少しだけ触れて、だけどすぐに離れた指先は、汗ばんで、べとついていた。壊れ物みたいに落下した十円玉は、さらりとした冷たい感触で、俺のてのひらに収まる。たったそれだけの落とし物を拾い上げ、届けてくれた指は、記憶にあるものよりも、ずっと大きくなっていた。
それきり、ろくな言葉もなく離れていこうとする背中を引き止めるための声は、たぶんみっともなく掠れていたんじゃないかと思う。
「イケウチ」
だけどほんの少し震えただけの声を、誤魔化すための愛想笑いなんて、俺はとっくの昔に覚えていたので。
「お前、池内だろ? 池内徹」
ゆっくりと振り返った顔が、不快そうにじわりと歪み、露骨に厳しい視線で俺を真っ直ぐに見つめていた。
「……何? あんた」
大丈夫俺は変わったから。お前はきっと気付かない。
だけど覚えていたよ。
――池内、お前のことを、俺はずっと覚えていたよ。
涙と軽蔑と嫌悪に塗れた眼差しを、覚えているよ。
おかしな話を聞いた。
夏休み、更にはお盆で実家に帰省する学生が多い中、俺は今日も生真面目にもサークル活動に精を出していた。とはいえ人数は当たり前にいつもより少なく、どれほど汗を掻きたくとも、中途半端な運動しかできない。
中途半端な活動を終え、サークルハウスで私服に着替えている最中、ノーマルにしか手を出さないゲイがいるらしい、という話を友人の荒井に突然された。その人を舐めきったような男は一学年下の文学部に属しているらしい。
「なんかねそいつ、ホモが嫌いなんだって」
「なんだよそれ。自分もホモじゃん」
それとなく流れていた噂を決定的な事実にした友人の真顔を眺めながら、呆れ半分に俺は笑った。
「だから自分のことも嫌いなんじゃないの? ホモが嫌いだから、相手がホモになっちゃったらすぐ別れんだって」
「なにその矛盾……相手がホモにっつうかホモにしてんじゃん自分で」
ロッカーの戸を閉めながら、荒井は努めてふつうの声で話を続けていた。それをまた努めてふつうの顔で聞いていた俺からは、乾いた笑いしか出てこない。何という贅沢、そして傲慢な男だろう。憤りと呼ぶには弱い、呆れたような溜め息が漏れた。ノーマルの男が付き合ってくれるだけでも奇跡に等しいのに、もったいない。
「あくまで相手はノーマルじゃないとだめってわけ? 相手が自分を好きになったらアウト?」
「うん、そういうことなんじゃないかなあ」
サークル活動で一汗掻いたあとはとにかくべとつく肌にシャワーを浴びたい気分で、いつものように適当な挨拶のあとさっさと帰路に着きかけていた俺を、荒井は少し真面目な声で引き止めた。
彼がこの話題を選んで俺にするのは、俺がゲイであることを荒井が知っているからだろう。
「なんかすごい変なヤツなんだよ」
「荒井、会ったことあんの?」
「……あるよ」
そこで荒井は奇妙な笑い方をした。
「おまえ、まさかさ――」
「俺もびっくりしたんだけどね。あんなに好きになるとは思わなかったなあ」
むずかるように、眉を片方だけ斜めにして、小さく笑った。
「……どこで?」
「こないだ陸部とコンパあっただろ? おまえが来なかったやつ。あんとき声かけられて、最初は普通に先輩後輩みたいな感じだったんだけど。そんで一回あいつんちですげえ酔っ払っちゃって、多分あいつも酔っ払ってて」
「……食われたのか?」
「俺もまあ彼女いないし溜まってるしいいかなーって軽いノリだったんだけど」
荒井は無理をした饒舌を途中で区切って、「おかしいなあ」と心底何かを不思議がる声で呟いた。
「俺もさ、まさか自分が男にあんだけ入れ込むとは思ってなかったんだけど。なんかあいつ、ほんっと変なやつで……なんかこうずるずる」
「……荒井」
俺の知る限り荒井の性癖は至ってノーマルで、定期的に女もいたし、それっぽい話なんて一度もしたこともない。俺がゲイだということを知っても遠ざかりはしなかったものの、それはあくまで「自分に害がなければいい」という距離を置いての友人関係だった。
「ごめんな桜井、俺、こんなこと話せるのがおまえしかいなくて」
「いや別にそれはいいんだけど。……ぜんぜんいいんだけど」
だからこそ目から鱗がぼとぼとと剥がれ落ち、今にも泣き出しそうな顔をしている荒井を慰めることを、俺は一瞬忘れた。
「それってさ、どんなヤツだったの? あんまひでェやつならとっとと切れて正解だったんじゃないのか?」
慌てて言葉を足しながら、同時に胸に沸き起こったのは、下世話で俗的な「興味」だった。
「どんなって……かっこいいよ。女にもモテてるみたいだけど、本人は男しかだめみたい。彼女いたことないって言ってたし」
「はあ、そりゃあ……」
真性じゃないか、と言いかけた口を噤んで、俺は次の言葉を待った。
「一年なのに俺なんかよりよっぽどしっかりしてるし、そうかと思えばこどもみたいなことも言ったりするし……ほんと変なやつだったなあ。いいやつだったけど」
今の様子からして、そいつに入れ込んだ荒井が手酷い扱いを受けたのは一目瞭然だった。傷付いておきながら「いいやつだった」と言える神経を疑って、けれどそれがたぶん、嘘ではないことも知っている。そういうものが恋なんだろうということを、おぼろげに。
荒井の顔がしんみりとしたものになって、感傷的な空気が流れ始めたのを、俺は慌てて遮るように言った。
「つかさそいつホモだろ、そんでそういうやりかたしかできないんだったら彼氏できねーじゃん」
「うん。だから幸せになりにくいヤツなんだよ、たぶんね」
そんなことを言ったりする荒井はやっぱり少し悲しそうな顔をしていたので俺は少し頭が痛くなった。
「帰省前に聞くにはちょっと重い話だよな……」
「あっ、悪い」
「いやいんだけど。ホモの友達が俺しかいねーからしょうがないんだろ? 要はおまえはホモの心理がどういうものなのかを俺に訊きたかったっていうか、そんな感じ?」
「うん、まあそうなんだけど。そういうのってゲイの人にはありなのかなって……ごめんな」
徐々に沈んでいく俺の表情を気にかけてか、荒井が申し訳なさそうに呟いた。――俺だって好き好んでホモでいるわけではなかったので。
「しらね。頭おかしいんじゃないの、そいつ」
とりあえず俺の常識に照らし合わせてみても、そしてたぶん他人の常識に照らし合わせてみても、それらにそぐわないことは明らかだ。
吐き捨てるように応えた俺に、荒井はやっぱり悲しそうな顔をした。
胃の辺りによくない話を終えてサークルハウスを出たころにはすっかり空は暗くなっていて、それと比例するように荒井の顔もやっぱり暗かった。その理由を推し量ってみると、幾つかの理由が浮かび上がってくる。単純に言えば失恋による悲しさと、あとはたぶん、悔しさだとかいうものだろう。
今まで真っ当に女を愛してきた男がいきなり同性に入れ込んで、あげく雑巾みたいに捨てられるなんて、とんでもない屈辱だろうと思った。
けれど基本的に、俺のよく知る荒井は善い人間なので、決して恨み言は言ったりしなかった。「そういう性格なんだよな」と悲しさをやり過ごして、自分を納得させるみたいに反芻している。俺に求められたのは、親身な相槌だけだった。
「女は紹介できないけど男は紹介できるよ」
「もーいいよ、男は。あいつだけで充分。つーかこれ以上ホモの世界に引き摺りこまないでくれよー」
荒井は冗談交じりに本音を吐いた。失恋に男相手も女相手も、本当は関係ないだろうと思ったが、いっそ黙っておくことにする。自分のものならともかく、友達の傷口に塩を塗りこむ趣味はあいにくない。
サークルハウスを出て丁度校門をくぐったころに、荒井がふいに「あ、」と小さな声を上げた。その声に釣られて顔を上げた俺は、荒井が視線を向け、またすぐに反らしてしまった先を探った。
すぐ向かいにあるコンビニの出口で、時間を持て余すように佇んで煙草を吸っている学生の姿が目に入る。あっちは荒井には気付かずぼんやりしているだけで、とりあえず煙草を吸い終わるまで動くつもりはないらしい。
なぜだか知らないが、俺はその男から視線を動かせなかった。いやらしいくらい凝視していたことに、荒井の小さな「早く行こう」という声が聞こえて初めて気付くくらい、彼を見つめていた。
あいつ?とは、訊けなかった。
荒井の反応を見れば聞くまでもないことだし、あの男を見つけた直後、荒井がすぐに視線を反らしてしまったことが、なんだかひどく胸に痛く感じた。
うなじに引っかかる髪を鬱陶しそうに弄りながら、フィルタを唇で噛んでいる様は遠目に見ても中々格好がついていて、なるほどこれなら荒井がよろめくのも無理はないだろうと思いながら、でも俺はだめだ、と思った。
単純に、好みの問題で。
「桜井、そういえば今年は帰省するって言ってたよな? 去年は帰ってなかったのに」
話題を変えるように不自然に言葉を継いだ荒井に乗るふりをして、俺の頭はぼんやり別のことを考えた。
「ああ、でもお盆の間だけだよ。なんか今年は中学んときの部活仲間が同窓会つーかOB会?やるとか言ってて。会いたいヤツもけっこういるから帰るだけ」
髪がうなじや肩にかかっている男が嫌いなのは俺の好みだからいいとして、鬱陶しいなら切ればいいのに。そしたらもっと男前になるんじゃないだろうか。
「じゃあもう明日くらいから帰るのか?」
「つうか今日? つってもまだ荷造りもなんもしてないけど」
そもそも電車を乗り継いだらあっという間に帰り着いてしまう場所に、お盆の帰省も何もあったものじゃない。これまで決まってお盆に帰らなかったのは夏休み以外でもちょくちょく顔を出しているせいだ。
身支度もそれほど必要なく、この身ひとつでいつだって飛んでいける。
「そんなんで大丈夫なのか?」
「まー大丈夫だろ」
短い会話を交わしながら、頭はまだ、俺の視線に気付かないままだった、あの男のことを考えていた。顔だけよくったってノーマルの荒井がわざわざホモに転ぶ理由にはならない。しかも俺の好みじゃない。
ああ、だけど、少しだけ似ていた。
あんなのはちょっと好みじゃないなと頭の中で笑いながら、結局ギリギリまで視線を外すことができなかったのは。
横を向いて俯いたとき、地面を見つめる切れ長の目が、尖らせた唇が、少しだけかわいいあの子に似ていたからかもしれない。
当たり前に帰ってきた息子を当たり前に迎えた父親は何の緊張感もなく、「おう、元気だったか」と間の抜けた挨拶だけをくれた。きちんと顔を見せるのは確か半年振りのはずだったが、そんなものだろうとこっちも諦めている。
「客用の布団出しておいたからな」
「うん、サンキュ」
「同窓会明日だったか」
「うん」
「寝過ごすなよ」
「寝過ごさねーよ」
もそもそと夕食を二人して食っているときも、こんなふうに途切れ途切れで会話を交わしたていどだった。
俺の部屋は、主を見つけられないまま、やっぱり空っぽで残されていた。
深夜零時を少し過ぎたころ、玄関でスニーカーを突っかけていると、「こんな時間にどこいくんだ」と、さほど心配していない声が、のんびりと背中にかかった。トイレから出てきた親父だった。
「ちょっとコンビニ行ってくるわ。小腹が空いた。なんもねーんだもんこの家」
「おー、ついでに雑誌買ってきてくれ。いつもの」
「はいはい」
いつもの、で通じる辺りが、一緒に暮らしていなくてもやっぱり親子なんだろうと思って、少しの苦笑を噛み殺す。父親との生活があっさり打ち切られたのは、何年前の話だっただろう。
中学校の三年生になった春、受験を目前にした時期に、俺は住み慣れていた街を離れた。ついでに転校もした。子どもの都合などお構いなく離婚を決めた両親のおかげで、極めて不親切な時期に転校したあとは色々とごたごたがあったような気がするけれど、よく覚えていない。ただ、母親に親権が移ったせいで、今までとは違う苗字を名乗らなければならなかったことが、多少の不都合を生んでいた気がする。
「桜井」と呼ばれてすぐさま返事ができるようになるまで、一ヶ月かかった。だけど一ヶ月しかかからなかった。
事実両親の離婚はそのていどのもので、俺と弟は休暇の度に父親を訪ねていたりもしたので、それが俺の思春期に多大な影響を及ぼしたかといえばそうでもない。おかしな言い方だけれど、ウチは至って円満な離婚だった。
そのときから数えれば、もう六年か七年も前になるだろうかと考えて、指折り数えたその月日に俺は改めて驚愕した。
六年も七年も経って、けれどこの町の風景は、未だ俺の身体によく馴染む。
荒井に話して聞かせたように、今回の帰省は転校前の中学校の部活仲間が同窓会に呼んでくれたからで、そうでなければこんな暑さの盛る時期、いつでも会える父親のところにわざわざ帰ってきたりはしない。だけど彼らが、途中で部活を抜けてしまった俺を当たり前のように仲間扱いして、懐かしい集まりに呼んでくれたことには感謝した。
コンビニに入ると、効き過ぎた冷房が全身を包んで、そのひんやりした空気にほっと息を吐く。このコンビニも、部活帰りによく使っていた。ただ涼むだけにふらりと寄って、結局何も買わずに出たことだって何度もある。涼むときは決まって雑誌を選ぶふりをした。
涼むことが目的ではなかったけれど、なんとなくそのときの習慣で、俺は最初に雑誌のコーナーに立ち寄る。客は俺を除いて、同い年くらいの男がひとり、仕事帰りらしい女がひとり、菓子コーナーとドリンクコーナーを独占しているだけだった。
(――……あれ?)
男の後ろ姿が何かに引っかかりかけたそのとき、やっと親父からの言いつけを思い出す。青年雑誌を手に取ると、俺はそのままドリンクコーナーに「さりげなく」歩み寄った。
ドリンクを選ぶふりをして、隣に並んだ長身の男に横目を向ける。その視線が一瞬にして凍り付いてしまったのも、まあ無理はなかった。
今日の昼間、大学前のコンビニで目にしたばかりの人物が、そこにいたからだ。
癖なのか、うなじに引っかかる髪をいかにも鬱陶しそうに撫でながら、男は俺がそこに辿り着いたと同時にボトルを引っこ抜き、レジへと向かっていく。
俺はただ呆然と、その背中を追った。
――どうしてここに?
そうじゃない。彼がここにいる理由なんて、判りきっている。
荒井を手酷く振ったという、あの男が、この町に。
混乱する頭とは反対に、どこか冷静に、その名前を胸の内で呼んでいた。
――池内?
彼もまた帰省していたんだろう。
明日の夜にはこの町で、俺が二年と少し所属していた軟式テニス部のOB会がある。
誰が提案したのかは知らないが、一学年下で、俺とは約一年間、部活動を共にした彼が呼ばれていたって、不思議ではない。
もうあれ以来、どうしているのかも知らなかった。かわいかったあの子が、この町に、帰ってきていても。
急速に意識が過去に引き摺られて、無邪気に呼んだ声変わり前の可愛い声が、鼓膜を揺さぶる気がした。
『――センパイ』
あの頃はまだ、俺よりもほんの少しだけ頭の位置が低かった。やっぱり後輩の中でも群を抜いて大人びていて、けれど俺だけには人懐っこい笑顔を見せてくれていた。
あの子のことを思い出すと、一番最初に出てくるのはその笑顔だ。はにかんだように、少し遠慮気味の声で、あの子は俺を呼ぶ。
『すいません、ちょっとグリップ見てほしいんすけど……』
『俺でいいの? 俺あんまよくわかんないよ、調整に詳しいのは他にもいるし』
『センパイがいいです』
体格が俺とよく似ていて、だから俺のプレイスタイルを手本にしているのだと正直に告げられたときも、悪い気分はしなかった。
可愛くて、仕方がなかった。
可愛くて可愛くて、好きでたまらなかった、池内。
池内、徹。
――名前はまだ、忘れていなかった。
思い浮かべる笑顔が、最後には、涙と嫌悪に濡れて、俺を見る。
記憶の中の池内は、いつも糞か化け物を見るような視線になって、ただ俺を真っ直ぐに責める。そのたびにズキズキと胸が疼くので、俺は努めて彼のことを考えないようにしていた。
だけどこうやって目の前に見せ付けられたら、どうしたらいいんだろう。
あのころ、俺は、恋をしていた。
確かに、恋をしていた。
恋をしていた、可愛いあの子が、今目の前に、いる。
彼が――池内がレジで支払いを終え、自動ドアを潜り抜けて去っていく前に、俺は慌ててレジに並ぶ。本来の目的をとうに忘れ、ともかく彼を追おうとしていた。つり銭を貰う手間も惜しくて、雑誌を手にした俺は五百円玉を店員に渡すと、すぐに自動ドアを抜ける。池内はまだ、生温い風が吹く店先の、ほんの数歩前をのんびりと歩いていた。
池内。叫ぶ形に口を持っていきかけて、俺は愕然とする。
最後に思い出すのは、あの子の、怯え切って嫌悪感に充ちた、あの顔だったから。
――声をかけられるわけがなかったのに。
「お客さん、おつり忘れてますよ!」
「あっ……」
親切に俺を追ってきた店員に気を取られ、後ろを振り向いた瞬間、タイミングを外した掌から、つり銭がバラバラと地面に落ちていく。
「わっ、すみません」
「や、いいっすよ。――俺、自分で拾いますから。わざわざすみません」
肩の力が抜けたような気がして、少しの苦笑と共に応えたのは、レジに並ぶ客が見えたからだ。店員は少し申し訳なさそうな顔をして、自分の足元に転がっていた小銭だけをとりあえず掻き集めると、それを俺に手渡し店の中に戻っていった。
すっかり気が抜けてしまった。
あそこで店員が声をかけてこなければ、俺は池内の名前を呼べていただろうか。
たぶん、むりだっただろうな。
思わず一人で笑ってしまいそうになりながら、しゃがみこんで地面にばら撒かれた小銭を拾う。全部で幾らになるかだなんて、忘れてしまった。
池内。
池内。
お前も帰ってきてたんだな。――お前が、あれだったんだな。
呼べなかった名前を胸の中で呟きながら目に見える小銭を拾い上げて腰を上げると、ふいに視線を遮る影に気がついて、俺は視線を上げた。
――もう彼は、俺なんかよりも、頭の位置がずっと高い。
「これもそうじゃないすか」
向こうのほうまで転がっていった十円玉を、池内が俺に向かって差し出していた。
まるで他人の顔をして。
「……多分」
「そう」
抑揚なく頷いた池内が差し出す掌から、俺は十円玉を拾い上げた。
律儀なやつだな。十円玉なんて、わざわざ拾って返しにくるようなもんかよ。
視界が滲みそうになって、てのひらの上の十円玉に、努めて視線を落とした。
「……ありがとう」
「イエ」
池内、お前、変わったな。随分可愛くなくなっちゃって。煙草なんか吸っちゃって、ばかじゃねえの。なあ、もうテニス止めたのか?
言葉に出せない声が、胸の中だけでぐるぐると回る。
見ただけじゃ、わかんなかったよ。たぶんここでお前に会わなきゃ、ずっとわかんないままだったよ。それくらいに、変わったな。
お前なんでホモなんかやってんの。
――あんとき俺のことあんな酷いツラで見てたくせにさ。
急激に膨らんだ感傷を遮るように、池内はさっさと背中を向けて、去っていく。俺にはまるで気付いていないらしい。気付いていても、気付かないふりをしたかったのか――そうじゃない、あいつは絶対、俺に、気付いていない。
だけど忘れてもいないはずだと、確信していた。
あんな酷いことをした俺を、お前が忘れるはずがない。
「池内」
だけど、俺も変わった。
お前を一目見て判らなかったみたいに、それくらい変わったお前みたいに、俺も、変わった。
「おまえ池内だろ? 池内、徹」
「……何? あんた」
いきなり呼び捨てで呼び止められたことを不快がるように、池内は足を止め、不審がる視線で俺を振り返る。
「荒井って知らない? 俺のダチなんだけど」
「……大輔?」
「そう、お前が振った荒井大輔」
荒井の名前を引き合いにして、そこで何かに思い至ったように、池内は更に眉間の皺を深くした。
「お前のことだろ? 池内徹。荒井から聞いてたんだ、まさかこんなところで会うとは思わなかったけど。ホモのくせにホモが嫌いなんだって?」
嘘だよ。
荒井はお前の名前なんて一度も口に出さなかった。
「……それがなんかあんたに関係あんの?」
池内は思いっきり顔を顰め、不快を露にした。無関係の他人に口を出されたことが不快なのか、それともホモ呼ばわりされたことが不快だったのかは、わからない。
「関係あるだろ、友達だし。お前さなんでああいうことしてんの? 荒井が可哀想だろ。ホモはいいけど手ェ出すんなら同類にしろ。わざわざノーマル引きずり込みやがって」
自分で口にしながら反吐が出そうになった。
池内を責めるようなことを言っているのは、荒井に対する友情だとか正義感だとかいったものでは、多分ない。そんなきれいな感情は、俺はそれほど持ち合わせていなかった。
「……俺の勝手だろ」
「勝手でダチ泣かされてりゃたまんねえんだよ、ボケ」
何か、で、叫びたくなる。
「……つかさ、あんた俺に説教したいの? 大輔がなんか言ったの?」
池内の冷たい眼差しが、荒井に対する軽蔑に充ちていくことに気付いて、俺は慌てて言葉を継いだ。
「荒井はお前のこと最後まで悪く言わなかったよ。あいつ優しいヤツだから」
「どうだか」
鼻で笑った池内は、首裏に右手のてのひらを宛てて、ゆっくりと首を傾げた。やっぱりうなじを弄るのは癖なんだろう。
「説教つか、まあ説教になんのかな。ノーマルに手ェ出すの、とりあえず止めとけば。食ってポイ捨てしたのって荒井が最初じゃねーんだろ。巡り巡って自分が痛い目遭うよ、そういうの。後ろから刺されたりとかするんじゃないのそのうち」
「――ポイ捨てって……」
あんまりの言われ様に反論したかったのか、池内はあんぐりと口を開けたあと、もごもごと口篭もるように何かを呟いた。どんな言い訳をしようとも、傍から見れば立派なポイ捨てだったので、彼も上手には反論できないはずだ。なのに、「しょうがねェだろ、大輔じゃなかった、、、、、、、、んだから……」独り言のように、池内はどうやらこんなことを言っていたらしかった。
そうして、拗ねたように横を向き、俯いて、――本当に小さく、唇を尖らせた。
信じられないくらい胸が痛くなった。信じられないくらい、心臓が、跳ねた。
お前、よくそういう顔してたよな。顧問に叱られたとか、担任に呼び出されたとかいって。いつも、いつも。そんで俺のこと呼んで、拗ねたみたいな顔するから。
――よく、慰めてやったっけ。
「池内、携帯」
「――は?」
「いいから。携帯出して」
突然話題を転換させた俺に戸惑うように目をまんまるに剥きながら、それでも池内はジーンズの後ろポケットから携帯を引っこ抜いた。混乱したような顔をした池内の手に握られたそれを奪うように掻っ攫うと、俺は無遠慮に画面を開く。
「――って、おい」
池内は、正気に返るのが少しばかり遅かった。
俺の指は、既に彼の携帯を好き勝手に弄って、俺の携帯番号を入力していたから。
「俺な、桜井っていうの」
「サクライ?」
「そう。芸文の二年。よろしく。あー、別にセンパイとかさん付けとかいらねーから」
「いやよろしくって」
「よろしくするんだよ、お前は」
池内の携帯に入力した俺の番号を発信して、ワンコールですぐに切る。これで俺の携帯にも、池内の番号が残されているはずだ。
そこまでして、俺は池内に放り投げるようにして、携帯を返した。
「そんで俺は、お前の大ッ嫌いなホモです」
「……」
池内は一息分じっくりと固まった後、ゆっくりと眉を寄せ、露骨に嫌そうな顔をした。
「自分だってホモだろ、なんでそういう顔すんの失礼なヤツだねお前」
「ホモじゃねえよ……」
「ハ、嘘ばっか。さっきは否定しなかったくせに」
嫌そうな顔も拒絶の反応も、ある程度は覚悟していた反応だったから、傷付きはしなかった。
「だから、俺でよかったら相手してやるよ。ノーマル相手じゃあんまいい思いもさせてもらえてねーんだろ」
「余計な……」
「お世話だってのもわかってるっつーの。欲求不満で手当たり次第にノーマル食いするよかマシだろが」
畳み掛けるように言葉を継いだ俺に、池内は押し黙った。もしかしたら荒井の傷付いた顔なんかが浮かんでいるのかもしれないが、とりあえずそれには知らないふりをする。
「俺上手いよ? 年季入ってっから。あ、安心しろよ、俺絶対おまえのこと好きにならないから」
「……何その自信」
「だって俺、誰も好きになったことねーもん」
冗談交じりに告げてみても、池内の眉間の皺は消えなかった。
「誰も好きにならないのにホモなのか、あんた」
「それとこれとは別ってヤツじゃないの。女じゃ勃たねえの。――俺もよくわかんないよ」
最後のほうは正直な気持ちだったから、少しだけ苦笑みたいな笑い方になった。池内の眉間の皺は、なおさら深くなった。訝しがるのも無理はない、と結論付けて、俺はさっさとその場を立ち去ることにする。余計な言葉を重ねられて、せっかく吐いた嘘が露見されるのは嫌だ。
「じゃあな、」と池内に背を向けても、引き止める声が聞こえることはなかった。
曲がり角を左に曲がり、振り返ってもコンビニがもう見えないところにやって来るまで、俺は一度も池内を振り返らなかった。
随分歩いて、もういいか、と自分を許して振り返る。池内の姿どころか、コンビニの光の欠片すら、見えなかった。
池内に吐いた嘘は、ぜんぶがぜんぶ、嘘ではない。
兎にも角にも、俺は人を好きになってはいけないのだ。
「……ハ、ハ……ばかみてぇ……」
もう見えない影を思うと、いまさら、足ががくがくと震えた。
ばかみたいな、俺の、初恋。
ばかみたいに自分で打ち砕いた、初恋。
中学三年に上がる少し前の、春休み。肌寒かったから、部活が終わったあとには長袖のジャージを着た。それでも体が冷えるまでは厚着が暑くてたまらなくて、俺も池内も、半端にジャージを着崩していた。――今でもよく覚えている。グラウンドの片隅にあった、ふるい寂れた倉庫で、俺は池内をレイプした。
まだ誰の手の感触も舌の感触も内側の感触も知らない性は、簡単に俺の手と口腔で膨れ上がって、簡単に弾けた。戸惑う幼い声が拒絶になって、拒絶がただの喘ぎになったころ、絶頂のことしか考えられなくなった身体にのっかかって、俺はばかみたいに腰を振っていた。
池内、池内。腰を振りながら、なんど名前を呼んだだろう。その瞬間まで、自分の中に、こんな気狂いみたいな感情があることも知らなかった。
――あのさ、池内、俺こんど転校するんだよ。
部活上がりの片付けが、ローテーションで俺と池内に回ってきたその日。告げるなら今しかないと思った。それはずっと前から用意していた、言葉だった。なのにそれをいえなかったのは、さようならを告げかけた唇を、池内の無邪気な笑顔が凍りつかせたから。
――センパイと部活やれんのも、あと少しですね。
淋しいなあ、でも夏が終わっても遊びに来てくださいよ、忙しいかもしれないけど。そんで、俺の練習に付き合ってよ、センパイ。
埃臭い倉庫の中で、小さな窓から差し込む光が、神々しいくらいに池内の笑顔を輝かせていた。
たった、それだけだった。――たったその一瞬だけが、俺の体を、動かした。池内が俺の中でイって、同じくらいに、俺も池内の腹の上に射精した。信じられないくらいに気持ちがよかった。池内は、俺で、ちゃんと気持ちよくなる。そのことが、信じられないくらいに嬉しかった。
だけど俺を見上げた池内の顔は、恐怖と軽蔑と拒絶に塗れていた。
だから俺は、人を好きになっては、いけないのだ。
手に握り締めたままだった携帯電話に視線を落とすと、うっかり視界が滲みかけていることに気付いて、慌てて頭を振る。
感傷に浸れる資格なんかない。
自分の身体を開いて池内のを入れたのは、池内があんまり怯えて可哀想だったからで、それまでは池内に突っ込むつもりだった。本人の意思にそぐわないセックスなら、やっぱりそれはレイプで、犯罪だ。
俺の恋は犯罪だ。
「――池内」
なんで、と口から、独り言にもならない呟きが漏れる。
あんな顔をして、あんなに怯えて、糞か化け物かを見るみたいな眼で俺を見てたくせに。
なんで、いまさら、男なんか抱いてんの。
誰でもいいなら、俺にして。
――OB会、行けないって連絡しないとな。
池内はたぶん、明日のOB会に参加するつもりで帰ってきていたのだろう。だから、俺は行けない。全く他人の顔をして、出会ってしまったから、あそこに俺は行けない。
涙にもならない、単に眼球を潤してくれた僅かな水分を、それでも手の甲で乱暴に拭い、顔を上げたその瞬間、手の中で携帯が乱暴なバイブ音と共に震えた。
液晶にはメモリに無登録の、剥き出しの番号が映し出されていた。
まだ登録されていない、ついさっき自分がワンコールだけ鳴らした、あの番号が。
池内。
「――はい?」
携帯を耳にあて、唇をゆっくり開いても、声はもう震えなかった。あるていどの覚悟を持てていれば、気丈な声を出すことなんて、ひどく容易いことだ。
『……あんたに会うには、どうしたらいいの』
迷うような空白のあと、低い声が、ゆっくりと告げた。
――掛かった。
池内は俺の罠に、掛かってくれた。
「……いつでも」
いつか俺は、荒井みたいに、簡単に捨てられたりするんだろう。
正体がばれてしまうのが先かもしれない。
どちらにしても、終末はあまりにも簡単に予想できた。
捨てられるかレイプ魔と罵られるかのどちらかで、だけどあまりにも初恋は、強く、切なく、未練がましく、俺の胸に巣食っている。
誰でもいいなら、俺にして。
『いつでも?』
「そう、いつでもいいよ」
そうやって願うくらいには、巣食いつづけていたことに、今気付いた。
ごめん。
声には出せない言葉を、流せない涙といっしょに呟く。
「お前が呼んだら、どこにでも会いに行ってやるよ」
ほら早く傷付けてみせて。
それから、できたら、俺を、ゆるして。