ひどく天気のいい日曜だった。空は抜けるような青空で、気持ちの良い午後だ。
出勤前、基樹は顔見知りの青果店に寄り、店で使用するフルーツを幾つか注文した。古賀の力か、女性同士の客が徐々に増え、デザートの注文数が増えてきたので、以前は多くても週一寄る程度だったこの店にも、今は三日に一度顔を出すようになった。先代から付き合いのあるこの店の主人は非常に気さくで、会話も心地よい。
基樹がにこにことフルーツを選別していると、主人は「なんかいいことあったの」と、やはりにこにこと尋ねてきた。そうかもしれませんね、店が好調ですし、と基樹は曖昧に微笑んだ。そして、心の中で気を引き締めた。──いろいろただ漏れじゃないか、恥ずかしい。
基樹の機嫌がいい理由は、天気だけではない。あれ以来、圭一は時折、「今日会いに行く」という短いメールをよこしてくるようになった。絵文字もなく、雑談もない、淡々とした短いメールだ。けれどそのメールを受信した日、基樹はずっとソワソワした気持ちで圭一の訪れを待つことになる。こんな初心な自分に、時々嫌気がした。けれど、浮ついて、その日中機嫌がいい自分を認めないわけにもいかなかった。
──バカ、みたいだ。高校生みたいに浮かれて。
昨晩別れたばかりの圭一からの、スマートフォンを震わせたそのメールには、まだ返事を返していない。読んですぐに返すのも、なんだか待ちわびているような気がして馬鹿らしいし、かといって無視するわけにもいかない。さて、なんと返すべきか、ひとまずそれは店に着いてからにしよう、と決めて、基樹は足を店に向けた。
そのとき、丁度基樹が向かっている方向に、よくよく見知った横顔が見えた。彼はある店の前で足を止め、ショーウィンドウの中の何かを見ているようだった。長身の彼は、人混みの中でも容易く見つけることができる。
「あれ、梶原さ……」
最近、しばしば会うようになった彼を素通りする気はもちろんなく、声をかけようと口を開きかけたその瞬間、基樹は彼の傍にもう一人、連れ立っている青年の存在に気がついた。ショーウィンドウの中を指差して、梶原は自分の傍にいたその人に話しかけたようだった。梶原よりも、頭一つ分程度背の低い青年は、梶原の言葉に苦笑いするように首を振っていた。
──ええと、あれは、確か。
その彼にも、基樹は見覚えがあった。自分の記憶の中の彼よりも、幾分か大人びていたけれど、あの横顔は間違いない、と思った。
確か、名前は、矢野和秋。彼も元々は店の客で、店を訪れたのは片手で数えられるほどではあったけれど、強烈に印象に残っている客である。特に印象深いのは、彼が初めて店を訪れたときのことだ。
あれは、4、5年ほど前のことだっただろうか、ひどく心細そうな顔をして、ふらりと店にやってきた少年がいた。すでに幾らかの酒を煽っていた様子の少年はこの界隈をよく知らないような様子で、言葉の訛りからもそのことは知れた。何用か、夜の繁華街を出歩いていたところで帰り道も覚束なくなってしまったようだ。
──ねえ君、おうちわかる?
そう軽い調子で聞いた小坂にも、憤ることもなく、「家……」と呟いたきり肩を落としていた。どことなく、疲れ切って、焦燥していた印象がある。このままだとこの子、悪い大人に連れてかれちゃうなあ、と思い悩んでいたときに、ちょうど店を訪れていた梶原がその様子に気づき、介抱しつつ、結局連れて帰ってしまったのだ。なんでもそのとき目にした矢野の持ち物から、彼が梶原と基樹の母校の生徒であることが判明し、それで俄然世話を焼く気になったらしかった。梶原は自分と少しでも所縁のあるものは放ってはおけない性分だ。
その後、梶原に連れられて一度だけ店を訪れてくれたことがある。迷惑をかけた、と頭を下げられたが、基樹は迷惑を被った覚えはない。ただ何かしらの傷を抱え、疲弊していたような彼の様子が気になっていた。自分も同じように、ボロボロになっていた時期がある分、まだ未熟な少年である矢野がそれを一人で抱えているのは、ひどく痛ましい気がしたからだ。その弱々しさは、誰かが彼の保護者になってやらねばならないのでは、という危惧感すら覚えさせた。
──梶原さん、彼の面倒見てあげてるんですか?
あのときそう訪ねた基樹に、梶原は短く「ああ」と頷いていた。
それならば、おかしなことにはならないだろう。そういった部分で、基樹は梶原に絶大な信頼を寄せている。
基樹が矢野と会ったのは、確かそれきりだ。
記憶を手繰りながら二人を見つめていると、暖かい日差しの中、和秋を見つめる梶原は、ひどくやさしい顔で笑って何かを囁いたようだった。それに応えるように、和秋は少し高い位置にある梶原の顔を見上げ、驚いたような顔をした後に、彼もまた笑った。遠目に見ても、和秋の表情はくるくると動いた。
ああ、と、何かがすとんと胸に落ちてきて、基樹はひとり納得した。
──悪い大人だなあ。
あんな甘ったるい顔をして。十年の付き合いの中で一度たりとも見たことがないような顔だ。
梶原の機嫌がものすごくよかった時期があるので、多分、梶原が悪い大人になってしまったのでないだろうかと、ぼんやりと恐れてはいたのだが。
数年を経てもなお、悪い大人は続いているらしい。
そうして同時に、衝撃に近い何かを、ずしんと胸の奥に落とされた気がした。
──そうか、恋人って、ああいうのをいうんだろうなあ……。
大の男が二人並んで、そういう雰囲気をあからさまに醸し出しているわけではない。けれど、二人で連れ立って歩く、という行為自体が、いつの間にかすっかり夜の住民になってしまった自分には、とてつもなく眩しいもののように見えたのだ。
ごくごく当たり前のように、自分と圭一は夜にしか会わない。日が昇る前に、どちらともなく別れていく。そのことが。
なんだか、ひどく寂しいことのように思った。
二人の歩みが再び始まり、いよいよ基樹との距離が近くなる。知り合いに会えば声をかけるのは当然だとはいえ、梶原は、プライベートを探られることを好まない性質なのも、長い付き合いの中で十分承知している。このまま見て見ぬふりをして、通り過ぎてしまおうか。一瞬の逡巡の合間にも、梶原の視線が先に自分を捉えてしまった。ものすごく、嫌そうな顔をされた。──いや、別に僕だって、見たくて見たわけではないんですが。
ふいに足を止めた梶原に続き、自分も立ち止まって見せた矢野は、不思議そうに梶原の視線を追った後、基樹を見つけたらしい。少しばかり考え込むような顔をしたあと、茶色い目を丸めた。
「……ああ、えっと、小坂、さん?」
和秋は、ほんの2、3秒間思い出すための沈黙を必要としただけで、自分のことを思い出してくれたらしい。年月を経て、ずいぶんと柔らかくなった顔つきを、ふんわりと微笑みの形に変えた。それを見て、基樹は心底をほっとする。ああ、ずいぶん自然に、笑うようになった。
「やあ矢野くん、久しぶり。だいぶ前に梶原さんと一緒にきてくれて、それ以来かな?」
「あんまり、久しぶりな感じせえへん。この人から、小坂さんの話聞いてるし」
「そうなの? なんだか見るたび大きくなってる気がするなあ。こんなにしっかりしちゃって、もう大学生?」
ひどくやさしい気持ちになって、基樹は惜しみなく心から微笑んだ。
あの夜、傷ついて、道に迷っていた子供が、きちんと自分の道を見つけられたのだろう。なんて素晴らしいエンドマークだと、基樹は心地よさすら覚え、梶原の顔を見上げるとより深く微笑んだ。
「ずいぶん、楽しそうで、梶原さん」
「……何か言いたそうだな。──和秋、バイトだろ。もう行け」
「あ、え、うん、じゃあ、小坂さん、また」
もう行っちゃうのか、といささか残念な気持ちになる。
せっかくの再会をもう少し楽しみたい気持ちだった。
「ねえ矢野くん、今度お店に遊びにおいでよ。ごはんくらいなら僕おごってあげるから」
「うん。──許可が出たら」
頷きながらも梶原と基樹の顔を交互に見、若干の名残惜しさを見せつつ、矢野は足早に去って行った。
去っていく背中を見送ったまま、視線は戻さず、基樹は傍の梶原に問いかける。
「……許可とは?」
「最初がひどかったからな。一人でふらつかないようとは言ってある、ずいぶん前の話だ」
確かに彼が最初に店を訪れたとき、あまりにも心細く、頼りなげな様子ではあった。かつ、どういう経緯かは知らないが、店じまいも近かった深夜の時間帯に高校生が繁華街をふらふらしているのは、大人としては心配なところではある。
たがそれも、もう何年も前の話だ。
「過保護すぎやしませんかね? 彼、もう二十歳超えたんでしょう? ていうか、おつきあいが続いてるんなら、店に連れてきてくれたっていいでしょうに。僕、あの子のこと心配してたんですよ」
「──ずっと続いてたわけじゃない。また会うようになったのも、最近だ。それに店に来るなってのも、あいつがまだ律儀に守ってるだけだ」
「へえ……じゃあ今度、ごはんおごってあげてもいいですよね?」
「好きにしろ」
どこまで本当だかわからないが、それはまあそういうことにしておいておこう。とあえて深くは突っ込まなかった。
「僕、梶原さんをちょっと見直しました。片っ端からいろんなものの面倒みて構っちゃう困った人だとばかり思ってましたけど、ちゃんと責任とるんですねえ」
「……何の話だ」
「僕の感想の話です」
「お前と一緒にするな。俺はお前みたいにふらふらしないんだよ」
「……そんな言い方します? ひどいなあ」
──きっと僕は、ああいうふうにはなれないなあ。
わかってはいたことだけれど、と心の中で嘯き、基樹はひどく眩しいものを見つめるように、そっと目を眇めた。
来店してすぐに迷わずカウンターの隅の席に座った圭一に、基樹は何も聞かずグラスを差し出した。この人が一杯目に選ぶ酒など、もう判り切っている。
「今日は早いですね」
「そうか? ああ、飯をまだ済ませてないから。ここで食おうと思ってな」
「今厨房混んでませんから、すぐにお出しできますよ」
デート、と呼ぶには些か恥ずかしいが、自分にとっては立派な逢瀬である。短いメールがきた日の夜、圭一は仕事のあとこの店を訪れ、二回に一度は閉店まで居座っている。そしてそのあとは自分のアパートか、彼の仮住まいであるホテルに行くことになって、そうするとほぼ確実に体を重ねた。
「機嫌がいいのか?」
「……なんで? そう思います?」
ふいに、自分の顔をじっと見つめていた圭一が、首を緩く傾いだ。
「いや、俺にもよくわからない。なんとなくそう思った」
「……当たりです。よくおわかりになりますねえ」
店に連れ立って訪れるまで、憮然とした表情の梶原をじゅうぶんに揶揄ったおかげで、確かに基樹は上機嫌だった。恋人に甘い顔を見せているところを基樹に目撃されたことが、梶原はいたく不服らしい。
梶原が厨房で古賀と話し込んでいるのを確認して、小坂は笑みを含んだ声で、ひっそりと圭一に囁いた。
「……実は今日、梶原さんの恋人に会ったんです」
「──梶原さんの?」
「はい。あの人と付き合いは長いですけど、そういうところは見たことがなかったので。なんか妙に楽しくなっちゃって」
「……悪い顔してるな」
どこか苦笑いのような顔をして、圭一はグラスを傾けた。
「そうですか? そうかもしれないですね。なんていうか、本当にそういう部分の話ってしたことがなかったので。僕が知らなかったただの男の人っぽいところ見るのは楽しかったのかもしれないですね。なんにせよ、梶原さんの鼻の下が伸びてるところなんてそうそう──いっ、て」
後頭部に軽い痛みが走る。頭上でパンッと小気味のいい音を立てたそれは、ラミネートされたメニュー表だった。いつのまにか厨房からカウンターの中に戻ってきていたらしい、梶原だ。
「……お客さんに余計な話はしなくていい」
「余計な話なんかじゃないですよ。僕、梶原さんが嫌じゃなければもっと聞きたいくらいです、あの子の話。ねえいつからお付き合いしてるんですか?」
「本人に会ったときに直接聞けばいいだろうが。みっともない、はしゃぐな」
「だって、僕下世話ですもん。いろんなことに興味があるので」
「──新しいメニュー表だ。仕入れは古賀君としっかり打ち合わせておいてくれ」
「じゃあ今のうちに行っておこうかな、梶原さんちょっと店内見といてもらえます? 失礼しますね、圭一さん」
梶原とのやりとりを見つめていた圭一が、少しの苦笑を浮かべたまま小さく頷いた。それを確認して、基樹は一旦厨房へ戻る。「──弟が、すみません」なんだか神妙な声で圭一が梶原に言っていたのが聞こえた。何が弟だ、あれだけ人の体を好きに使って、それでも兄の顔をするなんて。ひどい、──本当にひどい人だ。基樹は少しだけ皮肉な気分になって、背中に降りかかる梶原のため息には聞こえないふりをした。
圭一とは店内にいるときはもちろん、部屋に行っても余計な会話はほとんどなかった。
いつまで日本にいるのか、もしくは奥さんはどうしているのか、そういったことすら聞かなかった。また、圭一も自ら話すこともなかった。
今日もまた同じように閉店まで居座った圭一の希望で、今回の帰宅先は基樹のアパートを選んだ。
狭くて綺麗でもないアパートの部屋に圭一を招くのは気が引けたけれど、圭一は好んでこの部屋に来た。懐かしい、と目を細めながら。
この時間が、あとどれくらい続くのか。「今」も、またいつか、懐かしいと思える時間に変わってしまうのか。
聞いてしまえば終わってしまう。
あとどれくらい――いつまで、と。
内心、言いようのない不安を抱えながら、基樹はひたすら抱かれた。
「……ずいぶん、ためらいがなくなっちゃいましたねえ」
「何の話だ?」
「あなたのことです。男の身体に――」
情事のあと、ごろごろと布団に転がっていた基樹は、上半身を起こして基樹の髪を撫でていた圭一を、見上げるように見つめる。
「――触ったり、舐めたり、いじくったり。そういうことが、ためらいなくなっちゃったなあって……」
もう何度目かになるセックスでは、基樹は翻弄されることが多くなった。
リードするように、基樹から積極的に愛撫したのは最初の数回だけで、圭一はどんどん大胆に基樹の身体で遊ぶようになってしまった。感触のひとつひとつで声をあげ、頬を染める基樹の反応が面白いとでもいうように。
「あなたはセックスも優秀なんですねえ……」
「変なことを言うな。──お前、まさか眠いのか?」
「いえ、別に……」
顔を顰めた圭一が、僅かに乱暴な仕草で、ぐしゃりと基樹の髪を掻き回す。その動きが気持ちよくて、眠りたくなんてないのに、まどろんでしまいたくなった。
「お前はかわいいよ、基樹」
「……酔ってるんですか」
「今日は酔うほど飲んでない」
身を屈めて、圭一は基樹の鼻先にキスを落とす。くすぐったさに鼻を鳴らすと、圭一は微笑みを深くした。こんなに甘く微笑むことなんて、あっただろうか?
「俺が触ると、全身で応えてくれる。俺が初めてここを舐めたとき──」
「あっ……」
「――泣いて悦んだだろう」
「……!」
自分の身体の上に覆いかぶさってきた圭一に、一番弱い部分を指でなぞられ、その上そこに息を吹きかけられるようにされると、基樹は言葉を失って顔を赤らめた。
圭一の言うとおり、初めて自身を圭一の唇で愛撫されたとき、まさかこの人がその綺麗な口で、自分のそんなものを含むなんて、と混乱し切った基樹は、もう止めてとわめき、ぐじゅぐじゅに泣きながら、まるで青い果実のように、あっという間に弾けた。
そのときのことを、今もなお揶揄するのだから、本当にこの人は意地が悪い。
「圭一さん、ちょ……」
セックスを終え、萎みきったそれに、圭一は悪戯を仕掛けるように触れてきた。からかうような指の動きに、ゆっくりと再び立ち上がりかけたそれを、圭一は口に含んでしまう。
「あ、アッ……ン、けーいち、さ……! ま、また……?」
導かれるように圭一の咥内に咥えられたそれは、あっという間に熱を持ち、刺激を求めて蕩け出した。
こんなふうに、とろとろになるほどの濃厚な愛撫に慣れていない身体は、あっさりと白旗を掲げてしまう。自分の欲望だけをさっさと放出してしまえば終わりだった、今までのセックスとは比べ物にならないほどに気持ちがいい。
「もう、止める――か?」
唇でしごかれる強烈な快感に、嫌々をするようにかぶりを振っていた基樹を、動きを止めた圭一が見上げる。その問いかけが意地悪な気持ちからではなく、心底そう心配しているのだと判るから、基樹は首を横に振った。
「──して……ください」
こんなに、宝物のようにやさしく愛撫されて、どうして抗えるだろう。
あなたがいなくなったら、どうなってしまうだろう──。
この、貪欲になってしまった自分は、気が触れずにいられるだろうか。
「……けいいち、さん」
「なんだ」
熱に浮かされるように、ぼんやりと圭一に抱かれながら、基樹は小さく呟いた。
「今度僕の前からいなくなるときは……何も言わずに、いなくなってくださいね……」
「……」
「もう、あなたのために、さみしいと思いたくないんです。僕の心を……あなたに使いたく、ない……」
七年前の、あの別れの夜に抱いた、心が千切れそうなほどの寂しさ。
この人の身体を知ってしまった今では、もう二度とあの苦しさに耐えられる気がしない。今度自分の前から去るときは、何も言わずに去って言ってほしいと、ただそれだけを願った。
圭一は、何も言わなかった。ただ、優しく、少しだけ性急に基樹の身体を追い詰めた。何も考えるな、とでも言うように。
圭一の指先や唇に翻弄され、されるがままになって少しずつ意識を手放していく中で、基樹は彼の左手を見た。
彼の薬指には、自分を気遣ってか、あれ以来指輪の姿はない。
──そんなふうに、されたら。
このままずっと一緒にいてもいいのかもしれないと勘違いしそうになる自分を、この瞬間だけ基樹は許した。
何か飲みますか、と声をかけると、圭一は少し気だるげな声をして「ああ」と答えた。放っておいたらこのまま眠りに就いてしまうだろう。それが惜しいから、そう尋ねたのは、意地悪だっただろうか。重ねた体は、すっかり眠気が吹き飛んでしまっていた。
「コーヒーでいいですか? お湯沸かすんでちょっと待ってもらえます?」
情事の後にでも彼を気遣い、甲斐甲斐しく世話を焼く自分が、ばかみたいじゃないかと思うものの、彼にコーヒーを淹れてやれる、その距離に彼がいる。そのことが幸せで涙が出そうになる。
「そういえば……圭一さん、あの」
「うん?」
ゆっくりと身体を起こした自分を、圭一の穏やかな視線が追ってくる。やさしい顔をしている彼に、今なら、少しだけわがままを言える気がした。
「……こ、今度の日曜日とか……暇、ですか、あの、よかったら映画とか……お好きじゃないでしょうか」
基樹の言葉がだったのか、圭一はまじまじと視線をよこし、驚いたように目を丸めた。時が止まったようだった。しまった、という後悔が強烈に基樹を襲う。言わなければよかった。自分の誘いに圭一は戸惑い、驚いている。その唇が何か応える前に、基樹は慌てて言葉を足した。
「あ、あの、今日の昼間に、梶原さんが恋人といるところを見てたって話、したでしょう。それで、そのとき、梶原さん、なんだかすごく楽しそうな顔をされていたの見て、それがすごく、あの、ある意味、ショックだったというか、なんだか羨ましいなって」
──ああ僕は何を言っているんだ。
自分の意思で言葉を選んでいるはずなのに、支離滅裂だ。伝えたいことが言葉にならない。
証拠に、圭一はものすごく怪訝そうな顔をして自分の顔を見ている。取り消したい。
他人のデートを見て、羨ましくなるなんて、思春期でもあるまいし。よくよく考えると、ひどく恥ずかしい。
「……そういうのもいいなあって思っただけなんです。すみません、忘れてください。コーヒー淹れてきます」
いうなり、立ち上がった基樹の腕を、圭一は捕まえて引き止める。驚いてその顔を振り返ると、彼はどこか難しそうな顔をしていた。
「あ、あの……?」
そのまま掴まれた腕を引き寄せられ、圭一の逞しい胸の中に閉じ込められる。その上何を思ったのか、彼は基樹の頭のてっぺんを、幼子にするような手つきでよしよしと撫でた。突然の圭一の行動に、基樹の頭に疑問符が埋め尽くされた。
「け、けいいちさん?」
「そうか、梶原さんが……」
「……はい」
「──彼は、いい人だな」
「は? ──ええ、まあ。そうですね」
「悪いが、今はまだ、日曜は体が空かないんだ。色々やることが多くて……」
「ああ……そう、そうですよね」
考えてみれば当たり前の話だ。ただでさえ家族を異国に残してきている身なら、休日の間に妻とゆっくり連絡を取り合うこともあるだろう。愚かしいにもほどがある。夜、こうして抱かれているだけで幸せだと思っていたはずなのに、とんでもない望みを抱いてしまった自分を恥じ、しかしながら沈んでしまった気持ちを抑えきれずに基樹はほんの少し、声のトーンを落とした。
「お忙しいのに、すみません。バカなことを言いました」
「もう少し、待ってくれるか?」
沈んでしまった気持ちを察したのか、圭一は穏やかな声で囁く。
「いえ、いいんです、本当に。気にしないで。よく考えたら僕そういうの向いてませんでした」
「……そういうのって」
「なんていうか、ちゃんとしたお付き合いの形みたいなの。やったことないのでわからなかったんですけど、そもそも向いてないからこの歳までやれなかったっていうことなんですよね」
冗談めかして告げたかった言葉は、乾いた笑い混じりになる。それをどう受け止めたのか、圭一はより真面目な顔をした。
「考えておけ」
「……何をですか」
「やりたいこと。ちゃんと全部、してやるから」
ほんとうに、この人は、口ばかりが上手になってしまった。
甘さを含んだ言葉だけをむやみやたらに与えられる程度には、大人になりきってしまった。
わかっているのに、それに歓喜する胸の内に基樹はとっくに気づいている。
「……あなたでも、そんな甘いことをいうんですね」
泣きたい気持ちで、基樹は呟いた。もう、何も期待はしたくない。それなのに、もっと欲しい。もっと、甘いだけの言葉が欲しい。上手に騙して、上手に夢を見させて欲しい。できれば、このまま。壊さないで、そっと、離れて。──ああ、いやだなあ。喉の奥は確かに涙の味がするのに、大人になりきった基樹は、ひらひら笑っていた。