逃げ出した俺を、池内は追ってこなかった。
さっきからけたたましく携帯が鳴り続けている。ここまで電話を鳴らすなら、家族かサークルの親しい友人かのどちらかだろう。そこまでは思考が纏まるのに、電話に出るどころか指ひとつ動かすのも億劫で、俺はやかましい音を無視し続けた。
結局あのあと俺がどうしたかといえば、たぶん、尻を捲って逃げるという形容がぴったりくるようなことをしたのだと思う。
明らかだった。池内が、もうずっと前から、俺の正体に気付いていたということは、尋ねるまでもなく、明らかな事実だった。
ふざけんなてめぇ騙してやがったのかと池内の携帯を投げ付けながら叫んだような気がするけれど、それはあんたのほうじゃないかと池内に反論されて、そりゃそうだ至極もっともな話だと俺はひどく納得してしまった気がする。そうすると反論の術も非難の言葉もきれいに失くしてしまい、池内と顔をあわせていることすら恥ずかしくなって、俺はその場から尻を捲って逃げ出すことにした。
シャワーも浴びず、ただ衣服を引っ掛けて部屋から飛び出した俺を、全裸にタオル一枚だった池内は、追ってこなかった。追ってこれなかったのかもしれない。
ただ、慌ただしく部屋から出た俺の背中に、池内が何かを言った気がするけれど、よく覚えていない。
それから家に戻り、親父と顔を合わせないようにこっそりとシャワーを浴びて、身体に残った池内の痕跡を全て消し去ってから、ろくに挨拶もせずよろよろとアパートに戻った。そのころには日はすっかり暮れて、結局、昨日の昼過ぎから今朝方まで池内とホテルにいたことを、いまさらぼんやりと思い出していた。
携帯の液晶に表示された日付が十五日を示していて、当たり前に日付が変更されていたことに、少しだけ驚愕した。この日には、俺は、池内のいない日常に返らなければならないはずだった。帰省の間、熱に浮かされるみたいに、毎日毎分毎秒池内のことを考え続けた。そういう時間に区切りをつけて、終わりにしなければならないはずだったのに。
まだ、電話は鳴り続けている。
携帯を見れば、さっきからやかましくベルを鳴らし続けているのが誰なのか、その相手によっては出る気も起こったかもしれないが、その動作すら、放棄した。
俺はまだ、池内のことを考えている。
考えても、考えても、考えても、判らない。
いつからだろう。もしかしたら最初からかもしれない。俺を俺として認識していたのなら、どうして俺なんかと寝たりしたのだろう。
俺が、俺として池内としなければない話なら、ひとつだけある。
――謝らなくちゃ。
だけどそれを問い質す勇気なんて、あのとき俺には、なかったんだ。
別の人間にならないと、お前と話すこともできないって、思っていたから。
そのうち俺を呼び出す着信音は、諦めるように、ぷつりと途切れた。
玄関の呼び鈴で目を覚ましたときには、もうとっぷり日が暮れて、夜になっていた。携帯を手繰りよせて時計を確認しようとしたけれど、着信を嫌って、どこか見えないところに隠してしまった気がする。
玄関からはうるさく呼び鈴は鳴り続いていた。
まだ眠っていたいような気がしたけれど、仕方なくドアへ向かう。
「はいはい、今出ますよ」
独り言のように呟いて、のんびりドアを開けたら、そこに、池内がいた。
不機嫌そうに寄った眉間から、額から、頬から、鼻筋から、汗が伝っている。息が少しだけ切れていた。たぶん、走ってここまでやってきたのだろう。
閉めた。
「――ふざけんなてめぇいきなりそれかよ!」
二の句を次ぐ前にドアを閉めると、池内が、凄まじい勢いで鉄製のそれをガンガンと叩き、何事かを喚き始める。震える扉に背中を押し付け、俺は負けじと叫び返した。
「うるさいよ近所迷惑だろ黙れよお前!」
「じゃあ開けろよ、なんだこの対応!? 失礼にもほどがあ……」
「そら目の前にお前なんかがいきなり出てきたらドア閉めたくもなるじゃねーか! 驚いてんだよ、わかれよ!」
「不審人物か俺は!」
池内が不審人物というよりは、未来の猫型ロボットの、行きたい場所に行けるドアを使ったような気分になった。
いるはずのない、予想外の人物が、扉を開いたらそこにいるなんて、しかもそれが今一番に会いたかった顔だなんて、夢見がちにもほどがある。
「おまえ、なんでここ……」
「開けろよ。話できねえだろ」
池内の声に何かを返そうとして口を開いたとき、また携帯が、鳴り出した。
じりじりと神経を焼き尽くすような音が、俺と池内を切り離してくれる。さっきまで出る気もなかった電話に、俺は逃げた。
「開けろつってんだろオイ!」
池内はまだ、外で何かを喚いている。あんな下品な言葉遣いをするような子じゃなかったと嘆きながら、俺はひどく緩慢に通話ボタンを押した。
「……はい?」
『あ、桜井? 俺だけど、荒井。帰ってきてた?』
さっきから電話鳴らしてたんだけど捕まんねーとあっけらかんと笑った声に、凍りつく。一瞬のうちに身体中を駆け巡った何かを誤魔化すように、俺はドアの外に向かって声を張り上げた。
「おい、せんぱ……」
「うるさいな今電話してんだよ、ちょっと黙れ!」
黙った。
『……何? 誰かいるのか? かけ直す?』
「いや近所の犬」
『……そう?』
訝しげな声を振り切って、思考をまともに戻そうと努めると、冷や水を浴びせられたように指先が固まった。
『バイブにしてんのか疲れて寝てんのかと思って』
「ああうんちょっと……寝てた」
『ハハ、やっぱり?』
今回線越しに会話をしている相手に、土下座したい気分に駆られた。お前のことを手酷く振って、手酷く傷付けて、あんな悲しい顔をさせた男が、俺は好きなんだ。ずっとずっと、好きな男だったんだ。ずっとずっとずっと好きでしかも流れで寝ちゃったりなんかしたけどきっと俺も振られるから許してくれと、地面に額を擦りつける気分で、俺は荒井の声を待った。
「それで、荒井、何……」
『ちゃんと池内と会えた?』
何用かと問い掛けた声に被さるように、荒井が笑った。
あっけらかんとした声で。
「……は?」
『いやさっき池内がおまえのアパートの場所聞いてきたから多分会えたんだろうなとは思ってんだけど。なんか池内すげー勢いだったからちょっと気になっててね。逆上されてなんかされてない? 大丈夫?』
「なんかされてないって……」
むしろなんかしたのは俺のほうだけどとは返せずに、ただ口篭もってしまう。やっぱり池内にアパートの場所を教えたのは荒井だった。今や俺と池内の共通項なんて、彼しかいない。そのことを気に病む以上に、荒井が何の気もなく口にした言葉が引っかかる。
「会えた?」ってなんだ。「会った?」じゃなくて、「会えた?」なんて。
まるで俺と池内が元から知り合いだったことを知っているみたいに。
『あのねえ桜井……俺ねお前にイッコだけ嘘吐いたんだ』
固まってしまった俺を労わるみたいに、穏やかな声で荒井が言った。
『あいつと付き合ってたのはほんとだけど。……いや付き合ってたのかな。わかんないな。とにかく別れ話、ちゃんと俺は納得してたし、あんま傷付けられてもないかな。俺がそこまでハマり込む前に、あいつちゃんと止めてくれたし』
あのときとは――辛い、痛い恋の話を分け合ったときとは全く違う声で、荒井は続けた。
『大輔は違うって言って、俺があいつのこと本気で好きになる前に止めてくれたよ。……セックスできるくらいには好きらしいけど、池内が「センパイ」以上に好きになれるのは、俺じゃないんだって。ね、あいつおかしいだろ』
荒井が、面白がるような、愉快そうな声で、ひっそりと笑う。
内緒ごとを分け合う子供みたいな声で。
「……「センパイ」?」
『池内、「センパイ」のことを好きになったみたいに、誰かを好きになってみたいんだって。だから結局そのセンパイじゃないと意味ないんだよな、俺とか他のやつとかに手ぇ出して試してみてる場合じゃなくて。ふらふらしてる場合でもなくて。そこに気付かないから、あいつは幸せになりにくいんだよ』
荒井の快活な声がぐるぐると巡る。右耳に宛てた受話器から脳みそを真っ直ぐに通って、けれど咀嚼しきれずに、左耳から出て行っているみたいだった。
「――……最初から説明してくれる?」
俺がやっと出せた言葉はそれだけで、荒井はそれに、思いっきり笑った。
『説明することなんかなんにもないよ。俺は池内に初恋の話を聞いてて、桜井の前の苗字をたまたま覚えてたって、それだけ。――中学時代からテニスやってて、両親の離婚で引っ越したことのある「大川」って人、ちょうど俺の友達にいるんだよな』
あとはOB会の時期だとか、俺が同性愛者だったこととか、そういう知識が荒井の予想を確信させたらしい。
俺は受話器を持ったまま項垂れた。
項垂れたまま、呟いた。
「初恋っつうかトラウマなんじゃねえの……」
『池内はそんな言い方しなかったよ』
やさしい声で、荒井が言った。
じゃあなんであんな傷付いたふりをして俺に池内の話をしたりなんかしたんだ。声には出せない言葉が喉に詰まる。じわりと視界が歪む気がした。荒井は何かを、勘違いしてるんじゃないだろうか。だって池内はあのとき、あんなに怯えた目で、俺を見ていた。正体の知らない、汚物か異物かを見る目で、俺を見ていた。
『桜井の初恋の話は今まで聞いたことなかったけどさ。――もしお前が池内のこと好きでああいうことしたんなら、ちゃんと教えといてやりたかったんだ』
「……何を?」
『今の池内は男と寝れるってこと』
冗談に紛らせて、荒井が笑った。わざとらしい笑い声だった。
見えていないはずの俺の涙を誤魔化してくれるみたいに。
『あとは、池内とお前の話。俺は知らないよ』
大丈夫だと、背中をあやされて、宥められているような気がした。荒井はそんなこと、一度も言わなかったのに。
『俺と池内が寝ちゃったのはお互い大人になっちゃってたからだから、まあ許してやって。――池内はいつも、誠実だったよ。桜井』
じんわりと滲むような荒井の優しい声に、何かが混じっていて、それが俺の中にもある、共通の想いのような気がして。思わず、口走っていた。
「俺、土下座したほうがいい?」
荒井は一瞬、声を詰まらせた。
そしてたぶん、電話回線の向こうで、ふんわりと笑った。
あの、痛いような悲しいような、やさしい顔で。
『俺はね、お前とも池内とも、いい友達でいたいから。大丈夫。いらないよ』
玄関は、すっかり静かになっていた。じっと見つめていても人の気配すら感じられなくて、もう池内が帰ってしまったのだろうと思うと、ひどく悲しくなった。だけど追いかけることも、きっと、できない。
あの怯えた目が忘れられないうちは、俺が俺として池内と話すことなんて、できないはずだから。
むりやり寝てもらった。
むりやり抱いてもらった。
そういう想いが消えない限り、俺は今の池内とさえ、向き合うことができない。
俺は傷付けられたいんだ。
ちゃんと許してほしかったんだ。
玄関まで行って、扉に額を押し当てると、ひんやりとした鉄の感触が伝わってくる。熱っぽくなった頭を丁度よく冷やしてくれるようだった。
「俺を怖がるなよ……」
そんな目で、見たりしないでくれ。
「謝るから、……もう、あんな目で、見るなよ」
好きだ。好きなんだ。
あのときから好きだったんだ。
「……つーか怖がってねーよ最初から」
独り言に答える声がして、俺は慌ててドアから身体を引き剥がした。恐々と、静電気を恐れるみたいにドアに手を伸ばして、ゆっくりと扉を開ける。
池内は、ただそこに、いた。
開いたドアの真横にうずくまった格好で座り込んで、俺を見上げている。嬉しいんだか恥ずかしいんだか腹立たしいんだか何だか判りもしないで、俺は惚けていた。ああ池内がそこにいる。そう思った瞬間、ぐうっと腹の奥のほうが、熱くなる。
「遅ぇよ」
ふて腐れたみたいな声で呟く池内の顔を見下ろしながら洟を啜ったら、ぼたぼた涙が落ちた。
ぼたぼた涙が落ちたら、池内が笑った。
「……いつから気付いてた?」
「コンビニでジュース選んでたとき」
池内の答えに、涙どころか目から鱗がぼたぼた落ちる。
「そ……んな前から?」
「あんたが帰省してるって聞いてたからな。でもあんたは俺に気付いてなさそうで、忘れられてんのかと思ったら腹立ったから知らないふりした。そしたら訳わかんねーこと言い出すし。気付いてほしくなさそうだったから……黙ってた」
多分ひどく間抜けな顔をしていた俺に、池内がちいさく、やさしく笑った。
「……あんたのことなんか、元々怖くない」
「う、うそだ……」
「嘘じゃねぇっつうの。……ああけど、怖がってたっていうんなら、自分の手にかな」
「……手? なんで?」
呆けたまま池内を見下ろしていると、池内が怪訝そうな顔をした。
「手っつうか腕? ……あんた覚えてねえの? 俺、あのときあんたを突き飛ばして、あんた思いっ切り飛び箱にぶつかっただろ、背中」
あのとき――倉庫で、池内をレイプしたときの話だ。いきなりその身体に手を伸ばした俺は、驚いた池内に盛大に突き飛ばされて、固い用具に強く背中を打ちつけたはずだと池内は言った。
そんなことはあっただろうか。なんだかあのあと、引っ越しの準備をしながら背中が痛いなあと思っていた記憶は曖昧にある。
つまりよく覚えていなかった。
「マジかよ……」
「いやたぶんお前のパンツ脱がせるのに精一杯で」
首を捻った俺に、池内は愕然とする。それから頭を抱えるようにして、「ばかみてえ」と一人ごちた。
「あんたなんで覚えてねーんだよ……あんなすげえ音したのに」
池内が今まで何を気に病んでいたのかを、何となく伺える気がした。
だって俺はあのとき、痛みなんかじゃなく、もっと別の、違う何かに支配されていたから。気付かなくて当たり前じゃないかと、胸の中でだけ、返した。
「……突き飛ばすつもりもなくて、軽く振り払ったつもりだったんだ。好きな先輩と二人きりで緊張してるときに、いきなり抱きつかれりゃ、そりゃ俺だって驚くっつうの。なのにあんた簡単に吹き飛んじまって」
池内は、がっくりと顔を掌で覆ったまま、ぽつぽつと続けた。
「……ああ、大川先輩、もう俺よりちっせーんだなって思ったら、怖くて」
あのときと同じ形で呼ばれて、胸が震えた。
これは、ほんとうに、池内だった。
俺の好きな、かわいくてたまらなかった、池内徹だ。
そんなこととっくの昔に知っていたはずなのに、たった今はじめて気付いたことのように、胸が震える。
「すげえ憧れてた人なのに、俺が手ぇ振り払っただけで簡単に吹き飛んじまうのかって思ったら……怖くて、なんにもできなかった」
「俺がちっちゃいんじゃなくてお前がでけーんだよ……」
「いやそうなんだけど……」
事実あのころ成長期の始まりだった池内は、俺の背を追い抜いていたかもしれない。筋肉だって順調に成長していたはずなので、俺が華奢なわけではなく、池内の力が強くなっただけの話だ。
「お前に気持ち悪がられたのかと思ってたんだ」
「……思ってねえよ」
「怖がらせてヒかれてんのかと思ってた」
「だから怖がってねえって言ってんだろ元々!」
「だって好きだったんだ!」
反射的に叫ぶような声になった。池内が顔を上げて、俺を真っ直ぐに見上げる。
「好きなら怖いだろ……」
俺を見上げた池内は、少し、悲しい顔をして眉を寄せた。
「……怖いよ」
池内は俯きながら、俺と同じ言葉を口にした。同じ言葉なのに、それはきっと違う意味を含んで、違う響きをしている。
「あんたが黙って転校して、なんで何も言ってもらえなかったんだろうって……追いかけたら鬱陶しがられるんじゃねえかと思ったら、……怖かった」
同じ時間を共有して、同じ空間を共有していた俺たちは、ばかみたいに、お互いの違う面ばかりを見ていたのかもしれない。唐突に、そう思った。思ったら、また泣けてくる。
「なんでそんなこと……」
何かを言わなくてはいけない気がして、だけど言葉を探す能力がほとんど失われてしまったように、俺は口を開いたまま、しゃくりあげる。
何も言わなかった俺が、一番、悪い。
好きだといえずに、怖くて、離れた。だから池内が大きな勘違いをしたまま、離れてしまった距離を、保った。
だけど今、距離を縮めてくれようとしているのは、他の誰でもない池内だ。
池内が、今、ここにいる。なのにそこには、俺の小さな嗚咽だけが響く。
立ち上がらない池内が、まだ何も言わないでくれることが、ありがたいような恨めしいような気がした。
「え…」
「え?」
「――映画とか、み、見に行ったり、したいんだけど……」
「はぁ?」
子供が泣きじゃくるような声で言った俺を、池内は、ものすごく間抜けな顔で見上げていた。
「メ……メシとか一緒に食いたいし、あとなんか出かけたりとか、たまにセックスとか、そういうのしたいんだけど……」
――ああ、あと池内の部屋にも行ってみたい。
池内の顔を見れなくて、ずるずると洟を啜りながら呟くと、池内がやっと立ち上がる気配がした。池内が真っ直ぐに立ち上がると、俺たちの視線はあっという間に逆転する。今見下ろされているのは俺のほうかと思うと、尚更に顔を上げられなくなった。
「いや、そりゃ別にいいけど……とりあえず今はセンパイの部屋に入れてよ」
俯いたままでいると、頭上からほとほと困り果てた声がする。
情けない声を出した顔を見たくて顔を上げた。その途端、俺の視界を奪うように、やわらかい唇が降りてくる。
俺はもう、日付が変更することを、恐れなかった。