恋の嘘【2】

 ──あれも、もう……七年くらい前の話だなあ。
 その思い出をぼんやりと思い描くと、懐かしさと少しの寂寥感で胸が満たされる。
 アイスピックで氷を砕きながら、基樹はちらりと腕時計を見た。待ち合わせの時間は九時らしい。あと、十分と少しでその時間になる。
 梶原はいつも通り、カウンターの隅のほうで一人酒を煽っている。梶原はあのあと、時間が余るからと一度店を出て行った。そしてまたこの店を訪れたのは、ほんの一時間ほど前のことだ。ついでに夕飯も済ませたかったらしく、厨房担当の従業員にパスタを作らせていた。それはとっくに食べ終わっていて、あとは圭一の来店を待つのみといった風である。
 梶原は、恐らく純粋に親切心で、この店に圭一を招いたのだろう。ある人が、昔の知人を懐かしんでいた。そして自分はたまたまその人を知っていた。その間を仲介することくらい、もし同じ状況にいれば、もちろん悪気なく基樹でもしていただろう。
 それでも基樹の胸のうちは、近年なかったほどに騒いでいる。
 二十歳の年に出会い、別れた。それがもう、七年も前の話になるのに今更どんな顔をして会えばいいのだろう。
 週末の夜、繁盛する時間帯とあって、客数は多い。カウンターはもう梶原の横しか開いておらず、テーブルも空いている席はない。
 客の話し声がざわざわと交差する中、やがて耳に届いた来客を告げる、カラン、という小さな鈴の音。
 落ち着かない心臓が、その一瞬、止まった気がした。
「梶原さん、すみません、お待たせして」
「いえ、時間通りです。俺が早くきただけですから。それよりも先日はどうも」
 ゆっくりした足取りで訪れた長身の男は、小さく微笑んで、まずカウンターに座っていた梶原に会釈する。
 そうして、氷を砕いていた基樹を見た。
「基樹」
 それだけ言って、彼は──圭一は黙り込んで基樹を見つめた。
 視線を上げ、基樹もその顔をゆっくりと見る。記憶の中と、それほど変わらない男が、そこにはいた。
 口を噤んでいれば、少しばかり強面にも見えるその人が、名前を呼んだきりむっつりと黙り込んでいるのは、きっと、次の言葉を探しているせいだろう。
 それでも彼は基樹の顔を見て、懐かしむというよりは、どこか安堵したような、優しい目をしていた。
 本当に、不器用な、人だった。
 久しぶりだな、会いたかったよ、だとか、元気だったか、だとか。そんな気の利いた簡単な言葉も用意できないまま、自分の顔を見に来たなんて、笑ってしまう。
 この人のことが──本当に、苦手だ。
「いらっしゃいませ。お久しぶりです、圭一さん。……何になさいます?」
 基樹はすぐに圭一から視線を外し、彼に梶原の隣の席を勧めた。ああ、嫌だ、と心底思う。全身に緊張を漲らせながら接しなければいけない。そうしなければ、駄目なのだ。──溢れてしまう。
「あ、ああ。じゃあ、梶原さんと同じものを」
「はい。どうぞ、くつろいでくださいね。そんな大した店じゃありませんが」
「おい、お前が言うな」
「すみません梶原さん、あんたがいること忘れていました」
 如才無く微笑んで見せた基樹に、気を抜かれたような顔をしながらも、圭一は勧められるがまま椅子に腰を下ろす。
 仕事の終わりに待ち合わせると聞いたが、それにしては疲れの表情は見えない。相変わら精悍な人だ。昔から歳よりも大人びた人だったが、七年という年月を経ても、歳を取ったようには感じなかった。むしろ大学を出たてだったあの頃に比べて、瑞々しい逞しささえ感じる。
 ──奥さん、お元気ですか?
 一度は口をついて出かけた言葉を、基樹は結局、飲み込むことにした。
 その声が変にゆがんで、今もなおくすぶる何かを悟られないでいられる自信がなかった。七年経ち、随分大人になったはずなのに。いろんなことが器用になったはずなのに。
 注文のグラスを圭一の前に置いたと同時に、厨房の従業員から声がかかった。
「店長、すみません、こっち手伝ってもらってもいいすか」
 新しいオーダーが入ったのか、呼ばれる声に、これ幸いと基樹は逃げることにした。
「ああ、はいはい。ごめんね。すぐ行くよ。――すみません圭一さん、僕はちょっとバタバタしていますが、どうぞごゆっくり」
 圭一の返事も待たず、基樹は厨房へと飛び込んだ。
 どうせ時間帯としては最も忙しいころなのだ。まさか圭一も、仕事中の自分とじっくり話ができるなどと思ってはいないだろう。
 ラストオーターは一時半の店だが、そこまで三時間と少し。その時間まで長々と圭一が居座るとも思えない。何せ、ぼんやり生きていた自分に喝を入れるなどという、せっかちなところのある人だ。とりあえずこの場を切り抜けるために週末の繫雑さに身を任せてしまおう、と思いながら、基樹は厨房へと入る。何を話せばいいのか、どうしたらいいのかなんてわからない。それでも。
 ──幾らでも微笑んでみせるさ。
 あのときだって、できたことなのだから。

 厨房を手伝い、客の酒を作り、軽食をテーブルに運び皿を片付けという作業を繰り返しながら、基樹はついつい、圭一と梶原の様子を気にしてしまう。大盛り上がり、はしていないようだが、それなりに話も弾んでいるように見えた。とはいえ仕事相手だそうなので、そつのない会話程度だろう。梶原も恐ろしく引き出しの多い男だ。
 客足が落ち着き、カウンターの別の客に丁度捕まり、雑談していたころに、梶原がふいに腰を上げた。帰るのか、と思ったものの、しかし圭一のほうはなぜか帰る気配がない。軽く圭一に頭を下げた梶原は、そのまま基樹の元に訪れて、耳元に顔を寄せて小さく囁いた。
「親父も俺も世話になってる人だからな。俺にツケといてくれ」
「はいはい、わかりましたよ。……あの人、まだ帰らないんですか?」
「早く帰ってほしいみたいな言い方だな」
 別にそういうわけじゃないですけど、と口ごもる。実のところは、そういうわけではないわけでも、ない。
 梶原は用事がある、と言い置いて、カウンターの隅に圭一を残し、さっさと帰って行ってしまった。まずいことに、客足はそろそろ落ち着いてきた頃だ。おそらくこの時間帯から入ってくる客は早々いない。追加注文もずいぶんと入っておらず、今いる客が各々帰路についてしまえば、店内は完全に静まり返ってしまう。
 嫌だ嫌だ、それだけは避けたいと基樹は心底願う。基樹は、未だに圭一をじっくりと直視できていない。意識している自分が馬鹿のようだと思う反面、それを悟らせないように微笑むだけで精いっぱいだった。
 圭一はそれを知ってか知らずか、特に基樹に話かけようともしてこない。これ幸いと圭一との関わり合いを極力避けているうちに、客は一組ずつ帰っていき、ついには圭一のみとなってしまった。
 ああどうしよう、などと思いながらグラスを磨いていた基樹に、キッチンに入っていた従業員の古賀が、姿を現し、声をかけてくる。
「店長、厨房もう片付け始めていいっすか?」
「ああ、うん。そうだねえ、そうしようか、もうお客さんもこないだろうから。僕も看板下げてきちゃおうかなあ」
 二人の会話を聞いていたのか、ふいに、圭一が口を挟んでくる。
「店、もう閉めるのか」
 このタイミングで話しかけてくるのか、と思いながら、努めて基樹は平静を装って微笑んだ。
「あ、はい。もう、圭一さんだけですから。もうお食事はなさらないでしょう? ああ、でも気にしないでゆっくり飲んでください、お酒だったら幾らでもお出しできますから」
「いや、酒はもういい。どれくらいで帰れるんだ?」
「は?」
「お前のことだ。店を閉めたら、すぐに帰れるのか」
「あ、ええと、僕ですか。僕はまあ、本当にこのままお客さんがこなくて、片付けが終わればあと三十分くらいですけど」
「そうか、じゃあできるだけ早くしてくれ。いい加減待ちくたびれた。早く帰ろう」
「帰ろうって……ご自分のおうちですかね?」
「俺の自宅はまだ香港なんだ。だから今はホテル暮らしで、まだもう暫くはそこにいる。ここからもそんなに遠くないから、久しぶりにお前も付き合え」
 有無を言わせないように、飲み直すぞ、と、圭一が傲慢に告げた。
「いやいやいやいや……僕があなたのホテルにお邪魔するのがなんでもう決定されてるんでしょうね?」
 ――ああそうだ、こういう強引なところもある人だった――
 最初は確かに、この人のことが苦手だった。嫌な話ばかりを運んでくる相手で、また自分が愛人の子、相手が本妻の子という関係性もあり、会いたくもなかった。
 部屋で怠慢に伸びきっていたかった自分を、無理やり強引に外へと連れ出した。しゃきっとしろ、なんて怒鳴られたこともある。
「久しぶりに日本に帰ってきたんだ。会いたかった奴と飲んで、何が悪い」
 その強引さが懐かしくて、思わず笑ってしまう。
 そして、自分は確かに、この強引さに、救われてもいた。
「すみません、圭一さん」
 基樹は、その日、はじめて圭一を正面から見つめた。
 精悍な鼻先、引き結ばれた唇、鋭い眼差し。決して穏やかなほうではない表情はいつも仏頂面で、この人が表情を崩して笑うところなんて殆ど見たことがない。ああこんなところは変わっていない、と思うと、今更胸の奥が熱くなるような気がした。
「今日は本当に勘弁してください。この後、約束があるんです」
「約束? こんな時間からか」
「はい、仕事柄どうしても人と会うのは遅い時間になってしまうんです」
 まさか断られるとは思っていなかったのだろうか、圭一はほんの僅かに眉を寄せてみせた。基樹はうなずくものと決めてかかっていたのだろう。そういう時期が、自分たちにはあった。圭一に引っ張られ、言われるがまま、ぐだぐだになっていた基樹は少しずつ社会に復帰したのだ。
 けれどもう基樹は、二十歳になったばかりの世間知らずの若者ではない。
 あの頃のままでは、いられなかったから。
「とはいっても仕事の関係で、バーテンダーの先輩みたいな人なので、色気も何もないような相手なんですけどね。ちょっと、お酒の仕入れの件で会わないといけないんですよ」
「……そうか、仕事なら仕方がないな」
「すみません」
 ――ああまったく、僕はいつからこんなに嘘をつくのがうまくなったんだろう。
 内心、厚かましく成長した自らに嘆息しながら、基樹は微笑んだ。基樹の言葉を疑いもせず、素直に受け入れた圭一は、では、と立ち上がり、財布を取り出そうとする。基樹はそれを、慌てて制した。
「ああ、お勘定は結構です。いただけません。梶原さんから言われてますから」
「そういうわけにはいかないだろう、こんなに長いこと居座っていて」
「いえ、本当に。大丈夫ですから。あの人に逆らったら僕クビになっちゃいます」
 あの人、僕の上司ですから、と笑うと、圭一は渋々といったように財布を元の場所にしまい込んだ。
 その動きの中、酒と煙草の香りに交じって、ふいに鼻腔を擽る匂いに気付く。あれ、と思う。これはおそらく、圭一の体から香ってくる香水の匂いだ。
「……圭一さん、香水変えました?」
 これと同じものを着けている常連客が、そういえばいた。そう思った瞬間に、思わずその言葉を口にしていた。この甘ったるい匂いが圭一から香ってくることに、不思議な気分になる。確か圭一は昔、もう少し爽やかな香水を好んでつけていたはずだった。
「うん? ああ、前のは、若すぎるからと言われて――…」
 ふいに口を噤んでしまった圭一に、ああそうか、と思い至る。
「――奥さんに選んでもらったんですか?」
 だから、あえて口にして尋ねた、もう何でもないことなのだと自分に言い聞かせるために。
「……ああ」
 そして圭一もまた、少しのためらいの後、小さく頷いて見せた。
「素敵な香りですよ。センスのいい女性ですね」
 嘘だ。
 他の女が選んだ香りなど、吐き気しか催さないのに。
「よく気付いたな。いちいち人の香水の匂いなんて覚えてるのか?」
「僕、鼻がいいんですよねえ。名前までは覚えきれないけど、注意していればけっこうわかるもんですよ。それに、圭一さんの前の香水、好きだったんです。とても……」
 感心している様子の圭一に、うっかり本音が零れる。
「あ、いえ、本当に、今の香水も素敵ですよ。いい匂いです。大人の男性だなあ」
 意外そうに目を丸めている圭一に、基樹は慌てて取り繕うように笑った。
 ダメだ。油断すると、こぼれてしまう。昔この人へ向かっていた感情が。
 むせ返る汗の中に混ざる、彼の匂い。一度だけ抱きしめた背中の記憶が。
「今日は、すまなかったな」
 思いがけず謝罪の言葉が零れ落ちて、基樹は目を丸めた。
「え? 何がです?」
「長い間居座って、その上タダ酒になってしまった」
「あはは、そんなことですか。相変わらず真面目な人だなあ。……じゃあ、また来てくださいよ。そんなことを気にするくらいなら、今度はたくさん飲んで、たくさんお金落としていってください」
 不本意そうな顔で呟いた圭一の顔がおかしくて、笑いながら言った基樹の顔を、圭一はなぜか驚いたようにじっと見つめた。
 ――え?
 何かおかしなことを言っただろうか、とその強い視線に顔を強張らせかけたときに、圭一がそっと、目を細めた。
「……ああ、また、来る。またな、基樹」
 そして、途轍もなく優しい目をして嬉しそうに笑ったような気がした。
 圭一はそう言い残し、店を出て行く。
 カラン、と小さな音を立て、ゆっくりと閉まっていく扉を見送ると、基樹は思わずへたへたと床に座りこんでしまった。
 ――どうしてあの人は、あんなふうに笑ったりするんだ。
 油断をすれば、溢れそうになってしまう。懐かしさが。置いて行かれた寂寥感が。置いていったはずの――恋心が。
 ここ数時間分の緊張が、座り込んだ足と指先から抜けていく。
「店長、終わりましたよ。――って、ちょ、どうしたんすか、大丈夫ですか?」
 ぐったりとカウンターの下に座り込んでいた基樹に気づき、古賀が声を上げた。
「あー、うん、大丈夫大丈夫、今日はちょっと疲れたみたいだ。ごめんねえ」
「じゃあもうコッチの掃除も俺やっときますよ。店長、レジ締めあるんでしょ、ちょっと休んでのんびりしといてくださいよ」
「ありがとう、そうさせてもらおうかなあ。ごめんね、古賀君も疲れてるだろうに」
「いえ、俺店長よりは若いですから」
「あはは、そっか。ありがとう」
 冗談交じりに言った古賀に感謝して、基樹は少しだけそのまま、休ませてもらうことにした。古賀は学生バイトの一人だが、大層気の回る男だ。
 ひんやりした床に座り込んだまま、基樹はふう、と、全身で溜息をついた。
 俯くと、視界の隅に見えた指先が、ほんの少し、震えていた。
 情けないな、と苦く笑いながら、指を握り込む。そして、ひそかに伺い見た彼の掌を想い、古賀にも聞き取れないほどの小さな声で呟いた。
「……指輪、してたなあ……」
 当たり前だ。
 あれは、七年前の最後の日に見たものと同じだろうか?
 誰かからの所有を示して光っていた、彼の左薬指。
 七年ぶりに見た圭一の微笑みに、どうしようもないくらい胸を掻きむしられることに気づいていながらも、基樹はそれを振り切るように、ゆっくりと立ち上がった。

 

 

 *****

 

 

 ――あれは、強く雨の降る夜だった。
 圭一の訪問が、ある時期ぶつりと途絶えたことがあった。そういえば最近、あの人の姿を見ないな、となどとのんびり思っていたある日突然、彼は連絡もなしに基樹のアパートを訪れたのだ。雨に濡れた前髪を、拭いもしないで。
 その、露を滴らせる前髪から覗いた眼差しに、どきりと胸が騒ぐ。その瞳がどこか暗い光を帯びていたからだ。
「どうしたんです、圭一さん、こんな時間に」
「……すまん」
 そろそろ日付の変わるころだった。この時間に圭一がくるのは、本当に珍しい。彼はもっと早い時間にやってきて、夕食を一緒に摂り、そのまま基樹の部屋で飲むというパターンが多かったからだ。
 圭一は酒に関しての造詣も深く、基樹が梶原の元で見習いバーテンダーとして働くということになってからは、積極的にそれらの話をしてくれるようになった。そのほとんどは父から教わったものだ、という圭一の話を聞きながらグラスを傾ける時間が、基樹は本当に楽しかった。
 しかし残念ながら、今日はそんな話ができる状態ではないようだ。彼は明らかに、ひどく酔っていた。
「とりあえず上がってください、まったくもう、どれくらい飲んだんです?」
 目元すら赤く染まっており、足元も覚束ない。いよいよ珍しいこともあったものだ。
「ほら、しっかりしてくださいよ」
「すまん」
「すまんじゃないでしょ。謝るくらいならこんなになるまで飲まなきゃいいのに、圭一さんらしくもない――…」
 圭一に肩を貸しながら中へと迎え入れ、狭い部屋に座り込ませる。
 その途中に、基樹は気づいてしまった。
 圭一の薬指に光る、指輪に。
「……水、飲みます、か、……いや、先に、タオルかな。ずいぶん濡れましたね」
 思わず、心が強く揺さぶられてしまう。この人に婚約者がいることは知っていた。圭一の携帯電話には、頻繁に特定の女性から電話がかかってきていたからだ。けれど、その応対がやけに他人行儀だった。会話に敬語すら用いる女性とは、いったいどんな関係なのだろう、などと想像しているうちに、なんとなく、そのことに気づいてしまったのだ。
「いい、基樹。座れ」
「……でも」
「いいから。ここにいてくれ。頼む」
 壁に背中を預け、どこかぼんやりとした目で、圭一は基樹を見上げた。いつになく物憂げな眼差しだ。
 電話を切ったあと、何かを考え込むように、じっと携帯電話を見つめていることがよくあった。その圭一の様子から、恋愛結婚ではないのかもしれない、と思ったことがある。圭一は家柄もよければ、容姿もいい。仕事のことはよく知らないが、圭一のことだから、これから出世も順調にするのだろう。見合いか親の決めた結婚相手か。そのどちらかとはいえ、相手は甚く圭一を気に入っているようだ。
「基樹」
「はい?」
 呼ばれて、基樹は圭一の向かいに膝を着く。圭一はぽつぽつとした低いトーンで、ゆっくりと話し出した。
「来年、海外に行くことになった」
「……仕事ですか?」
「そうだ」
「出世ですか」
「……そこを聞くのか。失礼なやつだな」
「いつ、帰ってくるんですか」
 軽い調子で笑ってみせた圭一に、笑えない基樹は、小さな声で尋ねた。尋ねずには、いられなかった。
 けれど、口にした瞬間、途轍もない後悔に襲われる。
 馬鹿だ。
 ――僕は今、とんでもなく、馬鹿なことを聞いた。
「わからない。一年後か、三年後か、それとも十年後か二十年後か」
「そうですか」
 すべてが、理解できた。
 長期の海外赴任となれば、結婚には最適のタイミングだろう。周りからもそう判断されてもおかしくない。
 ここ暫く姿を見なかったのは、準備のためだったのだろうと思えば納得がいく。
「それじゃあ、さみしくなりますね」
 言葉に迷い、少しの沈黙のあと、基樹は当たり障りのない言葉を選んだ。別れを惜しむシーンには、よくある言葉だ。――なのに、あとからあとから、胸の奥から感情が湧き出てくる。
 さみしい。苦しい。悲しい。――恋しい。
 ……いかないで。
「……本当か」
「なんで疑うんです」
 ぽつりと零した言葉を、圭一は意外だというように拾い上げ、聞き返してくる。
「お前が俺に本心を話したのは、はじめて会ったときだけだった。ああやって感情をぶつけてきたのも、あれきりだ。お前はいつも飄々としていて、俺には何の本音も話さなかった」
 そんなことを考えながら自分に付き合ってくれていたのかと、今度は基樹が驚く番だった。
「さみしいとも、辛いとも、お前は俺には言わなかった。急に独りになって、どれほど心細いだろうと思っていたのに、本当にお前は強いやつだと感心したよ。……ただ、俺にはそれが少し、悔しかった気もするんだ、基樹」
 そうやって、小さく呟いて口の端を歪めた圭一に、ぎゅっと胸が引き絞られるような思いがした。
「もっとお前を支えてやりたかった。ちゃんと見守ってやりたかった。――すまない」
「何を――」
 思いもよらない圭一の告白に、言葉すら失くして、基樹は口を噤んだ。
 そんなふうに見守ってくれようとした、情の深い、やさしい人。
 ――どうして、あなたが僕なんかに謝ったりするんだ。
 自分の無力さを嘆くかのような圭一の言葉に、何か、とても大事なことを伝えなければいけない気がして、基樹は一度は引き結んだ唇をゆっくりと開く。
「見守って……くれたじゃないですか。仕事、決まったとき。喜んでくれたじゃないですか。梶原さんのところにお礼に行くとかまで言い出したときには、本当に困ってしまいましたけど。でも、僕、嬉しかったですよ」
「そうか」
「それから、僕を、だらしがないと叱ってくれたときも、嬉しかった。情けない、しっかりしろって。あんなふうに怒ってくれる人が、僕にまだいてくれたこことが、嬉しかったんです、……嬉しかったんです、圭一さん」
 ひとつひとつの言葉に、どうしようもない寂しさが募る。悲しさが募る。
「……あなたがいないと、本当に、さみしいです。とても……」
 ――恋しさが、あふれる。
 彼は、初めて会ったときから、善人だった。
 DNA鑑定をしろ、遺産を放棄しろ。そう迫ってきたくせに、母を亡くして独りぼっちになってしまった自分を、心の底から労わってくれた。そうして事実、支えてくれた。自棄になっている基樹を見れば、自分のほうが痛そうな顔をして、基樹を叱った。
「僕、あなたのおかげで、きちんと働いてます。もう、昼まで寝たりなんかしていません。ごはんも食べてます。だからもうあなたに心配してもらうようなことなんか、ないんです。僕はもう、本当に大丈夫。大丈夫なんです。……圭一さん」
 基樹に対して非道になりきれないくらい信念がぐらぐらで、後ろめたさで世話を焼きにくるくらいに中途半端で。優柔不断で、彼は決して強くて正しい、正義のヒーローなんかではなかった。
「どうして貴方は、僕を助けてくれたんですか」
 それでも母を失ってからの半年間、自分に寄り添ってくれた彼は、間違いなく、基樹の味方だった。味方であろうとしてくれた。
 兄というよりも、友人というよりも、そして勿論敵でもなく、何よりも誰よりも、味方でいてくれようとした。
 たまたま関わってしまった基樹を突き放すこともできず、同情して、見捨てられなかった。
 ――好きだ。
「……お前は、俺の、弟だ」
 長い長い沈黙のあと、圭一は、かすれた声で小さく呟いた。耳を澄ませていなければ聞こえなかったくらいに、本当に小さな小さな声だった。
 ――ああ、そうだ。
 あなたのその、揺らぎこそがやさしさだ。叱ってくれた情の深さが、強さだ。そのすべてが、好きだ。好きだ!
 そう叫び出したくなるほど、瞬間的に胸から湧いてきた想いを無理やり飲み込むと、それは小さな涙になって基樹の目尻を濡らす。
 自分たちは兄弟だった。なのに、限りなく、他人だった。
 基樹が彼に、他人に近い親愛の情を抱いていたとしても、たとえ半分だけだとしても。その事実は、自分たちのすぐ隣に、いつでも冷たく横たわっていた。
 ――僕たちは、兄弟だった。
 好きだ。
 あなたのことが、本当に、好きだ。
 もう何も言うことができず、ただ俯いてしまった基樹の頬を、圭一の掌が包み込む。俯いて、圭一の視線から逃げながら、基樹は、少しだけ泣いた。
 さみしかった。本当にさみしかった。
 そして、ほんの少しだけ、嬉しかった。
 頬に触れた銀色の指輪が冷たくて、やはり基樹は、また泣いた。けれどその冷たさの裏で、基樹の頬を撫で続ける圭一の指先の温かさを知ったからだ。彼の指先は、僅かな喜びをこの胸に落とす。
 ――きっとあなたも、僕のことを、好きでいてくれた。
 ふいに、そう思った。
 勘違いでもいい。どうせ事実でも、口にすることは決してない。男同士で、半分とはいえ血の繋がりのある相手だなんて、不健全なことこの上ない。この人の輝かしい未来に、自分など、要らない。
 涙の味がする嗚咽を飲み込み、基樹は顔を上げた。
 ゆっくりと唇の端を上げて、微笑みの形を作る。涙はまだ、乾かない。それでも微笑んで告げなければならない。
 叩きつけるような雨の音が、やけに遠くに聞こえた。
「ご結婚おめでとうございます」
 そのとき、圭一がどんな顔をしていたかは、わからなかった。
 ただ何も言わず、圭一は自分の肩に基樹の顔を押し付け、そっと髪を撫でてくれた。
 その広い肩に表情を隠されて、やっと基樹は唇を歪め、存分に涙を流すことができる。
 酒と煙草の匂いに交じって、彼の匂いが鼻腔を擽る。名も知らぬ、けれど今や基樹に一番馴染んでしまった香水の匂いだ。その、圭一だけの香りが、今は自分をも包んでくれる。
 基樹は震える指先で、そっと、圭一の背中に手を回した。圭一は戸惑うように少しだけ身じろぎして、けれど何も言わなかった。拒絶がないことを言い訳に、力の限り、その背中を抱きしめる。
 もう何もいらなかった。息ができないほどの幸福感が胸に迫り、もうこのまま全てが終わってしまってもいいとさえ思う。けれどもそうそうたやすく終わらない世界の中で、明日も生きていかなければならない基樹は、泣きながら笑った。明日からは、またひとり。彼のいない世界で独り。
(せめて、僕以外の人が、笑っていたらいいなあ……)
 基樹は、嗚咽を漏らすこともできず、ただ静かに涙を流していた。

 

 

    *****

 

 

 それが基樹の人生における、唯一の恋の記憶だ。
 人当りの良さを自負する基樹は、客やそれ以外の人間からも、それなりに声をかけられることがあった。その中で、実際に交際に至ったこともある。それでもいつも頭の片隅に、圭一の掌の温かさを想った。結局はどの相手も圭一を超えられないのだと気付いたとき、あまりにも不毛すぎると、基樹は真っ当な恋を諦めた。
 特定の恋人を求めない代わりに、男も女も関係なく、一晩限りの相手と寝ることが増えた。梶原辺りからは、いつまでもふらふらするなと顔を顰められているが、こればかりは仕方がない。
 もしも誰かに愛されたとしても、自分はその人に愛など返せない。けれど一人ぼっちで生きていけるような強さもない。そんな自分は、割り切れる相手とだけ関係を持つしかないのだ。
 基樹はもう、名前も知らない誰かの胸を借りて眠りに就くことに違和感を抱かない。
 ――抱かなかった、のに。
「……あの。とても、聞きにくいんですが」
「何だ」
 日曜の夜、閉店間際の時間帯には、もう店の賑やかさはない。皆が月曜に備えているからだろう。テーブル席の客はとうにいなくなり、片付けも済んでいる。今やカウンタ―席にただ一人の男性客が、静かにグラスを揺らしているだけだ。
 厨房は、いつものように閉店の準備で片付けに入っている。水音を聞き、こちらもカウンターの中を片付けながら、基樹は首を傾げた。
「……暇なんですか?」
「また飲みに来いと言ったのは、お前のほうだろう。来てやっただけじゃないか」
 基樹の視線の先にいるのは、他の誰でもない、圭一だった。しれっとした顔で言って退け、グラスを傾けている。
「……言いましたかね。言ったかもしれないですね。それでも、次の日に早速来いだなんて言ったつもりはないんですけどねえ」
「一人でホテルにいても味気ないだけだろう。今日こそ付き合えよ」
 そう、圭一は昨日の今日で、またふらりと店にやってきたのだ。今日は休みだったのか、スーツ姿ではなく、ごくラフな私服で、ラストオーダーの少し前に現れた圭一は、またカウンターに座り、まるで慣れた常連客のように基樹に酒を注文した。食事はと尋ねると首を振ったので、どこかで一人、夕食を済ませてきたのかもしれない。
 そう考えると、侘しいと感じる圭一の気持ちもよくわかる。
 そういえば、あと二週間はホテル暮らしをするのだと、圭一が昨日言っていた。ということは、二週間という期間が日本に滞在している期間なのだろう。
 短いようで長いこの期間を、家族とも離れ、ただひとりホテルで過ごすのは苦痛かもしれない。
「明日、定休日なんだろう」
 俺は知っているんだぞ、とでも言いたげに、圭一はそう続けた。
「ええ、そうですよ。よく御存じで」
「梶原さんから聞いたんだ。親切な人だな。俺とお前が知り合いで、もう七年も会っていないと言ったら、親切に色々教えてくれた」
「……ええほんとうに。涙が出るくらい親切な方ですよ、あの人は昔から」
 まったくもう余計なことを、と胸のうちで溜息を吐く。梶原はとことん面倒見のいい男だ。そうでなければ、自分がこの店で働けることにもなっていなかったのだから、仕方がない。――圭一は、自分のことを心配しているようだった、と梶原は言った。
 ただ普通の兄弟のように、再会を懐かしみ、近況を報告しあうような関係を彼は望んでいるのかもしれない。これほどあからさまに付き纏われて、基樹ももう、それでもいいかもしれないと思い始める。自分が彼に対して、特別な想いを隠して抱き続けるのが馬鹿らしい。
 ただやさしく、ただ懐かしく。少なくとも圭一は、何のわだかまりもなく接してくれているのだから、自分もそれに乗じるべきなのかもしれない。
 それは、基樹が望んだような形ではなかったけれど――
「彼は俺のことを覚えていなかったようだから、俺とお前が兄弟だと知らなかったと思うが、お前がどれだけ頑張って今この店を守っているか、立派なバーテンダーになったか、教えてくれたよ。よかったら、今の姿を見てやってくれ、と言ってくれた。……彼の祖父さんは、相当手強かったみたいだな」
「そりゃあもう、こってり絞られましたよ。昔堅気の方で、とても厳しかったです。でも、温かい人でしたよ」
 恩師、と呼べる存在がいるとしたら、それはあの人のことだろうと、基樹は、今はもう亡き老人の姿を思った。老人の妥協を許さない厳しさには、確かなものを基樹に残してやりたいという気持ちを、いつも感じていた。厳しさの反面に優しさと期待を惜しみなく注いでくれる人だった。だから、基樹にもなんとか耐えることもでき、またバーテンダーという仕事の魅力を知ることができたのだ。
「ああ、それから昨日言い忘れたんだが、そのバーテンダーの服も、様になっていて驚いた。本当にお前によく似合ってる。だらしない恰好ばかりしていた頃とは別人だよ。梶原さんが今の姿を見てやれと言ったのも頷ける」
 そういった圭一の目元が柔らかく和らいで、基樹を見つめながら小さく笑った。
 あまりにもまっすぐな褒め言葉に、耳が赤くなりそうになるのを感じる。そんな自分は性に合わないと心の中で首を振り、基樹は冗談交じりに言葉を返した。
「馬子にも衣装でしょう。この服着てると、二倍モテるんです」
「何と比較して、だ?」
「何と、って。……いや、あの、そこ、食いつきます? 冗談です、嘘ですよ、モテませんよ僕なんて」
 元々冗談のつもりだったが、慌ててそう付け加えたのは、なぜか圭一の目が僅かに険を帯びて、声が不穏に響いたからだ。基樹の言い訳を聞いても、圭一はどこか不機嫌そうに無言になって。グラスを煽った。
「……圭一さん?」
 その剣呑な雰囲気に、なぜだか急に不安になって、基樹は圭一の顔色を窺ってしまう。
「――俺の知らない時間があるとわかっていても、面白くないもんだな」
「はい?」
「いや、なんでもない」
 空になってしまったグラスを基樹のほうへと追いやった圭一は財布を取り出し、数枚の札をカウンターの上に置くと立ち上がる。
「まだ、片付けがあるんだろう。外で待っておく」
「え、いや、ちょ……待ってください圭一さん、お釣りを」
「あとでいい」
 そう言い残して、圭一は振り返りもせずにさっさと外へ出ていく。基樹の返事を待つつもりはさらさらないらしい。
 ――あんなふうに、人の恰好を褒めたりなんかする人だったっけ。
 基樹の記憶に残る彼は、口下手で、言葉も少なくて。真正面から人を褒めたりなんて到底できないような人だった。
 基樹が彼の七年間を知らないように、圭一もまた、基樹の七年間を知らない、ということだ。
 そのことに、小さな戸惑いが胸のうちに湧き上がった。
 春先とはいえ、夜の空気はまだ冷える。強引な兄の体を冷やさないために、急いで閉店準備を終わらせる道しか基樹には残っていないようだった。
 勝手だなあ、と苦笑いをしながらも、ひとまずバタバタと片付けを終える。一度だけでも付き合えば、彼の気は済むだろうか?
 先にアルバイトを帰らせたあと、基樹は最終確認で店の戸締りをして回り、外に出た。圭一を待たせてはいけないと焦るあまり、バーテン服を着替えもせず、上からジャケットをひっかけただけの姿だ。替えの服は何枚かあるので、着たまま持ち帰っても問題はない。外に出たその瞬間、思ったよりも低い深夜の空気に、軽く身震いしてしまう。
 ジャケットに腕を通しながら店の正面に駆けていくと、店の壁に寄りかかって時間を潰していた圭一は、足音に気付いたように振り返る。駆け寄る基樹の姿を認めた途端、また、目の奥だけで小さく笑った。
「すみません。寒かったですね。どうせなら店の中で待ってもらえばよかった。こんなところでお待たせして、すみませんでした」
「いや、いいんだ。こうやって人を待つ時間も、そんなに悪くない」
「……そういうもんですかねえ」
 なんだか再会した圭一の言葉は、ひとつひとつに胸がざわざわする。うまくは言えないが、優しい、というべきか、甘いというべきか。
「服、いいのか?」
「何がです?」
「バーテンダーの制服だろう。着替えてきてもよかったのに」
「ああ、いえ、お待たせするのも申し訳なかったので……。明日は休みだし、替えもあるから大丈夫です、めんどくさい日は結構このままの恰好で帰っちゃうこともよくあるんですよ。コートなんか着ちゃえばわかんないですから。……ああ、でもちょっと、だらしないですかね。やっぱり着替えてくればよかったかな」
「いや、むしろ新鮮でいい」
「……。そうですか」
 まただ。ふんわりと、滲むような甘さというか温かさを、彼の言葉の節々から感じる。
 どうしてだろう、と考え、その理由にはすぐ思い当った。歳を取った分だけ、彼の雰囲気が柔らかくなったのだ。昔なら言わなかったような世辞をさらりと口にするようになったのも、磨かれた社交性というやつだろうか。彼はもはや、昔のように無骨で、寡黙なばかりではない。
 ――まあ、僕も変わったからねえ。
 元々飄々としているところはあると友人によく評されていた基樹だが、それに輪をかけて、仕事以外への執着がからきしなくなってしまった。基樹の世界は、今や「どうでもいいこと」が九十パーセントを占めている。
 自分のことはさておき、圭一の不器用さが特別愛おしかった基樹は、世辞を口をするようになってしまった彼の変化を内心で惜しんだ。致し方のないことだとは思うのだが、少しだけさみしい気がした。
「……いろいろと、お上手になりましたね」
「何の話だ?」
「いえ、僕の勝手な感想です」
 寡黙で不器用なところも好きだったのに。あの愛おしい沈黙の時間はもう帰らないのか。
 ともあれ、寒空の下で話している時間が無駄だと歩き出そうとした瞬間、「小坂さん?」と声がかかる。
「あれ? もう店お終い? 二時とかまでやってたような気がするんだけど」
 声に振り返ると、そこには確かに見覚えのある青年が佇んでいた。ネオンに照らされてはいるものの、見えにくいその姿に目を凝らしながら、少しだけ考えて思い至る。
「ああ、――間宮君?」
 ほんの二日前に、夜を共にした青年――間宮だ。
「俺もバイト上がりなんだよね。ついでに小坂さんの顔見ようと思ったんだけど……もう閉まっちゃった?」
 基樹の元へ歩み寄る最中に間宮は、その隣に佇む圭一の姿に気づき、律儀に小さく会釈をした。そうして愛想よく、ふわりと微笑む。相変わらず愛嬌のある青年だ。
 突然現れた間宮の姿に、内心驚きつつも、基樹は彼に向かって微笑みを返した。
「ごめんね、今日はもうお終いなんだ」
 彼は元々、この店の客だった。とはいえ、通ってくれるようになってから一月も経っていない。何がよかったのかは知らないが、はじめから彼は自分によく懐いてくれた。
「日曜は0時までなんだよ。ついでに明日は定休日。また今度、ゆっくりおいで」
「そっかあ。まあいいや、今日は忘れ物届けに来ただけだから」
 はい、と紙袋に入った何かを手渡される。
「小坂さん、こないだうち泊まったときに服置いてっちゃってたから、店の」
「あれ? そうだったかなあ……」
 正直記憶にはなかった。言われてみれば、やはりあの日も、疲れているからとバーテン服のまま帰路につこうとして、閉店間際まで居座っていた間宮に誘われたような気がする。
「これ早いとこ渡しとかないと、仕事困るんじゃないかと思ってさ」
「そっか。わざわざありがとう」
「いや、いいよ。また今度ゆっくり飲みにくるね。……それよりさ」
 間宮はそういうと、ふいに隣に佇む圭一を見上げ、にこりと笑った。
「お兄さん、いい男だねー。俺は小坂さんの顔のほうが好きだけど、お兄さんみたいなのも悪くないなあ」
「……。間宮君」
「あはは、嘘だよ、邪魔なんかしないから怒らないで」
 思わぬ言葉に固まってしまった小坂を余所に、間宮は邪気のない笑顔でニコニコしている。
「でもいいなあ、気が向いたら俺も混ぜてね。じゃあね。ごゆっくりー」
 意味深げに笑ってそう言い残し、間宮はひらひらと二人に手を振りながら、あっさりと夜の街に消えていった。
 間宮は、余計なことばかりを爆弾のように言い残してくれた。特に、ごゆっくり、はとんでもなく余計だなあ――と思いつつ、冷や汗を掻いた掌を振り返しながらその姿を見送る基樹の背中に、低い声が落ちる。
「……ごゆっくり?」
「……あ、やっぱりそこ気になります?」
 圭一は怪訝そうな顔で、間宮が消えていった方角を見送る。圭一が不思議がるのも無理はない。おそらく間宮は、彼が普段、触れ合うことのないタイプの人間だろう。
「邪魔しないとか混ざるとか……。何なんだ、彼は?」
「いや、何者かといわれると、それは僕もよくわからないというか。まだ付き合いが浅いのでなんとも言えないんですけどねえ……。いや、あの、お客さんなんです、うちの」
「客? それにしては親しそうだったが」
 圭一の訝しそうな表情は、まだ消えない。どう説明したらいいのか悩んだ挙句、基樹は口を開く。
「ちょっと奔放な子だろうなあ、とは思っていたんですが、まさにその通りだったというか」
 よくわかっていないとでもいうように、圭一は僅かに首を傾げ、眉を寄せた。そして、基樹が手にしていた紙袋の中の制服にその視線が落ち、いっそう不思議そうに眉間の皺が深まった。間宮の言葉の意味をゆっくり咀嚼しつつ、彼が届けてきた制服の意味を関連付けようとしているようだ。
 この状況では誤魔化しきれないかと、基樹は早々に白旗を掲げてしまう。
「……奔放?」
「ええと、あの、性的にと言いますか。特定の相手を作らない子なんですが、その上とても自由な発想の持ち主のようで。――これは、僕が彼の家に泊まったときに、忘れてきてしまったものなんです」
 とはいえ、自分から、積極的に伝えたいことではなかった。
 基樹は溜息交じりに、端的に事実を告げる。
 隠しておいても仕方がない、問いただされる前にさらりと言ってしまったほうが、気が楽だ。
「あなたにはありえないことかもしれませんが、彼と身体の付き合いがあります。パートナーというわけではないんですけど、関係があるうちの一人です」
 あなたの知る弟は、こんなふうに変わってしまいました――と。
 限られた時間しかない帰国の中、なぜか自分なんかに拘っている彼には、そう教えてやるのが親切というものだ。正直、彼と懐かしく語る思い出に変えたい過去など、基樹にはないのだから。
「……」
「……ね。着たまま帰ることが多いって、さっきも言ったでしょう?」
 長い長い沈黙が落ちる。
 この言い方で理解してくれただろうか。真面目なこの人のことだから、体だけの割り切った関係なんて、思いもよらないのかもしれない。けれどこれ以上、詳しい言葉で説明する勇気もない基樹は、さてどうするべきかとやはり黙り込んでしまう。
 沈黙の果てに、圭一の低いつぶやきが落ちた。
「……なるほど。バーテン服が二倍モテるというのは、こういうことか」
「いえ、そういうわけじゃなくて……。ああもう、それは冗談だって言ったでしょう。なんでそこに引っかかるかな」
 感情の篭らない声で呟いた圭一に、恐る恐るその顔を見上げる。圭一の目は、もう紙袋など見てはおらず、基樹の顔をまっすぐに見降ろしていた。その眼差しに、ドキリとする。心臓が、握りつぶされるような気がした。
「……お前、いつからそんなにだらしのない男になったんだ?」
 呆れたように言って、そのまま圭一は基樹を置き去りに歩き出してしまった。
「え、ちょっと、……圭一さん、待って」
 慌ててその背中を追いかける。カツカツと長い脚で歩いていく圭一は、どこか早足だ。背中からほのかに感じる怒気は、決して基樹の勘違いではないような気がした。
 ――だらしがないって、制服を着て帰ることへの言葉じゃないよなあ。
 無論、間宮と基樹の肉体関係を察しての言葉だろう。
 ふしだらな弟を情けないと嘆き、怒っているのだろうか。いや、自分だってもういい年をした男なのだから、幾ら兄だとはいえ、そんなところまで干渉される謂れはない。――そう思うのに、圭一の背中を追いかける基樹の胸には、焦燥感が滲み出していた。
 ――いやだ。怖い。
 これが今の僕ですと、なんでもないような顔をして示してみせたくせに、胸のうちでは圭一の拒絶を恐れていた。振り返らない背中を見ていると、言いようもない怖さが生まれる。戸惑い、心をふるわせながら、基樹はその背中を追った。

 

 

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 恋の嘘【2】