カノンは、冥界の応接間のソファから離れられずにいた。
ぐったりと凭れかかり、何を見るでもなく天上の方を向いていた。
罰を解ける可能性は、限りなくゼロに近い。
(精神感応・・・)
ぼんやりと、カノンはサガとの精神を共有することを考えた。
幼い頃、サガとカノンは互いの記憶を共有することがあった。
何か辛いことがあったとき、嬉しいことがあったとき、
技を、得たとき。
それは、カノンが双子座であるために必要なことでもあり、
互いが互いをなんとか支えあっていくのに必要な手段だった。
年を経るにつれて行わなくなったものだ。
何より、サガがアイオロスに体を開くようになってからはサガが拒んだ。
この精神感応は、互いの精神を繋げて意識を共有することのほかに、
片方の意識を片方に移すこともできた。
だがそれは、どちらかの意識の減少と、どちらかの意識の増加を意味する。
また無理に移植しようとすれば互いの精神を侵す危険もある。
(あの罰まるごと、俺に移せるかな・・・)
ぼんやりと考えながら、カノンはなんとなく双児宮にいる兄の意識を探ってみた。
一つ二つと階層をくぐりぬけ、カノンは違和感を感じた。
「!」
異物、だ。
そしてその異物から放出される小宇宙に、カノンは目を見開いた。
「あの野郎・・・!!」
ごうごうと、焔のようにカノンから攻撃的な小宇宙が立ち上る。
恐ろしいほどの小宇宙に、隣室にいたラダマンティスが大きな音をたてて入ってきた。
「カノン!」
「クソ!殺してやる!あんな男・・・!サガに触るな!サガの中に入るな!俺たちの中を・・・覘くんじゃねえ!!」
頭を抱え、髪を振り乱して暴れまわるカノンに、ラダマンティスは瞠目した。
この男のこんな姿は、見たことがない。
「カノン、落ち着け!」
「ぁああああ!!!」
頭の中を、うずうずと掻き回されるような感覚に、カノンは悶えた。
ラダマンティスはカノンを後ろから抱き締めるようにして動きを止めようとした。
身を捩り逃れようとするカノンを逃すまいと両腕に力をこめる。
「落ち着け!カノン!!」
「殺してやる・・・殺してやる!」
紅蓮の焔のような小宇宙を明滅させるカノンを、ラダマンティスは悲痛な顔で抱き締め続けた。
なんと、危うい双子なのだろうか。
これほどまでに危うい存在を、なぜ地上を守る聖闘士などに産み落としたのか。
「カノン・・・・」
両腕に力を込め、宥めるように名を呼んでいると、背後から声がかかった。
「・・・随分とまあ、不思議な光景ですね」
「ミーノス・・・」
「罰を・・・もしかしたら、双子座のサガは夢から抜けられるかもしれませんよ」
ミーノスの言葉に、カノンがびくりと動いた。
「何・・?」
「貴方に言われて、一応調べてみたんですよ。・・・過去にも、こんなことがあったようですね」
「抜けられる、というのは」
「あくまでも可能性の話を言っているまでですが。パンドラ様に伺ったところ、
どうもあれは、強制的なものではないようです。むしろ、庇護の力が働いていると」
「庇護?」
「もとは女神の施した眠りのまじない。それが少し改変されているだけのようです。
神が気まぐれに弄って、罰などという大義は後付けですからね」
「それで、庇護と?」
「夢の内容がどのようなものかは分からないので何とも言えませんが・・・。
基本は、女神の力。女神の双子座への庇護の力。・・・本人の力で脱しようと思えば案外あっさり終わるかもしれません」
ミーノスはさもつまらなそうに言った。
「何か発動の原因になるようなものはあるのですか?
もしあるのならば、その存在からくる強いショックから逃れるために夢が起こるとパンドラ様がおっしゃっていましたよ」
「あの方は・・・何もかもご存知だったのか?」
「さあ・・・。ただこんなことで聖域と関係を悪化させるわけにはいきませんからね。
女神とどうやら内密にお会いしていたようですし」
「・・・カノン?」
いつのまにかおとなしくなったカノンに、ラダマンティスが声をかけた。
するとカノンは、今度は小刻みに震えて、笑い声をこぼしはじめた。
やれやれといった風にミーノスは肩を竦め、その場をあとにした。
ラダマンティスは困惑した表情でカノンから手を話すと、いよいよカノンは高らかに笑い声をあげた。
「ははは・・・は・・ははは!強い、強いショックだと!やはりアイツは邪魔な存在だ!
サガがああなったのも、全部あいつの・・・あの男の・・・・!」
すると、カノンは瞳からぼろぼろと涙を流しはじめた。
そして項垂れ、笑いながらも涙は留まることを知らずに流れ続けた。
「カノン・・・」
「畜生・・・・結局、アイツじゃねえとダメなのか・・・!」
サガにとっての強い、衝撃。
それを克服するには、サガ自身が向き合わなければならない。
アイオロスという存在と向き合い、受け入れなければならない。
カノンはそれを傍から見ていることしかできないのだ。
肩を震わすカノンを、ラダマンティスはそっと抱き寄せた。
荒寥とした景色が、サガの心の中に広がっていた。
草も花も木もない、土と岩の世界。
厚い雲に覆われた空は光を遮っている。
「サガ・・・」
アイオロスは水の中を漂うように精神の中を彷徨っていた。
奥へ奥へと進んでいくと、一瞬凄まじい光に包まれ、すぐに今まで感じたことのない恐ろしい冷たさを感じた。
「暗い・・・」
闇と、冷たさ。
今まではなかった地面の存在を感じ、アイオロスはゆっくりと歩き始めた。
胸がざわつくような嫌な空気をアイオロスは全身に感じていた。
「ここが・・・罰の夢の中なのか・・?」
サガの精神の中にある夢を見る場所。
罰に支配された空間は、恐ろしく、暗い。
歩いているうちに、何か堅いものにあたった。
目をこらすと、そこには小さな子供の頭部の、骨らしかった。
「・・・・」
眉間に皺をよせ、歩いていくと、やがて何もなかった地面は不安定になり、
ざくざくと音がするようになった。
「サガが屠った・・・骨か?」
目が慣れ見渡す世界は、異様な光景だった。
積み上げられ、山となった人の骨。
サガの姿を求めてアイオロスが歩き回っていると、遠くに蹲る青い髪を見つけた。
「サガ!」
膝を抱えるその姿は、紛れもなくサガだ。
アイオロスは駆け寄り、サガに触れようと手を伸ばした。
と、その時背後から声が聞こえた。
「無駄だ」
振り返ると、そこには少年の姿をしたアイオロスがいた。
「・・・お、れ・・・?」
「俺は、アイオロス。13年前に殺された、アイオロスだ」
「馬鹿な・・・!」
「こんなところに、何しに来たんだ・・・」
少年は、どこか悲しそうな顔をしてアイオロスに聞いた。
「サガを、取り戻しに」
「無駄だ。・・・もう、何度も俺が死ぬところを見せられて、ぼろぼろだ」
「だから、連れてかえる」
少年は押し黙ると、サガのもとへと歩み寄り、そっとサガを抱き締めた。
「サガの夢の中で、俺は何度も殺された」
「・・・」
「今日もまた、直に訪れる。生まれてきたことを悔やみ、
弟と過ごした過去を悔やみ、闇に心を奪われたことを悔やみ、
俺を殺したことを悔やむ。・・・そうやって延々と繰り返される」
「どうしてここから出そうとしない」
「俺はただの、サガの中の“過去”だ・・・・」
「なら、俺が連れ出すまでだ」
「13年前、連れ出せなかったお前がか」
少年は立ち上がり真っ直ぐにアイオロスの瞳を射た。
「・・・ああ、俺はサガを、連れて帰る」
「・・・・」
「俺はサガを、守れなかった」
「ああ。守れなかった。俺はまた、守れない」
「過去は変えることはできない。後悔は繰り返される。だが、俺はサガと共に生きる未来が欲しい」
「・・・・・ここから連れ出して、そこに、平穏な世界はあるのか?」
「お前は、知らないのか・・・?」
少年は僅かに目を伏せ、ああ、と答えた。
アイオロスは少年の頭をくしゃりと撫でると、苦笑した。
「その、平穏な世界を守るのが、俺たちの仕事だろう」
アイオロスの言葉に、少年は明るい笑顔を向けると、蹲るサガに声をかけた。
「サガ、サガ・・・・」
蹲るサガの背が、僅かに震えた。
「迎えが来た・・・・・俺は、また行かなければならない」
サガは応えなかった。
「サガは、俺・・と一緒に、帰ってくれ」
少年はサガの髪をそっと撫でた。
「・・・・」
「・・・俺は、行くよ」
「どこへ?」
「またサガの中で過去がはじまる。俺は教皇宮へ、女神を連れ出しに行く」
「そうか・・・・」
「なあ、俺は“今”、後悔してるか?」
「何を?」
「13年前、サガを置いて逃げたことを」
アイオロスは静かに、頷いた。
少年は顔を曇らせた。しかしアイオロスは、すぐに続けた。
「だが、サガといられる“今”は、大切なものだ。
・・・確かに、サガを置いてきてしまったことを、何度も後悔した。
なぜ連れて行かなかったのか、なぜ殺すこともできなかったのか。
もっと他に道はあったはずなのに、俺にはできなかった」
「ああ・・・そうだ。そして今日も、俺はそれを繰り返す」
「だが、悲観ばかりではない。未来は、いくらでも変えられる」
「・・・そうかな」
「ああ。そうさ。そしてそこで、俺はサガと共に生きるよ」
少年は控えめだが、明るい笑顔をアイオロスに向けると、黄金の翼を輝かせ、射手座の小宇宙を高めた。
「俺は行く。・・・・後悔の詰まった場所だけど、俺は逃げない。だから、サガを頼む」
「ああ・・・・」
少年は黄金の輝きに包まれると、やがて光となって消えていった。
「サガ」
アイオロスはサガの肩をそっと撫でた。
「顔をあげてくれ、サガ」
アイオロスの声に、サガはほんの少しだけ、顔をあげた。
「帰ろう、サガ」
「・・・・どこへ」
「現実の、世界へ」
「罰から逃げるのか」
「そうじゃない。だがここは、お前にとっていい場所じゃない」
「それが、罰だろう」
「ここはお前の夢の中だ。夢の中は、穏やかなものだろう」
「冥界の神が私に科した罰は、夢の中でさえも穏やかでいることを許さぬものだ」
アイオロスはサガの体を抱き寄せた。
「夢は、そういうものじゃないだろう・・・。心穏やかに、いられる場所だ」
「・・・」
「お前が抜け出そうとすれば、抜けられるかもしれない」
「そんなこと、できるわけない・・・」
「俺は現実の中で、罪を償い、共に生きるサガに会いたい・・・」
「アイオロス・・・」
サガはゆるゆると顔をあげ、アイオロスの瞳を見つめた。
アイオロスは微笑むと、サガの髪をそっと梳いた。
「帰ろう。・・・13年前の俺にも頼まれたんだ。罪は、何も夢の中で償うものではない。
生きてこそだろう、サガ」
アイオロスはサガを立ち上がらせると、手を延べた。
「帰ろう、サガ」
「・・・・帰って、よいのだろうか」
「ああ」
「神の怒りに、触れたりはしないだろうか」
サガの言葉にアイオロスは笑った。
「神を怒らせたら、二人で謝りに行こう」
ためらいがちに重ねられる手を引き寄せ、アイオロスはサガの体を強く抱き締めた。
「・・・辛い思いを、しただろう」
「そんなことは、ない」
「嘘つくな」
「・・・・少し、辛かった。自分の罪を見せ付けられることは、とても・・・・。
だが、お前がずっと、見守ってくれた。毎日毎日、幾度となく消えては、現れて、私を支えてくれた。
それに、声が聞こえた。お前の声が・・・・」
「呼び続けた、甲斐があった」
サガは微笑むと、アイオロスの背に手を伸ばした。
「帰ろう・・・」
「ああ」
闇の中に僅かに光が差した。
骨の山は崩れることはなかったが、冷たい空気は少しだけ暖かくなった。
「・・・・」
アイオロスに手を引かれながら、サガは遠くで過去の喧騒を聞いた。
過去の彼が、また女神を救い出し、また私は、罪を重ねた。
ありがとう。
何度も、何度消えても、会いにきてくれた。
「サガ?」
「・・・何でも、ないよ」
サガは溢れてくる涙を止めることなく、アイオロスについていった。
光溢れる、世界へ。
明るい天上をぼんやりと眺め、ふと視線を横に向けると、
見慣れた茶色の神をしたアイオロスの姿があった。
「・・・アイオロス・・・」
手をつないだまま自分の体の上に突っ伏した姿に、サガは苦笑した。
そして、カノンの小宇宙を探った。
しかし、聖域のどこにも感じることができない。
「カノン・・・・?」
冥界で、カノンはラダマンティスに宥められるに任せていた。
背中を擦られる手に、僅かに安堵を覚えながら。
ふと、懐かしい小宇宙を感じ、カノンは顔を上げた。
「あ・・・」
「・・・・どうした」
「・・・・・サガが、戻ってきた・・・」
「何・・?」
そして傍には、相変わらず射手座の小宇宙があった。
カノンは今度は、ほんの少しだけ表情をやわらげて、言った。
「畜生!」
遠くに一瞬だけ、微かに感じた小宇宙に肩の力を抜くと、サガはアイオロスの肩をゆすった。
「アイオロス・・・」
「・・・サガ・・・・」
アイオロスは、目を見開いて驚くと、すぐに朗らかな笑顔を向けて、サガを強く抱き締めた。
「久しぶりだな、アイオロス」
「ああ・・・ああ、久しぶりに、喋るサガを抱き締めたぞ」
「お前と生きる未来を・・選んでいいのだろうか」
「当たり前だ」
強くサガを抱き締め、アイオロスはあ、と声をあげた。
「忘れてた・・・・もうじき、サガの誕生日だ」
誕生日、という言葉に、サガは顔を曇らせた。
「サガ?」
「・・・・私は、生まれてきて、よかったのだろうか・・・」
アイオロスはサガの頬を撫でると、苦笑した。
「お前が生まれてこなかったら、一体誰と未来を歩めばいいんだ」
「アイオロス・・・」
「俺の未来を、お前にやろう。共に、生きよう。サガ」
アイオロスの言葉に、サガは柔らかな笑顔を返した。