恋の嘘【4】

 ──ああ、今日もかな。
 店を出た客が扉を開けたタイミングで、またちらりと人影が見えた。もしも探偵だとしたらものすごくへたくそな尾行だなと、基樹はあえて呑気なことを考えていた。
 不穏な人影に、心当たりがあるかないかでいうと、ない。ただし、素性も知らない相手と関係を結んでいた時期のことを考えると、そのうちのいくつかに恨みつらみがあっても不思議ではないような気がした。梶原には大丈夫と答えたものの、居心地が悪いのは確かだ。それでも向こうが何も言ってこない以上、こちらからつつく必要もないだろうと基樹は考えている。
「──まだ今日は店にいます。いえ、もう片付けは終わっているんですが、今日は……すみません。少し用事があって」
『──…そうか。じゃあ、また』
「はい、また」
 短い通話を切り、基樹は意識しないまま、小さな溜息を吐いた。相手は圭一だ。最近は毎日のように基樹の仕事の終わるころを見計らって、電話がかかってきている。
 あれこれ考えると重々しい気分になった。この件に関しては、先に彼とコンタクトを取ったのは基樹のほうである。梶原伝いに圭一の連絡先を聞き、電話を入れたのは数日前。基樹からの着信に心底驚いた様子だった圭一は、「渡したいものがある」と言った基樹の言葉に、予定を合わせようとしてくれた。もちろん用事とは指輪の返却のことだが、そこから中々二人の都合がつかずに時間が流れ、2週間程度が経ったころ、基樹はとうとう腰が引けてしまうようになってしまった。
 今日の電話で、圭一は「今日は会えるのか」と端的に聞いてきた。迷わず用事があると答えた基樹の言葉に、何か言いたげな間があった。自分しか気が付かない、彼自身気づいているのかどうかもわからない、少しの迷い。それでも「誰かと会うのか」なんて、彼はもう訊きはしないだろう。
 あの人は、その資格を喪ったから。
「電話、いいのか?」
「はい」
 尋ねたのは、梶原だ。
 今日は閉店三十分前に最後の客が帰ってしまい、梶原との相談が少々長引くことを見込んで、アルバイトは先に帰している。基樹もすでに私服に着替えたあとで、梶原と自分のための珈琲を煎れたところだった。用事がある、といったのは、あながち嘘ではない。アルバイトのシフトに関して、梶原と相談事があったのだ。
「先月と今月、調子がよかったな。特に軽食の売り上げが上がってる。バイト、もう一人増やすか?」
「そうですねえ。古賀君がかなりシフトに入ってくれてますし、軽食もあの子の力ですよ。あの子ここに就職しないかなあ。無理かなあ。……彼の就職活動が始まる前には、一人二人入れておきたいところですね」
「じゃあもうしばらくこのまま様子を見るか」
「そうしてください。古賀君にいつまでバイトできるか聞いておきます」
 古賀は調理系の専門学校に通う学生で、彼が店に入ってからは、積極的にメニューやデザートの提案をしてくれているので、カップル、特に女性客の評判が上がった。辞めてしまうには惜しい人材だ。
 珈琲を飲み終えた梶原はカップを奥に寄せ、時計を眺めながら「そろそろ帰るか」と呟く。カップ程度なら、明日来てから片付けてもいいだろうと、基樹も自分の珈琲を慌てて飲み干した。
「飯でも食いにいくか?」
「いえ、僕はもう帰ります。また今度誘ってください」
 苦笑いしてしまった。先日の件で、梶原はやたらと店に通うようになった上に、帰り道も必ず添うようになってしまった。巻き込みたくない、と言っているのに自ら火に飛び込んでくる虫のように。
(困った人だ)
 だからこそ、基樹はやんわりと梶原の申し出を断る。正直なところ、疲れているというのも理由の一つではあった。今日は最後のほうこそのんびりと過ごしていたが、昨日は平日にしては慌ただしく、時間通りの閉店ができなかったほどだ。昨日の疲れを持ち越して、少し体が怠いような気がした。
 カップを調理場のシンクへ運んだ基樹の耳に、店の扉が開く、チリン、という音が響いた。一瞬どきりとして、慌てて店内に戻った基樹は、その扉のほうを見遣った。
「あれ? 今ってお店、開いてんの? 閉まってんの?」
 ――圭一じゃ、ない。
 明かりを極力落としていた店内と、私服姿の基樹を交互に見て、年若い青年が不思議そうな顔をして佇んでいる。
「間宮君……?」
 当たり前だ。ついさっき、断りの電話をしたばかりなのに。
 何を期待しているんだと自分を皮肉りながら、基樹は間宮の顔を見た。
「明かりが点いてるっぽかったから、入ってみたんだけど。もう終わり?」
「……いいよ、入っておいで。この間のお礼、まだしていなかったから。何か奢るよ」
 間宮の無邪気な顔を見た瞬間、気が抜けてしまう。それと同時に、何を期待しているのかと、笑ってしまいたくなった。
「マジで? やった」
 基樹の許可を得て、間宮は嬉しそうにカウンターへと寄ってくる。
「梶原さん、お先にどうぞ。彼にはちょっとお世話になったので、少しゆっくりしていってもらいますから」
 そう告げると、事情を察したのか梶原は呆れた顔をして、聞こえないくらい小さな溜息を吐いていた。
「……いい加減、ふらふらするなよ。塩崎さんがまた心配するぞ」
 間宮には聞こえないくらいの小さな声で言い置いて、梶原は店を去っていった。基樹の生活をある程度知っている梶原からは、もう何度も聞かされた言葉である。まったく、自分の周りには説教好きな人間が多いと、基樹は小さく苦笑いした。
「今の人は?」
「この店のオーナーさんだよ、僕の上司。……彼に手を出すのは駄目ですよ、さすがに」
「あはは、そんなことしないってえ」
 間宮はからからと笑っている。間宮の性癖が奔放なのは結構なことだが、梶原にまで手を出されてしまうと、さすがに自分の立場上気まずい。
「珈琲でも煎れようか。それとも何か……」
「あ、いいよいいよ。小坂さん、甘いの好き? 俺のバイト先で売れ残ってたやつなんだけどさ、持ってきたからそれ食べようよ。このまま帰るのも味気ないなあって思って寄っただけだから、気にしないで」
 そう言って、カウンターに腰を下ろした間宮は白い小さな箱を掲げて見せた。中にはシュークリームが二つ並んでいる。
「バイト先って、ケーキ屋さんだっけ?」
「いやいや、飲み屋だよ、でもデザートメニューが豊富なんだよ。女の子のお客さんが多いから」
「ふーん……」
 最近この店にも若い女性客が増えている。たまには勉強で、よその店に飲みに行ってみようかなあ、などと考えながら、基樹は間宮の隣の席に座った。
「ねえ小坂さん?」
「うん?」
 シュークリームのために、カウンターの中で小皿を用意していた基樹に、間宮は無邪気に首を傾げて見せた。
「こないだ一緒にいた人って、小坂さんの恋人?」
「恋人? ──あー、ええと」
「ちょっとガタイのいい、真面目そうな感じの。ほら、俺が服届けに来たときに一緒にいたでしょ、あの男前のスーツの人」
「ああ、あれはね、……僕の兄」
「ええ。似てないー。顔ぜんぜん違う」
「うん、まあねえ……」
 間宮にわざわざ圭一との関係性を詳しく話す必要もないだろうと、基樹はあいまいに笑う。
「そっかー。小坂さんてあんまり、決まった人とか作らなさそうな感じだったからさ。恋人だったら意外だなって思ってたんだけど。じゃあさあ、恋人じゃないなら、まだ俺と遊べる?」
 相変わらず愛嬌の良い笑顔で、間宮はニコニコしている。この青年の屈託のない、正直な感じが好ましいと思っていた。自分には中々出せない素直さだ。
「うーん、そうだねえ……最近忙しくって。僕ももう元気のある歳じゃないからねえ」
「何言ってんの、まだまだでしょ」
 そうは言われるものの、圭一との再会以来、他の誰とも寝ていない。圭一自身が近くにいる状況で、他人に興味が沸くはずもなかった。
 圭一が自分の生活を詮索するまでもなく、もう圭一以外は要らないとさえ本気で思う。たった一度、寝ただけなのに。べた惚れじゃないか、と自分に苦笑する。
「小坂さんの携帯鳴らしても、なかなか掴まらなくなっちゃったからさー。てっきりあの人が恋人になったのかなって思っちゃったんだよね。そっか、そっかー」
「いや、僕もちゃんと落ち着きたい気持ちはあるんだけどね……?」
「落ち着いちゃったらもったいないよー」
 雑談に応えながら、自分もカウンターの席に座った基樹はシュークリームを皿に並べる。サイズとしては、小ぶりのシュークリームだ。焼き色の良いてっぺんにシュガーパウダーが雪のように舞っているのが、食欲をそそる。小腹の空く時間にはちょうどいいサイズだ。
 食べて、食べてと無邪気に勧められ、シュークリームを手にした基樹は、小さなそれを頬張った。
「うん、おいしい」
 予想していた通りの甘いカスタードクリームの味。ただ、それに混ざって、何か――とても小さな違和感を感じる。
「僕はデザートの方面はよくわからないんだけど……」
 本当に小さな違和感だった。舌先がぴりりと僅かな刺激を感じた。何かの薬品のような、苦み。
「……何だろう、これ。クリームって、温度で味が変わったりするのかな。温まった、のかな……」
 クリーム自体の味はいいのだろうが、その違和感が邪魔をして、後味では素直に美味しいとは思えなかった。
「あ、……ああ、ごめん、おいしいよ、とても」
 自分の反応を、間宮がじっと見つめていることに気づいて、基樹は慌てて微笑んだ。せっかく持ってきてもらったものに対して、あまりにも失礼な態度だったかと焦りかけた瞬間、間宮は呑気に首を振った。
「ううん、ぜんぜんだいじょうぶー。……小坂さんってほんと舌がいいんだねえ」
 感心するように呟いた間宮は、にこりと笑う。基樹の片手に半分ほど残ったシュークリームを手に取ったかと思うと、おもむろにそれを基樹の口へと押し付けた。
「ンッ……!」
「あはは、べたべた。ねえちゃんと食べて」
 子供がいたずらをするような顔で、邪気なく言って退けた間宮は、容赦なくクリームを基樹の口の中に押し込んでくる。その強さに負け、ゴクン、と基樹の喉が上下したのを見て、間宮は嬉しそうに笑った。
「ま、みやくん、何――」
 無理やり押し込まれたそれを嚥下し切ったあと、僅かに咳き込みながら基樹が尋ねる。
 クリームで汚れた指を舐めながら、間宮はにこにこと笑っている。なぜだかその笑顔にぞっとしたものを感じて、基樹は身じろいだ。それを見て、「逃げないで」と間宮が微笑み、基樹の腕を掴んだ。
「大丈夫、合法だし、ちょっと力が入らなくなるだけ。俺が好きにしてる間に、抜けちゃうようなやつだから。……できるだけ早く終わらせてあげないとね」
「――え?」
 間宮の言葉の意味を理解しかけたそのとき、基樹の身体が大きく揺らいだ。多分、ほんの少しの軽い力で引っ張られただけだというのに、基樹の身体は、冷たい床に押し付けられていたのだ。
「……ッ」
 したたかに背中を打ち付けて、痛みに基樹は呻く。すぐに起き上がろうと思うのに、なぜか体が動かなかった。間宮の言葉通り、筋肉に力が入らない。
「でも、きっと小坂さんなら気に入ってくれると思うんだ」
「いや、……僕はアブノーマルなのは、ちょっと……できれば、遠慮したいんだけど」
「そんなこと言わないで。ちょっと試してみてよ」
 倒れ込んだ基樹の身体に、間宮は圧し掛かってくる。それを押し退けようとした腕も、むなしく空ぶるばかりだった。
「つまんないこと言わないで。タブーだって思ってても、やってみると楽しいかもよ」
「――タブー、ね……」
 その言葉に、胸が軋むような気がする。タブーだと思っていたことなら、いくつもあった。
 いくつもいくつも、自分を雁字搦めにした。身動きが取れないくらい――求めても求めても、足りないくらい、確かに甘美だった。
 馬鹿だ。
 自分で勝手に彼を遠ざけた。
 彼の話を聞こうとしないで、知ろうともしないで。
 その挙句、これかと思うと、情けなさに涙が出てくる。
 でも、駄目だ。駄目だったんだ。
 あの人の綺麗な世界を、僕なんかが壊してはいけなかった。――壊したく、なかった。
 自分の幸福よりも、愛していた。
「俺ね、小坂さんのことほんとに好みなんだ。こんなふうに、普段澄ましてる上品な人が、おかしくなっちゃうところ見るの――すっげえ、好き」
「は、は……僕、そんな、上品な人間でも……ないんだけど、ね……」
 段々と呼吸が苦しくなる。それに伴い、唇の動きも怪しくなり、呂律も回らなくなってきた。
 本当に上品な人というのは、自分みたいな人間じゃない。
「小坂さんのお尻に、今からいいモノぶち込んであげる。とっても素敵な玩具があるんだよ。そんで俺が、あなたを受け入れるんだ。……腰を振ってよがる小坂さん、想像するだけでぞくぞくするなあ」
「う、ぐ……」
 残りのもう一つのシュークリームまでも口の中に押し付けられ、必死に吐き出そうと舌先で押し返す。
「吐いたらだめだよ、小坂さん。……吐いたら吐いたで、こっちから入れちゃうから、いいけどね」
「んっ……ん、ぐ……」
 言いながら、握り潰すような力で臀部を掴まれ、震えながら呻いた隙を狙って喉の奥にクリームをぶち込まれる。基樹は、迂闊な自分を恥じると同時に、まだ無邪気な笑顔で自分を弄んでいる間宮の姿におののいた。
「あ、あ、……」
「……ああ、やっぱり」
 臀部を揉みしだいていた間宮の手がふいに止まり、ジーンズの上から、その割れ目をそっと撫でる。ビクビクと震えた基樹を見て、間宮は目を眇めた。
「こっちも、好きなんだ。思った通り素敵な人だ、小坂さん。……玩具でぐちゃぐちゃにする前に、俺が入れちゃおうかなあ」
 これまで数度寝たとき、彼はひたすら自分の下で喘いでいた。圭一の、「何が起こるかわからないから心配だ」という言葉がぼんやりと甦る。だからって、今まで自分が抱いていた相手にこんなふうに襲われるなんて、普通は予想しないだろう──。
「待っ、て、これ、合法って……ほんとに……?」
「うん。心配?」
 当たり前だろうと、基樹は強く頷く。付き合い方は健全とはいえなくとも、ノーマルなセックスだけを経験してきた基樹には、ドラッグだかハーブだかを用いてのセックスは恐怖でしかない。
「ほんとだよ。即効性がある代わりに、一、二時間くらいで抜けちゃうんだ。足りなくなったら、もっと強いのあげるね」
 とんでもないと首を振る基樹を余所に、間宮は楽しげに、それこそ鼻歌でも歌いだしそうな様子で、基樹の服を脱がせにかかる。
 その時間だけを、とりあえずやり過ごせば――観念して、基樹は固く目を閉じる。どうせ今更、出し惜しみしたって仕方のない身体だ。害がないというなら好きにすればいい。
「……き……たら、よかっ……」
 冷たい指の感触が胸元を弄る。
 あの人とは違う指。たったの一度しか寝ていないのに、こんなにも圭一が恋しいだなんて笑ってしまう。
「何? ……ああもう、上手にしゃべれない? でも声はちゃんと出してね、黙ってたらつまんないから」
 肌蹴た胸元に、間宮は戯れのようにカスタードクリームを塗りたくる。その奇妙な感触に、思わず基樹は喉を反らした。気持ちいい?などと間宮は陽気に笑っているが、気持ちよくなんてない。ただひたすら、早く終わりますようにと念じる他なかった。
 ――……君くらい奔放に、自由になれたら、よかったと僕も思うよ。
 ただ正直に、欲しいものを欲しいと言えたらよかった。
 七年前のあの夜にも――行かないでと叫べたらよかった。
 ――そうしたら、僕の人生も変わっただろうか?
 今もまだ。そばに寄り添ってくれただろうか……
 そのときだった。
 また、扉の開く音が、カラカラとなった。
 開いた扉から入ってくる、冷たい外気に誘われるように、基樹はゆっくりとそちらを見遣る。
「……基樹?」
 淡い明かりに照らされた店内で、絡みつくように重なった二つの影。基樹の上着はとうに肌蹴られており、白い素肌が覗いている。その上肌にはクリームがベタベタと塗りつけられ、間宮に圧し掛かられている光景は、異様でしかないだろう。
 その光景に、圭一は呆然と、その場に立ちすくんで眉を寄せた。
「ああ、この間の……混ざる?」
 圭一の姿を目の当たりにしても、間宮は呑気に首を傾げている。そうじゃないだろう、と思いながら、のろのろと力の入らない腕で、必死に間宮を押し退けようとする。
「ま――みやく、……ど、……い、て」
 呂律の回らない舌を懸命に動かし、声を発した基樹の姿を見て、異変を察知したのか圭一の表情が見る間に険しくなった。
 ツカツカと、荒い足音を響かせて、圭一がそばに寄ってくる。
 その足音から漲る怒気に、ああ、やばい、と思った瞬間、圭一は、基樹の身体に被さっていた間宮の首根っこを掴み、強引に引きはがす。そしてその身体を、いとも簡単に床にぶん投げた。
「イッ……てえ!」
「けい、……ち、さん……」
 小柄な間宮と、逞しい長身の圭一。二人の体格差は明らかだ。殴り合いにでもなれば、間宮が圧倒的に不利だ。
 先ほどの自分と同じように、床に打ち付けられた間宮の声を聴き、基樹は焦る。暴力は駄目です、と言いたいのに、口から零れるのは荒い吐息だ。
「や、めて……くだ……ぃ…僕、の、不注意、だから……」
 この店で、怪我人を出すわけにはいかない。それが圭一なら、なおさらだ。彼を加害者なんかにさせてはいけない。
 べとべとに汚れた基樹の身体や、乱れた衣服、床に散乱したシュークリームを見て、圭一は眉間の皺をいっそう険しくさせる。
「……おい、クソガキ」
 いつにない乱暴な仕草で、倒れた間宮の胸倉を掴み上げた圭一は、低い声で吐き捨てる。
「殴られる前に、とっとと失せろ。俺はそんなに、気が長い方じゃないんだ」
「……うーん、やっぱりいい男だなあ」
 胸倉を掴み上げられ、基樹であれば恐ろしさに震えてしまうほどの怒りを間近に見ても、間宮はそんなことを言っている。彼の、能天気にも見える明るさや、掴みどころのない無邪気な感じが気に入っていたのだが――ここまでくると言葉の通じない宇宙人か何かと遭遇したような気がする。
「ま、間宮君……ほんとに、もう」
 帰って、と懸命に告げると、「はいはい」と何の拘りもないように間宮は笑った。
「じゃあ、またねー」
 圭一の手から逃れた間宮は、悪びれもせず、来たときと同じような顔をして去っていく。扉が閉まる音を聞きながら、この期に及んでも彼はまた来るのだろうかと些か疑問を持つ。彼の本来の性癖を知ってしまった今では、もしまた彼が客として訪れることがあったとしても、心底警戒して接していかなければならない。
 間宮が去っていった扉を見送った圭一もまた、自分と同じように、呆れた顔をしていたのだろう。
「……基樹」
 うまくしゃべれない基樹は、はい、と仕草だけで頷いて見せる。
「もう俺は、お前には何も言わないでおこうと思っていたんだ」
「……」
「兄貴面してお前の生活に干渉する資格なんか、そもそも俺にはなかった。俺がお前に言えることなんて何もない。……けどな。それにしたって、趣味が悪すぎだろう!」
 心配半分、呆れ半分、といったように怒鳴りつけられれば、おっしゃる通りです、と項垂れるほかない。
「少しは抵抗しろ」
「……したかった、んです、けど……」
 この状況では、抗うよりも終わるのを待つのが早いだろうと、あきらめただけだ。
「どこか、休めるところはあるのか」
 厨房の奥に、更衣室兼休憩室がある。そこへ向かおうにも、なんだかふわふわしていて、うまく立ち上がることのできない。そんな基樹を見て、圭一は顔を顰めながらも、肩を貸してくれる。
 体を預けながら立ち上がった基樹は、のろのろと指を指して奥を示した。
 圭一は基樹の身体を支えながら、示されたほうへ基樹を運んでくれる。
 ──ああ、そういえば。この人に、渡さなければならないものがあった。
「……僕、あなたに」
「あとでいい。あとでいいから……無理に話さなくていい。今は、休んでくれ」
 その声に、心配や、焦燥の色が滲んでいるのが判って、基樹はおとなしく口を噤んだ。
 自分が上手に話せるようになるまで、彼は、そばに、いてくれるだろうか。

 

 

 

 間宮は基樹に、嘘だけは吐かなかったらしい。
 時間が経つにつれて、ふわふわしていた意識がはっきりとしてきて、力が入るようになった。休憩室のソファで体を休めていた基樹は、まだ動きは完全ではないものの、ひとまず一人で起き上がれるまでになっていた。
「すみません、ご迷惑おかけしました」
 圭一は、基樹が復活するまでの間、汚された口を拭いてくれたり、水を持ってきてくれたりと、忙しなく動いていた。やることが一通りなくなってしまったあとは、基樹の横に腰かけ、その顔を覗き込みながら心配そうに顔をしかめていた。くすぐったいような気持ちで、悪い気はしなかった。結局自分は、この人に心配されるのが好きなのだ。
「もういいのか?」
「はい、多分。もう大丈夫だと思います」
 自分がどうなってしまうのかと内心おびえていたが、指先にも力が入るし、意識もしっかりしてきた。力が抜けるだけだから安心して、と間宮が言っていたのは、どうやら本当のようだ。
「力が抜けるだけの、合法ハーブか何かだと言っていました。意識もしっかりしているし――その、変な効果みたいなのはないみたいです。本当にただそれだけみたいです」
「なんでそんなもんを……」
 呆れたように呟いた圭一は、ひどく心配そうな表情で基樹の顔を覗き込んでくる。
「本当に大丈夫か?」
「大丈夫です、本当に。もう、しゃべれるし、動けますから。……あなたの、言うとおりでしたね」
 苦笑して、基樹はその顔を見上げた。
「僕は少し、色んなことを甘く見たみたいです。あの子も、最初は危険には見えなかったんですが。……人を見る目が、僕にはどうにもないようだ」
 よく知りもしない相手の元をふらふらと渡り歩いて、よくもまあ今まで無事でいられたものだと、圭一の懸念が、今ならよく理解できる。
「彼のあの、なんというか……軽さ、みたいなものが、心地よかったんです。深入りせずに済むから。でも本当に、素性がわからない人というのは怖いですね。今回ばかりは反省しました」
「……」
 何かを言いかけるように、圭一は少しだけ眉を寄せ、口を開きかけた。けれど結局何も言わず、彼は口を噤んでしまう。
 もう叱ってくれないんだな、とぼんやり思う。
 ──兄でなかった彼には、自分に干渉する理由などないのだから。
「圭一さん、……あなたにこれを、お返ししないと」
 基樹はジャケットのポケットを探り、小さな白い封筒に入れた指輪を、圭一に差し出す。
「すみません。うっかり着けたまま、出てきてしまって──」
「お前には、もう、会えないんじゃないかと思った」
 けれど圭一は、基樹が差し出した指輪を受け取ってくれなかった。代わりに、呟くような声で、ぽつりと言葉を落とす。その言葉は、静かに基樹の胸に染み入り、そして痛ませた。
「……もう、顔を見て話すことすらできないんじゃないかと……」
「そんなわけないじゃないですか」
 圭一の、どこか安堵したようにぽつりと落とされた呟きに、胸が揺さぶられる。こんな穏やかな声でそんなことを言うなんて、ずるい。
「あんなにお世話になった圭一さんに、僕がそんな失礼な真似をするわけがないじゃないですか。……例え兄弟じゃなかったとしても。あなたはもう僕の兄以外でも何でもないくらいの人だから」
 あえて冗談のように返しながら、ゆっくりと起き上がった基樹は、いつまで経っても受け取ってもらえない封筒を、丁寧な仕草で圭一の傍らのテーブルに置いた。テーブルに触れたそれから、小さく、カタンという硬質な音がした。
「お前から、電話がかかってきたときは嬉しかったよ。用事も、指輪のことだとわかってはいたんだが」
 ちらりと指輪を一瞥し、しかし興味をなくしたように、圭一はまた基樹に視線を戻した。
「ただそのあと、中々会う機会も作れなかった。今日こそはと思っても、お前に避けられている気がして……心配で、いないかもしれないと思っていても、会いにきてしまった」
 圭一は苦笑いのように、呟いた。
「基樹」
「……はい」
「俺を軽蔑するか」
「……何言ってるんですか」
 この人に感謝することはあっても、軽蔑することなんてひとつもない。
 圭一の言葉に、基樹は目を丸めた。
「俺の勝手な判断で、本当のことを長い間黙っていたんだ。軽蔑されても仕方ない」
「……いや、だってそれは……僕のためだったんでしょう。止めてくださいよ。そんなふうに、言わないでください」
 あなたのすべてに感謝しかしていないのだと、重たい空気を振り払うために笑いながら告げようとした基樹の唇は、凍り付いた。──ふいに伸びてきた圭一の腕に、抱きしめられたからだ。
「……けい、いちさん……」
「あれから、ずっと、お前に合わせる顔がないと思っていた。だけど心配で仕方なかったんだ。俺にはそんな資格なんて、ないのに」
 どこか遠慮がちに、それでも、強く。抱きすくめられて、基樹は呼吸を忘れた。この人は何を詫びて、そして、何を言っているのか。
「お前が誰と寝ようと……どんな生活をしていようと、何も言わない。言えることなんて、ない。だけどやっぱり、心配なんだ。今日みたいなことに、お前がまた巻き込まれたらと思うと……」
 ここから立ち去ろうと思っていた。すべてを終わらせて、指輪を返して。
 そしてひそめていた自分の気持ちすら、すべて返してしまいたかった。
「……僕は、あなたとは何の関係もない人間なのに心配してくれるんですか」
「すまない。──本当に、すまなかった」
 血の繋がりなどないことをとっくの昔に知っていて、この人はそれでも自分をずっと気にかけてくれていた。その情の深さと、そんなことまで詫びるのかと思うと笑ってしまう。
「俺に……触れられるのも、嫌か」
 強張ってしまった基樹の身体に気づいて、圭一が尋ねる。その声音の心もとなさに、思わず基樹はかぶりを振った。
 基樹の視線の先には、圭一の前髪が映る。
 あの雨の夜、どこか疲れ切って、力のない彼が自分の目の前に現れたのと同じ前髪。
 一度だけと抱きしめた、あの体の感触が甦る。それと同時に、呼び起こされたのは、体を繋げた強烈な快感だった。強烈な幸福感と共に果てた、自分のあさましい身体。
 触られるのが嫌だなんて、そんなはずはない。
 この人の腕を、身体を、声を、すべてを求めていたのは自分のほうだ。
 何度も何度も言い聞かせて自分を制しなければならないくらい、強く。
 ――駄目だ。駄目だ。この人を、僕に巻き込んでは、駄目だ。
 誰もが憧れるような、輝かしい人生を送ってきたはずの彼に、汚点を作っては駄目だ。
 母のように――誰かの家庭を壊しては駄目だ。
 そう思うのに、圭一の強い眼差しから逃れられない。
 鼻腔を擽るのは、彼だけの匂い。懇願するような、真っ直ぐな瞳に見つめられて、くらくらした。
「また、僕を……抱くんですか」
 基樹は笑った。自分の胸のうちの切なさも、苦しさも、罪悪感すら押し殺して。
「……あなたは僕を抱こうとしてまで、僕の生活を心配をするんですか。それとも、やっぱり男の身体もよかったですか?」
 ――僕もあなたも、快感に、負けるのか。
 たったの一度でいいと誓ったはずなのに。
「僕を抱きたいですか、圭一さん」
 ――タブーなんて。
 ぐちゃぐちゃの気持ちを殺しながら、基樹は圭一を見上げた。基樹の茶化すような言葉にも、彼は無言のままだった。精悍な顔つきが、僅かに苦しそうに歪んでいる。どうしてそんな顔をするのだろう。結局自分は、彼の言いなりなのに。
 鼻先にニンジンをぶら下げられた馬のように、自分の自制心など、あなたの言葉ひとつで吹き飛んでしまうのに。
「言ってください。一度だけでいいですから。僕を抱きたいですか。――それで、僕はあなたの言うとおりにしますから」
 圭一は何も言わなかった。ただそっと、基樹の唇に、口付けを落とした。それが彼の答えなのだろう、と思う。彼は自分を、抱きたいのだ。美しいばかりだった思い出ではなく、今や自分たちの間には、拭いきれない欲望が存在するのだ。男の、生臭い欲望が。
 すぐに離れた唇を意識するより前に、至近距離で見つめ合った圭一と視線がぶつかる。どこか苦しげで、何かを押し殺しているような眼差しだ。自分はきちんと、微笑んでいるだろうか?
 視線が絡み合ってしまえば、それまでだった。基樹は自分から、圭一の唇を奪った。噛みつくように強く、深く。応えるように圭一の腕の力が強まるのを感じる。あまりの幸福感に泣きたくなった。そのままソファの上に倒れ込んでもなお、口付けは続いた。
 ――ずるい人だ。
 こんなときばかり黙り込んでしまう。そこは昔のように、不器用な人だ。
 それでも。
 欲しい、と願ってしまった。
 この人のことが、欲しい。
 何もいらない。誰が傷ついてもいい。無論、自分ですら。ズタズタに、ボロボロになって、いい。
 あなたが望んでくれるなら、壊してくれるなら。
 ――僕は、罪深い。
 己の自制心など、知ってしまった甘美な快感を前には、跡形もなく吹き飛ばされてしまうのか。
 ただひたすらに言葉もなく、身体を絡ませ合う。
 その夜、基樹の身体は饒舌に泣いた。

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