途中で圭一はタクシーを拾い、タクシーに乗り込んだ二人は、十分もしないうちにあるホテルに辿り着く。一時滞在していると言っていたホテルだろう。よく名を聞く一流ホテルのフロントに、思わず気が怯みかけたが、やはりここでも早足で去ろうとする圭一に数歩遅れ、基樹はエレベーターに乗り込む。移動の間、すべてが居た堪れないほどの沈黙に包まれていて、基樹はいよいよくじけそうになった。
誘ったのは圭一なのに、どうして自分が必死になって追いかけなければならないのか。それとも自分は、あのときあの場で帰るべきだったのだろうか。理不尽だ。なのにこのまま彼の前から勝手に去る勇気は、もっとない。
悩みながらも圭一の後を追って部屋の前に着いたとき、キーを開けた圭一が、中に入れと促すように基樹に向かって扉を開く。着いてきてもよかったらしい。
内心ほっとしながら部屋に一歩足を踏み入れた基樹は、その部屋の広さのみならず、装飾の細やかさやベッドサイズ、調度品の美しさに絶句した。サラリーマンが出張ついでに泊まるにはあまりにも勿体ない、一流ホテルの一流の部屋だ。
「……ずいぶん、ご立派な部屋ですね。あなたの会社は、こういうところを用意してくれるんですか?」
「うん? いや、ここは会社は関係ない。個人的に宿泊しているんだ。ここは昔から父の関係で馴染みのあるホテルで、今でもよくしてもらっているから、一時的に日本に帰ったときはここに泊まることが多い」
「はあ、そうですか。もう僕は呆れて言葉もありません」
要は、お得意様というやつか。自分の父親というのは本当はどんな人物で、どんな生活をしていたのやら。行きつけの居酒屋に行くのと同じ感覚で、一流ホテルを利用している人間を、基樹は知らない。自分の希望で父の素性を知ることを拒んでいたが、ぼんやりと想像していたよりも、父はずっと大物だったのかもしれない。
自分や母の前では、ただの気のいいおっさんだったのになあ――などと思いながら、窓際に置かれたアンティーク調の白い椅子をそろりと撫でた基樹を見て、ベッドの上にジャケットを脱ぎ捨てた圭一が首を傾げる。
「……こういうのが好きか。意外だな」
「いや、好きか嫌いかというとまあ好きですけど、日常生活には要らないですよ。見るぶんには美しいですけどねえ」
細かく模様が刻まれた椅子も、セットのテーブルも、まったく幾らするのか見当がつかない。身分不相応にも程がある。
「そうか。好きなら、実家に似たようなものがあるから、お前にやろうと思ったんだが」
「いりませんよ、こんなロマンチックなもの。僕にはまったく似合わない。そのうえ、僕のアパートには置く場所もない」
「相変わらず、あのアパートにいるのか」
「そうですよ、あのきったないアパートです」
自分の狭いアパートの半分を、このテーブルセット占領している光景を想像して、基樹は思わず顔を顰めた。その表情を見て、圭一はふっと目の奥を和らげる。
「俺は好きだったよ、お前のあの部屋が。居心地がよかった」
「……嫌味ですか?」
ようやく笑った圭一は、ふいにどこか懐かしそうに目を細め、基樹が撫でていた椅子を見つめた。
「正直、俺にもよくわからない。ただ、母がよく、そういう家具を好んでいた」
そういえば、彼が自身の母親のことを口にしたのは、これが初めてのような気がする。愛人の子である自分に気を遣ってくれたのか、昔から圭一は、自分に家族の話をしなかった。
「お前は知らないとは思うが、母が一年前に亡くなったんだ。だからこういった家具が山ほど実家に置いてあるんだが、捨てるにも捨てられなくてな」
彼の母親が亡くなっていたとは初耳だった。もちろん、彼の家の事情など、圭一が海外へ渡ってしまった以上知る術もないのだから当たり前だ。基樹は立ちつくし、思わず目を見開いた。母を亡くした痛みなら、充分すぎるほどに知っている。
「それは……捨てる必要なんてないでしょうし、なおさら僕なんかがもらえません」
「妹が、俺が海外に行くことになってから、婿を取って母と暮らしてくれていたんだ。ただ元々、母とは趣味が合わなかったもんだからな。母が残した家具ももう、使いたがる人間がいない」
「だからといって、僕はいただけませんよ。あなたのお母様の遺品を譲り受ける資格なんて僕にはないし、お母様だって望まれないでしょう」
とんでもない話だと首を振った基樹に、圭一はそれ以上は勧めてこず、
「そうだな」
と小さく笑った。持ち主をなくした家具が、所在をなくして佇んでいる光景のもの悲しさを、圭一が心から痛んでいるような気がした。
──この人は家具にまで同情するのか。苦笑いしたくなるけれど、それが彼という人だ。
所在なく佇んでばかりいた基樹に座るように促し、添えつけの冷蔵庫の中から赤ワイン、棚からグラスを持ち出した圭一は、基樹の向かいの椅子に深く腰を下ろす。
「お前も飲むか?」
「……何をいまさら。飲ませるために連れてきたんでしょう」
圭一が持ってきたグラスは、二つだ。基樹もまた諦めたようにジャケットを脱ぎ、椅子の背もたれにそれを預ける。
座るように促されたものの、ひとまず立ったまま、瓶のコルクを抜こうとしていた圭一に、「僕が、」と声をかけた。圭一の手から瓶を受け取ると手慣れた手つきでコルクを抜き、グラスに赤く揺れる液体を注ぐ。その姿を、肩肘をついて見上げてじっと見つめていた圭一は、「やっぱり様になるな」と笑って見せた。
「ワインにも詳しいのか?」
「お店にも置いてますから、そりゃあ多少は。――でもワインなら、きっとあなたのほうが詳しいでしょうね。昔、飲みながら、あなたに教えてもらったことが、今も役に立っていますよ。それに、高いお店で出される酒や料理には、きちんと理由があるんだと知りました。僕なんかでは一生いけないようなお店にも連れて行ってくれたでしょう。料理や酒の質なんかもそうでしょうが、その空間に対しての対価というか……そういうのが、あの頃の経験のおかげで、少しだけ判るようになった。あなたに教わったことは、本当に糧になりました」
揺れるワインの小さな波に視線を注ぎながら、本心を少しだけ吐露する。
「感謝しています。……梶原さんは深い意味もなく、あなたに今の僕を見てやれと言ったんでしょうが、僕にとってはとても意味のあることでした。来てくださって、本当によかった」
ふたつのグラスにワインを注ぎ、瓶をテーブルに置いた基樹は、向かいの椅子に腰を下ろすため、圭一に背を向けた。
その瞬間。思いもよらない強い力で、手首を掴まれる。
「……圭一さん?」
手首を掴んだのは、もちろん圭一の手だ。掴んだ指の強さをそのままに、グイと強引な力で引き寄せられた基樹は、バランスを崩して思わず倒れ込むように床に膝を着いた。
「うわっ……ええ? なっ、な……」
衝撃に、思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
「い、痛い……」
姿勢が崩れたとはいえ、圭一に腕を支えられていたおかげで、転倒は避けることができた。それでも打ち付けた膝と、とっさにテーブルについて体を支えた、もう片方の掌が、ジンジンと痛い。
悪ふざけにもほどがある、それとも自分が何か粗相でもしてしまっただろうかと首を傾げながら圭一の顔を見上げる。
圭一と視線がかち合ったその瞬間、あまりの眼差しの強さに、基樹は息を呑んだ。
「……け、」
圭一さん――名前を呼びかけたそのとき、圭一の足の横に跪くようにして座った自分に向かって、彼が身を屈めるのが見えた。一体何を、と思った瞬間には、もう唇を塞がれていた。
まるで、噛みつくようなキスだった。
眼前にあるのは圭一の顔。近すぎて、もはやその表情は見えない。一体何が起こっているのかもわからず、目を見開いたまま、基樹は抗うことすらできなかった。
これはキスだ、と気づいたのと、圭一の唇が離れていったのは、ほとんど同じころだった。
「……なん、で?」
零れたのは、自分でも驚くくらい、幼い声だった。
突然すぎて、頭がうまく回らない。ついさっきまで何の変哲もない話をしていて、優しかったあの日々を懐かしんでいただけなのに。この人は自分の兄で、男で。唇など触れてはならないはずの、人だった。なのに。
「基樹、お前いつからそんな生活を続けてるんだ」
「……は?」
「よく知りもしない人間と関係を持つなんて……お前はそんないい加減なやつじゃなかっただろう」
いたましげな顔をして、圭一は呻くように呟いた。今の基樹の姿を心底嘆いているようだ。
唇が触れた意味を探しかけていた基樹の頭は、一気にヒヤリと凍り付く。
――ああ、また。
「お前は幸せに暮らしているんだとばかり思っていたのに。もしかしたら、もう結婚でもして家庭を持って、幸せに……そう願いながら、俺はずっと過ごしていたんだ。なのに、どうしてこんなことを……」
まただ。またこの人は自分に同情している。
勝手に自分のことを不幸だと決めつけて。
そう思った瞬間、基樹の胸に、どこか暗い感情がよぎる。
この人にしてみれば、持ち主に置いてけぼりにされた家具と自分は、同情に値する同じくらいの存在なのだろうか?
圭一の言葉を遮って、基樹は尋ねた。
「……圭一さん、男を抱いたことってありますか?」
「……あるわけ、ないだろう」
「そうですか。僕はありますよ」
唐突な基樹の投げかけに、圭一は目を見開いた。当たり前の圭一の答えに、それはそうだろうと納得しながら基樹は言葉を続けた。
「抱いたことも、抱かれたことも。とても気持ちがよかった。あなたが想像するほど、悪いものじゃないんですよ。抱くのも抱かれるのも、僕はどちらも好きです。好きでしていることなんです。――少なくともあなたに同情しされるような理由なんて、今の僕にはない」
恋をして、結婚をして、末永い幸福に。そんなありきたりな幸福を勝手に願われ、望まれても、不愉快なだけだ。彼の望んだ未来とは違う現状に失望され、そしてそれを不幸なことだと思われて、一方的な同情を注がれるのも、我慢ならない。
「僕は僕の好きなように生きてきた。それを他人から勝手に見下されるのは不愉快だ」
そんなものは、もう、要らない。
同情だけで救われるような、幼い季節はとっくに終わった。
「……基樹」
激昂を殺し、淡々と告げた基樹の言葉に、圭一は戸惑うように名を呼んだ。
「知らないなら、僕が教えてあげましょうか」
「基樹……?」
「僕を叱りたいなら、男の体くらい知ってからにしてくださいよ。あなたがそれに抗えるなら、……圭一さん」
まっすぐに圭一の顔を見上げながら言い切った基樹は、自分の顔の横にある圭一の脚に、そっと触れた。基樹の指先が、その逞しい脚を撫でるように動く。圭一は僅かに身じろいだものの、拒みはしなかった。
よく考えれば、官能的なシチュエーションだ。
好きだった男の足元に、こうして跪いているなんて。――眩暈がしそうなくらいに。官能的だ。
「ホテルに連れ込んで酒を勧めるなんて、そういうことでしょう?」
「違う……違うんだ、基樹、俺はただお前に」
「そう解釈されても仕方ないですよ」
有無を言わせぬように微笑みを浮かべて言った基樹に、うろたえていた圭一は表情を強張らせた。
自分の胸を支配しているのが、怒りなのか悲しみなのかわからないまま、彼を戸惑う顔を見上げ、基樹は笑った。
きれいな思い出だった。優しい記憶だった。
彼の幸せだけを祈った。
思い出を抱きながらただ生きた、必死だった。それだけなのに、どうして、自分が批難されなければならないのか。圭一だけが、穢れなくあの日の煌めきを持っているとでもいうのか。
「誘ったのはあなたです。……僕はもうね、いろんなことを、タブーだとは思わない。だいぶ、あなたに軽蔑されるような生活を送ってきましたから」
男同士であることも、半分だけ血の繋がった兄弟だということも。
あの頃、自分を戒めていたものは、七年殺し続けた想いを目の前にすると、今や軽く感じた。
あなたのために、すべてなかったことにしたのに。
男同士で、半分だけでも兄弟で。その禁忌を犯してまで、彼を思い続けることはできなかった。彼の未来を歪めることはできないと、あの夜、確かに交わされかけていた心に蓋をして、何も言葉にもせず見送った。
なのにこの人は数年を経た今、突然自分の前に現れて、勝手気ままに心をかき乱す。人の気も知らないで――どれだけ苦しかったか。どれほど恋しかったか。思い知らせてやりたい。──壊れても、いい。最初から、ないのと同じことだったのなら。
「――あの夜の続きでも、はじめます?」
基樹は泣きたいような気持ちで、笑っていた。
卑猥な水音を立てて、浅黒い性器が基樹の唇を蹂躙する。――いや。圭一の逞しいそれを蹂躙しているのは、もはや基樹のほうだ。
男の足の間に跪き、前だけを寛がせた状態で性器を口に含む基樹に、今更戸惑いなどない。深く銜え込んだまま、頬を窄めて唾液と先走りを搾り取ると、頭上から吐息に混ざった熱い声が落ちる。
「基樹……ッ」
「……こういうふうにされるの、お好きですか」
張り詰めた性器から口を離し、舌先で輪郭を辿るように舐め上げると、それは脈打つように震え、固さを増した。
「強く吸われるのが好き? それとも、こうやって舐めるほうが……?」
堪えるように固く瞼を閉じ、与えられる刺激に呻いていた圭一は、基樹の淫らな問いかけに薄く目を開ける。眉間に皺を寄せながら基樹を見下ろす彼は、忌々しげな声で答えた。
「……ずいぶん、慣れてるんだな」
「またお説教がはじまりそうですね、色気がないなあ……」
尖らせた舌先で鈴口をつつくと、圭一はまた篭った吐息を零す。固く立ち上がったソレを見ても、彼の表情を見ても、感じているのは明らかなのに、彼は少しもいいとは言ってくれない。
きつく窄めた咥内で、溢れそうな唾液を飲み込むように性器を締め付けると、圭一の手が思わずといったように、基樹の後頭部を押さえつける。喉奥まで押し込まれた性器に「ん、ぐ」と基樹がえずくと、圭一ははっとした様子で、慌てて手を離す。
「悪い、……大丈夫か」
「……そのままで、いいですから」
少し咳き込みながら、どろどろに濡れた唇を己の舌で舐めながら、基樹は小さく呟いた。
「あなたの好きにして。好きに、おさえつけて。……興奮する」
圭一は躊躇いながら、また掌を基樹の頭に戻す。けれどその掌に先ほどのような力はなく、代わりに優しく、基樹の髪を撫でた。その掌から、じんわりと熱が伝わる。快感を与えているのは自分のはずなのに、抗いようもなく気持ちがよかった。大きさと固さを増して呼吸が苦しくなることすら、快感を呼んで、基樹は自分の身体が昂ぶっているのを自覚する。
指先で根元をしごき、先端を加えた唇が上下する。ジュルジュルと飲み込めない唾液が、基樹の指と唇を容赦なく汚した。
圭一の喘ぎにも少しずつ余裕をなくなり、最後が近いと基樹は目を瞑り、一心に唇を使った。
「もと、き、……もういい、離してくれ」
「ン、……んぅ」
懇願のような圭一の声にも首を振り、基樹は深く深く、性器を銜え込んだ。ざらつく舌をベトリと添わせ、強くソレを吸い上げた瞬間――小さな呻きが頭上から落ちて、唇の中に、熱いものが注がれる。
ドクドクと脈打ちながら口の中に溢れる精液に、自分の熱が一箇所に集まってくるのを感じる。
容赦なく口の中に広がる青臭い苦みに、とてつもなく興奮した。
咥内に放出された、唾液と混ざった精液を、基樹は自分の掌に吐き出す。基樹の唇から掌に、どろどろとそれが滴り落ちる光景を、圭一は眉を寄せて眺めていた。
そして基樹は自らスラックスを下ろし、下半身を露出させる。その濡れた掌を、己の奥まった蕾に押し付ける。
「基樹……?」
何をしているのかと、不思議がっているような圭一の声に苦笑いしながら、基樹は視線を避けるように俯いた。
「間抜けですよね。……男は、勝手に濡れませんから……ぅ、んっ」
準備です、とひそやかな吐息と共に言葉に吐き出して、ぬめりを送り込むように、指先を中に潜り込ませた。受け入れるのも、受け入れさせるのも、基樹にとってはどちらの行為も同じだった。同性相手の経験がない圭一には、そのまま、男の立場を与えたほうがいいと思っただけだ。
「……見、ないで――ください」
とはいえ、羞恥がないわけではない。圭一の太腿に自分の頬を擦り付け、表情を隠しながらもちらりと片目で仰ぎ見た彼が、じっと自分の姿を凝視しているのに気付き、恥ずかしさで体が震えあがりそうだった。
「っ……」
彼のモノをしゃぶっている間にすでに勃起していたソレを無視して、後ろを弄りながら息を荒げる、あさましい自分の姿を。その視線にすら感じて、反り返って立ち上がる自身が震える。
ふいに、手首を掴まれて、強く引き上げられる。長く跪いていた姿勢から解放された基樹は、そのまま圭一の腕に引きずられるようにベッドへと押し倒された。
「えっ、あ、……な、なに……」
背中から倒れ込み、突然のことに目を瞬かせていた基樹を見つめながら、圭一もまたベッドへと上がった。ベッドを軋ませながら自分に近づいて両足を割り、その間に圭一は自分の身体を滑り込ませる。圭一の意図を知って、基樹は耳まで赤くなった。
「圭一、さん、いやだ、離して」
スラックスと下着を乱暴に脱ぎ捨てられ、基樹の下半身は、圭一の視線の下完全に晒されてしまう。それだけではなく、圭一は基樹の足首を掴み、更に大きく広げた。
「駄目だ、……もっとちゃんと、見せてくれ」
「ア、あっ……い、や……」
「ここを……」
濡れた双丘の隙間に、圭一は指を滑らせてくる。
「……こうすればいいのか」
圭一の指が自分の体内に潜り込んできた瞬間、基樹はきつく目を瞑った。ただそれだけの刺激で、達してしまいそうになる。
「……いや、だ、――圭一さん! だめ、だめだ……!」
あなたが、そんなところに触れたりしたら。触れられるだけなのに、恐怖に似た感情が胸にせり上がり、基樹は怯えるように首を振った。
「あ、あなた、は、そんなこと、しなくてもいい……っ! お願い、です、圭一さん――ン、ああッ」
汚い、汚い。駄目だ。彼にそんなことをさせては、絶対に、駄目だ。快感と同じくらいの恐怖感に、基樹は震えた。絶え絶えの息の合間に、必死で懇願する。
「や、やめ……ああ、ンっ」
圭一は、器用に基樹のネクタイを引き抜き、シャツを肌蹴ていく。
ネクタイは首元に引っかかったまま、あられもなく両足を広げた情けない恰好で、基樹はただ喘ぐ。開いたシャツの隙間を潜って、胸元に圭一の濡れた舌が這う。尖らせた舌先で小さなピンク色の突起を突かれると、また、体が跳ねた。
ぎこちない動きで、指の腹で体内の襞を擦られる。最初は遠慮がちだった指が中を解すように抽挿を繰り返す度、基樹の性器はビクビクと震えて、悦びに濡れた。
「教えてくれ、基樹、……どうしたらいい?」
乳首を舐めたり噛んだり、時折くすぐったりと好きに弄んでいた圭一が、視線だけを上げて囁く。
「もう少し……柔らかくしたほうが、いいのか」
「ひっ……あ、う……ん」
囁きながらも圭一は、指の動きを止めず、やさしい動きで柔らかい内壁を蕩かしていく。出来のいい指先は、そのうち基樹の感じる部分を的確に探りあてた。最初は一本だった指が、二本。また和らいだ内壁が、三本目の指を受け入れたとき、基樹はもうあえぐことしかできなかった。
「あ、あ……ッ、ン、う……ンッ、……だめ、だめだ、いやだ……」
「基樹……」
とろとろと潤んだ瞳で見上げれば、圭一はどこか苦しそうな顔で自分のことを見つめている。小さく頷いて、基樹は自ら脚を広げ、圭一を誘った。
「も、もう、……いじめ、ないで……圭一さん」
もうそこは、圭一の指に遊ばれて、随分前から蕩けきっている。もう十分だと言っているのに、圭一が執拗にぐちゃぐちゃに掻き回すからだ。
初めこそ悠々と圭一を導いていたものの、もはや基樹は主導権など握れてはいない。
「もう、むりです……あなたので、イきたい……っ」
圭一のソレが、再び熱を取り戻している様子に、基樹は内心安堵する。ほっと息をついた瞬間を狙ってか、圭一がずぶずぶとその切っ先を沈み込ませてきた。
「――ッ! う、あ、……あああっ」
「……っ」
埋め込まれた圭一のソレに、歓喜するように絡みつく身体。圭一が眉を寄せながら呻いたのは、もう離すものかとばかりに収縮した自分の締め付けのせいだろう。無意識の動きに、あさましい、と恥じ入るよりも先に、その快感に意識が飛びそうだった。
「あっ、あ、あああ……けいいちさん、いい、大きい、……きもち、い……」
「……基樹、基樹」
繰り返し名前を呼ぶ、彼の声も熱に浮かされているようで、胸の奥が引き絞られるように熱くなる。昔、この人の、自分を呼ぶ声に救われた。もう誰かに、大切に呼ばれることなどないと思っていた、自分の名。
繰り返し呼ばれる声に陶酔しかけたその瞬間、ふいに、自分の腰を掴んだ彼の指から、ひんやりとした金属の感触が伝わった。
「……いや、だ……」
「……? 何が」
「それ……ゆび――冷たい……」
ゆっくりとした動きを続けながら、圭一は怪訝そうに問いかける。それ、と言いながら、基樹が指で辿った先は、圭一の左の薬指だった。
「外して――外して、ください……今は……今だけは」
口にした瞬間、途轍もない罪悪感に襲われる。何を馬鹿なことを口走っているのだろうと、冷静に頭の片隅で思うけれど、懇願は止まらなかった。基樹の言葉を聞いて、圭一は動きを止める。その顔に、驚きの色が滲んだ。
「……ごめんなさい、圭一さん、でも――お願いですから……」
「――ああ。悪かった」
ビクビクと震えながら懸命に言い募る。圭一は短い言葉で謝罪すると、こともなげに薬指から指輪を抜き取った。かと思うと、それを執着もなく床に放り投げてしまう。
曲線を描きながらどこかに転がってしまった指輪を見ながら、そんなふうにしなくても、と逆に基樹が焦った瞬間、唇を強く塞がれた。
「ンッ……んん」
鼻先を擦れ合わせるように触れ合い、口付ける。もう隙間があることすら許せずに、基樹は自らの舌先で圭一の舌を絡め取り、深く唇を合わせた。唇が角度を変えながら重なり、口付けが深まれば深まるほど、圭一の腰の動きが激しくなる。もう自分を掻き抱く彼の動きに戸惑いはない。あまりのよさにおびえて、逃げる腰を強引な引き戻されもした。深まる結合に、喉をひきつらせてあえぐと、痛みはないか、と聞かれた気がする。けれど、基樹は必死に首を振った。痛みなどあるはずがない、あってもいい。もう――どうでも、いい。
「あっ、あ、ンン、う……もう、…っ…もう……いく、いくっ」
唇が離れた隙に、涙交じりの声で縋り付くと、圭一も小さく頷き抱く腕の力を強めた。壊れそうなくらい強い力で抱きしめられて、眩暈する。
グ、と深い場所に先端を強く押し当てられた瞬間に、基樹は射精した。
少し遅れて、圭一の歯を食いしばるような小さな声が漏れ聞こえ、体の奥に温かい液体が注がれるのを感じた。
直接体内に、人の熱を感じるのは、はじめてだった。
その熱が、他の誰でもない圭一のものであることに、思わず泣きそうになる。今この瞬間に見つめ合えば、抑え込んだ気持ちが溢れる気がするから、あえて視線を避けるように、太い首筋に唇を押し当て、汗の味がする肌を舐める。圭一がそのわずかな刺激にも反応するように呻いた。かわいい人だと、基樹はやっと小さく笑う。
――ほら僕は不幸なんかじゃない……。
こんなにも、幸福だ。幸福だと信じながら目を閉じた。確かに幸福だった。夢なら眠り続けたいと願うほど、この数年のうち、一番に──もう目覚めたくないと思うほどには。
「……何してるんだ」
「何を、って。あなたがどこかに投げてしまった指輪を探してるんですよ」
シャワーを浴び終えた圭一がバスローブ姿で戻ってきたとき、先にシャワーを借りていた基樹は、とうに服を着て、床に這いつくばっていた。圭一がシャワーを浴びているうちに、貸してもらったバスローブ姿ではなく持ってきていた服を着たのは、やはり彼に対しての遠慮や気恥ずかしさがあったからだ。彼の前で、そこまで寛ぐ気にはどうしてもなれない。
「なかなか、見つからなくて――圭一さん、どの辺に転がったか、覚えてますか?」
どろどろに気持ちよくなっていたとはいえ、自分もよくあんなことを口走ってしまったものだ。――そして彼も、よくもまああんな要求に応える気になったものだ。まったく性欲とは恐ろしいものだ。正しいことも間違ったことも、わからなくなってしまう。
「ああ、それなら別に探さなくてもいい。どうせ明日掃除のサービスが入るから、そのときにでも見つかるだろう」
「なおさらよくないですよ、掃除機にでも吸い取られたらどうするんです」
なぜこんなにのんきでいられるのか、わからない。万にひとつ、指輪が見つからなかったとして、困るのは自分のほうじゃないのか。
テーブルの下を這いつくばり、カーテンを捲りあげながら床に視線を彷徨わせていた基樹は、小さく光るそれを、カーテンの影にようやく見つめた。丁度、壁際に置かれたドレッサーと窓の間で、身をよじりながら手を伸ばせば、指先は軽々と届いた。
引き寄せたそれを、基樹は改めてまじまじと見つめてしまう。鈍い輝きを放つ、銀色の指輪。これとペアのリングが、この世界のどこかに存在して、それを嵌めている女性がいるのだ。
腹立ちだとか、苛立ちなどは今更感じるはずもない。ただ――少しだけ、うらやましい気がした。こんな指輪ひとつで、彼のすべてを所有できるだなんて。
――きれいだなあ。
なんとなく、いたずら心が騒いで、基樹はその指輪を自分の薬指に嵌めて見た。個人のサイズの違いがあるし、どうせそんなうまいこと嵌まるわけがない。どこかで止まるか、ブカブカのままだろうと思いながらも指を通すと、なんと意外なことに指輪が丁度よく、通ってしまう。
――外れない。
「……あ、あれ?」
「どうした」
尋ねられて、一呼吸固まりながらも、基樹は己の左手を圭一に向かってひらひら掲げた。
こうなってしまっては今更隠しようがない。
「すみません、外れなくなってしまいました」
「……はあ? なんでお前がそんなもん嵌めてるんだ」
「いや、僕指輪をつけたことがなかったので。どんなものなのかな、と。……僕と圭一さん、指のサイズ同じくらいなんですねえ。思いの外ピッタリでびっくりしました」
「何をしてるんだ、お前は……」
呆れたように呻く圭一をよそに、石鹸で取れるかなあ、などと呟きながら基樹は左手をひらひらさせた。――重い。
「お前は、相変わらずよくわからない」
濡れた髪をタオルでかき混ぜながら、ベッドに腰を下ろした圭一は、ぽつりと呟く。そうですかねえ、と首を傾げた基樹に、圭一は僅かに苦く笑い、どこか遠くを懐かしむような目をした。
「お前のことは昔から、よくわからなかったよ。――俺がお前に干渉し出したときも、迷惑がっているのはわかったが、そのわりには俺を拒絶することはなかった」
「迷惑だなんて……」
「思ってただろう。いや、それでもいいんだ。お前に何かしてやりたかったのは、俺の我儘だった。母親を亡くしたばかりのお前に父さんの死まで告げて、金の話ばかりするような男を、お前はよく殴らなかったと今でも思う」
「――止めましょうよ、昔の話は」
今度は基樹が苦笑いをする番だった。しゃがみこんだまま指先に視線を落とし、その指輪を外そうと密かに努力する。
確かに彼の干渉を鬱陶しいと思っていた時期があった。
「お前が父さんの息子で、――確かに俺の弟なんだと思うと、どうしてお前だけがこんなふうに独りぼっちで生きているのかと、とても理不尽な気がした。お前はそうやって一人で生きていかなきゃいけないのに、俺だけが……俺の家族だけが、のうのうと暮らしているのが、おかしいような気がして……俺がお前の味方をしてやらなきゃいけないと思ったんだ」
「圭一さん、もうやめてください、本当に僕はあなたに感謝していますから」
体を繋げたあとに、兄弟であることを強調するなんて、なんてひどい人だ――。一度は振り切ったはずの禁忌が、基樹の胸を軋ませる。
それでも圭一は、言葉を続けた。
「お前に関わっていることで、自分を偽善者だと思うこともあったんだ。お前は現に、遺産相続を放棄した。父さんが遺したものを、お前は何ひとつ受け継げなかった。父さんはそれを望んでいたにも関わらず、だ。――そしてそうさせたのは俺なのに、お前のそばにいることが……辛かった」
「圭一さん……」
指輪を外すことを諦めて、立ち上がった基樹は、圭一の隣に恐る恐る腰を下ろした。こんなふうに、当たり前のように近い距離にいてもいいものか、判断がつかなかった。
「あの頃お前は本当に危うくて、遺産や金どころか、自分自身にも執着していないように見えた。自分の人生も放り出そうとしているお前から、目を離せなかった。お前がきちんと生きていけるまで見守って、支えていくことが、せめてそれが……俺に、できることだと思っていた」
「……ええ、そうですね」
圭一の言っていることは、すべて正しい。母が亡くなったことで、母の店を継いでやりたい、楽をさせてやりたいとばかり思っていた基樹は、確かに自分の人生を一度見失った。
あなたの正義感や不器用な誠意が、自分を支えた。
これまで関わることのなかった存在だった自分を、他の兄弟の誰でもなく、彼が見つけた。
後ろめたさというネガティブな感情が根元にあったとしても、救われたのは事実だ。
だから、感謝している。この人の、あの鬱陶しいくらいだった干渉を。表面的に対応していただけの冷たい自分に気づいていながらも、歩み寄ろうとしてくれていたこの人の優しさを。
「基樹、もう、ああいうのはやめろ。こういうことをいうと、お前はまた、俺を嫌うのかもしれないが」
――嫌う? 自分が、この人を?
なぜ、とゆっくりと首を傾げた基樹の視線を避けるよう、圭一は俯いた。言葉を探しているようだった。
「……どういえばいいのか、わからないんだが。俺は、ああいうふうに不特定多数の人間とセックスしていることが、どうしてもお前のためになるとは思えない」
「……は?」
「せめて、特定の相手に絞るとかは、できないのか?」
「……はあ」
改まって、一体何を言い出すのかと思えば、こんな話かと、気の抜けた返事を返してしまう。何のことはない、ただの説教である。
「ひとりの相手で満足できるようでしたら、元々そういう遊び方はしないんじゃないかと思うんですが。……というか、誰かひとりに執着するということが、僕にはできなかったんです。それだと相手に対して失礼なので、割り切れる人とだけ関係を持つようにしただけですよ」
どうやら圭一は、基樹のことをだらしがないと叱るのを止めて、生活を改めるように説得することにしたらしい。ばかげている。――馬鹿馬鹿しくて涙が出そうになる。あんなにも熱く絡みあったばかりなのに。
「そうすると、自然と短いお付き合いの方ばかりになったり、一晩限りになるわけです」
「だからせめて、その一晩限りというのを改める気にはならないのか? お前の相手をするのは、例えば――俺だけじゃ、駄目なのか」
「……はあ?」
信じられない言葉を聞いた気がして、目を見開いた基樹は圭一の顔を思わず凝視しながら、聞き返す。圭一は真面目な顔をしていた。
「一晩限りの相手でも、お前はそれで構わないかもしれないが……俺はやっぱり、心配なんだ、お前が。何が起こるかわからないような時代に、そんな得体の知れない相手と寝るなんて」
「……だから、あなたが僕と寝てくれるっていうんですか? 冗談でしょう?」
「冗談でこんなことをいうか。俺に執着できないというなら、それでもいい。もし俺で間に合うなら、こんな生活はもう止めてくれ」
「馬鹿って――あなたこそ、何を、馬鹿なことを……」
そんなのは、される謂れのない心配じゃないかと思うと、頭痛すら感じて基樹は己の額に手を当てた。
――ああもう本当に、馬鹿馬鹿しい。
幾ら心配だとは言え、そのために自分の身体を差し出そうというのか。
家庭を持ち、本来の拠点は海外で、今は一時帰国しているに過ぎない身の彼が。
もう、心配と呼ぶには度が過ぎている。
ぐつ、ぐつ、と、ゆっくりと、胸にどうしようもない不快感が沸くのを感じた。
「……もう、帰ります」
「基樹、待て。話はまだ終わってない」
「いえ。もう結構です、あなたのお話はわかりましたから」
そもそもこんな生活に身を投じたのは、彼がきっかけだというのに。
無表情に言い切り、ベッドから立ち上がった基樹は、振り返ることなくまっすぐドアに向かおうとする。その途中、すぐに後を追ってきた圭一に手首を掴まれ、引き留められる。
「基樹!」
「――ふざけるな!」
強く、圭一の手を振り払った基樹は、心の底から、声を振り絞り、怒鳴りつけた。自分でもこんな声が出るのかと驚くくらいに。
「あんたは父さんそっくりなんだな。――親子そろって、愛人を作るのか。人を馬鹿にするのも大概にしろよ!」
それでももう、止まらなかった。
ぐつぐつ沸いた不快感は、怒りだ。
「あんた、自分で言ったじゃないか、僕はあんたの弟だって。だから心配して、面倒を見てやってたって。兄弟で、男同士なのに、どうしてそんな……僕と寝るなんて言ったりするんだ……!」
あまりの怒りに眩暈すらしそうになる。
だらしがない、そんな人間じゃなかったはずだ、という言葉は、今や圭一自身に返してやりたい。
関係を続けてしまえば、たった一度のことだからと自分に甘えて、過ちだからと目を瞑って済む話ではなくなってしまうのに。
「……弟じゃない」
怒りで目元を赤くした基樹を、じっと見つめながら、圭一は静かに呟いた。
「……え?」
「――弟じゃ、ないんだ。基樹。お前と俺は、血は繋がっていない」
言葉を選ぶように、圭一は低い声で、ゆっくりとそう続けた。
たった今、言われた言葉の意味は俄かに理解しがたくて、基樹はゆっくりと目を見開いた。
「お前は、父さんの子供じゃない」
「……な……なに……?」
「――父さんの秘書で、相田正一という男がいる。お前も知っていると思う」
「あい、だ……正さん……?」
名前を聞いて、ぼんやりとその面影が甦る。――正さん。そう父や母から呼ばれ、親しまれていた男がいたことを思い出す。父はたまに友人を伴って母の店を訪れることがあった。相田はそのうちのひとりで、もっともよく父と飲みにきていた男だった。
「そうだ、その相田だ。彼は父さんと幼馴染で、旧知の仲だ。――DNA鑑定なんてしなくても、彼がすべてを知っていた」
あの男は、父の秘書だったのか。仲のいい、気心の知れた友人だとばかり思っていた。
「父とお前の母親が出会ったとき、お前はとっくに生まれていたそうだ。一歳か二歳か、それくらいだったと聞いた。お前の母親は、お前の実の父親のことを話したがらなかったそうだが、どうやらあまりいい別れ方をしなかったようだ。……だから、自分のことを本当の父親だと思ってほしいと、そう育てていこうと……父から言い出したそうだ」
圭一が甲斐甲斐しく基樹の世話を焼き、二人の間に信頼関係が生まれたころ、圭一にだけ、相田からその事実が告げられたという。相田もまた、自分が仕えていた父の意思を尊重し、基樹にも遺産が相続されることを願っていた。けれどそれを基樹自身が放棄し、その罪悪感と後ろめたさに悩んでいた圭一の姿を見かねて、教えてくれたのだろうと圭一は言った。
――それでももしよければ、基樹を支えてやってくれないか、と、相田自身の本心を添えて。
「じゃあ……じゃあ、あなたは、ずっとそのことを知っていたんですか?」
「……ああ」
「どうしてそれを、今まで僕に話してくれなかったんですか……?」
「お前が……傷つくんじゃないかと。母親が死んで、父さんまで死んで。その上、父さんの息子じゃないという事実を知ったら、お前がどんなに傷つくかと思うと……あのときは、とてもじゃないが、お前に何も言えなかった」
圭一は、自分の方がつらそうな顔をして、ポツポツとそう告げた。
突然降って沸いたようなあまりの事実に、頭痛がする。
「知ってしまったらお前が、どうにかなってしまいそうな気がした。ただでさえ危うかったあの時期のお前に、本当のことを告げたら……お前が消えてしまう気がしたんだ。あのときは、父さんのためにもまだ言うべきじゃないと思った」
――弟だ、と言ったじゃないか。
どうしてこんな自分の味方をしてくれるのかと、千切れそうな胸の痛みをこらえながら尋ねたとき。
あなたが自分のことを弟だと言ったから、そう、定義したから。
――この恋に蓋をしようと、決めたのに。
もう、何に傷つけばいいのかわからなかった。
自分が父だと信じていた人の息子じゃなかった事実。兄と慕っていた人と赤の他人だった事実。兄と信じ、そのために泣きながら捨てた恋心。
そうして、数年を経て触れてしまったその身体。
「弟じゃないから――男を抱いたら、思いの外よかったから、だから、僕を愛人にするんですか?」
心配だ、という言葉を、真正面から受け入れることができず、自虐的に言って、基樹は笑った。皮肉のような笑い方に、圭一は眉を寄せる。
何か言いかけるように口を開いた圭一に、もうこれ以上聞きたくないとかぶりを振り、基樹は彼に背を向ける。
「さっきのお話も、お断りします。もう二度とあなたと寝ることはありません。僕たちは他人です。他人ならもうあなたに干渉される謂れも、説教される理由もない、ましてやよりにもよってあなたとセックスだけの関係になるなんて、絶対にいやだ!」
一息に言い切ると、今度こそその場を立ち去るために歩き出す。自分を呼び止めるような声が聞こえたけれど、基樹は振り返らなかった。足早にドアを開き、廊下に出ても、圭一は追ってこなかった。
バスローブ姿で追ってもこれないだろう、と気づいた基樹は、思わず、小さく笑ってしまう。外に出てから、ようやく立ち止った基樹は、自分の震える手を見下ろし、もう片方の掌でその手を握り込む。
そしてその指に、外しそびれていた指輪の存在があることに気づく。笑いかけた基樹の唇は、結局、笑みの形をうまく作れなかった。
こらえきれない嗚咽が唇の端から零れる。
祈った。思い出すたびに、胸を痛ませるたびに。彼の、彼の家族の幸福を、ひたすら祈った。
どこか遠い世界で幸せでいてくれますように。
自分に手を差し出して、声をかけ、温かく見守ってくれた。
彼が自分の世界を作った。そのことに、基樹は七年間感謝をし続けた。
――それでも辛かったんだ。
七年間、毎日。毎日だ!
この苦しみも知らず、何が、自分が相手になってやる、だ。何が、弟じゃなかっただ。先に、守るべき自分の家庭を作ったのはあなたじゃないか。自分を置いていった七年前。彼の人生を尊重した七年間、僕は、彼を。何のために。堪えて。想って。諦めて、捨てて。それでもまだ抱えていたかった。大切に捨てるたび、泣きながら拾い上げた恋だった。
――あなただけを。
本当に、好きだった、あなただけには、決して片手間に、愛されたくなかった。
鈍いきらめきを放つ指輪が、ギシギシと、基樹の胸を締め付ける。
その痛みに、思わず蹲った基樹は、背を丸めて少しだけ涙をこぼした。
結局、指にぴったりと嵌まったままだった指輪は、アパートの風呂場で、泡立てた石鹸の力を借りると、スルリと取れた。呆気なく外れてしまったそれに、拍子抜けするような気持ちがしたけれど、こんなものをいつまでも嵌めていても仕方がない。自虐にもほどがあるし、自分の傷口に塩を塗りたくるような趣味は、あいにく基樹にはない。
ただ問題は、ひとつ残ったままだ。
あの夜から一週間経っても未だ圭一は店には現れず、指輪を返せていなかった。こんなもの、早く返してしまいたいのに、こういうときに限って圭一は現れない。あんなことがあった以上、今までのように気軽に来れはしないだろうと判ってはいるけれど。
「――梶原さん、近々うちの兄と会う予定ってありませんかね……?」
「塩崎さんとの仕事はもう終わったからな。当分会う予定はないが。……どうかしたのか?」
「いえ。ちょっと、兄に渡ししたいものがあったもので」
閉店作業中の遅い時間帯に、月末の締め作業にやってきた梶原は、ぽつりと零した基樹の言葉に、訝しそうに首を傾げた。
「自分で渡せばいいだろ、そんなもん」
「そうですよねえ。そうなんですよねえ。そう言われるとは思ってましたけど」
ポロリと外れてしまった指輪は、念のため持ち歩いている。あんなふうに彼を怒鳴りつけて別れてきた手前、できれば顔を合わさずに返せればと思っていたが、それも無理なようだ。けれど圭一は、もうここには来ないかもしれない。もう二度と会わないかもしれない――兄弟ではないとわかってしまった以上、彼と会う理由がない。
基樹は時折、考えるようになった。
父はどんな気分で母を愛していたのだろう。どんな気分で、本妻である圭一の母を愛していたのだろう。
そして母は、彼女は、どんな気分でそれを受け入れていたのだろう――。
「――僕は、謝りに行くべきですかねえ」
「……何の話だ、突然」
突然の呟きに、梶原は帳簿を仕舞いながら首を傾げた。
「圭一さんの――兄のお母さんにです。ああ、もう一年くらい前に亡くなってるみたいなんですけど。なんというか、僕の母がよくないことをしていたのは間違いないでしょう。それで、彼女がどれだけ苦しんだのかと思うと、今更ですけど忍びなくて」
「死んだ人間にか。墓の前でか。それでお前の気が済むんなら、すればいいんじゃないのか?」
「はは、そうですよね。……今更そんなことしたって、自己満足でしかないんですよねえ」
――片手間に愛されたくなんてなかった。
圭一と寝たあの夜、自分ははっきりとわかってしまった。
圭一をまだ愛していること。
諦めたふりをして、忘れたふりをして、その実少しも彼のことを諦めていなかったこと。
だから、飛びついた。彼の身体だけでも手に入りそうだと思った瞬間、欲望に負けて貪りついた。
けれどそれも、彼が家庭を持っているという状況では、決して喜びだけではなかった。
彼が本来いるべき場所があり、自分はひたすらその陰にひっそりと隠れなければならない。その事実が、どうしようもなく許せなかった。
――僕は、貪欲だ。
「だけど僕、存在がもう、あの人にとってはきっと、罪深いじゃないですか。なんていうか……うーん、うまくいえないですけど。僕が生きてる限り、あの人は忘れられなかったんだろうなって、なんかそういう感じ」
愛しているなら、与えられるぶんだけを甘受していればいいのに。
きっとそのほうが、幸せなのに。
「……辛かっただろうなあ」
圭一の母と父が特別不仲だったという話は聞いていない。自分と母の存在を、いつどこで彼女が知ったかは定かではないが、円満な夫婦だったとすると、いずれにしても寝耳に水の話だっただろう。
「お前が考えたって仕方のないことだろう」
「ええ、まあ、そうなんですけどね。何しろみんな、死んじゃってますからね、本当に今更――」
「そうじゃない。親の因果を子どもが背負ってどうするんだ」
響きだけは冷たい梶原の言葉に、じんわりと自分への気遣いを読み取って、基樹は小さく微笑んだ。
それでも、自分は母のようになってはならない。
他人様の家庭に土足で踏み込むような真似など、決して。
自分は指輪を返せばいいだけだ。
本来の持ち主の場所へ。誰かの所有を示す銀色の指輪を、あの人の元へ返せばいいだけだ。
「……ところで、小坂」
「はい」
「何かいるな」
「ああ、お気づきですか」
とぼけたふうに首を傾げた基樹に、梶原はわかりやすく嫌そうな顔をした。
「気づいていて、放ってるのか」
「今のところ害がなくて、なんとも。相手の出方がわかれば僕もどうにかしたいなあ、とは」
主語はなくとも梶原の言いたいことは、わかっている。店の扉に近い窓から、ちらりと人影が覗いているのだ。それも開店した直後から、今の今まで。基樹の様子を伺っているであろうことは容易く予想がつく。毎日この店に必ず常駐しているのは、何しろ自分だけなのだから。
「でもね、最初に付け回していたの、男性だったんです。それが、昨日あたりから女性になったので、これはボスのお出ましなのかなと。あちらさんからの動きがそろそろあるのかなあと思っているんですけど」
「──なんなら捕まえてくるか、今」
「止めてくださいよ。どうせ、話があるのは僕でしょう。あなたが怪我したらどうするんですか」
「にしたって、そろそろ何が目的か聞いといたほうがいいんじゃないのか」
「……あんたが僕のせいで怪我なんかしたら、僕は死ぬよ。梶原さん」
梶原は、基樹の世界の中で、どうでもいいことの九十%には属さない。恩人という言葉では括りきれないくらい貴重な男だ。誰かが自分を付け回していることは理解している、だからこそ、梶原を巻き込むわけにはいかなかった。狭い世界でしか生きられないから、もう、大切なものは、何もなくしたくない。
立ち上がりかけた梶原を、ピリリ、と張り詰めるような声で制した基樹に、梶原は僅かに目を開き、そして、怪訝そうに眉を寄せた。
「……そこまで危ないのか」
「さあ。ここ一週間いらっしゃいますねえ。いたり、いなかったりですけど。寒いんですかね、外。僕の家もご存知でしょうから、できればお店では何も起こらないことを願ってはいるんですが」
「場所を限定するな、場所を」
「大切なものがあるだけですよ。あなたのおかげで。──だってお店で何か起こったらもう営業できなくなっちゃうでしょ。僕、そんなの嫌ですから」
店、梶原、圭一。自分が守らなければならないものなど、数えれば片手で事足りる。自分のことなど最下位でいい。
ちらりと窓の外を見ると、もう影は消えていた。
「今日も何も起こらないみたいですよ。大丈夫です、梶原さん」
ね、と笑って首を傾げた小坂に、梶原はなんだか納得していないような顔をした。