蒼海の狭間

ぐらりと船が傾き、サガは手すりに掴まり膝をついた。
「・・・あの船は・・・!」
すぐ近くに見える船。
その船は、どこかで見覚えのあるものだった。
「あの夜の・・・・?」
サガが死を覚悟し、海へと投げ出されたあの夜、幻のように見えた船。

船はだんだんと近づいてくる。
しかし互いに撃ち合う気配もない。
「一体何を・・・」
サガが船を見詰めていると、甲板にアイオロスがやってきた。
「サガ!危ないから中へ・・・」
「アイオロス・・・」
「あ、いや、その・・・昨晩は・・・すまなかった。驚かせて」
「いや・・・私こそ」
気まずい沈黙が流れた。
「あ、あの船は、一体どうしたんだ?」
「ああ、艦長が俺に会いたがっているらしい」
「艦長・・・ポセイドンの?」
「一艦隊を任されている優秀な船長らしい」
アイオロスは肩をすくめてみせた。
「この船に来るのか」
「ああ。それを条件にした。そろそろ小船でも出してやってくるだろう」
「・・・・」
「中に、いた方がいい。向こうも頭のいい連中だ。何を、されるか・・・」
「ああ・・・」
サガは俯き、船内へと戻ろうとした。
アイオロスはなんとなくばつの悪い気分になり、サガを呼び止めた。
「?」
「俺が、昨日言ったことは・・・冗談ではない」
「・・・」
サガは辛そうに顔を背けた。
その姿にアイオロスは胸を痛めたが、続けた。
「どうか、それだけは覚えていてほしい。・・・俺は、お前が好きだ」
「ああ・・・」
サガはそう返事だけすると、中へと去っていった。

サガは一人壁にもたれ、心がざわざわとする感覚に襲われた。
「アイオロス・・・」
冗談ではないのだと言ったアイオロス。
サガは迷っていた。アイオロスが真っ直ぐにぶつけてくる感情に。
「アイオロス・・・!」
サガには分からなかった。
心をかき乱すこの思いが。


どくん、どくんと、心臓が揺れる。


サガはぐらりと白く消えた視界に、倒れた。



アイオロスは近くに見える船の、甲板に現れた姿に目をこらした。
「あれが・・・?」
黒い髪をした男が、出てきた。
そして、後に続いて現れた姿にアイオロスは目を見開いた。

青くなびく髪。すらりと伸びた背。
そして、気高さを思わせる横顔。

「サガ・・・・?」
アイオロスがじっと見詰めていると、そのサガに似た男はこちらを向いた。
視線に気付いたのか気付いていないのか、妖艶に口の端を吊り上げた。

違う。

挑発的な笑み。サガではないが、しかしよく似ている。

アイオロスは身震いした。



アイオリアがアイオロスを呼びに行こうとしたときだった。
甲板へと続く廊下に、倒れている人影がある。
蒼銀の髪を乱し床に横たわっているサガの姿に、アイオリアは慌てて駆け寄った。
「サガ!」
サガを抱き起こし、軽く頬を叩く。
返事のないサガに、アイオリアは冷や汗が背に流れるのを感じた。
「運ばなくては・・・!」
アイオリアはサガの体を起こすと、脇と膝の下に腕を滑り込ませ抱えあげた。
青ざめた人形のような顔に、アイオリアは眉を顰めた。
「一体何が・・・」
アイオリアは足をはやめた。



「あまり気は使わずに話させてもらう。俺はカノン。一艦隊のしがない船長ってとこだ」
「・・・アイオロスだ」
「くくっ・・・なんつー面してんだよ」
「これカノン、口を慎め」
カノンの隣に座るのは、若い割に達観したような黒髪の男だった。
「わしは童虎。まあただの付添い人だ。ポセイドンの一味というわけでもない」
船内の一番広い部屋に、カノンと、童虎と、アイオロスだけがいた。
重厚なソファに座り対峙している。
「まあ特に交渉しに来たわけでもない。ただお前に興味があった」
「俺に?」
「ああ。なぜ貧乏人の正義の味方のようなマネをする?
それで何か得があるわけでもないだろう。王国相手にクーデターでも起す気か?」
「違う。俺はただ」
「困ってる人が心配で、か?くくっ・・面白い男だ」
アイオロスは眉を寄せる。
サガによく似た・・・いや、サガとまるで同じ顔をするカノンが、意地の悪い笑みを浮かべ、
人を馬鹿にするように話すのが嫌だった。
「もっと素直に生きてみろよ、欲望のままに、な」
カノンはにやりと笑った。
童虎はため息をつくと、出されたワインに口をつけた。
「生憎俺は素直に生きている。とやかく言われる覚えはないな」
「ふん」
カノンはテーブルにあったワイングラスを乱暴に持つと、一気に呷った。
コンコン、とノックの音がして、扉が開く。
「失礼します。・・・アイオロス」
やってきたのはカミュだった。どこか心配するような表情をするカミュに、アイオロスは席をたった。
「どうした」
「サガが、倒れました」
「サガが?」

サガ、という言葉に、その場にいた童虎とカノンははっとした。
童虎は驚きに目を見開き、カノンはその様子を伺っている。
「サガ・・・?」
後ろから聞こえた声に、アイオロスは振り返る。
「今、サガと言ったのか?」
童虎はアイオロスに歩み寄り、肩を掴んだ。
「クロスのサガか!!皇太子がこの船にいるのか!!?」
血相を変えた童虎に、アイオロスは違う、と首を振った。
「皇太子がこんな場所にいるわけがないだろう。人違いだ」
「ならば会わせてくれ、そのサガに!」
「倒れたと言っただろう。ただの人違いのためだけに、病人には会わせられん」
童虎は奥歯をかみ締めた。
カノンは暫く二人の様子を伺うと、立ち上がり童虎の傍へと寄った。
「おい、アレ今持ってるか」
カノンは小声で尋ねた。
アレ、という言葉に童虎は慌てて懐を探る。
今まで余裕のあるように構えていた童虎のその姿に、カノンは眉を寄せた。
きらり、と童虎の手のひらに金の懐中時計が光る。
「これは・・・!」
「・・・・わしはクロスの官僚だ。クロスの者として頼みがある。そのサガに会わせてくれ」
アイオロスはためらった。
クロスの官僚———それも金時計を持つ、童虎にサガの姿を見せては、すぐに王子だと分かってしまう。
連れて行かれるのでは、とアイオロスは思った。
「・・・・分かった。しかし、聞いての通り病人だ。姿を見るだけに留めてくれ」
「ああ」
アイオロスはカミュに目配せをし、カミュは頷いて童虎を案内した。
アイオロスは後ろでうろうろと所在無く彷徨うカノンに気付いた。
「・・・カノン」
「あ?」
「ついて来い」
カノンは眉を寄せたが、歩き出したアイオロスの後に続いた。



闇の中に、サガはひとり立ち尽くしていた。
前とまるで変わらぬその闇の世界に、サガは身を震わせた。
(ここには・・・あいつがいる・・・)
自分の中に巣食う、黒い自分。
サガが身を硬くしていると、背後からくく、と笑い声が聞こえた。
「どこに、いるんだ・・・?」
サガは振り返り、目をこらす。しかし見えるのは闇ばかりで、その姿を確認することはできない。
「私はいつでも傍にいるさ。お前の中にな・・・」
サガは顔を顰めた。
「アイオロスの愛を受け入れないのか?」
笑うように言う闇の声に、サガは怒りに顔を赤くした。
「そう怒るな。・・・しかし、お前の心はざわついているぞ」
胸に、触れられる感覚にサガはびくりと震えた。
そっと触れられた瞬間に、サガは言われた通り心がざわついているのに気付いた。
「自覚しろ。お前はアイオロスを求めている」
「私が・・・?」
「奴の光を、奴の心を求めている」
闇はくく、と笑った。
サガは更に心をざわつかせた。
「受け入れろ。奴を。そして渦巻く感情に流されるがいい」
「何を言って・・・?」
「おや・・・何の巡り合わせか・・・お前の片割れがこの船にいるぞ」
「片割れ・・・?」
「知らないのか、お前は・・・くく、そうだな。お前は知らないのだな」
「何を言っているんだ・・・!?」
「お前を訪れる老人に聞いてみればいい。お前もよく知る男だ。後悔に苛まれる哀れな・・・」
闇は笑った。サガは嫌な予感がした。
肌が、体が、心がざわついている。
(なんだ・・・?この感覚は・・・)
巨大な渦に巻かれるような、恐ろしい感覚がサガを襲った。
闇はサガの頬を少し撫でると、気配が消えた。

闇は光へ変わり、サガはうっすらと目をひらいた。