人生の中で自分が最も愛した人。
最も大切だった人。
かつて自らの命を失ってでも、生きていてほしいと願った人。
私の生まれた日を祝ってくれることは、もうない。
「私も歳をとるはずだ・・・・」
一人呟くと、側近が振り向いた。
「どうかなさいましたか?」
「いや・・・私はもうすっかり年老いてしまったと思ってね・・・」
「何をおっしゃいますか。お若いときのご威光もさることながら、御歳と共に威厳が増していらっしゃいます。
教皇としての御身分の今は盛りではありませんか」
「ふふ・・・そう見えるか」
「ええ」
「しかし、私は年老いたよ。近頃では昔ばかりが思い出される。
そろそろ教皇の位を次の世代へと譲ろうかと常々考えていたのだ」
教皇、アイオロスはその盲いた目で、窓の外の遠い空を見つめた。
仮面に隠されたその瞳を見ることはかなわないが、側近である老齢の男はその限りない哀愁を漂わせる姿に目頭を押さえた。
「失礼ながら貴方様はあと幾程の命とも知れぬ翁などよりよほどお若く、輝きに満ちていらっしゃる。そのような御方が
こうも早く退くことをお考えとは・・・」
「私ももう十分長く生きた。それも、戦のない平和な時代を。・・・先の教皇は数百年も前の聖戦を生き抜き、
廃墟となった聖域をお建て直しになった。聖域を見捨てていた私がこんなに楽をしてよいものかと思うよ」
「お見捨てに・・・?」
「星矢などは今も怒っているに違いない。今に比べればまだほんの子供であったときだ。
女神の命をお救いした後、私は聖域を出た」
男は驚いたように目を見開き、白い髭を撫でた。
「確かにアイオロス様が教皇となられたのは、正式に就任が発表され、あの事件が起こってから何年も経った後でしたな」
「ああ。その間聖域に入ってきた者は驚いただろうな・・・突然見ず知らずの若者がやってきて、教皇に就任したのだから」
「聖域を出られたのは一体・・・」
「・・・・辛かったのだよ。後悔と罪悪感に苛まれ、やり場のない孤独感と憤りに耐え切れなかった」
「後悔・・・?」
アイオロスは再び窓の外を見た。
今度は空ではなく、眼下に見える十二宮を眺めた。
「双子座の話は知っているだろう」
「ええ・・・先の教皇シオン様を殺害し、女神までもその手にかけようとしたと・・・」
「そうだ。そして私が彼を殺し、英雄などと呼ばれるようになってしまった」
「悪を討ち去ったのです。尊敬して然るべき御方ですから」
「悪などではない・・・決して、悪などではなかったのだ」
「アイオロス様・・・?」
「彼は・・・最期の最期まで美しいままだった。私は何も理解してやることができなかった。
何も知らずに暢気に生きていたのだ・・・彼の・・・苦悩を・・・」
アイオロスは仮面をはずした。その手は大きく震えており、はずした仮面は手を逃れ床へと落ちた。
「アイオロス様・・・!」
アイオロスはがくりと膝をついた。
「どうなさいましたか!誰か、人を・・!」
アイオロスは肩で大きく息をし、カーテンを強く握り締めた。
「・・・すまないが、星矢を・・・射手座を呼んでくれ・・・私のことはいい」
「しかし!」
「世を去るときが近い。星矢には伝えねばならぬことがある・・・」
「はっ・・・」
『サガ、今度の・・・俺の誕生日に、人馬宮に来てもらえないか・・・?』
『私が・・・?しかし、アイオリアと過ごしたりは・・・』
『断った』
『え?』
『サガと二人でいたい。プレゼントなんて何もいらない。サガの傍にいたい・・・』
夕日が照らし出した彼の恥らうような顔。
黙って頷いてくれた彼。
幸せだった頃の思い出。
結局、人馬宮に来てもらうこともできずに、彼を手にかけねばならなかった。
いや・・・殺さぬこともできたはずだった。
「サガ・・・・」
できることならばもう一度会いたい。
あの子供の頃の不思議な夜のように。
もう何年前かも思い出せないが、あの夜に会ったサガは、やはり死んでいたのだ。
双児宮でサガと話している途中、急に酷い頭痛に襲われ、意識を手放した。
目が覚めたとき、そこはそれまでいたリビングではなく、暗い庭の、草の上だった。
暗い双児宮の庭で、月明かりに照らし出された彼の姿は、人ならぬ美しさだった。
再びの頭痛に気を失い、再び目が覚めたときには、明るい、いつもの双児宮に戻っていた。
今考えても不思議な夜だった。
「どうせなら・・・何も分からなかったあの頃ではなく・・・今がよかった・・・」
思い出の中の彼の姿はどれも美しい。
彼と共に過ごす日々が、ずっと続くのだと信じていた。
数度、私の誕生日を祝ってくれたサガ。
自分の誕生日でもないものを、嬉しそうに笑ってくれた。
アイオロスはよろよろと立ち上がり、執務用の椅子にゆっくりと腰を下ろした。
惨めな姿になったものだ。
だが、もうこれ以上彼のいない年月を重ねることもなくなる。
ドアが控えめにノックされた。
先ほど呼んだ彼がやってきたのだろう。
彼はノックをするときはどうにも緊張するらしかった。
「射手座の星矢参りました」
「入れ」
「失礼致します」
輝く黄金の聖衣を纏った青年。
若き教皇の姿を知る者は、まるで生き写しのようだと言った。
顔こそそれほど似てはいないものの、その雰囲気がまるで同じだと。
もし性格まで似ているのならば、恐らく彼はそう言われるのを内心嫌がっているだろう。
アイオロスは比べられるのが嫌いだった。
「何用で・・・」
「ああ・・・実は話があってね・・・」
「は・・・」
「星矢・・・お前は私を恨んでいることだろう・・」
「私が?」
「ふふ・・・畏まる必要はない。昔のようにしてくれて構わない」
「・・・・俺が、一体何を恨むと・・・」
「お前がここに来て、黄金聖闘士になったのは私がいない間だったな」
ああ、と星矢は頷いた。
「射手座の聖闘士は双子座と共に死んだと記録にもあったから、アイオロスが戻ってきたときは驚いた。
皆も死んだ人が戻ってきたと思い込んでたから、まさに神の使いだって大騒ぎだったよ」
「星矢・・・もう何年前になるかわからないが・・・双子座に会わなかったか」
星矢は一瞬息を詰めた。
「俺が生まれる前に双子座は死んでいる」
「素直に言え」
星矢は黙り込んだ。
その沈黙でアイオロスは悟った。
「そうか・・・」
「・・・あの時、サガはもう死んでいた。本人もわけもわからず双児宮にいたみたいで・・・。
その時に、サガに会っていたら気を失った。夢だったのかもしれないけど・・・生きているサガに会った。
それも、アイオロスとして。目が覚めたらサガはすぐに消えてしまった。・・・悔しかったよ。結局俺はサガに何も
してやれなかった。最後の最後にサガを解放したのはきっと貴方だったんだ」
「その後か、私がここに戻ってきたのは」
「ああ。生きてるって知ったときは正直恨んだよ。・・・でもすぐに、同情した。
夢でサガとアイオロスが戦っていたのを見ていたし、サガを殺した後にアイオロスがしたことも見たから」
「夢で・・・・?」
「ああ」
アイオロスは微笑んだ。
「そうか、やはりお前には力がある」
「え?」
「私はサガのいない世界に耐えられなかった。だからその場で目を潰した」
アイオロスは一直線に残る太い傷跡を撫でた。
「私は救えなかった・・・だから、逃げた」
「・・・」
「だがこれでようやく、それも終わる」
「え・・・」
アイオロスは深く息を吸った。
穏やかな小宇宙が彼を覆っている。陽の光のようだと星矢は思った。
ああ、サガ。
俺は昔お前を救えなかった。
死後何年も彷徨わせてしまったのは、俺のせいだな。
星矢は俺がお前を解放したと言ったが、それは違う。
『俺は何年たったって、どんなサガだって全部愛してる』
もっと早く言えばよかったのだ。
俺にとってあの庭での出来事は夢だったんだ。
だから言えた。
意識を手放す寸前に言っていた、
もっと早く聞きたかったというサガの言葉が、今胸に刺さるようだ。
サガ、死して星矢に会って、お前はきっと星矢に惹かれただろうな。
「射手座の星矢よ、お前を次期教皇とする」
大きな窓から陽の光が大量に入ってきた。
射手座の聖衣はその光を反射し、まるで太陽のようだった。
だがそれ以上に、この教皇の纏う雄大な小宇宙は大きかった。
星矢は膝を折り、深く頭を垂れた。