このまま走り続けることに意味などあるのだろうか

この醜い世界に、私は確かに在り続けるのだけれど




月明かり




「なにをみているの」

少女の声。静かな水面に響き渡り、ゆらゆらと月の光を映す彼の瞳が、揺らいだ。

「なんでも」
「うそつき」

そう言うと少女は彼の隣に腰を下ろした。微かなぬくもりが、冷えたからだを温めた気がした。いとおしい、とても。

「こんなに誰かをすきになったのは、はじめてよ」

少女は囁く。冷たい土を這った彼の左手に自分の右手を重ねながら。まるで同じ温度だと、想った。凍えるような二人の手。

「この気持ちは、きみのことがすき、ってこと、だよね。胸の奥がぎゅうってなるの。ずっとこのままこうしていられたらな」

ひとつ前の言葉を自分に言い聞かせるようにして、少女は自分の右手より一回り大きな左手を握った。

「………」

不意に、彼の顔が近くなるのを感じて、つられて少女も振り向く。彼の喉をとおる息が、少女の喉を流れてゆく。ああ奇跡みたいだと、これは夢なのではないかと、少女は不安になった。しかしその後すぐに感じたやわらかな感触が、これが現実であることを信じさせてくれた。

すぐに離された唇の余韻に酔う。ほんとうはもう少し、していたかったなぁと想った。彼のそばにいると、少女はどんどんわがままな願いを浮かべてしまう。そのことに気付き、愚かだと自らの胸を締め付ける。その痛みさえもがいとおしさに変わってしまっても。


「……あ」

彼の視線が空に注がれる。星が次々と流れては消えてゆく。大きな夜空は、星屑が散りばめられて、輝いて、瞬いて、眩しくて。しかし少女が見惚れたのは彼の横顔だった。月明かりに照らされた水面が彼の頬を揺らす。とても綺麗。この世界で、いちばん綺麗だわ。少女は心の中で、呟いた。

それでもこの夜が明けたら、醜い元の世界へ帰らなければならない。それはこの場所であって、この場所ではない。ここは確かに在るのだけれど、ない。大嫌いな朝焼けがいつもいつも奪ってしまう。彼ごと。

「すき」

少女は、とてもとても大事そうに、紡いだ。繊細すぎるものを包み込むように。

「すきよ」

彼は、答えない。それどころか眩しすぎる夜空に消えてしまいそうだった。

「すきなの」

この夜が燃え尽きたら、私、どうしたらいい? 少女は目の前に広がる湖を涙で湛え、いつしか溢れてしまえばいいと想う。彼ごと、私を呑み込んでくれたらいいと。そして、この夜空に還してください。

「ねえ――――」

いつしか月は沈み、空は紫色に佇んでいた。
彼の横顔が、見えない。

「私も、連れていってよ……」


彼は、とても儚い。許されるのは月が世界を照らす逢瀬だけ。少女が愛する彼は、太陽が照らす世界には、居ない。少女が在り続ける世界には、居ない。




fin.



041009