ回ってる最中なんだ、これでも」
逃げ回っていると言うのは、締め切りから、という意味だろう。逃げるくらいなら最初から真面目にやっとけと恭一は文句を言ったが、自分を棚上げにして何 を、と由成は冷静に思う。
「まぁ、そんなことだろうと思ってたけどな、時期的に」
言いながら恭一は恨めし気に雄高を睨み付けた。
「締め切りに追われていてさえ来てやってるんだ、感謝しろ」
うう、か、ああ、か唸るような奇妙な声を恭一が咽喉から押し出す。約束とは何の話かと不思議に思うが、さっき見た映像のショックが抜け切れず、由成は微 動だに出来ず馬鹿みたいに突っ立ったままだった。
「飛びきり高いモンでも食わせてもらえよ」
床に転がった酒瓶やビール缶を器用に避けながら、雄高は由成に手を振り出て行った。
「――ちくしょう、逃げやがって……」
「俺、知らなかった」
雄高が消えて行った扉を睨みながら、恭一が低く呟く。その呟きに、由成は漸く反応を返すことが出来た。
「何がだ」
「恭さんと雄高さんが、……」
恋人だったのかと続けることは出来ず、由成は半端に口を閉ざす。その言葉を口にするには胸が痛みすぎた。
自分は今まで何をしてきたのだろう、何を考えてきたのだろう。そう思うと涙が出そうになった。雄高に恭一を奪われるなどと良く思えたものだ。何よりも、 闖入者は自分だったんじゃないか。
やさしい恭一に甘えて、自分は今まで散々二人の邪魔をしてきたのか。
「……誤解すんなよ」
酔いの所為もあるのだろう、由成の言葉に目眩を感じたように恭一は頭を抱え込み深く溜息を落とす。
「アレは酔っぱらいの絡みだ。酔っ払った勢いだ。俺とアイツはそう言う関係じゃねえ、考えただけでも吐き気がする」
そう言い捨てた恭一は厭そうに顔を盛大に顰めた。嘘を言っているようには見えない。恐らくそれは本当のことなのだろう。しかし由成の正体不明の不快さ は、胸から消えてくれなかった。
「恭さんは、勢いでそんなことが出来るの」
振り絞って尋ねた声はか細く、恭一の耳に届いたのか定かではない。
「…あ?」
「恭さんはただの勢いなんかで――雄高さんとキスするの」
雄高にも恭一にも動じた様子はなかった。と言うことは、今までにも似たようなことは何度もあったのだろう。それに懲りずに潰れるまで酒を呑む二人もどう かと思うが、口接け一つ何とも思っていない恭一の態度に腹が立った。
「…何言ってんだ、お前……」
呆けた顔で首を傾げる恭一にカッと頭に血が昇る。
ぐっと咽喉から競り上がる思いを堪えるように唇を噛み、由成は恭一の元へと歩み寄った。そのまま恭一の胸元を乱暴に掴み上げ、呆けた表情を至近距離から 睨むように凝視める。
「オイッ……」
由成は思いも寄らない自分の行動に内心驚愕したが、恭一はもっと驚いている。先程の表情は既に無く、驚愕に眼を見開いて由成を睨み付ける。
「――何…」
「――どっちからキスしたの」
簡単に。
この人の唇に触れて良いはずがない。
「…そんなこと訊いてどうするんだ」
例え雄高であろうとも、簡単に触れて良いはずがなかった。
由成を睨め付けたまま、胸元を掴み上げる腕を振り解こうと恭一が手を払った。しかしそれを許さず、由成は胸倉を強く引き寄せる。
「俺は、もう子供じゃない」
鼻先が触れ合う距離で囁く、その声は自分でも驚くほど憤りに掠れていた。覗き込んだ恭一の眼に怯えに似た光りが宿っていることに由成は気付く。
「あんたが一番、知ってるはずだ」
それでも構わずに、由成はその唇に噛み付いた。
衝動のまま、子供が気に入りの玩具に噛み痕を残して所有を示す、只それだけの行為に似た口接けは血の味がした。
唇と唇がぶつかった瞬間に歯が当たった所為だろう。唇が切れたのは自分か恭一か。それすらも判らぬまま、血の味に酔うように由成は行為に没頭した。
かぶりを振って拒絶しようとする恭一の後頭部を押え付けて、髪に指を絡める。強い抵抗を示す身体を封じ込めようと髪を引っ張ると、恭一の唇から痛みを訴 える低い呻きが洩れた。
離せ、僅かに離した唇の隙間でそう囁いた恭一の吐息が、擽るように由成の唇に触れた。その声がどこか弱々しいものに聞こえて、恭一の表情を伺い見る。
「恭さん」
「離せ、離してくれ、……頼む、頼む、由成……、」
懇願するように何度もそう繰り返す恭一の表情は明らかに怯えを含んでいた。予想していたとは言え由成の胸が酷く軋む。軋んで血を流す。
「……恭さん」
育ってしまった由成の腕は、恭一が簡単に振り解こうと思って振り解けるものではなくなってしまった。つまり力で強弱を付けるとすれば、完全に由成に軍配 は上がる。
「あんたは、気付きたくなかったんだろう」
由成はもう口の利けない子供でなければ、恭一に手を引かれ歩いていた頃の子供でもない。自分の腕の中で朗らかに、そして真っ直ぐに育っていた幼い由成が 成長して、そして近いうちに自分の腕では収まらなくなっていく、その事実が恭一を不安定にさせているのだろうと、由成は朧げながらも考える。
「でも俺は、」
それでも育ってしまった子供は戻らない。例え恭一が、小さくて可愛かった由成を愛しいと思っていても、由成はこれから先も成長してゆく。雄高が言うよう に、自分が恭一の身長を追い越すにも時間はそう掛からないだろう。
「恭さん、俺は――男だよ……」
「煩い。――煩い、黙れ、……」
首を強く左右に振って由成の言葉を遮ったきり、恭一は黙り込んでしまった。言葉もなく、拒絶するだけの震えが、無理矢理抱き締めた体から伝わった。
もしかしたら泣いているのかもしれないと唐突に思う。
「恭さん、」
――あなたのことが、
由成は、突然口を突いて出ようとした言葉を寸前で押し留めて飲み込んだ。
「恭さん、恭さん、」
どうすることも出来ずに、彼の名前を繰り返し呼んだ。呼ぶごとに恭一を好きだと思う気持ちが強くなるような気がして、やるせなくなる。この想いは、―― 行き場がない。
「恭さん、――ごめんなさい。恭さん、……」
「――…あんなのは、キスじゃねェ」
「うん、……ごめんなさい。ごめんなさい、恭さん…」
思い描いていたものとは程遠い、甘さの欠片もない口接けは、確かにキスと呼べるものではなかった。
暴力だと、今更ながらにそう思う。見れば恭一の唇は切れて血を流していたが、自分の唇も切れていたらしい。血の味が今更ながらに苦くなる。
彼は怯えている。何者でもない、自分に。
いつからだろう。気付いてしまったのは。自分の視線が恭一のそれに追い付く毎に、見上げる距離が縮まる毎に、彼が自分と眼を合わせることを避けているこ とに。
いつからだろう、抱き締めて眠ってくれなくなったのは――。
「ごめんなさい、恭さん」
こんなのはキスじゃない。血の味を苦く咽喉に流しながら、由成はせつなく思う。
――あなたのことが、堪らなく、
「ごめんなさい恭さん、……あんたが好きだ……」
言葉に反応したように恭一の身体が跳ねるように震えた。そっと肩を抱き寄せた腕を振り払われることはなかったが、恭一は自分を抱き返してはくれない。
いつからだろう。抱き締めてくれないあなたを、抱き締めたいと思うようになったのは。
「……好きだ」
――俺はあんたと一緒にいるためなら何でもする。
昔、恭一が同じ言葉を雄高に言った、そのときよりも強い気持ちで由成は決意する。
だから聞こえないように好きだと囁き、その気持ちに蓋をしよう。
由成は思いの全て込めて、もう一生触れることはない恭一の身体を抱き寄せた。
自分が育てた子供に傷付けられた恭一と、決して結ばれる見込みのない恋をした自分とどちらがより不幸だろう、きっとどちらも可哀想だ。
せめて今だけは拒まれることがないようにと祈りながら、由成は震える可哀想な身体を強く抱き締めて、好きだ、ともう一度だけ囁いた。