波の音が聞こえる。

母なる海。

我が罪を流した給え。

我が罪を————

蒼海の狭間

「ぐずぐずするな!船が沈むぞ!!」
船員たちが慌しく船を駆け巡る。非難用の小さなボートに定員よりはるかに多い人数が乗り込む。
「さあお早く!危のうございます!」
ボートは今にも沈みそうな状態だ。荒れ狂う波に飲まれ、何人もの船員は姿を消した。
風は唸り声をあげ、波は高く船を押し上げ、雨は守るもののない体を容赦なくたたきつける。
(・・・もはやボートも助かるまい)
「サガ様!」
人目で高貴な生まれと分かるような美しい姿は激しい波と雨とに乱れ、風が青銀の髪を空へ散らばらせていた。

船は沈む。
嵐の中で。
航海にはよくあることだ。

「あれは・・・」

サガは近くに霞んで見える船に目をこらした。
甲板に人がいる。

青い髪、ちょうど、サガと同じような———

(同じ顔?私も遂におかしくなったか)
ふ、とため息をついて、サガは静かに舳先へ歩いていく。
船員たちの声が遠く聞こえる。


サガは沈みゆく船の甲板で静かに瞳を閉じた。



「嵐がきたときはどうなるかと思ったなー」
「ああ。アイオロスの雲や風を読む力は誰も及ばない」
晴れ渡る空。一隻の船の甲板で、金の長髪の青年と、茶のクセ毛の青年がのんびりと剣や銃の手入れをしていた。
かもめの鳴き声が遠くに聞こえ、穏やかな波と暖かな日差しが眠気を誘う。
「いい天気だし。昼寝にもってこいだな」
「あとで釣りでもするか」
「おー」
金髪の青年が甲板に寝転んだときであった。一人の黒髪の青年がやってきた。
「ミロ、アイオリア、大変だ。ちょっと来てくれないか」
普段冷静な彼、シュラには珍しく慌てた様子に、ミロとアイオリアと呼ばれた二人は呼ばれるままに後部甲板へ向かった。

「・・・・誰」
「知らん。昨夜の嵐で船が難波したようだ」
「生きてるのか?」
「かろうじて」
後部甲板には、シュラの引き上げた青年が横たわっていた。
一見して生死は確認できないが、胸に耳をあてるとかすかに鼓動がきこえる。
海では、いつどのような理由で命が危うくなるか分からない。
嵐の翌朝に色々なものが流れつくのは普通のことだが、めったなことでは手を出さない。
死体を引きあげたところでまた捨てねばならないし、
仮に生きていたとしても素性の知れないものをそう易々と船にあげては、自分たちの命が危険にさらされるかもしれない。
そんな余力がないにしても、用心するにこしたことはない。
「放っておけばよかったのに」
「そういうわけにもいかんだろう。見ろ」
「これは・・・」
茶のクセ毛の、アイオリアが青年の襟元の金の飾りに手を伸ばす。
「ああ。クロス王国王家の紋章だ。この身なりからしてもかなりの身分の者だろう」
「そんなヤツが難波?運がないな」
「あそこは確か王が殺されて宰相が代わりに治めているんだったな」
巨大な領土に、強大な軍備。七つの海に敵なしと謳われるクロス王国。
その国王が、先日殺害され、今は宰相が治めている。
人望篤く、優れた王であったのを失った悲しみはいまだ国中を覆っているという。
「王には息子がいたはずだったが、そいつは国を継がないのか?」
「それが行方不明らしい。・・・この紋章は、王国所縁の者しかつけることは許されないはずだ」
「ということはつまり・・・」
シュラとアイオリアが顔を見合わせる。
ミロが理解できない、といった表情で二人を交互に見る。
「・・・どういうこと?」
「こいつは王国の血をひく者だということだ」
「それで気になって引き上げたのか」
「ああ。人目で高貴な者だと分かったから、少し気になってボートで近寄ってみたんだ。アイオロスは生きている者はなるべく助けよと言った。 ・・・だから一応引き上げたんだが、これはもしかすると少し問題になるかもしれないな」
「なんで」
「王家の血をひく者を、俺たち海賊がひきあげたんだ。兄アイオロスはどんなものでも生かし助けよと言うが、王家の者となると話は別だ。 もしこの船で騒がれでもしてみろ。俺たちが攫った殺したと噂が広まりかねん。そんな噂であのクロス王国に狙われるのは得策ではない」
「王家の人間というのは、それだけで周囲に影響を及ぼす。この船に悪い影響が出なければいいが・・・」
「さっさと助けてさっさと王国に戻せばいいんじゃないのか?」

「まあ、とりあえず意識が戻ったら話を聞いてみよう」

背後から突如かかった声に振り返ると、そこにはこの船の船長、アイオロスが立っていた。
「アイオロス」
「シュラ。武器がないか確認してから、カミュのところへ運んでくれるか?」
カミュ、というのはこの船の船員の健康管理を任されている者だ。もとは小さな国で静かに暮らしていたのだが、
アイオロスたちがやってきたときミロに気に入られ、半ば無理矢理船に乗せられ今に至る。

アイオロス。彼は巷を騒がす海賊団「サジタリアス」の頭である。
彼が巷を騒がしているのは悪名だけではなく、その大胆さと海賊らしからぬ人柄にある。
船員の数は決して少なくはないが、その船員たちを彼は恐怖ではなくその人柄でしっかりと束ねている。
優しさだけではなく、厳しさも兼ね備え、悪名高い領主のいる港町などを襲って金品を奪い、貧しい村や国にばらまいているのだ。
偽善、所詮は海賊、と言う者ももちろん存在する。が、荒んだ世の中において彼はまさに弱きを助け強きを挫く英雄そのものなのだ。

アイオロスの乗るこの船は「サンクチュアリ」と呼ばれ、今は数十人の船員が共と航海している。
普段は数隻連なり海を行くのだが、今回はちょっと海で休みたいというアイオロスが船員を選りすぐって一隻で海を渡っている。
「アイオロス。こいつはクロス王家の者らしいのですが・・・」
「ああ。クロス相手にあまり目立ったことはできない。回復したらこっそり国に戻すかな」
「わかりました」
シュラはサガを肩に担ぐと、船の中へ入っていった。
「いいのか、アイオロス」
「心配性だな、アイオリア。俺はそんな小さな男を弟にもった覚えはないぞ」
「だが」
「大丈夫。それに船にあげた以上ここで捨てるのも気がひけるだろう。商業船とでも言っておけばそうは怪しまれまい」
「・・・」
なかなか素直に首を振らないアイオリアに、アイオロスは苦笑して頭を撫でた。
「大丈夫。それに、実を言うとちょっと興味があるんだ。随分きれいなヤツだから」
「え!?」
「はは、冗談だよ」
アイオロスは冗談とも本気ともつかぬような笑みを浮かべて船の中へと戻っていった。


波の音、船の揺れ。

私は、ちゃんと死ねたのだろうか?
罪という泥を塗られ、国を追われ、小国の大使などとして王家の血を裏切り、汚さねばならない。
王家の誇りだけは忘れるな、と母は言っていた。
お前の父親は間違いなく、王国の王であり、その息子であるお前もまた、王になるべき者なのだと。
国を追われる王がどこにいようか。
その地位を、誇りを汚されるのならば、潔く死出の旅へ。

恥をさらして生きてはゆけないのだ。

波の音、船の揺れ。

ここは、地獄へと向かう船の中か?
「・・・・」
「目が、覚めましたか」
「ここは・・・」
サガは傍らに座る緋色の髪をした麗人に目を向けた。
「私は、一体・・・」
「私たちの船のクルーがあなたを助けたんです」
「助けた・・・!?私は・・・っ・・・」
サガは思わず上体を起こすが、その途端走った激痛に顔を顰めた。
カミュはサガの肩にそっと手をかけ、ゆっくりと寝かせた。
「無理は、しないでください。肋骨が折れているんです」
「・・・生きているのか」
悲痛な表情を浮かべるサガに、カミュはなんだか申し訳ない気になったが、静かに頷いた。
(この人は、死を望んでいたのだ。・・・ここが海賊船だと知ったら、何と言うだろうか)
海賊に助けられ、生き延びたなど、高貴な生まれのものには耐え難い屈辱であろう。
「そうか・・・」
サガは静かに目を伏せた。
「・・・暫く、寝ていてください。安静にしていれば、すぐによくなります」
あまりに悲しそうな顔をするサガに、カミュはいたたまれなくなり、席を立った。
それに、彼が目を覚ましたことをアイオロスに知らせねばならない。
「すまない」
カミュは、この人には深入りしてはいけないと、本能的に悟った。
この麗人の悲しげな表情ひとつひとつに、心を抉られるような思いがする。
(美しく、儚い人だ・・・。すぐに国にお帰ししなければ船員が惑わされてしまう)
その言葉、その表情ひとつひとつに、心奪われ、感情を移入させてしまう。
「いえ・・・気にしないでください」
「・・・お前、名は・・・?」
(ここで応えていいものだろうか・・・名を言うことは、繋がりを持つということだ・・・)
「・・・私はサガ。面倒をかけて申し訳ない・・・すぐにこの船から立ち去ろう」
「・・・・カミュです。あなたの面倒を見るよう仰せつかってます。治るまでは、この部屋にいてください」
カミュはそれだけ言うと、狭いこの部屋から出た。
(とりあえず、アイオロスに伝えなければ)


「生きている・・・」
サガはゆっくりと息を吐き、自分の両の手のひらを見詰めた。
そこには確かに血の通う手があり、自分は確かに体の痛みを感じている。
「なぜ、生き延びてしまったのか」
(王族としての誇りを捨てても、生きろというのか。もう行く場所などありはしないのに)

寄せてくる眠りの波に、サガは今はおとなしく身を任せた。