恋の嘘【1】

 その日は朝から腹が立つほどに、晴れていた。カーテンから漏れてくる眩しい太陽光に頭痛がして、玄関から来客を告げるチャイムが聞こえたときも、基樹はすぐに体を起こす気にはなかなかなれない。
 立て続けに鳴らされるチャイムに根負けして、重たい体を引きずるように渋々と扉を開けると、目の前が真っ暗になる。スーツを纏った大柄な男が、目の前に出現したのだ。
 ゆるゆる視線を上げて視界にとらえた男は、基樹の記憶の中にはない。誰だろう。亡くなったばかりの母の知り合いの誰かだろうか──ぼんやりと思考を巡らせているうちに、出迎えたその男は「兄」と名乗った。そして、ぽかんと口を開けたまま彼を見上げることしかできなかった自分のことを、弟だと言った。
 生まれてこのかた一人っ子として生きてきた自分には寝耳のことで、ただひたすらに驚愕した、或いは驚愕という意識すらなかったのかもしれない。ただただ、気が抜けた。兄弟、と言われても、目の前の男はあまりにも自分と似ていなかった。
(えらく、ちゃんとした人だなあ)
 つい最近、ひとりの住まいになった2LDKの古いアパートには不似合いなほどきちんとした男だった。きちんとした、男。その言葉には、なんだかえらく上品そうだ、だとか、背の高いやたらと顔の整った男だな、とか、様々な感想が入り混じっていたけれど、残念ながらそのときの基樹には、それ以上の言葉が思いつかない。
 思考は随分前から濁っている。時間を問わず浴びていたアルコールのせいだ。
「僕、兄弟がいるなんて知らなかったですけど。つまり、その、それは、父の……父の本当のおうちの方、ということでいいんでしょうか?」
 濁った思考を努力して、フルに回転させる。
 基樹はいつからか、自分が本妻の子ではない──愛人の子である事実を知っていたので、「兄弟だ」と名乗り出てきたその人を、そう位置付けることしかできなかった。
 突如として現れた「兄」は、基樹の肩越しに散らかった部屋の中を見ても、特に不愉快そうな顔はしなかった。
 ただただ、その端正な顔を、どこか沈痛な面持ちに歪め、深刻そうに口を開く。
「──そうだ。そして君には、DNA検査を受けてもらいたい」
 男は、ひどく物憂げな口調で、そう言った。その顔がなんだかとても悲しくて、嫌だな、と基樹は思う。もう悲しいものも、苦しいものも、見たくない、受け取りたくない。世界に絶望したくない。基樹はもう疲れ切っていた。ほんの少し前まで存在していた優しい世界。すべてが失われて、今や自分に残るのは、ひとりぼっちの生活、ひとりぼっちの部屋。誰も叱ってくれない、誰も褒めてくれない、誰も優しくしてくれない。──誰にも優しくしてあげられない。どうしてか悲しい顔をしている男の顔を見ながら、ぼんやりと思った。
 もう何もいらないから。
(せめて、僕以外の人が笑っていたらいいなあ……)
 そう決めて、基樹は笑って言った。
「僕、なんにも、いりません」
 それは男を安堵させる言葉のはずだった。
 なのに彼は笑ってくれず、いっそう悲しげに顔を歪めて唇を引き結んだだけだった。
 元樹はまた、悲しくなった。
 ──これは、自分が抱き続ける、唯一の恋の記憶。

 

 

 

 目の覚める瞬間の不快感は格別だ。重たい瞼が繰り返す瞬きは甘美で、このままもう一度深い眠りに就いてしまいたくなる。
 見たい夢なら、いくらでもあった。今なら願うままの世界を見れそうで、時間の許す限り眠りに浸っていたいのに、会いたい人には決まって会えはしない。それでもと何度も閉じた瞼を、諦めとともに見開いて、夢にさようならを告げる頃には、決まって陽は登り切っている。
 薄いカーテンから漏れる光に、まぶしげに目を眇めながら、ああまた今日が始まってしまう、とおぼろげに思う。
 代わり映えのしない一日。予定通りの毎日。──そろそろ起きなければ。
 小坂基樹は、ゆっくりと瞼を瞬かせ、体を起こした。
 と、同時に、隣に潜んでいたひとつ塊が、もぞもぞと寝返りを打つ。
「……もう、起きたの?」
「もう、って。もう昼過ぎだよ。君もそろそろ起きたほうがいいんじゃないか?」
「んー…いや、でも、寝たの朝方だったし……もうちょっと……」
 のそりとベッドから這い出た基樹に、眠たげな声がかけられる。まだ毛布に包まったままのしなやかな裸体の男は、ぼそぼそと乾いた声で答えた。
 陽はとっくに登り切っているのに、こんな時間まで眠っていられるなんて、どんな仕事をしているのだろう、と思いかけたところで、今日が土曜日だったことを思い出す。伸びた前髪を掻きながら、基樹は隣の青年の姿を改めて見た。知り合って程ない彼の名は、間宮と言った。下の名前は知らない。歳は聞いていないが、自分よりは明らかに年下にも見えるので、もしかしたら学生かもしれない。正直プライベートはよくわからない、といったところだ。
 それもお互い様かな、と基樹は苦笑した。自分の正体をよく知らないのは彼も同じだろう。彼が知っているのは、自分の名前と職業くらいだろうが、互いに詮索する気はさらさらなかった。
 基樹がシャワーを借り、服を着る姿を見て、まだベッドから出てくる様子のない青年は「もう行くの?」と軽い調子で尋ねてくる。
「うん、そろそろ。これから店の準備があるからね。土曜日は忙しいんだ。また気が向いたら飲みにおいで」
 部屋を出る間際、またね、と部屋の主に声をかけたものの、また会う保証などどこにもない。未練もなくその男の部屋を出た基樹は、行先に少しだけ迷う。まだ早い時間だが、一旦家に帰るのも億劫になって、そのまま仕事場に向かうことにした。
 ごくごく小さな規模のバーで、バーテンダーとして働いている基樹は、時間に急かされることは殆どない。自分が店長のような存在なので、開店時間が多少ずれたとしても困る者はあまりいないのだ。
 店に到着した基樹は、大通りのパン屋で買ったサンドイッチを摘まみながら一人細々と準備を始める。このサンドイッチが、遅めの昼食兼夕食だ。週末の今日は、忙しくなることがわかり切っているので、今のうちに空腹を満たすことにする。店の開店は午後六時と定めているものの、その時間きっかりに訪れる客などいないので、準備の時間は今日に限らず、悠々としたものだった。
 更衣室でバーテン服に着替えた基樹は、長めの前髪を気にしながら鏡の前でネクタイを整える。中々切りにいく暇がないなあ──そう考えながらも、改めて鏡の中を覗き込んだ。昔は母に似ていると言われていたが、歳と取るとともに、自分ではそうは思わなくなった。とはいえ、中性的なほうではあるのだろう。あまり男臭さを感じさせない顔立ちは、正直なところ得をすることも多いので、狡くなってしまった今では別段気にはならない。
 幾ら開店まで時間があるにしても、店に着いた以上は、この服を着なければならないような気がしている。それが己の恩人であり、基樹にバーテンの術を一から叩きこんでくれた、ある老人に対しての誠意だ。
 彼がまず取り掛かるのは、店のBGMとして契約している有線放送のスイッチを入れることだ。まだ時間はあるが、亡き母が好きだったジャズを聞きながら自分のための珈琲を煎れていると、ひどく穏やかな気分になって鼻歌を口ずさみくなる。
 基樹は、この時間がたまらなく好きだった。古ぼけてはいるものの雰囲気のある店内は、少なくともアパートの部屋よりは広く、その空間にゆったりしたジャズが流れる。その中で、一人軽食を摘まみながら本や新聞を読み、開店が近くなればのんびりとモップをかける。
 店のアルバイトがやってくるまで、まだ時間はある。いつもなら、その時間まで基樹は独りを悠々と愉しめるはずだった。
 軋みながら開いた扉の音と共に、長身の男が店の中へ入ってくる。愉しかった独りぼっちの時間はもうお終いかと、肩透かしを食らいながら、基樹は来客を見た。珍しい来客──いや、客というのもおかしな話ではある。
「梶原さん? 珍しいですね、こんな早い時間に。珈琲でも飲みます?」
「自分の店にきちゃ悪いか?」
「いえいえ、そんなことは全く」
 片眉を跳ね上げ、基樹の言葉に応えた男は、その言葉通りこの店の経営者である。梶原はこの小さなバーのオーナーであり、基樹はこの男に雇われている店長兼バーテンダーだ。
「ただね、あなたがこんなに突然やってくると、抜き打ちテストみたいで心臓に悪いというか」
「なんだ、後ろめたいことでもあるのか」
「いいえ、まさか。僕は清廉潔白、この店はあなたのモットー通りの明瞭会計ですよ」
 オーナーとはいえ、梶原が店の方針や経営に口を出すことは殆どない。本業は別に持っている男なので、自分は畑が違うとばかりに店のことは基樹に一任されている節がある。それほど信頼のおける仲であることも、一応の雇い主にこれほど砕けた口が利けるのも、付き合いの長さ故だ。
「本当にどうしたんです、こんな早い時間からくるなんて。まさかこの時間に飲むつもりですか? まだなんにも準備できてないんですが、ご覧の通り」
 歩み寄ってくる梶原の姿に、基樹はさっきまで口をつけていたコーヒーカップを掲げて見せた。
 彼との付き合いは十年を超えるほど長くても、未だに敬語を崩せない。これは、元が同じ高校の先輩後輩の仲であったためだろう。
「いや、中途半端に時間が余ったからな。久しぶりに店の様子と、お前の顔でも見ておこうと思って」
「……そんなことだとは思いましたけどね。久しぶりでもないでしょう、僕の顔なら」
 とはいえ、オーナーとしての仕事でここを訪れることが殆どないだけで、梶原は一杯飲みにくる程度の顔出しなら月に二、三の頻度でやってきている。それでもそれの時間は小坂の相談に乗り、店の売り上げを確認したり、アルバイトの面接に使ったりと、用事ありきのことが多い。開店前ののんびりとした時間にやってくるのは、本当に稀なことだった。
 目の前を通り過ぎ、カウンターの内側へと向かう梶原が、ふいに立ち止り基樹の顔を見つめる。凝視といってもいいほどの視線に、思わず戸惑いながらも基樹は首を傾げた。
「なんです?」
「……いや。小坂、お前、塩崎圭一という名前に、聞き覚えはあるか?」
「……え」
 思いがけない名前に、思わず目を瞠る。たった今梶原が口にした名前は、確かに基樹の知るものだった。それも名前を聞いただけで、胸の奥から痛みを呼び起こすくらいに、よく知るものだ。
「聞き覚えがあるっていうか。はあ、まあ、知ってる人ではありますけど。……それが、何か?」
 けれどもその痛みを押し殺すふりをして、基樹は首を傾げる。
「少し前に、仕事で知り合ったんだ。お前のことを知っていて、随分長いこと会っていないと言っていた。今のお前の状況を心配しているようだったから、古い知り合いかと思ってな」
「……どこで、ですか?」
「その人の会社だよ。広報の部署にいる人だから、打ち合わせに同席していたんだ。俺とも昔一度会ったことがあるとかないとか……申し訳ないことに俺にはあまり、記憶がないんだが」
「いえ、そうじゃなくて……その、日本ですか?」
「ああ、つい先週の話だ」
 梶原の本業というのは、カメラマンである。実はこの店は、元々梶原の祖父が管理し、自らがバーテンダーとして客に酒をふるまう店だったのだ。その祖父が歳を取り、そろそろ店を畳むか、孫の梶原にでも継がせるかという話になっていたとき、縁があって基樹が任されることになった。梶原はその当時からカメラマンを志していたので、祖父の店を継ぐことなど考えていなかったのだ。カメラマンとバーテンダーなら、確かに畑が違いすぎる。
 ともかく祖父の店の名ばかりのオーナーとなり、今や立派なカメラマンとして食い扶持を稼いでいる梶原が、企業のCMや広告の仕事に携わっていても、決しておかしくはないのだが。
「ああ、そう、……そうなんですね。いえ、あの……確か、その人、海外でお仕事しているはずでしたから。日本で会ったとなると、いつの間に帰国したんだろうって思っただけです」
 梶原の訝しげな視線に気づいて、基樹はあいまいに微笑んだ。
「梶原さんが覚えてなかったとしても無理のない話ですよ。あの人、僕の父親の息子です。――えーと、僕の父親の、本来の家庭の、というか。正式な息子さんです」
 梶原には、何度か話して聞かせたことがあっただろうか。多分、あったはずだ。
 自分がもっともボロボロになり、傷ついて、生きる気力すらなくしかけていたころ、基樹はふたつの手に救われた。
 そのひとつが、今目の前にいる梶原だった。世話好きのこの人は、自分の窮地に偶然再会し、高校の後輩というだけの間柄だった自分に、丁度いいと笑いながらこの仕事を与えてくれた。
 そして、もうひとつ。
 塩崎圭一──彼は当時、基樹の母親違いの兄弟だと言って、自分の前に突然現れた。あの、気分が悪くなるほどにきれいな晴天の日に。
「ああ、そういえば梶原さんのお父さんの事務所に行ったときかな? そのとき、あの人も梶原さんにお会いしてるかもしれないですねえ。何度か、あの人と一緒にお邪魔させてもらったことがあるので」
「──ああ」
 思い当ったように、梶原は小さくうなずいた。
「そうか、そういえばそういうこともあったな。親父の客か」
「そうです、そうです。というか、父の会社で、元々はお世話になってたみたいですけど」
 梶原の父親は弁護士で、個人法律事務所を構えている。そこに、基樹の父が世話になっていたというのは、父の死後に知った話だった。
「父が死んだ後、僕も梶原さんのお父さんに何度かお会いしたでしょう。覚えてませんか? はじめてあそこに行ったとき、あなたが僕に声をかけてくれたの。僕はぜんぜんあなたのこと覚えてなかったですけど」
 ──お前、もしかして小坂か?
 重々しく、敷居が高いと感じていた法律事務所の扉を開けた、二十歳の基樹を出迎えてくれたのはこの男だった。文化委員会で一緒だった、と言われて、ぼんやりと思い当たる一学年上の先輩が確かにいた。とはいえ、さほど親しかった記憶はない。その程度の関係だった自分のことをよくも覚えていたものだと、梶原をよく知る今となっては驚くことではないが、あの時はひどくびっくりした。
「──で、父が亡くなった時期、僕にDNA鑑定の話を持ってきた人がいまして。それが、その塩崎さんなんですよ」
 ああ、久しぶりに、その名を聞いた。
 動揺しかけた胸のうちは、しかし、思いのほか静かに凪いでいた。
 そんなことよりも、厨房担当の従業員がそろそろやってくるはずだ。自分もそれまでには、ある程度準備を終えて手伝ってやらなければならない。
「母が亡くなったのと、父が亡くなったのと、ほとんど同時期だったんです。母が死んで茫然としてるところに、突然あの人やってきて、父親が死んで遺言状に僕の名前があるからDNA鑑定しろとか言われたんですよ。僕は、というか僕の母は愛人だったわけですから、僕は文句が言える立場ではないのかもしれないんですけど。あまりに無神経だったものですから。悲しめばいいのか怒ればいいのかわかんなくなっちゃって」
 無駄話はそろそろ終いだと、基樹はモップを手に取り、小気味のいい音を立てながら床を磨きはじめた。開店前の日課だ。
「だから僕は、実はそんなに会いたいって人でもないんですよねえ……」
 梶原は、何かを考え込むような顔をして黙り込んでしまう。それを一瞥しながらも、基樹は努めて意識を仕事へと切り替えた。
 心も体もボロボロで、何を頼りに生きていけばいいのか、何にすがって生きていけばいいのか、わからなくなる時期というのが、必ず人生にはやってくるものなのだろうと基樹は思う。
 基樹にとっては、母が死に、父が死んだその時期がそれに当てはまった。
 それまでだって胸を張れるような大義名分があって生きてきたわけでは、決してない。
 それでも愛していた、母を、父を。小さな世界を。
 誇れるような愛し方と愛され方をしていたわけでもない母。けれども、その母の生きる世界を守ることに、幼かった自分は必死だったのだ。
 愛していた母を亡くし、基樹の世界は一度、足元からガラガラと崩された。ゆらゆらと危うく揺れていたそのころに、この頼りない腕をつかんで、引き上げてくれたもうひとつの存在。
 この大して面白味のない人生の中で、唯一輝いていた瞬間があるとしたら、おそらくそれは、あの瞬間なのだろう、と思う時期が基樹にはある。
 店内を一通りモップで掃き、片付けが終わっても、梶原はまだ帰る様子を見せていなかった。まさか本当にこのまま一杯飲んでいくつもりだろうか、などと考えながら厨房へと向かいかけた基樹の足を、梶原の声が呼び止める。
「小坂」
「はい?」
「悪いな。──その、お前があまり会いたくないという塩崎さんなんだが、今日この店に来ることになっているんだ」
「──は?」
「厳密に言えば、俺とこの店で飲むことになっている。塩崎さんがお前のことを、最近どうしているだとか元気にやってるかだとか気にしていたようだったから、つい」
「ついって、いや、あの……ええ?」
「お前が、塩崎さんを苦手だという話を聞いていれば、俺も何も言わなかったんだが。いや、本当に悪い」
「……えええええ?」
 梶原は、参った、とでもいったふうに頭を掻く。
 ――ほんの、何年か前の話。
 基樹は人生で最大の、そして唯一の恋をしていた。
 けれどもそれは、あまりにも遠い、千の秋が流れたように遠い記憶のことだった。
 もう、名前を聞いても胸は痛まない。
 痛まない、はずだった。

 

 

  ****

 

 

 DNA鑑定をしてほしいと、その男から言われたのは、基樹が高校を卒業して二年目になり、専門学生に通っていたころだった。
 自己紹介もそこそこに突然目の前に現れ、知らない男から単刀直入に告げられた言葉に、基樹は呆然と口を開けた。それでもやっとの思いで、言葉を選ぶ。
「僕は父さんの子どもじゃないと──そう、仰りたいんですね」
 母が急逝してからまだ一月も経っておらず、またその後を追うように別居の父が亡くなったと聞かされた直後のことだった。
「不躾なことを言っているのは重々承知している。だが、申し訳ない。こちらも突然遺言状に湧いて出てきた君の名前に戸惑っているんだ。手続きに必要なことだと思って欲しい。それから――正直なところ、これが遺族の感情だ」
「僕は、父さんの遺族じゃないという意味ですか」
「そういうわけでは──」
 彼はあからさまに気まずいといったように、言葉を詰まらせる。
 大きな図体をした男が、自分の言葉ひとつひとつに、生真面目に反応して、決まり悪そうにしている姿も妙なものだと、基樹はなんだか不思議な気分になった。
 その男の名は、塩崎圭一と言った。塩崎。それは、父と同じ姓だ。
 真面目そうな、というよりは、堅物のようにも見える強張った口元は、柔和だった父にはあまり似ていない気がする。けれども顔立ちは整っているのだろう。整った目鼻立ちは、年老いても尚、色男と呼ばれた父の面影を充分残していた。ただ、この男のほうが寡黙で、どこか無骨な雰囲気をしている。父はもっと、柔らかくて優しい雰囲気を纏う男だった。
 基樹よりも、二、三年長だろうか。このボロアパートに相応しくない、品のよさそうなスーツに身を包み、膝を揃えて自分に向き合った男は、父、塩崎静馬の息子だと言った。
 そうして「俺は君の、腹違いの兄ということになるんだろう」と。
 静かな彼は、まず開口一番に、父の死を告げた。最近顔を見ず、母の急死を告げようにも一向に連絡の取れなかった父は、なんと母の死の前から、病床に伏せっていたというのだ。
「君のお母さんが亡くなったことは、秘書から聞いていたそうだ。それから見る間に元気をなくして、まるで後を追うようだったと……俺はそう聞いている」
「そう、ですか」
 父親に、秘書なんてものがいたのか。ということは父は、どこかの会社の、それなりの役職の人間だったということか。そのことすら初耳だ。
「だから父の携帯は、ずっとつながらなかったんですね……」
「結局、入院からそのまま、病院から出ることができなかった。だから、携帯電話も母が預かっていたようだ」
 こんな大変なときに連絡が取れないなんて、薄情な男だと父を批難する気持ちが、基樹には少なからずあった。連絡を取りたくても取れない状態だったと聞き、かつもう批難の言葉を直接投げることすらできなくなったと知り、悲しみはいっそう大きくなったが、それでも――何かが報われる気がした。
 死ぬ時期まで同じだなんて、バカみたいに仲のいい二人だな。微笑みかけた基樹は、じわりと鼻の奥が熱くなるのを感じた。
「本当に、君は大変だったと思う。よくその若さで、母親の死を一人で抱えて……」
「いえ、そんな……それは、あの。助けてくれた人もいたので。母の店で昔働いていた人とかが」
「そうか。お母さんはいいご友人に恵まれたんだな」
 腹違いの兄という男から、しんみりと励まされているこの状況に、基樹は現実感を失いつつあった。そもそも、まだ父が亡くなったということが信じられない。父が弱っていたことを知ったのも先ほどであれば、遺体も見ていないのだから、当たり前だ。
「その、父さんの遺体というか……その、葬式は、もう……?」
「ああ、それはもう、こちらで済ませて……そうか、君にも父の顔を見せるべきだった。配慮が足りなかったな」
「いえ……」
 沈痛な面持ちで、申し訳なさそうに告げられた圭一の言葉に、基樹は力なく首を振った。
「そればっかりは仕方ありません。僕は愛人の子ですから。のこのこと、お葬式に行くわけにもいきません」
 籍を入れていない両親の間に、基樹は私生児として生まれた。決してよくある普通の家庭ではなかったけれど、両親の仲はよかったと記憶している。
 基樹は学校に通いながら、夜は、物心ついた頃から母がやっていた寂れたジャズバーを手伝っていた。
 年を取るごとに疲れやすくなった母の代わりに、皿を洗ったり料理を作ったりする程度だったけれど、店の中には静かなジャズが流れていて、常連客に囲まれて緩やかな時間を過ごす。その時間が、たまらなく好きだった。その中には、うつくしい母目当ての男もいたかもしれない。けれど母は、口説かれると決まって基樹の首根っこを掴み、「この子が一番いい男なのよ」と笑ってみせた。
 愛していた。本当に、大切だった。
 それより以前は、店に時折父の姿もあった。もちろん、このアパートにも。
「圭一……さん」
 父が本来いるべきだった場所で、認められて育ったこの人をなんと呼ぶべきか迷い、結局基樹は、ただその名を呼んだ。初対面の彼を兄、だなんて、呼べるほど、厚かましくはなれないし、もちろんそんな親愛の情を抱けない。けれども圭一は、基樹の呼びかけにまっすぐ視線を返してくれた。
「僕はね。中学に上がるころまで、自分が愛人の子だなんて知らなかったんです」
「……」
「父はすごく忙しい人で、あまり家にはいてくれなかったけれど、僕にとってはただそれだけでした。本当に忙しい人なんだなあって、それだけ。……ええと、それは僕が鈍いとか、バカとか、そういうことなのかもしれないけれど。でも、自分が愛人の子だと気づかないくらい、父に愛されていたということなんだと思っています。……間違いなく、僕は父の子どもでした」
 父の、本来の家庭の息子である圭一に、こんなことを伝えるのは筋違いかもしれない。けれどこればかりは、汚されるわけにはいかなかった。
「僕は、父にとてもよく愛されました。僕はそれだけでじゅうぶんなんです」
 基樹はまっすぐに腹違いの兄を見つめ、力なく微笑んだ。
 母と父と自分で過ごした二十年間。この時間を、生き証人である自分が、間違いではなかったと思えるなら、それでいいじゃないか。
「……DNA鑑定というのは、なんていうのかな、その、遺産というか、相続の関係で、僕にやらせたいんですよね?」
「……ああ、そうだ」
「うん、じゃあ、あなたのお母様に伝えてください。僕は相続権を放棄します。僕、なんにも、いりません」
「……なんだって?」
 圭一は、信じられないとでもいうように目を見開き、基樹を凝視する。
「そもそも今聞くまで、あると思っていなかったお金の話です。あなた方の好きになさってください」
「……いや、待て、お前は遺言状の内容や父の遺産のことをよく知らないかもしれないが、きちんと考えた上で答えたほうがいいんじゃないのか」
 何故か圭一は焦ったように、基樹に言い募る。勿論基樹は、父の遺産のことなど知りもしない。けれど遺族がDNA鑑定を迫りにくるほどなのだから、きっとそれなりの多さなのだろう。また圭一の身だしなみや所作からも、自分には持ち得ない上品な匂いがした。まるでドラマの世界の話だな、と、ぼんやり思う。
「何なんですか。僕に相続権を放棄させにきたんじゃないんですか? それがあなた方の目的なんでしょう?」
「いや、それは確かにそうなんだが……」
 あっさりと認めてしまった圭一に、この人はなんだかちぐはぐだなあ、という感想を抱きながらも、基樹は続ける。
「手間を省きましょうって言っているだけですよ。何か書類が必要でしたらいつでもお書きしますから」
 言い切って、基樹はこの話はこれで終わりだとばかりにちいさく笑って見せた。
「僕は、母や父の思い出だけで、充分ですから」
「いや、本当にそれでいいのか。きちんと検査をしてから決めても遅くはないんだ、そんな投げやりに決める必要は」
「投げやりなんかじゃないですよ。僕にとってはお金がないことよりも、父とのつながりを疑われるほうが不本意で、たいへん不愉快です」
 強い口調で言い切った基樹に、圭一は何故か自分のほうが辛そうな顔をしていた。
 きっと、この人は、悪い人ではないんだろうと基樹はぼんやり思う。それならば、なおさらに苦しむ必要などない。何もない自分とは違って、彼にはきっと両手に有り余るほど守るべきものがあるのなら、こんなところで傷ついた顔なんてしてほしくはない。
「いいんです。母の借金もありますし、お金はそりゃああれば助かりますけど。本当に、いいんです。……疲れたから、もう今日はいいでしょう? 」
 言外に、帰ってほしいと告げると、圭一は眉間に皺を寄せ、それでもそれ以上はもう何も言わなかった。自分が傷ついたような顔をする圭一を見て、きっとこの人は善人なのだろうと思う反面、バカじゃないのか、とどこか疲れた心で基樹は思う。
 こんな顔を僕なんかに見せて。
 僕を傷つけにきたのは、あなたのほうじゃないか。
「とにかく早く帰ってください。僕の気が変わらないうちに」
 僕の味方ではありえないくせに、こんなふうに同情するなんて。
「……基樹」
「……っ」
 やはり少しだけ迷ったように、圭一が自分の名前を呼ぶ。その瞬間に、基樹は胸が軋むのを感じた。その声の響きに、同情にも似て、いつくしみにも似た、親愛の響きを感じ取った。
 こんなふうに名前を呼ばれたのは、久しぶりだ。
 基樹。基樹。
 そうやって、優しく、いつくしむように自分の名前を呼んでくれた人たちは、この世界の、どこにもいなくなってしまった。
 だから今だけ、鼻の奥が少し痛い。じわりと熱くなる目頭を隠すように俯くと、ためらいながら、それでもそっと、圭一の手が伸ばされる気配を感じる。
 しかし、基樹は鋭くそのやさしい手を振り払った。
「あんたがっ……同情したり、するな……!」
 自分と両親の絆を汚そうとした人間が。
 この自分を、慰めたりなんて。
「よりにもよって、あんたが、あんたなんかが、僕を……何も知らないくせに、母さんのことも、父さんのことも、何も、……何も!」
 どんなに愛していたか、どんなに愛されていたか。
 言葉にしてしまえば、あとはもう止まらなかった。涙は後から後から、ポタポタと流れた。頬を伝い、顎を伝い、黒ずんだ古いテーブルに涙が落ちる。何度も三人で囲った食卓。このボロいアパートといい、三人で摂る夕食も、裕福とは言えない食事だった。父から援助は受けていなかったのだろうか。まさかお金持ちだなんて思いもしなかったくらい、貧乏だったなあ。それでも、楽しかったんだ。幸福だった。幸福に育てられた。──その記憶の中、自分以外の存在が、もうどこにもない。
「……ちゃんと怒れるんだな」
 どこか安堵に似た声が頭上に落ちてくる。どの口でそんなことを言うのかと、瞬間的に湧いた怒りのまま、涙に濡れた顔を上げた基樹は、しかし何も言葉にできなかった。
「ずっと、君があまりにも平気な顔をしていたから、心配だった。……俺が言えた義理じゃないんだが」
 見上げた彼の顔が、本当に苦しそうな表情で、自分を真っ直ぐに見つめていたからだ。
「君はもっと俺たちに怒っていいんだ。俺たちは確かに、君と君の母親を侮辱しようとしているんだから。……今日は本当に、辛い思いをさせてすまなかった。また、来る」
 そう言い残して、今度こそ圭一は去っていった。
 ふざけるな。どの口で、どの立場で、怒っていいだなんて言うんだ。父の死を悲しむ暇も与えてくれなかったくせに。
 言いたいことなら、幾らでもあった。偽善者と、唾を吐きかけてやりたい気さえした。けれど、そのどれも、この口をついて出てきてはくれない。
「父さん……」
 やさしい、慈悲深い、父の面影を、確かにあの人に感じた。
 ──あの人は、父さんの息子なんだ。
 きっとあの人だって、父に愛された。あの優しかった父に、愛された。だからあんなにつらそうな顔で、自分のことを見つめていたんだろう。そういう、やさしい、人なんだろう。
 誰もいない部屋で、基樹は飲み込みきれない嗚咽を零す。
 自分が、父の息子ではないなんて話はありえない。それを疑われること自体、とんでもない屈辱だ。悲しみたいのに、湧き上がる怒りが邪魔をする。そして心の片隅が、さみしい、つらい、ひとりぼっちは嫌だと叫んでいたような気がするけれど、基樹はその声に気付かないふりをした。

 

 

 

 その後、三日と空けずに、言葉通り圭一は基樹の住むアパートにやってきた。
「……まさか、今起きたのか」
「はあ。すみません。ちょっと酔い潰れちゃってました。……何か用ですか?」
 仕事終わりにやってきたのだろうか、圭一はきっちりとしたスーツに身を包み、出迎えた基樹を見るなり嫌そうに顔をしかめた。基樹のほうは髪はボサボサ、服も着崩した上にアルコールの匂いも漂わせている。完全な飲んだくれである。清潔そうな身なりの圭一が顔を歪めるのも無理はない。
「昼間から飲んでたのか?」
「母秘蔵のワインがあるんですよ、もうとっといても仕方ないんで開けちゃいました。一緒に飲みます?」
 酔いも手伝ってか、先日の険悪な空気も忘れ、いつもより陽気な気分で問いかけた基樹に、圭一は丁寧に首を振る。
「君は、学生だと聞いていたんだが。学校は休みだったのか?」
 散らかっていますが上がりますかと一応勧めてみると、圭一は素直に部屋に上がってくる。その途中で聞かれたくだらない質問に、基樹は思わず笑ってしまった。
「学校なんていけるわけないでしょ、借金まであるんですから。母が死んですぐ辞めちゃいました。明日はバイトに行きますよ、ちゃんと」
 お金がないから学校を辞めるなんて、きっとこの人には想像のつかない世界なんだろうなあ――皮肉のような気分で、しかし基樹は明るく言った。同情だけはされたくない。
 思った通り、圭一はほんのわずかに、眉間に皺を寄せた。
「働いてるのか」
「日雇いのバイトですけどね、そろそろ食うためのお金がなくなってきてしまったので。案外、そういう肉体労働のほうが割がいいんです」
「日雇い……。もっとしっかりした仕事に就いたほうがいいんじゃないのか」
 なぜだか圭一は、本気で心配そうな顔でそう告げる。
 真面目だ。しかもなぜこの相手からそんな話をされなければならないのか。基樹は思わず呆れて、乾いた声を立てて笑ってしまう。圭一はその基樹の様子を見て、気まずそうに目を伏せた。
「その、今日はお前の母親の借金の話なんだが」
 散らかる部屋のスペースをなんとか見つけて座り込んだ圭一の向かいに、基樹も物を退けながら座る。圭一は胸元から、一枚の名刺を取り出し、基樹に差し出した。
「何か力になれるかもしれない。父が世話になっていた弁護士だ。君の話をしておいた。よかったら相談してみてほしい。腕も人もいい人だから安心してくれ」
「……お気持ちはありがたいんですが、相談料を払えるお金なんてありません」
 名刺には、梶原法律事務所というところの連絡先が書かれている。弁護士に相談するには金がかかることは、基樹の知識の中にもあった。実際相談しようと考えたことがあるわけではないが、なんとなく敷居が高い。力なく笑った基樹に、圭一は首を振る。
「そんなことは心配しなくてもいい。もし料金が発生するようなことがあっても、俺が負担する。君にもいろいろと不愉快な思いをさせた詫びだ、何か力になれるなら……」
「その代わり、DNA鑑定を受けろだなんて言いませんよね?」
 遮って尋ねた基樹に、圭一はあからさまに言葉に詰まってしまった。自分よりも年上の大人が動揺している姿は、少し愛らしい。その上圭一は、パッと見、厳しそうな顔をしているのだからなおさらだ。
「それでも、何か力になれたらと思うのは本当なんだ。君は俺の、弟なんだから」
「……矛盾してるなあ、あなたは」
 まったくこの人は、DNA鑑定を執拗に迫ってくるくせに。その口で、自分のことを、弟などと呼ぶ。
 それでもこの人は、ひたすら素直な人なのだと思えば、ただただ呆れて苦く笑ってしまった。
 基樹は、笑ったまま、小さく呟いた。
「母の香典、持ち逃げされたんです」
「……は?」
「本当に、わずかな額でしたけど。この間お話したと思いますが、昔母の店で働いていた人が母の葬式やら事後処理何やら、何もわからない僕に、本当に親切に手助けしてくれてたんです。……なんのこっちゃない、最後の最後にその人、香典持って姿を消してしまいました」
 基樹はもう、人の好意を信じない。
 親切の裏側には必ず何かあるのだと疑ってかかるのが、賢い選択というものなのだ。
 さみしい人生だと、心の内側の声が叫んだとしても。基樹はもう、信じることにも疑うことにも疲労しきっていた。
「いい友人だなんて、とんでもない話です」
「警察には届けたのか」
 厳しい顔をして基樹の話を聞いていた圭一が、ぽつりと尋ねる。
「いいえ。……なんだか、もう、本当にどうでもよくなっちゃって」
 母が死んでからというもの、過ごしたのは、ただぼんやりとした日々だった。
「僕の夢は、母の店を手伝って、いつか継いで、少しでも母を楽にさせてやることだったんですよねえ。でもその母が死んじゃったら、僕にはなんにも残ってなくって」
 最愛の人を亡くした。それまでの平凡な日常が消えた。思い描いた未来が消え、信じた人に裏切られた。そのすべてが一度に訪れて、自分の心は擦り切れて、思考は完全に凍り付いてしまったのだろう。
「だからこの間言ったみたいに、父さんの遺産にも本当に興味がないんです。なんにもいりません。もう、誰も僕に、関わってほしくないんです。というか、正直遺産相続だのDNA鑑定だの、今でも別世界の話みたいだし、面倒くさくて仕方ない」
 ただ静かに、ひっそりと、世界の片隅で息づいていたい。
 それが今、基樹の唯一の願いだった。
「だからあなたも、もう僕に関わらないでくださ──」
「──いい加減にしないか」
「え?」
 頭を下げかけた基樹の頭上に、怒りを押し殺したような声が降ってくる。
 これまでの、静かなトーンとは違った声に、思わず基樹は目を瞠った。
「何が面倒くさいだ、興味がないだ、そんな言葉で片付くと思うなよ、世間を舐めるのも大概にしろ!」
「は? いやあの、塩崎さ」
「その上昼間っから飲んだくれて学校を辞めて宛てもない日雇いのバイトだと? 自堕落になるのもいい加減にしないか、こんな生活を送っているお前を見て、天国の母親が悲しまないとでも思っているのか。親父だって、こんなお前の姿を情けないと嘆いてるに決まってるだろうが!」
「え? ……ええ?」
 今自分は怒られているらしい、ということに思い至るまで、少し時間がかかった。
 今までの、物静かな人物はどこにいってしまったのかと思うほど、圭一は目を吊り上げて、怒気をあらわにして一息に言い切った。
「DNA鑑定がそんなに嫌なら、別に受けなくてもいい。それはお前の自由だ。相続放棄も好きにしろ。お前が遺産に関わらないというのなら、うちの家の者もこれ以上うるさくは言わないだろう。だが、この弁護士のところには必ず、必ず行くんだ、なんなら俺が着いていってやってもいい。母親の借金のことだけはきちんと話すんだ。──もう面倒くさいだなんていうなよ、もし言ったりしたら、今度は殴る」
 強い口調で念を押され、勢いに負けたように基樹はコクコク頷いてしまう。こんなに大きな声を聴いたのは久しぶりだった。
 こんなに、正面から怒られたのも。
「……あなたも怒るんですねえ」
 静かで、冷静な大人というイメージの強かった圭一の口から出たというのだから、余計茫然としてしまう。
「お前があんまり情けないからだ」
 情けない、本当に情けない、と繰り返し憮然とつぶやいた圭一の横顔に、なんだかおかしくなって、基樹は小さな声をあげ、笑った。
 なんとなく、これまでの圭一は、努めて事務的に大人の対応をしようとしていたような――こちらのほうが、本当の、「彼」のような気がした。
 この人は、自分と父との血のつながりを疑い、自分を父の世界から排除しようとした。少なからず不快な思いをさせられた男に、声を荒げて怒られているなんて。
「はは……そうですね……あなたの言うとおりです、圭一さん」
 それも、至極真っ当な理由だ。基樹には、反論の余地などない。
 こんな面白い話があるだろうか?
 お前は余所者だと言い退けた相手に、親身に説教するなんて。
 くつくつと肩を揺らして笑う基樹に、圭一は眉を寄せ、それでも何も言わなかった。
 久しぶりに声を出して心底笑った。その事実が、基樹の眦に涙を浮かばせていたからだろう。

 

 

 

 それから圭一は、甲斐甲斐しく自分の面倒を見てくれた。
 結局、何度かの話し合いの後に、基樹の意思は尊重されることになった。基樹はDNA鑑定を受けずに済むことになった代わりに、遺産相続には関わらない旨を誓約書として残すことになった。
 基樹は遺産には執着しなかった。検査を受けること自体が、父と自分の思い出を汚されているような気がして、基樹にとっては受け入れがたいものであったからだ。父と母、そして基樹、その三人だけで構成された世界を、自分だけは疑ってはならないと信じた。
 基樹の元に訪れたときの圭一の第一声は、「飯はもう食ったのか」から始まり、それに対して首を横に振ると、今すぐ着替えろと命令されて、外に連れ出された。連れて行かれた先はとんでもなく高級そうなレストランだったこともあったし、手近なラーメン屋で済ませたこともあった。予めコンビニの弁当を持ってこられたことも。
 事実、圭一と過ごした時間はそんなに長かったわけではない。おそらく、半年にも満たなかっただろう。
 時間を重ねるごとに、夜基樹のアパートを訪れ、二人で飲み明かし、泊まっていくようにもなった。
(まだ帰らないんですか)
(なんだかよくわからんが、ここの居心地がいい)
(立派なおうちがあるくせに。もうね嫌味ですよ、それ)
 ビールを煽り、テレビを見ながら、こんな会話の応酬が何度もあった。
 半ば強引に始まった関係でも、家族以外の人間と――母以外の人間と、そんな時間を過ごすことが皆無だった基樹の心に、圭一の存在はじんわりなじんだ。
 梶原の父の法律事務所にも同席してくれた。おかげで母の借金の件は、相続放棄ということで片がついた。母にはプラスの財産などないに等しかったので、何ら未練はなかった。
 元々高校の先輩だった梶原と再会したことで縁が繋がり、その店で働けるという話になったときも、圭一は手放しで喜んでくれた。基樹の母が、小さなバーをしていたということを覚えていた梶原から、仕事もなくフラフラしているくらいならと店に連れてこられたのだ。基樹は酒に馴染みがある。まったく無知の者よりはと、それを見込んでの誘いではあったのだろう。それでもバーテンダーの技術はなかったので、いずれはこの店の名を継ぐものとして、梶原の祖父にこってり指導してもらう運びになった。その話を聞いて、圭一が梶原の祖父に頭を下げにいく、菓子折りを持っていくなどと言い出したときは、全力で阻止した。
 あの頃圭一は、基樹の保護者を気取っていたのだろうか。
 いや、きっと、それだけが理由ではない。
 彼は、後ろめたかったのだ。
 遠回しに父の遺産を放棄させようと働きかけたことが、圭一にはとてつもなく後ろめたかったのだろう。
 とはいえ彼は、彼自身の世界を守っているだけなのだ。自分の母親、自分の兄弟。その生活、世界。彼のエリアを守っているだけ。けれども基樹を憐れんでしまった彼の中に、揺らぎが生まれてしまったのだろう。
 突き放さなければならないものにまで、情を移してしまった彼は、全力で基樹の生活を支援した。
 そして基樹もまた、その環境に甘んじた。
 とても幸福だった。
 いくつものビールの缶を空けて、横になった圭一が小さな寝息を立て始めたとき、無防備な横顔に父の面影を見つけては、基樹は泣きそうな気分になった。
 どんなにこの人を慕っても、どんなにこの人が自分の世話を焼いてくれても、結局自分は、彼の守る世界の住人にはなれないと思ったからだ。
 だから、せめて彼の幸せを祈ろう。
 彼と、彼らの幸せを祈ろう。
 自分にはもう望めない、家族という形態を保つ彼らの幸福を、そっと祈ろう。
 自分たちは、他人だった。
 限りなく他人に近い──兄弟だった。

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 恋の嘘【1】