健康的に焼けた肌と、普段は覆われて太陽すらあたることのない部分の境目が、俺の思考をおかしくさせる。露になった逞しい身体に、暫く言葉さえ失った。俺よりも小さくて、華奢で、可愛かった池内の姿は、もうそこにはなかった。
「ごっ……」
「ご?」
「いや、なんでもない……」
どこもかしこも。
ご立派になられて。
という言葉を、俺は必死に飲み込まなければならなかった。
誘いをかけてくれた元チームメイトに欠席の連絡を入れると、彼は本気の残念そうな声で、「急用ならしょうがねえよなあ」と渋々頷いてくれた。急用、の理由を用意していなかったので、深く突っ込まれなかったことに安堵しながら通話を切り、そのまま液晶で時間を確認する。午後三時前。震える足でコンビニから帰りついたあと、確か、それから六、七時間くらいは寝た。幸福な夢を見たような気もするけれど、あんまりよく覚えていない。
遅めの朝食兼昼食を終えたあと、時間を無駄にしてはならないことに気付いて、俺はさっきから携帯を握り締めたままでいる。
不思議なくらいに、落ち着いていた。
開き直っていた。
「――よっしゃ、行くか」
躊躇う余裕も自分に与えず、俺はそのまま、池内の番号を呼び出す。コールは、随分長い時間続いた。まだ寝ているのかもしれない。電話を切りかけたその瞬間、コールが止んだ。暫くの沈黙に、留守番電話に切り替わってしまったのかもしれない、と思う。
『……なに』
幸いセンターには転送されずに済んだらしい。眠たげで、不愉快そうな声がすぐに鼓膜を擽った。
その声が池内のものであることを確認して、俺は無遠慮に言い放った。
「十分後な」
『……なにが?』
「昨日のコンビニの前で待っとくから。じゃあ」
『……はあ?』
回線の向こう側で、池内が、凄まじい勢いで絶句した。
十分二十分の遅刻は覚悟していたのに、予想を裏切って、池内は俺の到着から五分ほど遅れただけで、コンビニの前に姿を現した。
「うわ、早っ」
「……あ、あんた、何つー一方的な……携帯も、切って、やがるし……」
息切れの激しい池内が、肩を上下させながら悪態を吐く。切れ切れに言葉を継ぐ間に、流れる汗が頬を伝い、顎からぽたりと落ちた。
「うそ、もしかして電波入ってなかった? 悪いねー」
携帯の電源を予め切っておいたのは、そうしないと一方的に取り付けた約束を、あっさり覆されそうな気がしたからだ。池内は性格上、待ちぼうけなんてことは、誰にも絶対にさせない。だからつまり、直接顔を合わさなければ約束を断れない状況を、俺は作りたかったわけで。とはいえそんなこと言えやしないので、俺はしらを切り続けた。
「あー、もしかして今日なんか用事あったとか? わざわざ来てもらっちゃってごめんな」
「……用件言うだけ言って電話ぶち切りやがったヤツが何を……」
今更気を遣われたって意味がないと、池内がほとほと困りかけたような声で肩を落とすので、俺は思わず笑ってしまった。
でも来てくれた。
来てくれたんだな、池内。
額から流れ落ちる汗を、シャツで乱雑に拭いながら、池内が自分の右手首を見た。
「用事っつうか……六時からはちょっと用事あるけど」
「ふーん、じゃああと三時間ちょっとか。何しようか」
「用事決めてから呼び出せよ……くっそ、暑ィ……」
露骨に嫌そうな顔をした池内は、ちょっと待ってて、と言い置いて、コンビニの中へ入って行った。その背中を視線で追いながら、俺はこっそりと携帯の電源を入れ直す。
池内の言った「六時からの用事」は、たぶん、俺が行かなくなったOB会のことだ。懐かしい面々と再会して、彼は何を話すだろう。俺の姿を探したりなんかするだろうか。
しないかな。
そうこうしているうちに池内がコンビニから出てきて、自分が咥えているものと同じ形状のアイスを、俺に差し出した。
「……なに?」
「アイス」
「……」
知ってるよ、とは言わず、俺は黙ってアイスを受け取った。棒がふたつついていて、左右に割れるようになっている、ラムネ味の青い棒アイスだ。
池内は、コンビニのガラスに背中を預け、子どもみたいに暑い暑いと繰り返し言いながら、シャツで胸元を扇いでいる。それから俺に視線を向けて、「早く食っちまえば」と子供みたいな顔で笑う。
うっかりよろめいた。
「溶けるだろ」
あまりにも自然に差し出された片割れアイスや、同じように当たり前に向けられた笑顔に眩暈を感じながら、俺は努めて視線を反らし、前歯でちいさくアイスを齧る。
電流が走ったように、歯茎が痛んだ。
「俺虫歯なんだよ、前歯が」
「じゃあ奥で砕いちゃえば」
いつもはぶっきらぼうな口ばかり利くくせに、まるで他人同然の俺に、突然こんなふうに人懐っこい態度を見せたりするなら。そういう笑顔を自然と見せてやれるなら、荒井がよろめいたのも無理はなかったかもしれない。
「そんで、これからどうすんの。この炎天下でずっとオハナシってのはありえねーんだけど」
健康的な歯でアイスを咀嚼しながら、池内が首を傾いだ。
言った通り俺は前歯が綺麗な虫歯なので、ちろちろと溶けかかったアイスを舌で削ぎながら、同じように首を傾ぐ。
「ホテルでも行くか。三時間もありゃ一発でも二発でも抜けるだろ」
池内は、やっぱり嫌そうな顔をした。
だけど拒絶はしなかった。
語る言葉を捨てた俺がしたかったこと、俺たちができることなんて、それくらいしかなかったので。
男ふたりがアイスを齧りながらホテルに向かう姿はたぶん滑稽以外の何者でもなかっただろう。結局アイスは暑さに負けて途中で溶けてしまい、最後まで食べ切れることなくゴミ箱に向かった。俺の手がベタベタになったことは、池内に呆れ半分で笑われた。
そういうわけで殆ど無言のまま入ったホテルで、池内は予想以上に成長した筋肉を俺に見せつけた。
「ごっ……」
「ご?」
「いや、なんでもない……」
その成長の仕方は詐欺なんじゃないか、あの可愛い華奢な池内はどこにいったのだろうとか、様々な文句や感想が脳裏を駆け巡る。それらを全部一緒くたにして、「ご立派になって」という冗談になり下げようとしたところで、ぎりぎり唇を引き結んだ。ご立派もなにも、こうなる前の池内を知らないはずの俺が、そんなことを言ったって仕方ない。
池内があんまりばさばさと衣類を脱ぎ捨て、手馴れているような様子を見せてきたので、俺の羞恥心はないことにした。
池内の肌は、あまり焼けていなかった。それでも普段皮膚が衣類に覆われている部分と、剥き出しの部分とにくっきり切り目がついて、それが俺の劣情を誘う。
特に、二の腕の部分と、鎖骨の辺りが判りやすい。
いつもは衣類の下に覆い隠されている素肌さえ、今は惜しみなく与えられる。そのことがひどく幸福で、嬉しくて、早く確かめてみたかった。舐めてみたくて、噛み付きたくて、仕方がない。
湧き上がった欲望のまま、鎖骨に噛み付いて、肌の味を舌で味わったとき、がっつくな、と笑われた気がしたけれど、それにどう答えたかは覚えていなかった。少しの汗の味と、首筋からふわりと漂う男らしいフレグランスが、たぶん俺をおかしくさせた。
「あんたさあ……」
「ん、……何」
夢中になって肌に掌と舌を這わせていると、時折小さく呻く池内が、小さな声で尋ねてくる。コミュニケーションや会話のためではなく、今や池内のためだけに、池内を感じるためだけの器官になった唇は、せわしなく、彼の臍あたりで蠢いていた。
「――俺に突っ込もうとか思ってねえよな?」
生真面目な声で池内が呟いたりするので、思わず吹き出してしまった。俺が彼の身体を触り始めてからやたら無口だとは思ったが、どうやらそんなことを気にしていたらしい。
「……真面目に聞いてんだけど」
「いいよ」
俺が積極的に動くのも、「いい思いをさせてやる」と最初に言ったせいで、その約束があるからこそ彼を気持ちよくさせることは、俺にとって義務だった。正直に言えば、挿れるだの挿れられるだのという問題に、俺はそれほど拘っていない。
「お前が挿れていいよ、俺に、コレ」
徐々に唇を下げて、やっと辿り着いた性器は、今までの羽みたいな曖昧な愛撫にも、反応を返してくれていた。ちゃんと使えそうだと安堵する。
「……でっかいなあ」
あからさまな感嘆に、池内が嫌そうな顔をした。もう黙れと視線で言われている気がしたので、俺は従って愛撫に集中することにする。
それから男相手の愛撫に、躊躇いも戸惑いもなく池内が反応することに、少しだけ胸が痛くなった。奉仕されることにも困惑なく、池内はじっと俺の愛撫を、受け入れている。
俺はもしかして、とんでもないトラウマを植え付けていたんじゃないだろうか。俺のレイプのせいで、池内は、女の子を抱けなくなったりしてないだろうか。
「……ごめんな」
「なに――…うッ」
胸の痛みと池内の訝しげな声を誤魔化すように、先端に口付けた性器を、丸ごと唇で飲み込む。ぬるぬるした咥内に導かれて、池内が息を詰めた気配がした。
のどの奥まで咥え込んで、唾液を飲むために咥内を収縮させると、頭上で小さな声が聞こえた。その都度口の中の池内がちゃんと反応を返して膨れ上がる。
びくびくと、震えるようにして育った熱を夢中でしゃぶっていると、池内が溜め息のような呟きを落とした。
「あんたなあ……」
「――何?」
何か文句があるのかと顔を上げた俺に落ちてきたのは、ほとほと困り果てたような声だった。
「顔がいやらしい……」
見るなとか、それこそ黙れとか、そういった文句を俺は言うべきだったのかもしれない。欲情に思考を犯された状態で、俺はただぼんやりと喉を鳴らした。いやらしいと、思ってもらえるならそれでいい。もっともっと、いやらしくなってもいい。
一度で飲み込めなかった唾液と先走りをもう一度嚥下しようと舌を動かしたとき、額を掌で押さえられる。そのままグイ、と強い力で押されて、含んでいたそれが糸を引いて唇から引き離れていった。
息の上がった池内の様子と、絶え間なく震える性器から、彼の絶頂が近づいていたことを知る。
「我慢できねーんなら、口ん中、出していいよ」
「……バカじゃねぇの」
正直に告げたのに、池内は顔を歪めて俺の言葉を却下した。
――本当なのに。
本当に、それで、よかったのに。口でも、てのひらでも、どこででも。俺のどこかで気持ちよくなってくれるなら、それだけでもよかったのに。
「掻きっこしてんじゃねーんだから。あんただって気持ちよくなんねえと……おかしいだろ」
池内はその言葉で、俺の尻に手を伸ばしてくる。狭間を掻い潜って、入り口に触れたとき、思わず「気持ち悪くねえの?」と口走ってしまっていた。
「……いまさらだろ」
どうしてそんなことを訊くのだと、声が訝しむ。
噂になっているくらいなのだから、池内だって今まで何人もの男と関係を持っていたのだろう。そのことは、躊躇のない指の動きで事実として知れた。塗りたくったローションの滑りを借りて、池内の男らしい指先が、中を抉じ開ける。やさしくて、だけど強引で、性急に開かせようとする動きに、俺はただ震えた。早く、と求められているような錯覚がした。
自分だけが気持ちよくなるのはおかしいと、池内は言う。
だけどおかしいのなら、たぶん、最初から。
言葉と身体が反対になった。順番を間違ってしまった、――何年も前の、あの日から。
少しの痛みと共に池内が押し入ってきたときには、俺の身体はぐずぐずになっていた。首に手を回して、必死にしがみつくように、池内の足の上で腰を振る。合わせた胸は汗で濡れて、その分隙間なく抱き合えた。深く噛み合っているはずなのに、まだ、離れたくない。まだ、隙間なんか、許せない。
「ンッ……い、い……そこっ……」
「……ッ、あ……」
きゅうきゅうと締め付けるように収縮した中に、池内が少しだけ苦しそうな顔をする。度を過ぎた締め付けは、きっと痛みすら生んだだろう。そんな顔ですら格好いいなんて、池内はとことんふざけている。
「……ハハ、変な顔……」
「余裕だなあんた……」
悔しくて、笑って茶化すと、溜め息混じりの声が返る。吐息が耳に触れて、身体中に瘧みたいな感覚が走った。
「ばーか、余裕なんかないよ。――おまえの、すげえいい……」
おかしくなりそう、と正直に告げると、また池内がキツく顔を顰めた。「狭い」と文句を言われたような気もするけれど、勝手に膨張したのは池内のほうなので、今度ばかりは俺のせいじゃない。
挿れるのも、挿れられるのも、感じる行為としては、結局ぜんぶが同じなので。
俺はあまり、気にしない。
――池内なら、なんでも、いい。
何度目かのセックスのあと、池内がバスルームに消えたのを見送り、俺は息切れてシーツに突っ伏していると、池内の携帯がけたたましく鳴り出した。音を聞き咎めたのかたまたま出てきたのか、タオルを腰に巻いただけの姿でバスルームから出てきた池内は、少し慌てた様子で携帯を取る。
「あー……悪ィ。道に迷って時間食っちまった」
誰かと会話をしている池内を余所に、俺は自分の携帯を引き寄せる。時間を見ると、OB会の開始を少し過ぎたころだった。ああ池内のやつ時間忘れてやがったな、と思うと、少しおかしくて、自然と口元が綻んだ。今かかってきたのは、たぶんそのことを咎めて心配した電話だろう。
離れたくないと、無性に思った。感傷じみたそれはもちろん俺の感情でしかなく、池内に同じものを求めるのは、無理なことだ。だから俺は起き上がり、一緒にホテルを出るつもりで、とぼとぼとシャツを頭から被った。身体は気だるくて、それ以上に心がこの場から離れたがらなくて、動きはひどく鈍い。
明日、俺は、この町を出る。
日常に帰り、それからどうしようと、ぼんやりしていた現実を目の前に突きつけられた気分になった。
夢なら長く続く必要はない。だから、池内と関係を持つのなら、帰省の間だけにしようとぼんやりとは決めていた。なのに、未練がましい心が、離れたくないと思ってしまっている。悲しい。空しい、寂しい、未練だ。
「佐渡屋だろ? 判ってるつうの。……いや、大丈夫。ひとりで行けるから。先始めといて」
道に迷ったなら迎えに行ってやろうとでも言われたのだろうか。池内は少しだけくすぐったいような声で笑い、静かに通話を切った。
「えーっと……桜井」
「は?」
いきなり名前を、しかも呼び捨てで呼ばれて、面食らってしまった。確かにさん付けも先輩もいらないと言ったのは俺のほうだったけれど、違和感がありすぎる。
「……何?」
「二時間……今からなら一時間ちょっとか。そんくらい、時間潰せる?」
「時間潰すって……ここで?」
「いやここじゃなくてもいーんだけど。動くのたりぃならここでもいいけど」
そう言えば池内は、荒井のことも遠慮なく「大輔」と呼び捨てにして呼んでいた。先輩後輩という概念が薄いのか、親しくなると名前で呼ぶようになるのだろうか。そしたら俺も名前で呼んでもらえたりするのだろうかと考えて、慌ててかぶりを振る。想像で、うっかり気持ちよくなりかけてしまった。
「ヤり逃げすんじゃねーだろーな」
「しねえよ。不安なら財布置いてくけど」
と言った池内が、五千円札を一枚抜いただけの財布を本当に置いて行きかけたので、慌てて止めた。
「いいよ、持ってけよ、なんか用事あんだろ?」
「用事つってもとりあえず会費だけありゃ困んねぇんだけどな。……ま、いいか。じゃあ行ってくる」
その言葉だけを言い捨てて、池内は本当に出て行ってしまった。
「いや、一時間ちょっとって……おまえ折角のOB会……二次会とかは……?」
もう応えるものはいないのに、愕然とした呟きが唇から零れる。
折角の懐かしい集いを、たったの一時間そこらで終わらせてくるつもりなのだろうか。
池内のためだけに、帰省までしたOB会を蹴ったのは俺も同じなので、池内を非難はできないのだけれど。
重さが違う。彼と、俺とでは、重さが、絶望的に違うはずなのに。――お互いに向けるベクトルの強さが、重さが、熱が。
あまりにも、違っているはずなのに。
なんで約束なんかするんだ。
なんで待っておけなんて、言ったりするんだ。
さようならと未練なく手を振られる覚悟をしていた俺には、あまりにもひどい、期待だった。
あまりにも過ぎた、期待だった。
池内は、言葉通り一時間と少しでホテルに戻ってきた。暇を持て余していた俺がその間何をしていたかというと、テレビをつけてホテルのエロビデオを見捲っていて、かといってそれほど興奮することもなく、時間の無駄遣いだと帰ってきた池内に笑われた。
だって仕方がない。何かをしていないと、頭がおかしくなりそうだったのだから。
そしてまた、馬鹿みたいに抱き合った。
猿にオナニーを教えたら死ぬまで自慰を続けるなんていう話を、なんとなく思い出していた。
それでもただの猿ではない俺たちは、朝が近付くにつれ正気に返る。
汗ばんだ肌がぴったりと馴染んで、その腕の中に抱き締められたまま、池内が「ヤりすぎだ……」とぼやいたときには、俺はちゃんと笑えていた。
「ちょっと寝とく?」
「いや、寝るなら帰ってから……このままだと宿泊代がとんでもねーことになる……」
「あ、俺割引券持ってたかも。前に貰ったんだよなあ確か……」
池内の腕の中から抜け出して、ジーンズのポケットを漁る。同じ系列のホテルを使ったことがあるから、多分そのとき貰った割引券が、財布の中に入れっぱなしになっているはずだった。
「ふーん……」
池内はどことなく面白くなさそうな顔をして、同じようにポケットを探って煙草の箱を取り出していた。
池内が口元から紫煙を漂わせている間に、俺は自分の財布を漁った。傍から見れば、どれほど滑稽だろうと思う。さっきまで、隙間なく抱き合っていたのに、今はもう他人に近い。
だけど俺たちは、俺は、そうやって、正気に返る。
そうやって、さようならを、用意する。
「シャワー浴びてくる」
まだ残っていた煙草を灰皿で揉み消して、池内は腰を上げた。
「お前今日何回シャワー浴びてんだよ……」
「うっせ。あんたもあとでシャワー浴びろよ。丸一日いるつもりかよココに」
「あー…幾らになんだろな、宿泊料」
数えれば、この寂れたラブホテルで、半日近くは過ごしたかもしれない。元々休憩のつもりで入ったホテルの延滞料金を計算するのは、あとで二人でやろう。割引券を使っても大した出費だ。それで肝を冷やしたり、顔を青くしたり、とんだ出費だと腹を抱えて笑えばいい。
――涙が出そうになった。
明るい、やさしい、馬鹿みたいな時間がもうすぐ終わることを、知っていた。
池内がバスルームに消えていく気配を感じて、俺は両手で顔を覆う。今なら嗚咽だって零せる。池内は、いないのだから。
もう終わりにしよう。しなきゃいけない。俺の勝手な初恋に巻き添えになった池内に申し訳なくて、たぶんトラウマを植え付けてしまった過去の自分の行為を悔やんだりもしたけれど、これでもう、終わりにしよう。そうじゃなきゃだめだ。俺はもっとおまえを好きになる。好きになるよ。池内。
ザアザアと流れるシャワーの音に紛れさせるように、俺はちいさく、洟をすすった。
そうして枕元に無造作に投げ出されていた携帯を手に取る。俺のものではなく、池内のそれは、機種が違うせいで扱いに少し困ったけれど、大概は同じ機能をしているので、俺はそのメモリーの中から「サクライ」という単語を検索して、呼び出そうとした。
自分の痕跡を消して、きれいに消して、それでホテル代をこっそり置いて、今の内に姿を消すべきだと思った。悲しく期待するくらいなら、最初からすべてを断ったほうが自分のためだ。
「……あれ?」
登録されているならば「サクライ」という名前であるはずの俺の名前が出てこなくて、首を傾げてしまった。それ以外に名乗った覚えがないので、この名前でなければ、池内が俺を何という名で登録しているのか、知る術がない。
仕方ないので着信記録から探り出そうとして、池内の携帯の着信記録を開く。
俺といるときに掛かってきた、元部活仲間の着信表示の下に、俺の名前がある。
あるはずだった。
――大川
大川先輩。
「……は?」
俺はたっぷり三十秒ほど固まった。
大川寿。その名前は、俺が「桜井」という、母親の姓になる前の名前だった。池内は俺のことをあの甘い声で「大川先輩」と呼んでいて、その池内の携帯には、「大川先輩」と登録されている名前があるわけで。
震える指で、表示された名前の番号を確かめる。
名前と番号以外はメールアドレスも登録されていない、質素な詳細画面に表示されたのは、090からはじまる、俺の携帯番号だった。
頭の悪い俺でも、さすがに自分の携帯番号と自宅の電話番号だけは覚えている。何度見ても、同じだった。「大川先輩」と登録された携帯番号は、間違いなく俺のものだ。
――なんだ、これ。
混乱する頭に、ぼんやりとその言葉が浮かんだとき、バスルームの戸が開く音がした。
視線を遣ると、濡れた髪をそのままに、のんびりとバスルームから出てきた池内が、自分の携帯を握り締めて硬直している俺を見て、やっぱり凍りついていた。
「……い、け、うち?」
――なんだこれ。
覚束ない視線で尋ねると、池内は、ものすごく気まずそうな顔をして、掌をうなじにあてた。