金魚



 のろのろと動かした手は爪先を汚しながら土を掘った。
 墓を作った。九つの歳。
 上向いた眼が恨めしげに自分を見ているような気がして、可哀想で申し訳なくて涙が落ちた。
 水分はそのうち土に吸い込まれて直ぐに乾く。やがてその死骸が花々の養分になる。
 そう思うことは、慰めにもならなかった。


「恭さん、」
 小さな指が夜店のひとつを指差した。由成は夏祭りに来るのが初めてだと言う。成程、道理でいつもは大人びて見える子供が、今日に限ってやけにはしゃいで いるものだと恭一は納得した。
 ここまで喜んで貰えるとは正直思っていなかった。夏休みと言っても学校がない分、暇を持て余しているだけの由成には、恰好の暇潰しになったらしい。
 今年十になった由成は、大きな眼を輝かせ、恭一の浴衣の裾を引っ張ったまま金魚掬いの水槽へと駆け出した。
 由成が走り出す勢いに呑まれ、身体を前のめりに倒しながらも恭一は素直に引かれるまま歩き出す。
「由成、頼むからもうちょっとゆっくり歩けよ。俺はおまえみたいに若くねえんだからよ」
 たかだか十の子供に若いも若くないもあるものかと、己の言った言葉に苦笑する。人の話を聞いているのかいないのか、由成はウン判ったと適当な返事を寄越 した。
「恭さん、ねえ恭さん、これ……」
「へぇ、こりゃあまた立派な――」
 ちょっと見は夏祭りの屋台には勿体無い、赤や黒の尾びれを優雅に靡かせながら、美しい金魚がこれでもかと大量に水槽の中を泳いでいた。ひとつひとつの個 体を眼にすれば美しいが、少し遠ざかって見れば似たような魚が所狭しと泳いでいる姿はさぞかしグロテクスなものだろう。
「ヨシ、金魚欲しいのか」
 惚けたようにうっとりと金魚を凝視めていた由成に問うと、躊躇うような一瞬の間の後に少年は小さく頷いた。
 屋台の店番に小銭を手渡し、薄い紙が張られた網と交換する。
「赤いのと黒いの、どれが良いんだ、」
「待って、待って恭さん、俺がやりたいんだ」
 掬い易そうな金魚を見定めていると、由成が小さな掌を差し出して来た。
「俺がやる」
「そりゃ構わねえが。お前、獲れるのか」
 揶揄半分に笑いながらも、恭一は少年に網を手渡した。水に濡れないように、由成の浴衣の裾を後ろで一つに括ってやる。
「元気があるやつは、動きすぎて獲れねえぞ」
「判ってる」
 真剣な眼差しで恭一の言葉に頷いた由成は、その眼を期待に輝かせている。自分にも少なからず覚えのある興奮だ。最も、金魚掬いなどという遊びに興じたの は一度きりで、それも何年も前のことではあった。子どもはこういう、他愛のない遊びが好きなのだ。
「……あ、」
 ポチャンと弾けるような音を立て、黒い金魚が水面に跳ねた。一度は網に引っ掛かった魚は、濡れた身体で紙を突き切り、そのまま水へと逃げたのだろう。由 成の手に握られた紙製の網には、いびつな穴が開いていた。
「下手糞」
「――……」
 容赦なく笑った恭一に、由成は肩を落として黙り込む。だが、由成が金魚を取り逃がした瞬間にほっと安堵の吐息を吐いた自分に、恭一は気付かなかった。
 由成は、もう一度やると言い出すことはせず、小さな肩をもっと縮めて、屋台の店番に網の残骸を差し出す。
「坊や、そんなにしょげるんじゃねえよ」
 屋台の親父の軽快な笑いが響く。由成はそれに応えて小さく笑ったようだった。
「ヨシ、あっちでたこ焼き買ってやる。それで機嫌直しな」
 恭一は、二度と水槽を見えないように敢えて視線を逸らしながら、由成の肩を抱いた。二度と振り返るつもりのなかった恭一を、しかし店番の親父が引き留め る。
「ぼうや、ちょっと待ちな」
 店の親父は慣れた手付きで金魚を掬い取り、ビニールの袋に水と共に小さなそれを流し 込んでいた。
「毎度」
 金魚を獲れなかった客にでも、一匹やることはサービスのうちらしい。その代わり、何十匹と獲った客でも渡す数が決まっているのだろう。上手い商売だと半 ば感心しながら見ている間に、由成は親父からビニール袋を受け取っていた。
 恭一は親父に袋を突き返そうかと逡巡したものの、有り難うとはにかんで礼を言う由成を見た瞬間に、その気は失せていた。


「ああ、そう言や――」
 手にぶら下がったビニール袋の中でゆらゆらと揺れる金魚を楽しげに凝視める由成に、恭一は躊躇いがちに声を掛けた。自分がこれから口にする話題は、きっ と由成の心地いい空気に水を差そうとしている。
「何? 恭さん」
 幼い瞳を上げて、由成は緩く首を傾げた。こうしている少年は、とてもどこぞの御曹司の息子とは思えない。ああ、けれど、と恭一は思う。けれど、幼い由成 からさり気なく漂う、気品のある穏やかな表情は、いい家で育ったお嬢様気質のあの女に似ているのかもしれない、と。
「昨日、貴美子さんが来てな、」
「うん」
 良家で育った、温室育ちで我儘なお嬢様気質の女――由成の母親の名前を口にしても、別段少年が動じた様子はない。自分の義理の母であり、由成の実母である彼女は、 政略結婚で楠田という大きな家に嫁いできた女だ。蝶よ花よと育てられ、特別愛恋沙汰に関しては我慢というものを知らない女は、正にお嬢様と呼んでも差し支 えない。
「お前を宜しくだの頭を下げて、金を置いて行きやがった」
「受け取ったの」
「叩き返してやった」
 あくまでも尊大に告げた恭一の言葉に、由成は声なく小さく笑った。その様子に微かに安堵し、恭一は咥えた煙草を吹かす。
 楠田由成は戸籍上では間違いなく恭一の弟であり、また自分にとっては間違いなく「可哀想な子供」だった。
 この血の繋がらない義理の弟が哀れでならないのは、余りにも愛されなかった過去が、彼にはあるからだ。
 由成の父、楠田庸介は、恭一の父でもある。楠田という家は元はある一帯の大地主で、有名な資産家でもあった。今では代々築いてきた大企業の頂点に立ち、 またその血筋をも重んじる楠田家を率いる父の庸介に嫁いできたのが、貴美子という女だ。
 しかし恭一は、貴美子の息子ではない。恭一は所謂、妾腹の子だ。表向き、由成の腹違いの兄として恭一が楠田家に引き取られたのは、恭一の実母が事故で亡 くなった年のことだった。
「……俺はお前の兄貴なんだから。貴美子さんから金受け取る理由なんざねェだろ」
「うん」
 そうだねと、小さな微笑みをそのままに由成が頷く。
 半分だけ血の繋がった異母兄弟、ということになっているが、真実はそうではない。
 由成は、由成の母が外で作って来た不義の子だ。それに加えて恭一が妾の息子なので、つまり二人は、血縁で言えば全くの他人でしかない。
 良く考えれば、妻と夫の互いが互いに不義を犯しているのであり、とんでもない家庭ではあるが、一番にとんでもないのが由成の母が己の不義を認めず、由成 を正当な楠田家の長男だと主張しているところだ。
 つまり、家長の血を継いではいるが妾の子である恭一ではなく、正妻である自分と旦那の子供である由成が楠田家を継ぐべきだと。――それが真実であれば誰 もが諸手を挙げて賛成しているのだろうが、真実を知る恭一や庸介としては、貴美子の態度が気に食わない。まさに彼女は自分を棚に上げ、を素で遣って退けて いるのだ。
 そもそも庸介と貴美子の間に愛情はなく、庸介は庸介で妾である生前の恭一の母の元に入り浸っていたし、貴美子は貴美子で気侭に若い男の間を転々としてい たらしい。
 恭一は一応やさしい母と情けない父に愛されて育ったが、由成は貴美子が産むだけ産んで、後は家政婦が育てたようなものだと聞いた。
 由成を後継ぎ後継ぎと強調しているのは、子に対する愛情からではなく、正妻である自分を差し置いて子を産んだ妾に負けたくないという自尊心と、のちのち 由成に相続される財産目当てという節がある。
 そう言う訳で由成は「可哀想な子供」だった。少なくとも恭一にとっては。
「でも恭さん、」
「なんだ」
 父は父で死んだ女の思い出に浸るだけで頼りにはならない、母は母で子を顧みることはせずに男の元に入り浸っている。ときには信じられないことに家族で暮 らす屋敷に男を連れ込んでいることもあるらしい。
「あのひとは、無邪気なだけだから」
 こんな家にこんな小さな子供を置いて行けるかと、衝動的に二人で家を出たのはそんなに昔の話ではない。
「自分が悪いことをしている自覚はないんだから、あまり責めないでやってほしい」
 恭一が高校を卒業し、コネと実力と持ち前の強運を酷使して物書きとして何とか生計を立てられるようになったのもつい最近であれば、由成が自分の意思で 「恭さんと暮らす」と言えるようになったのも、つい最近のこと。
「……おまえなあ、」
 あんまりの台詞に目眩すら感じて、恭一は顔を掌で覆う。
「どこまで良い子でいるつもりなんだ」
「良い子のつもりはない。本当に俺が良い子なら、今、恭さんと一緒にいたりはしない」
 この大人びた子供は、ほんの数年前まで口すら利けない状態だったのだ。なのに今では、こんなふうに、何もかもわかりきったような口振りで、大人びたこと を言ったりもする。
「本当に良い子なら、母さんの望みを裏切って、あの家を出たりしない」
「馬鹿言え、貴美子さんが何だってんだ。俺がお前を連れ出したって文句のひとつも言わなかった女だ、それどころか今日だって金なんか持って来やがって ――」
 厄介払いが出来たと喜んでいるも同然じゃないか。
 さすがにそれを口にすることは憚られて、恭一は口を噤む。隣に並ぶ、低いつむじをそっと盗み見ると、由成は小さく微笑ったようだった。
「母さんは安心してるんだ。恭さんが家を継ぐ気がないと判ったから、俺が後継ぎだと確信してる。だからむしろ、今、俺があの家にいるのは、あの人にとって 邪魔なのかもしれない」
 由成は幼い瞳を瞬かせて、ゆらゆらと揺れる夜店の光を眺めた。
「だけど、母さんの望みの為には、今俺はあの家を離れちゃいけない。それが母さんには解っていない。だから俺は――」
 ゆらゆらと揺れる夜店の光に、笑った。楽しそうに、酔うように笑った。
「それを良いことに、恭さんについて来たんだ」
 由成のことを、なんて綺麗に微笑う子供だろうと思うことがある。
 貴美子は歳を重ねても妖艶さを失わない美しい女性だが、由成は確実にその血を受け継いでいるのだろう。そして顔も見たこともない由成の本当の父親も余程 整った顔をしているのだろうと思う。
「俺は、恭さんといたかったからね」
 由成の美しい微笑を見る度に未成年淫行罪だとか幼児虐待だとかとんでもない言葉が浮んでは消える。そしてたった今、例に漏れず浮んだ考えに恭一は慌てて かぶりを振った。
「……そりゃ、構わねえが」
 元々連れ出したのは俺だしな。呟くように言った言葉に、由成は笑ったようだった。
 愚かな恭一の考えを嘲笑うように、ビニール袋の中で金魚が弧を描いて揺れた。




 カタン、と苛立たしげにキーを叩いて、恭一は深く吐息を落とした。ここ数年ですっかり凝り易くなってしまった肩を鳴らしながら、テーブルに置いたカップ を手繰り寄せる。眠気がいい加減に限界だ。だが締め切りは待ってやしないので、今はひたすら根を詰めるしかない。
 恭一が生計のために物書きを始めたのは、そうそう昔の話ではない。
 新人小説家が物を書くことだけで生計を立てるのは、勿論容易いことではなく、締め切りのない月は知り合いの経営するバーで稼いだり、雑誌の投稿欄のゴー ストも請け負っていたこともある。
 書いて食えるなら何でも良い、何にでも飛び付きたいというのが正直な気持ちだった。だからこそ元々ジャンルの違う官能小説の仕事を、由成の教育上宜しく ないと解っていながらも喜んで受けた。しかし何故だかそれの売れ行きが一番良く、今では仕事の半分以上が官能小説だという有様だ。文句を言う暇はない。働かざるもの食うべからずである。
 再びパソコンに向き直ろうと姿勢を整えたとき、カタンと小さな物音が聞こえた。キッチンの方からだ。
 驚いて時計を見ると、指針は午前五時を差している。小学生は寝ている時間だ。しかし、この家の住人は恭一と由成の二人しかなく、恭一が書斎に閉じ篭って いるとなれば音を立てた本人は由成ひとりしかいない。
「咽喉でも乾いたか……」
 それとも小便か。そう思い直してパソコンに向き直ったとき、カタン、カタン、と続いて小さな物音がした。さすがに不審に思った恭一は思い腰を上げ、足音 を立てないように気をつけながら部屋から出ると、リビングを覗き込む。
 何事かと眼を凝らしてみれば、暗いキッチンのフローリングに、由成が蹲っていた。
「……おい、ヨシ、どうした」
 慌てて由成に駆け寄る。腹でも痛いのかと表情を伺おうとした瞬間に、由成が腹を抱えるようにして抱き込んでいる物を見付けて得心が行った。
「……腹でも痛ぇのか」
 由成は黙ったまま、ふるふると首を振った。判り切った返答に、そうか、と小さな相槌を返す。
「……祭りで売ってる金魚ってのはな、」
 ――そう言えば、彼が欲しがったものを直接買い与えてやったのは、初めてだった。
「長生きしねえように出来てるんだよ。……金魚だけじゃねえ、ヒヨコもだな」
 俺が昔買った金魚もそうだった、と続けると、鈍い動きで由成が顔を上げた。唇が、恭さんも?と、尋ねて震える。
「あぁ。……幾つだったか、九つのときだったかな、お前みたいに金魚が欲しくてな。赤くて、綺麗な金魚だった」
 由成が抱えていたものは、金魚を入れていた小さな瓶だった。水槽の代わりに、金魚を泳がせてやっていた。明日になったら、ちゃんとした水槽を買って来よ うと話していたばかりだ。
「……すぐ、死んだの」
「ああ」
 こうなるかもしれないと、半ば予感はしていた。けれど口にしなかったのは、あまりにも楽しそうに、由成が明日の話をしていたからだ。
「次の日に。餌をやろうと思って見たら、眼ん玉見開いて浮いてやがった」
 何年か前に恭一が見た通り――眼を見開き、腹を上にして金魚が瓶の中に浮いていた。
 由成の震えがそのまま瓶に伝わり、尾びれだけが美しく揺らく。まるで生きているかのように、しかし確実に生の輝きが感じられない動きで、頼りなく。
「……それ、どうしたの、」
 わあわあ泣いた。あんなに綺麗だった生き物がこんなにあっさり死んでしまうことが信じられなくて、今と同じように小さな水槽を気取った瓶を抱き締めて、 わあわあ泣いた。
「……さぁ。どうしたっけな」
 墓を作った。小さな手で、冷たい土を掘り続けた。どれくらいの深さを掘れば、どれくらいの長さを掘ればはみ出さずに埋めてやれるだろうと考えた瞬間、涙 が汚れた手に落ちた。
「……トイレに流した」
 土に汚れるのは可哀想だから、綺麗な鱗が汚れるのは可哀想だから、白い布にその身を包んだ。重くないように、そっと土を被せた。
「……そんな眼で見んな」
 嘯いた自分を、非難染みた眼で由成が凝視しているのに気付いて、恭一は笑う。
「……恭さん。そのとき泣いたの」
「泣いたっけな」
「泣いたんだな」
「決め付けんな、こら」
 断定する言葉を聞いて苦笑を漏らしながら、恭一は小さな肩を抱き寄せた。小刻みにその肩が震えていることに気が付いて、金魚を買ってやったのは失敗だっ たかと苦く思う。そして直ぐに、それはきっと違うと、胸の中で首を振った。
「……墓、作ってやろうな」
 自分に何が出来るだろうと考え、泣き虫は好きではないが泣くこと自体は悪いことではない、そう教えてやることは出来ると思い付いた。そうだ、嘆き悲しむ ことは悪いことではない。昔、この子は──泣かなかった。母親の背中を見送る、そのときですら。
「一緒に作ろうな」
 綺麗な子供の泣き顔はやはり綺麗だったなと、ぼんやり思った。




 白い手が汚れるのが可哀想で、代わりにやってやろうかと手を貸そうとすると、由成は思いの他強くそれを拒否した。恭一の申し出を存外強い口調で拒絶し、 俺がやるのだと言って、地面にしゃがみ込む。
 そろそろ夜が明け始め、空は徐々に明るくなっている。さすが夏だと感心しながら、恭一は由成の隣に佇んで煙草を咥えた。
 ザリザリと土を爪が掻く度に、形の良い爪が黒く土に汚れた。言った通りである。外で遊ぶことを知らない由成の手が土に汚されていくのは、どうにも落ち着 かない気分だった。後で丹念に洗わせることを心に決めながら、恭一は由成の手の動きを見守る。
 金魚一匹が埋まる程度の穴を掘るのに、そう時間は掛からない。あっと言う間に掘り上げた穴に、由成は小さな手で掬うように抱いた金魚を、そっと落とし た。
 躊躇うような手付きで、その身体の上に土が被せられる。尾びれが土に隠れると、痛みを堪えるような表情になり、由成はそっと土を軽く掌で押した。
「泣き虫」
「恭さんだって、泣いたんだろ。自分の金魚が死んだとき」
「だから決め付けるなっての」
 顔を上げ、軽く睨め付ける由成を笑いながら見返すと、涙を拭ったときについたのか、綺麗な頬が土に汚れていた。弔いは済んだ。
「ところで、いいのか恭さん、」
「何が」
「締め切り近いんじゃないのか。こんな時間まで俺に付き合ってて良いの、」
「……ああ!」
 そう言えばそうだった、と恭一は余りの衝撃に髪を掻き毟る。近いどころか締め切りは明日だ。そもそも夜店に由成を連れて行ってやったのだって、自分の気 分転換のためだったのだ。忘れていた。すっかり忘れていた。
 ただでさえ延ばして貰った期日にこれ以上遅れるわけにはいかない。死んでしまった金魚には申し訳ないが、それどころではなくなってしまった。自分は明日 からも由成を抱えて生きていかねばならないのだ。
「恭さんはもう部屋に戻った方がいい」
 由成が言う。気の利くヤツだと誉めてやることも忘れ、恭一はああ頼んだと頷くと引っ掻けたサンダルを音を鳴らし駆け出した。
「そうだ、ヨシ、今日はラジオ体操行かなくてもいいからな、眠たいだろう」
 恭一の言葉に、由成は声を立てて笑った。
 今から寝たとしてもラジオ体操の時間に再び起きるのは酷だろう、そう思って言った言葉に由成は盛大に笑った。しかし直ぐに早朝の笑い声は近所迷惑だと判 断したのか、口を掌で覆い、解ったと頷いて見せる。
 晴れやかな笑顔を確認すると、恭一はバタバタと慌しく自室への道を駆けた。
 締め切り、締め切り、その四文字に頭を支配されながらも、心は酷く軽かった。
「……まぁ、どうにかなるだろ」
 どうにかなるを合言葉にやって来た、これからも何とかなるだろう。締め切りに間に合わず、頭を下げる姿を由成に見せたくない、思った瞬間に、 俄然やる気が沸いて出た。
 仕事が上がったら、何処に連れて行ってやろうか――
 薄く白み始めた空を背中に、恭一は綺麗な子供の笑顔を思い出して、軽く微笑った。
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